「もう俺は先輩の胃袋を掴んでいますから。そう簡単に上岡さんになびかないと思いますけれどね」
なびくとかなびかないとか、どういうことなのか。そもそもわたしは正宗くんに掴まれているのか。そんなことを簡単に言うのはどうかと思う。
「サッカー選手の妻になったら、まず栄養バランスを考えた食事管理、体調管理。調子がよければいいですが浮き沈みの激しい世界ですから保障もないし」
「はぁ。話が飛躍しすぎやしないか」
「先手必勝です」
「なに言ってるか本当にわかんない」
勝手に進まないでほしい。真意が読めない。
「わたしは別に、ひとりだって寂しくないから。いままでずっとひとりだし」
「ひとりに慣れなくてもいいんじゃないですか」
「いいの。平気だから」
投げやりに言ったわたしに対して正宗くんはなにも言わなかった。
仕事もしているし住む場所もある。家族はいないけれど、友達もいるしいままでなんとか生きている。寂しくない。
ひとりなら、別れに鈍感でいられる。
あんな辛い別れは、お祖母ちゃんで最後がいい。あれ一度きりにしたい。辛い思いに押し潰されて苦しまなくて済むもの。悲しまなくて済むもの。
自分を憎むくらい嫌いにならなくて済むから。

 ◇

それからまた何度か日勤と夜勤を経て、カレンダーがめくれた。
朝の光は容赦なく部屋に入りとても眩しい。カーテンを閉め忘れただけだけれど。
「せんぱーい。ご飯です」
「むおお……朝か、朝なのねぇぇええ嫌だよ」
「だからぁ、リビングで寝るのやめてって言ってるじゃないですかっ」
「また寝ちゃったよ……」
こんな朝をいったい何回迎えているのだろう。正宗くんもよく飽きもせずわたしを起こしてくれる。
「今度、ラグに注射針でも仕込みましょうかね」
「怖いこと言わないでよ」
今日は、わたしが日勤で正宗くんは深夜勤。
プリセプターとしては正宗くんとなるべく一緒のシフトがいいのだが、だんだん一緒に勤務する回数が減っていく。たまに夜勤が同じになるくらいだ。師長と主任の意向でもある。
プリセプターの期間も、もうすぐ半分か。
「上岡さん、そろそろ退院ですよね」
「そうだね。あとはリハビリだなぁ」
サッカー選手の上岡さんは松葉杖で行動範囲を着実に広げている。
病室に行くと、またに窓の外をぼーっと見ているときがあってなんとも声をかけたらいいのか分からないことがある。
『お千代ちゃん、もしも自分がなにかの病気で入院して、退院したら一番になにをしたい?』
『そうですね……ビールを飲みたいです』
『はは』
そんな風に聞いておいて、自分はなにをしたいのか言わなかった。
「清四郎くんも、リハビリがんばっているよね」
あれから、清四郎くんは元気に退院していまはリハビリに通っている。
「結局DVD一緒に見られなかったんだよなぁ。アニメにしようと思っていたんですけれど」
サッカー映画だのアニメだの、あんなに悩んだのにね。
「今日は、先輩が帰ってきて夕飯を食べてから出勤だから、先輩がリビングで寝てしまうのを阻止してから行きます」
「ちょっと、朝からそんな話しないで」
話をしながら朝食を終えてシャワー、着替えとバタバタ用意をし「いってきまーす」と玄関を出た。
「いってらっしゃー」
正宗くんの声が最後まで聞こえる前にドアを閉めてしまった。ごめん。

病院に着くと、申し送りの前に昨日自宅で転倒して腰を骨折したおばあちゃんとか、トレッキングで両足を骨折した会社重役とか、入れ代わりの激しい病院なので間違いがないようラウンドをした。
看護師間の申し送り、先生と師長へ報告と指示受け、カンファレンス。それが終わると点滴準備とオムツの準備をこなして、これからオペの患者さんがいるので前処置を行う。それからも仕事は山積みで、くるくると看護師たちは病棟内をかけ回っている。
廊下を歩いていたら患者さんに声をかけられた。
「看護師さん、すみません。わたし入れ歯をどこかやっちゃったみたいで、一緒に探してくれないかねぇ」
ヘルニア手術をして入院が長引いている八十過ぎのおばあちゃんである。ベッドに腰掛けてこちらへ手招きをしている。
「あれれ。山田さんの入れ歯? トイレかな。朝の歯磨きのときに置いてきちゃった?」
「それが、わかんねんだー。このあたりに無いから」
「わたしトイレ見てくるから。腰ね、痛いとき無理して歩かなくていいからね」
「枕の下には無かったのよ」
ベッドの下とロッカー下には無いようなのでトイレの可能性が高い気がする。あるいはそこまでの廊下に落ちているか。
「ちょっと待っていてね。見てくるから」
入れ歯が無いと食事の時に困るから。
小走りに女子トイレへと向かったが、途中に入れ歯は転がっていなかった。誰かに蹴飛ばされた可能性もあるので視線を先に向けてみたが見あたらない。女子トイレへ入り、床と個室など見てみたけれど、無い。仕方がないのでナースステーションへ戻ってみる。
「すみません。今朝、入れ歯の落し物が届いていませんか?」
「ええ? 聞いてないよ」
「山田さんが入れ歯をどこかに落としたらしくて」
やっぱり病室にあるのかな。
「これ? 入れ歯って」 
後ろから声をかけられたので振り返ると、松葉杖の上岡さんだった。
「さっき見つけて、ここに届けるところだった」
彼の手には、ティッシュに包まれた入れ歯が握られていた。患者さんに蹴飛ばされて転がっていったのかもしれない。
「ああ! たぶんこれですね。ありがとうございます!」
「患者さんの入れ歯なの?」
「そうなんですよ。探しいてたんです。困っていて」
「よかったね」
「よかった。渡してきますね!」
山田さんのもとへ行こうとしたとき、上岡さんがわたしの後方に視線を送り手を挙げた。誰か見つけた様子だ。思わず振り向いた。