「監督」
「おお、カツジ」
「ひとりでいらっしゃったんすか?」
「みんな来たがったんだけどな。ゾロゾロ来ると病院に迷惑がかかるから」
監督? チヴェッタの監督か!
選手と同じく日に焼けて歳のころは四十代後半から五十代前半、背の高いがっちりした体格の男性だった。見るからにスポーツの監督といった風情。山田さんの入れ歯を持ったまま監督をまじまじと見てしまうわたしに気付いた監督は、会釈をする。
「上岡がお世話になっております。出る水を書いてイズミと申します」
「こちらこそ、出水監督。いま上岡さんに入れ歯を見つけてもらいまして」
「入れ歯?」
「俺、いま落し物を届けていたんです」
「入れ歯をか」
「はい、入れ歯です」
「ああ、監督。入れ歯はいいんで、俺の部屋こっちです」
「上岡さん、ありがとうございました」
入れ歯で出水監督を引き留めてしまっては申し訳ない。わたしの挨拶に手を振って、上岡さんと出水監督は病室へ戻っていった。
わたしも入れ歯を山田のおばあちゃんへ届けなくちゃ。急いで病室へ戻ると、山田さんはまだベッドまわりを探している様子だった。
「山田さーん。入れ歯ありましたよ!」
「あらまぁ、よかった。トイレにあったのかしら?」
「いいえ。廊下に落ちていたみたいで、わたし洗ってきますからね」
入れ歯を洗って消毒して山田さんへ届け、これ持って行きなさいとみかんを渡されて、ユニフォームのポケットにしのばせてステーションへ戻った。
「お千代ちゃん、交代でお昼」
「あ、わかりました」
「先どうぞ」
「はーい」
それからスタッフ交代で昼食をすばやく済ませる。
昼食と休憩を終えると、食前薬が必要な患者さんへ用意をする。夜の分も準備だ。
山田さん、昼食前に入れ歯が見つかってよかったなぁ。しみじみ感じていると、ナースステーション前を松葉杖の上岡さんが通っていった。
ひとりだったので、監督はもう帰られたのかもしれない。昼食配膳のときに行ってみよう。
午後の点滴準備をし、昼食配膳に入る。
「上岡さーん。昼食です」
「もう昼だったな。ぼーっとして……自分で取るからいいのに」
「いいんですよ。動いてちょっと疲れちゃいましたか?」
机にトレーを置く。上岡さんはなんだか浮かない表情だ。
「監督、帰られたんですか」
「ああ。忙しいからね」
「練習もありますものね」
ふうとため息をつく。やっぱり元気がない。ここまで沈む様子を見たことがないので心配になる。
「ご気分、悪いんですか?」
なんともないと言われたら、病室を離れようと思っていた。上岡さんの様子をもう少しだけ見たほうがいいかもしれない。
「お千代ちゃん」
「はいな」
「俺がいまから言うことは完全なるひとりごとだから」
意味を理解するのに時間はかからなかった。話を聞いて欲しいだけだと思うから。
「清四郎くんに偉そうなことを言って、当の俺はどうなんだって話だよ」
上岡さんはこちらを見ず布団の上に置いた手をじっと見て話し始める。
清四郎くんには、辞めないでがんばれと励ました上岡さん。清四郎くんにはあのとき憧れの上岡さんがいる。しかしいまの上岡さんの話を聞けるのは自分だけのような気がした。自惚れだと取られてもいい。
みんなに期待され、ファンがいて。輝かしいプロの世界に身をおく選手である上岡さんが、弱音を吐きたい。吐きたいなら存分に、わたしはそれを聞くのだ。
「……俺、今期中の復帰はまず無理だ。そうなるとチームにいられるのかどうか分からない。居場所がないかもしれない。俺は不安でたまらない。リハビリはがんばるよ。戻るためならなんだってやる。でも監督は、なにも言わなかった」
待っている、戻ってこい。そのひとことが欲しかったのかもしれないが、現実は残酷だ。監督という立場でどう選手に声をかけるのが正しいのか分からない。嘘でも待っているからと言わなかった出水監督を責められない。
「怪我はさ、しないようにしていてもやっちゃうから何度か経験している。その度に足はちゃんと動くようになるのか、またサッカーができるのかってさ、思うんだよ」
不安は、次から次へと襲ってくる。人生すべてをかけてここまできたのだろうと思う。失ったらすべて崩れる。
「使い物にならなくなったら、俺なんか、いらないんだろうな」
「……そんな、大丈夫ですよ。みんな仲間じゃないですか」
黙って聞いているつもりだった。でも肩を落とす上岡さんを見てられなくてつい言葉が口をついてでる。
「チームは大事だよ。でもプロって甘くないよ、やっぱり。できないなら残れない。怪我して元のようにプレーできないなら切られるよ。当たり前なんだよ」
「上岡さんなら、リハビリで元に戻れます。きっとできる」
励ましたかった。わたしにできることは励まして元気になってもらうことだから。笑ってほしくて。
「できますよ! がんばりましょうよ」
上岡さんは、ゆっくりわたしの顔を見て苦笑し、冷えた目で見つめた。血が下がる。
「きみに、なにが分かるの?」
こちらを見る上岡さんの目にはいつもの優しさはなくて、余計なことを言ってしまったと気付く。公開してももう遅い。
「そうだな。お千代ちゃんにとっては仕事で、他人事だもんな」
彼は苦笑しながら言った。どう返していいのか分からず、手が震えてくる。
「そんな、つもりでは……」
上岡さんの表情が暗く冷えていく。
「くだらない愚痴を聞かせてしまったね」
「あの」
上岡さんの繊細な部分に無神経に触れてしまった。
「ひとりにしてくれ」
いつも優しいひとは、突き放すときも柔らかいのだろうか。柔らかくてとても悲しい。そんな風にしてしまったのは誰でもない、わたし自身。
「……すみません。失礼します」
一礼し、上岡さんと目を合わすことなく静かに病室を出た。最初からいなかったかのように、気配も足音も消したかった。消えていなくなりたかった。