「そうだったんですか」
「わたし、うまく励ませなかったよ」
上岡さんは看護師であるわたしになにかを求めていたかもしれないのに。
「ただじっと愚痴を聞いてほしかったのか、違う種類の優しさだったのか、分かってあげられなかった」
もっと気の利いたことで声をかけられたかもしれないのに。
「だめだなぁ。わたし正宗くんの先輩なのにね」
苦笑して頭を掻いた。そんなことないですって言わないでほしいけれど、きっと言うだろうな。まったくだめな先輩ですねって叱ってほしいのだけれど正宗くんはきっとそんなこと言わない。
「先輩は、だめじゃないですよ」
ほらね。でも、ありがとう。
「今日ひとりじゃなくてよかったって思えるよ。正宗くんが来てから初めて思った」
自分の家でもわたしは適度な距離感を保てていないのだ。
「いてくれて、ありがとう」
よりかかりたいと思うのは間違いなのに。わたしはいつからこんなに弱くなったのだろうか。
「さっきも言いましたが、よかったって思うのが遅いですって。もう少し前に気付いてくださいよ」
「ごめんごめん」
「俺は、看護師としての千代先輩が好きですよ。患者さんに優しくて、雰囲気で分かってくれる優しい手をしているのを俺は知っている。失敗して患者さんに絡まれてもなんだあの患者って、悪く言わないですよね」
優しく微笑む彼の笑顔は眼帯があるから微妙に不安にさせるけれど、優しいからまぁいいかって思える。看護師として好きだなんて、看護師冥利に尽きるじゃない。
「なかなか、できることじゃないと思いますよ」
「そうかな。ありがとう。元気になるよ」
正宗くんだって優しく励ましてくれるから、患者さんだって嬉しいと思う。
「先輩が、自分のことを低く評価していても、干物だなんて言っていたってね、ちゃんと分かるんですよ、俺は。教えてもらったし」
なんのことを言っているのか分からないので、首を傾げながら聞いていると、正宗くんは眼帯に手をかけた。
「お祖母さんに似ているって、あれかな。たぶん一緒にいるから、似ちゃうのかもしれません。なんて、それはおかしいかな。」
「……どういうこと?」
「お祖母さん優しいんで、俺も同じ雰囲気になるのかも」
彼は目を閉じておもむろに眼帯を外した。久しぶりに見た眼帯の無い顔だった。
「……大丈夫なの?」
「いいんです。怖くない、たぶん」
そしてゆっくりと両目を開ける。
「ほら、大丈夫だ」
「なに?」
「あのね、先輩」
彼の視線はわたしの隣に流れる。一体なにを見ているというのだろうか。
「千代先輩、お祖母さんが死んだって言ってないのに、なんで知っているのかと聞きましたよね。分かりますよ。だってね」
真剣な顔で、正宗くんがゆっくりと言う。
「先輩のお祖母さん。いますよ。そばにいます。見守ってくれているんです」
なにを言い出すの。そんなことあり得る? だってお祖母ちゃんもう亡くなっているのに。
「うそだぁ」
「本当」
「だって、だったら正宗くん半狂乱じゃん」
そうだよ。あんなに夜の病院の暗い廊下が怖いと立ちすくみ指示通りできなかった正宗くんが。見ているのにこんなに穏やかにしていられるなんて、信じられない。信じられるわけがない。
「いやいや、本当に。いるんですよ。でもなぜだろう。俺、全然怖くありません」
「信じられないよ。正宗くんの目のことを疑っているとかじゃないけど、お、お祖母ちゃんとか急に、そんな」
「先輩、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか」
「お祖母さん、上品な方ですね。看護師で働いていたからなのか、白髪のショートカットで快活そう。泣きぼくろがあるの、先輩と同じだ」
写真など見せたこともないのに、お祖母ちゃんの容姿を言い当てる。
正宗くんの両方の目が動く。わたしを見てから隣の空間を見て、優しくほほえむ。
「お祖母ちゃん、成仏してないの? わたしに化けて出てきたことないんだけれど」
「ちゃんと成仏していますが、時々見に来るって言っていますよ」
「なにそれ。そんなに簡単に来れるもんなの?」
四十九日とかまったく無視じゃないのよ。
正宗くんやめてよ。そんな顔しないで。お祖母ちゃんみたいな優しい目で見ないで欲しい。
胸が、痛いよ。
「お祖母さん、言っています。気にすることないよって。最期、会えなかったこと」
「お、おば……」
わたしの涙腺は決壊した。
「ど……して、知って、るの。わたし、なにも言ってな……」
「だって、お祖母さんが言ってるもん」
正宗くんは、親指でわたしの隣をくいくいと指した。
お祖母ちゃん。わたしを育ててくれた、大好きなお祖母ちゃん。
大好きなお祖母ちゃんの手に撫でてもらうのが好きだった。温かくて柔らかくて、幸せだなぁと感じることのできる手だった。
「間に……合わなかったんだ。看取る前に、お祖母ちゃんは逝ってしまって。学校に連絡がきて駆けつけたときには、もう……」
口をうっすら開けて、病院のベッドに寝かされていたお祖母ちゃんの姿は忘れることなどできない。気のせいか少しだけほほえんでいるように見えたことを覚えている。
「出先で倒れて、そのまま意識が戻らずに……心筋梗塞だったの。お祖母ちゃん、健康そのものだったのに」
「そうですか」
 うんうんと目を細めて、正宗くんはわたしの話を聞いている。
「倒れる二日前に……わたしお祖母ちゃんと喧嘩しちゃって。あやまってなくて」
一番のわたしの弱点かもしれないこと。心の深くに重くて硬い後悔がある。
「お祖母ちゃんはいつも通り、朝トーストを焼いてくれたの。わたし、ご飯食べなさいって言われてもパンが良いってわがまま言っていたの。お祖母ちゃんの料理が年寄り臭くて嫌で。その日も焼き方がどうだとか文句言って、喧嘩になったんだ」
馬鹿だった。後悔してもしきれない。
大事なひとを亡くしと心と体が千切れそうなあの思いは、お祖母ちゃんだからだ。もう二度と経験したくない。
「足も弱くなってきていたのに、いつも美味しいものを買い物してきてくれて、わたし、わたしね……」
お祖母ちゃんの料理は大好きだった。筑前煮、ひじき、しじみのみそ汁。五目の炊き込みご飯。温かくて嬉しくて毎日幸せだったのに。
「いいんだよって、気にすることないでしょそんなことって、言ってる」
「お、お祖母ちゃ……」
涙が頬を伝って顎からボタボタとしたたり落ちる。
わたしはこんな風に泣きたかったのかもしれなかった。
「こんなに辛い思いするなら人を好きになるのが怖かった。鈍感でいたほうがラクだって。だって、もうお祖母ちゃんに思いを伝えられないんだよ?」
正宗くんはわたしの涙をティッシュで拭ってくれる。
「千代先輩みたいに可愛くて頭が良くて、お祖母ちゃん孝行で気持ちの優しい子のお祖母ちゃんでいられて幸せでしたって」
誰かに聞いてほしかった。