いま、使いやすくかつ機能的に配置されている文房具スペースは、実は正宗くんが片付けたものだ。職場で整理整頓がなされている部分とそうでないところに気付いて主任に整頓を申し出たらしい。
消毒やガーゼなどは使用頻度が高いから場所が変わると困るけれど、文房具だったらその影響も少ないと判断されたのだろう。でも正宗くんは、ラベルを用いてどこになにが入っているか書き込んで、ペンは立ててふせんはここ、メモ用紙はこっちと、いまあるものを工夫して、片付けた。なんてできる子なの。
「これでよし。先輩、終わりました」
「あそこの駆血帯、こっちに持ってきて片付けてくれるかな」
「はい」
用具を持って政宗くんはわたしの隣に座った。
そういえば、政宗くんはなにをしたらいいのか分からずふらふら漂流しなくなった。わたしも新人の頃はそうだったから懐かしい。
「そういえば、先輩が看護師になった理由って聞いたことなかった」
「いま聞くの」
わたしはまわりを気にした。いまはまだ静かで病棟内は落ち着いている。だからほとんどのスタッフがステーションにいたのだ。
「言いにくかったですか」
そうではないが、家で聞けばいいのに。まわりのスタッフは皆自分の仕事をしていたから、あまりこっちを気にしていないようだった。
「……お祖母ちゃんが、看護師だったからよ」
「おお」
「正宗くんとそう変わらない理由じゃん」
医療に携わる家族がいて、だから医者になりました、看護師になりましたっていうのは珍しい理由ではない。
「そうですね」
「お祖母ちゃん、とにかく優しいし人間的に尊敬できる人でね。わたしもああなりたいみたいな。まだまだほど遠いんだけれどねー」
「でも、亡くなってからも自分の孫が意思を継いでいるわけですねぇ。素敵です……」
「待って」
違和感を素早く察知した。わたしのこういう勘の良さはいいのか悪いのか。
「……お祖母ちゃんが死んでいるなんて、わたし話したことないよね。どうして知っているの?」
祖母と暮らしていたことは言ったが、そのあと家族の話はしていない。わたしの心の傷を抉ることでもあるから聞かれなければ話さないし、辛いからなるべく言わないのに。
「……あー……とある先輩が」
政宗くん、嘘をつくのが下手だ。
「そんなの教えてくれる人なんかいないでしょ」
「いやいや、千代先輩が教えてくれたんですよ。酔って」
「うそ、言ってないよ」
「なあに、そこ喧嘩?」
すぐ近くにいた先輩が声をかけてきた。
「あ、いいえ。いまちょっと」
「すみません。俺、漢字が分からなくてユウウツのウツってどう書くのか」
「えーなにそれ難しい。なにに書くの? そんな文字」
もう。ここでは家で過ごしているみたいにできないんだってば。切り替えてほしい。ユウウツのウツという字を調べたあと、正宗くんがラウンドに行くと言い出した。
「……ひとりで、大丈夫?」
「お千代ちゃん、過保護だねー」
思わず聞いてしなったが、ほかのスタッフに言われてしまった。
「なんか、まだひとりで行かせるのは心配かな~なんて」
「なにかあったらすぐ行くから」
「そうそう。一時間くらいしたらオムツ交換とかだから、ちょうどいいんじゃない?」
わたしが心配しているのは、ひとりで仕事ができるのかということじゃないのだけれど。
「看護師さぁん、寝がえりうったらちょっと包帯取れちゃったんだよお」
「あらあら、直しましょうか」
眠れず暇を持て余した患者さんがステーションへ来るのはいつものことだ。取れたのか、自分で取ったのか分からないが。
「夕飯に出たあの煮物ちょっとしょっぱかったよねぇ。言っといてよ」
「そうでしたか? 山田さん薄味がお好きなのかな」
「んだぁー。かあちゃんが健康には薄味だっていうから、すっかり慣れちゃってよぉ」
「薄味のほうが体にはいいですよね。奥さん、ちゃんと考えてくれているんですね」
さすが先輩は扱いがうまい。ふたりの会話を聞きながら自分の仕事へ戻った。
しばらくして、ナースコールが静寂を破った。
「三〇一」
「どうしましたか?」
『すみません、気分が』
スピーカーの向こうから小さく声が聞こえた。
「上岡さんよ。お千代、いける?」
「いってくる」
わたしはすぐにステーションを出て小走りに上岡さんの病室へいく。
「失礼しますね……」
カーテンを開けると、上岡さんが上半身を起こしていた。調子が悪そうな顔をしている。
「どうしました?」
「すこし気分が悪いんで、トイレに行きたい」
「行けますか?」
術後の気持ち悪さではなさそうだ。どうしたのだろう。
「いや。ちょっと、へんな体勢で寝ていたからかも……」
「車椅子持ってきますね。ちょっとお待ちくださいね」
わたしは廊下へ出ると、壁に寄せてあった車椅子を持って病室へ戻った。
「これ、わたしにつかまって、こちらに移りましょうか。はい……ここをつかんで……ゆっくり」
「重くないか」
「大丈夫です。わたしけっこう力持ちなんですよ」
「はは、それは心強いな」
がっしりした上岡さんの体を支え、車椅子に移動させる。眠っている状態を起こして移動となると無理かもしれないけれど、支えるくらいならいける。火事場のバカ力だって出るんだから。
「我慢できますか」
黒いサポーターで固定された右足が痛々しい。
「たぶん」
足がベッドや壁に当たらないように注意をし、車椅子を押して病室を出た。トイレはすぐ近くだったので車椅子で入れる個室へ入る。
「ここにつかまってください。ゆっくり」
「ごめん。おしっこだけしたいかな。吐くのは大丈夫そう」
「終わったら声かけてくださいね」
個室の戸を閉めて外に待機する。ちょろちょろという音が聞こえて流す音も聞こえてきた。少しホッとする。
「はぁ、出た」
「おしっこ出ないと、先生に診てもらわないといけないですから。出てよかったです」
がしゃがしゃと音がしている。再び車椅子に座りなおしているみたいだ。
「大丈夫ですか? ひとりで座れます?」
「お、これどうやって回転するんだ」
開けますよと言いながら、慌てて個室の戸を開ける。
「あ、いいですよ。出しますからね」
上岡さんの車椅子を押しトイレから出た。
「はぁ。トイレするのもひと苦労だ。片方の足を怪我しただけなのに」
「大事な足ですから」
病室へ戻ろうと廊下を進んでいたとき「なぁ」と上岡さん。
「ちょっと、そのへんでおしゃべりしませんか。お千代ちゃん」
もう呼び方がお千代ちゃんになっている。上岡さんも眠れないのかな。
「分かりました。少しだけですよ」
病室でお話しをしたいところだが、戻りたくないというのでステーションの前にあるベンチまで行った。ここなら明るいし少しおしゃべりしていてもほかの患者さんにあまり迷惑にならないだろう。
消毒やガーゼなどは使用頻度が高いから場所が変わると困るけれど、文房具だったらその影響も少ないと判断されたのだろう。でも正宗くんは、ラベルを用いてどこになにが入っているか書き込んで、ペンは立ててふせんはここ、メモ用紙はこっちと、いまあるものを工夫して、片付けた。なんてできる子なの。
「これでよし。先輩、終わりました」
「あそこの駆血帯、こっちに持ってきて片付けてくれるかな」
「はい」
用具を持って政宗くんはわたしの隣に座った。
そういえば、政宗くんはなにをしたらいいのか分からずふらふら漂流しなくなった。わたしも新人の頃はそうだったから懐かしい。
「そういえば、先輩が看護師になった理由って聞いたことなかった」
「いま聞くの」
わたしはまわりを気にした。いまはまだ静かで病棟内は落ち着いている。だからほとんどのスタッフがステーションにいたのだ。
「言いにくかったですか」
そうではないが、家で聞けばいいのに。まわりのスタッフは皆自分の仕事をしていたから、あまりこっちを気にしていないようだった。
「……お祖母ちゃんが、看護師だったからよ」
「おお」
「正宗くんとそう変わらない理由じゃん」
医療に携わる家族がいて、だから医者になりました、看護師になりましたっていうのは珍しい理由ではない。
「そうですね」
「お祖母ちゃん、とにかく優しいし人間的に尊敬できる人でね。わたしもああなりたいみたいな。まだまだほど遠いんだけれどねー」
「でも、亡くなってからも自分の孫が意思を継いでいるわけですねぇ。素敵です……」
「待って」
違和感を素早く察知した。わたしのこういう勘の良さはいいのか悪いのか。
「……お祖母ちゃんが死んでいるなんて、わたし話したことないよね。どうして知っているの?」
祖母と暮らしていたことは言ったが、そのあと家族の話はしていない。わたしの心の傷を抉ることでもあるから聞かれなければ話さないし、辛いからなるべく言わないのに。
「……あー……とある先輩が」
政宗くん、嘘をつくのが下手だ。
「そんなの教えてくれる人なんかいないでしょ」
「いやいや、千代先輩が教えてくれたんですよ。酔って」
「うそ、言ってないよ」
「なあに、そこ喧嘩?」
すぐ近くにいた先輩が声をかけてきた。
「あ、いいえ。いまちょっと」
「すみません。俺、漢字が分からなくてユウウツのウツってどう書くのか」
「えーなにそれ難しい。なにに書くの? そんな文字」
もう。ここでは家で過ごしているみたいにできないんだってば。切り替えてほしい。ユウウツのウツという字を調べたあと、正宗くんがラウンドに行くと言い出した。
「……ひとりで、大丈夫?」
「お千代ちゃん、過保護だねー」
思わず聞いてしなったが、ほかのスタッフに言われてしまった。
「なんか、まだひとりで行かせるのは心配かな~なんて」
「なにかあったらすぐ行くから」
「そうそう。一時間くらいしたらオムツ交換とかだから、ちょうどいいんじゃない?」
わたしが心配しているのは、ひとりで仕事ができるのかということじゃないのだけれど。
「看護師さぁん、寝がえりうったらちょっと包帯取れちゃったんだよお」
「あらあら、直しましょうか」
眠れず暇を持て余した患者さんがステーションへ来るのはいつものことだ。取れたのか、自分で取ったのか分からないが。
「夕飯に出たあの煮物ちょっとしょっぱかったよねぇ。言っといてよ」
「そうでしたか? 山田さん薄味がお好きなのかな」
「んだぁー。かあちゃんが健康には薄味だっていうから、すっかり慣れちゃってよぉ」
「薄味のほうが体にはいいですよね。奥さん、ちゃんと考えてくれているんですね」
さすが先輩は扱いがうまい。ふたりの会話を聞きながら自分の仕事へ戻った。
しばらくして、ナースコールが静寂を破った。
「三〇一」
「どうしましたか?」
『すみません、気分が』
スピーカーの向こうから小さく声が聞こえた。
「上岡さんよ。お千代、いける?」
「いってくる」
わたしはすぐにステーションを出て小走りに上岡さんの病室へいく。
「失礼しますね……」
カーテンを開けると、上岡さんが上半身を起こしていた。調子が悪そうな顔をしている。
「どうしました?」
「すこし気分が悪いんで、トイレに行きたい」
「行けますか?」
術後の気持ち悪さではなさそうだ。どうしたのだろう。
「いや。ちょっと、へんな体勢で寝ていたからかも……」
「車椅子持ってきますね。ちょっとお待ちくださいね」
わたしは廊下へ出ると、壁に寄せてあった車椅子を持って病室へ戻った。
「これ、わたしにつかまって、こちらに移りましょうか。はい……ここをつかんで……ゆっくり」
「重くないか」
「大丈夫です。わたしけっこう力持ちなんですよ」
「はは、それは心強いな」
がっしりした上岡さんの体を支え、車椅子に移動させる。眠っている状態を起こして移動となると無理かもしれないけれど、支えるくらいならいける。火事場のバカ力だって出るんだから。
「我慢できますか」
黒いサポーターで固定された右足が痛々しい。
「たぶん」
足がベッドや壁に当たらないように注意をし、車椅子を押して病室を出た。トイレはすぐ近くだったので車椅子で入れる個室へ入る。
「ここにつかまってください。ゆっくり」
「ごめん。おしっこだけしたいかな。吐くのは大丈夫そう」
「終わったら声かけてくださいね」
個室の戸を閉めて外に待機する。ちょろちょろという音が聞こえて流す音も聞こえてきた。少しホッとする。
「はぁ、出た」
「おしっこ出ないと、先生に診てもらわないといけないですから。出てよかったです」
がしゃがしゃと音がしている。再び車椅子に座りなおしているみたいだ。
「大丈夫ですか? ひとりで座れます?」
「お、これどうやって回転するんだ」
開けますよと言いながら、慌てて個室の戸を開ける。
「あ、いいですよ。出しますからね」
上岡さんの車椅子を押しトイレから出た。
「はぁ。トイレするのもひと苦労だ。片方の足を怪我しただけなのに」
「大事な足ですから」
病室へ戻ろうと廊下を進んでいたとき「なぁ」と上岡さん。
「ちょっと、そのへんでおしゃべりしませんか。お千代ちゃん」
もう呼び方がお千代ちゃんになっている。上岡さんも眠れないのかな。
「分かりました。少しだけですよ」
病室でお話しをしたいところだが、戻りたくないというのでステーションの前にあるベンチまで行った。ここなら明るいし少しおしゃべりしていてもほかの患者さんにあまり迷惑にならないだろう。