「千代先輩。おーい。風邪ひきますって」
名前を呼ばれて睡眠の沼から引き上げられた。呼ばれたのはお祖母ちゃんにじゃなかった。男? ああ、正宗くんか。
「お、おお」
「ほらまた、ベッドに移動してくださいね」
「ごめんー」
むくりと起き上がると頭が重い。空腹にビールを飲んでそのまま床の横になったのもいけなかった。いけないと分かっていてもやっちゃうのが人間。
「ちょっと……飲んじゃって」
そうみたいですね、とテーブルに転がる空き缶を片付けてくれた。
「大丈夫ですか?」
「少しだけ横になろうと思ったら、寝ちゃった」
正宗くんは水を持ってきて手に持たせてくれる。まるで水分補給の介助だ。
「これ飲んで」
「ありがと」
わたしが水を飲んだことを確認すると、ネギなどが入ったエコバッグを持ち冷蔵庫へ行く。やはり買い物に行っていたらしい。
「どうしましたか」
ビールを飲んで床で寝るなんて珍しいことではないのに、聞いてくれる正宗くんの勘の鋭さよ。
「ちょっと、落ち込むことがあってね。ヤケ酒をしちゃったよ」
「そうなんですか。ヤケ酒なんて千代先輩らしくない」
「そうかな。わたしらしくないかな」
「床で寝るのはいつものことですが、ヤケ酒はしませんもんね」
パタンと冷蔵庫を閉めて正宗くんはもう一杯水を持ってきてくれる。正宗くんが来てからヤケ酒を飲んだ記憶はないかもしれない。
「よく見てるね」
「分かりますよ。なにか、あったんですか」
わたしは苦笑しながらグラスの水を飲んだ。すぐに答えないわたしを問い詰めるでもなく正宗くんはキッチンで動いている。
「ご飯、食べますか?」
「うん」
すぐ作りますね、と正宗くんは用意を始めた。ひとが動く気配を感じながらまだ酔う頭で考える。病院でのことではなく、いまのこと。美味しいものを食べておしゃべりして、また眠ろうか。そうすればきっと元気になれる。わたしが元気にならなくちゃ患者さんを励ますことができない。
テレビを見ながら食事ができるのを待った。包丁の音、かき混ぜる音、焼ける音と匂い。それらが混ざって安心するひとつのかたまりになる。
思わずお祖母ちゃんを思い出してしまう。
こんな風にご飯の支度を見て、聞いていた。安心していた。涙が出るほどの幸せと安心に包まれていた少女の頃。
「あっさりしていてお腹に優しいものにしました」
正宗くんが作ってくれたメニューは雑炊と煮物、だし巻き卵。
「煮物は先日の残りですけれど」
「美味しそうだなぁ」
「食べましょう」
雑炊はお出汁がとてもしみていて、カニかまとお豆腐が入っていた。
「火傷に気をつけてください」
「おいひい」
「それはよかった」
ハフハフしながら雑炊を食べて、次に煮物の大根を口に入れる。これも美味しい。だし巻き卵は中心に黒い渦巻模様がある。
「これ海苔が巻かれてある」
「ああ、棚の奥に賞味期限ちょい過ぎの焼き海苔がありました。異臭もなかったので使いました」
「少々賞味期限切れでも食べられるもんね」
「そうですね。生ものは注意が必要ですけれど他は大体いけます」
適当でがさつなわたしは食品を冷蔵庫に入れっぱなしにした結果、賞味期限が切れてしまう。
「レトルトだと一年は余裕」
「ものによっては二年ですね」
「勿体ないものね」
「勿体ないと思うなら賞味期限内に食べろって話ですけれどね。つい」
「そうそう」
賞味期限に関して言うと意見が合うし、食事の好みも合うなと思う。カチリと合う安心感がいちいち懐かしいのだ。
「正宗くんて、お祖母ちゃんに似ている」
「そうですか? おばあちゃんぽいでしょうか。性別だと将来おじいちゃんになるのですが」
「わたしのお祖母ちゃんに似ている。さっき気付いたよ」
「先輩のお祖母さんですか。というか、一緒に暮らしているのにさっき気付いたんですか」
こくりと頷くと正宗くんは笑った。
「鈍感ですね、相変わらず。俺がお祖母ちゃんですか」
「似ているのよ」
「そうですか。まぁ、いいか」
話が続かなかったが特に苦痛の感じることもなく静かに食事の続きをする。とても美味しいのに重い気分だからかいつもと違う。半分ほど食べてから箸を置いた。
「今日ね、上岡さんとお話したの」
「変わりありませんでしたか」
「うん。松葉杖で歩いて、患者さんが無くした入れ歯を見つけてくれてね。そのあと、監督がみえたの」
「チヴェッタの監督ですか?」
「そう」
「へー。なんとまぁ豪華ですね」
「サッカー好きにはたまらないんだろうね」
その場に清四郎くんがいたら喜んだだろうなぁと、あの素直な笑顔を思い出した。
「監督がお帰りになったあとに、昼食配膳に行ったのね」
そこまで話して、勤務中の出来事をペラペラしゃべっていることに罪悪感を覚えた。この続きとなると患者さんとのことになるわけだから。
「わたし、口が軽いわけじゃないからね」
「分かっていますよ。俺、先輩のひとりごとを聞いていると思うことにします」
ドキリとした。どうしてこんな偶然が起こるのだろうか。
「不思議。上岡さんもそう言ったんだ。俺のひとりごとだと思ってくれって」
正宗くんは不思議そうにしながらじっと聞いている。
「正宗くんが以前言っていたとおりでね。今期の復帰は絶望だって、元のようにプレーできないなら契約を切られるから不安で仕方がない。監督が来たけれどなにも言わなかったって」
「……どこにも言えない弱音を先輩に聞いてもらいたかったのでしょうね」
「わたし、元気付けたくて、励ましたくて。上岡さんならできます、戻れるって言ったんだよね。……ちょっと無責任だった」
「無責任?」
わたしはコクリと頷く。
「きみになにがわかるのって、言われちゃって」
静かな室内、湯呑みがテーブルに置かれるとコトリと音がした。
「所詮、他人事だからって」
気にし過ぎだろうと言うだろうか。昔、わたしは患者さんにのめりこみ過ぎる、よくないことだと先輩に言われたことがあった。
「気分を悪くさせてしまったみたいで」
適度な距離を保てなかった、わたしが悪い。
名前を呼ばれて睡眠の沼から引き上げられた。呼ばれたのはお祖母ちゃんにじゃなかった。男? ああ、正宗くんか。
「お、おお」
「ほらまた、ベッドに移動してくださいね」
「ごめんー」
むくりと起き上がると頭が重い。空腹にビールを飲んでそのまま床の横になったのもいけなかった。いけないと分かっていてもやっちゃうのが人間。
「ちょっと……飲んじゃって」
そうみたいですね、とテーブルに転がる空き缶を片付けてくれた。
「大丈夫ですか?」
「少しだけ横になろうと思ったら、寝ちゃった」
正宗くんは水を持ってきて手に持たせてくれる。まるで水分補給の介助だ。
「これ飲んで」
「ありがと」
わたしが水を飲んだことを確認すると、ネギなどが入ったエコバッグを持ち冷蔵庫へ行く。やはり買い物に行っていたらしい。
「どうしましたか」
ビールを飲んで床で寝るなんて珍しいことではないのに、聞いてくれる正宗くんの勘の鋭さよ。
「ちょっと、落ち込むことがあってね。ヤケ酒をしちゃったよ」
「そうなんですか。ヤケ酒なんて千代先輩らしくない」
「そうかな。わたしらしくないかな」
「床で寝るのはいつものことですが、ヤケ酒はしませんもんね」
パタンと冷蔵庫を閉めて正宗くんはもう一杯水を持ってきてくれる。正宗くんが来てからヤケ酒を飲んだ記憶はないかもしれない。
「よく見てるね」
「分かりますよ。なにか、あったんですか」
わたしは苦笑しながらグラスの水を飲んだ。すぐに答えないわたしを問い詰めるでもなく正宗くんはキッチンで動いている。
「ご飯、食べますか?」
「うん」
すぐ作りますね、と正宗くんは用意を始めた。ひとが動く気配を感じながらまだ酔う頭で考える。病院でのことではなく、いまのこと。美味しいものを食べておしゃべりして、また眠ろうか。そうすればきっと元気になれる。わたしが元気にならなくちゃ患者さんを励ますことができない。
テレビを見ながら食事ができるのを待った。包丁の音、かき混ぜる音、焼ける音と匂い。それらが混ざって安心するひとつのかたまりになる。
思わずお祖母ちゃんを思い出してしまう。
こんな風にご飯の支度を見て、聞いていた。安心していた。涙が出るほどの幸せと安心に包まれていた少女の頃。
「あっさりしていてお腹に優しいものにしました」
正宗くんが作ってくれたメニューは雑炊と煮物、だし巻き卵。
「煮物は先日の残りですけれど」
「美味しそうだなぁ」
「食べましょう」
雑炊はお出汁がとてもしみていて、カニかまとお豆腐が入っていた。
「火傷に気をつけてください」
「おいひい」
「それはよかった」
ハフハフしながら雑炊を食べて、次に煮物の大根を口に入れる。これも美味しい。だし巻き卵は中心に黒い渦巻模様がある。
「これ海苔が巻かれてある」
「ああ、棚の奥に賞味期限ちょい過ぎの焼き海苔がありました。異臭もなかったので使いました」
「少々賞味期限切れでも食べられるもんね」
「そうですね。生ものは注意が必要ですけれど他は大体いけます」
適当でがさつなわたしは食品を冷蔵庫に入れっぱなしにした結果、賞味期限が切れてしまう。
「レトルトだと一年は余裕」
「ものによっては二年ですね」
「勿体ないものね」
「勿体ないと思うなら賞味期限内に食べろって話ですけれどね。つい」
「そうそう」
賞味期限に関して言うと意見が合うし、食事の好みも合うなと思う。カチリと合う安心感がいちいち懐かしいのだ。
「正宗くんて、お祖母ちゃんに似ている」
「そうですか? おばあちゃんぽいでしょうか。性別だと将来おじいちゃんになるのですが」
「わたしのお祖母ちゃんに似ている。さっき気付いたよ」
「先輩のお祖母さんですか。というか、一緒に暮らしているのにさっき気付いたんですか」
こくりと頷くと正宗くんは笑った。
「鈍感ですね、相変わらず。俺がお祖母ちゃんですか」
「似ているのよ」
「そうですか。まぁ、いいか」
話が続かなかったが特に苦痛の感じることもなく静かに食事の続きをする。とても美味しいのに重い気分だからかいつもと違う。半分ほど食べてから箸を置いた。
「今日ね、上岡さんとお話したの」
「変わりありませんでしたか」
「うん。松葉杖で歩いて、患者さんが無くした入れ歯を見つけてくれてね。そのあと、監督がみえたの」
「チヴェッタの監督ですか?」
「そう」
「へー。なんとまぁ豪華ですね」
「サッカー好きにはたまらないんだろうね」
その場に清四郎くんがいたら喜んだだろうなぁと、あの素直な笑顔を思い出した。
「監督がお帰りになったあとに、昼食配膳に行ったのね」
そこまで話して、勤務中の出来事をペラペラしゃべっていることに罪悪感を覚えた。この続きとなると患者さんとのことになるわけだから。
「わたし、口が軽いわけじゃないからね」
「分かっていますよ。俺、先輩のひとりごとを聞いていると思うことにします」
ドキリとした。どうしてこんな偶然が起こるのだろうか。
「不思議。上岡さんもそう言ったんだ。俺のひとりごとだと思ってくれって」
正宗くんは不思議そうにしながらじっと聞いている。
「正宗くんが以前言っていたとおりでね。今期の復帰は絶望だって、元のようにプレーできないなら契約を切られるから不安で仕方がない。監督が来たけれどなにも言わなかったって」
「……どこにも言えない弱音を先輩に聞いてもらいたかったのでしょうね」
「わたし、元気付けたくて、励ましたくて。上岡さんならできます、戻れるって言ったんだよね。……ちょっと無責任だった」
「無責任?」
わたしはコクリと頷く。
「きみになにがわかるのって、言われちゃって」
静かな室内、湯呑みがテーブルに置かれるとコトリと音がした。
「所詮、他人事だからって」
気にし過ぎだろうと言うだろうか。昔、わたしは患者さんにのめりこみ過ぎる、よくないことだと先輩に言われたことがあった。
「気分を悪くさせてしまったみたいで」
適度な距離を保てなかった、わたしが悪い。