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次の日、準夜勤だったわたしは少し早めに出勤した。
深夜勤の正宗くんから、上岡さんが今日午後から退院することになったと連絡が入ったからだ。
ひとこと謝りたかったから。こんな気持ちのままお別れしたくない。これはわたしの個人的な気持ちだから、上岡さんがどう思うか分からないけれど。会ってくれないかも、無視されるかもしれないけれど、なにも言わないでいるわけにはいかなかった。
申し送り前のラウンドで緊張しながら上岡さんの病室へ行った。
明るく朗らかに。暗い顔はしちゃいけない。
「か、上岡さーん」
「……はい?」
五十代くらいの女性がベッドの横にいて、上岡さんの姿はなかった。
「あ、お母様ですか? 上岡さん今日退院されるって聞いたんで様子を伺いに」
緊張のあまり声がひっくり返ってしまった。
「あらまぁそうですか。お世話になりました。本当にみなさんによくしていただいて」
「こちらこそ」
またなにか余計なことを言ってしまいそうで怖くなり喉が詰まるような気がする。お母様まで気分を悪くさせるわけにはいかない。気をつけないといけない。
「勝治はいま売店に……あ、帰ってきたわ」
話の途中で病室の扉が開いた。松葉杖であちこち歩くのはやはりスポーツマンだな。治りもきっと早いに違いない。
「上岡さん、お帰りなさい」
「千代ちゃん」
スポーツバッグに荷物はまとまっている様子だったが、退院の手続きがまだかもしれない。短時間で謝罪と挨拶をして、失礼しないといけない。
「あの、上岡さん」
「もしかして昨日のことで来たの? 千代ちゃん」
わたしの言葉を遮って、参ったなと上岡さんは頭を掻く。
「母さん、ちょっとナースステーションにご挨拶してくるわね」
「ああ」
空気を読んだのか、なんとなく雰囲気を察知したらしきお母様が席を外した。
謝罪は、タイミングを逃せば言いにくくなる。
「その、昨日は大変失礼いたしました。無神経なことを言ってしまって、すみませんでした」
頭を下げる。これで許してもらえなければもう仕方がない。
「俺こそ、ごめん。あんな言い方して悪かった」
上岡さんが頭を下げた。上岡さんはなにも悪くないのに。
「謝らないでください。わたしが悪いので」
「千代ちゃん、ちょっと座っていい?」
「あっ、すみません気付かなくて!」
立たせたまま話を始めるなんて、わたしとしたことが。ベッドに腰掛ける彼を支えながら、こうやって介助するのもこれが最後かと思う。
「怪我したのも全部自分のことなのに、がんばらなくちゃいけないのは分かっているのに不安が大きくて、イライラしていて千代ちゃんに八つ当たりしちゃった。ごめん」
「わたしこそ無神経でした。すみません」
上岡さんはそんな風に思っていたのか。大きな役目のある選手なのだから繊細な部分に触ってしまったわたしが悪いのだが。
わだかまっていたものがすっと溶けていくようだった。これもお祖母ちゃんのおかげなのかもしれない。
「お互い、謝ったってことでおあいこにしようか」
お互いに顔を見合わせてふっと笑う。
「あらためて、上岡さん退院おめでとうございます」
「ありがとう。まだこれからがんばらないといけないことだらけ」
上岡さんはこれからリハビリが始まるから、通院中また会うこともあるだろう。
「寂しくなるねぇ」
「本当、寂しくなりますよ」
「あ、忘れるところだった。これ」
上岡さんがスポーツバッグから紙袋を取り出してこちらへ寄越すので受け取る。
「千代ちゃん、ビール飲みたいって言っていたでしょう。母さんに牛タンジャーキー買って来て貰ったんだ。ステーションに置いて行こうと思ったんだけれど、会えて良かったよ。あといま売店でチョコも買ってきたからそれも付けるね」
「えっえっ」
上岡さんが紙袋の上にポケットから出した板チョコを乗せた。
「歩きにくいのにわざわざこれを買いに売店へ」
「お心遣いは遠慮しますとか言わないでね。受け取ってね。返されても、俺、持って帰らないから。荷物にスペース無いから。みんなに内緒だからな。千代ちゃんにだけ。隠して持って帰って」
「上岡さぁん」
なんということだ。牛タンジャーキーだなんて、ビールに最高に合うじゃないか。基本的に患者さんからの差し入れはいただかないことになっているのだが。
「ありがとうございます。いただきます。内緒です」
ありがたいので紙袋を胸にぎゅっと抱いた。仲直りの品を用意してくるなんて心優しいスポーツマンなのだ。わたし、なにも用意していないのに。
「母さん、そのへんにいると思うから呼んできて貰えないかな。そろそろ行くよ」
「あ、はい。分かりました」
病室から出て廊下を見回すがお母様の姿が見あたらなかった。病室を出てステーションへ行くと、ベンチに座っていた。
「上岡さん、すみません。息子さんの準備が整ったようです」
「あら、お話は終わりました?」
「は、はい。すみません」
あらあら、いいのよとニコニコするお母様を病室へ送り届ける。
「エレベーターまで、お荷物一緒に」
「いいよー。女性にそんな」
「力持ちですから」
それくらいさせてほしい。
廊下を通ってエレベーターまで一緒に歩く。サッカーファンなのか、上岡さんのことを振り返って見たり、すこし離れたところから指をさしてコソコソ話す患者さんがいる。有名人って大変だな。
それも慣れっこなのか、上岡さんは何食わぬ顔をしている。
エレベーターの前まで来て、下のボタンを押す。
「じゃあ、お元気で」
「リハビリのときに院内で会いそうだけど」
「その時はわたしのこと無視しないでくださいね」
「千代ちゃんこそ」
ここまで、退院される患者さんを送る。ありがとう、世話になったね。感謝の気持ちで埋め尽くされる瞬間だ。
エレベーターがわたしたちのいる三階まで来た。
「千代ちゃんに。退院したら一番にしたいことはなにって聞いただろ?」
「はい」
わたしはビールを飲みたいと答えた。だから牛タンジャーキーをくれたのだが。
「俺、退院したら一番やりたいことって、サッカーだよ」
力強い言葉と目で上岡さんは前を向いていた。エレベーターのドアが開き上岡親子が乗り込む。
「千代ちゃん、ありがとう」
「……お大事に!」
わたしはドアが閉まりきっても、エレベーターが降下を始めても、上岡さんの笑顔に手を振っていた。

待とうと思う。ほかのサポーターと一緒に、彼がまたピッチに戻ってくることを。
ユニフォームを着て、ボールを追いかける姿が見られることを。
きっと、戻ってくる。信じる。