「……まぁ、嫌われるより好かれたほうがやりやすいよね」
「本当に、鈍感だなぁ」
正宗くんがため息まじりにそう言う。
「先輩、口説かれているんですよ。上岡選手は独身です」
「まじか」
「まじです」
独身なのか。はっ。だからなんだっていうんだ。独身だということと口説いているのは関係ない。既婚者だってバツイチだって口説くでしょう。そう反論すると、正宗くんは冷ややかな目つきでわたしを見た。
「あんなチャラチャラした感じで明るいですけれど、今シーズンの復帰は絶望ですからね。リハビリも含め数か月はチーム離脱。復帰すぐにベンチもきつい。冷たい言い方かもしれませんが、彼はいまたしか二十八歳だから選手としてひとつのピークなんですよね。そんな時に大怪我……ものすごく辛いと思います」
眼帯を指でおさえながら、つらつらと静かな声でそう話す。相変わらずよく知ってる。年齢はカルテ見ればわかるか。
「辛い気持ちを、ひとめで美人なのに奥手と分かる先輩をからかって遊ぶことで紛らわせているのかもしれません」
「政宗くん、言い方」
上岡さんにもわたしにも失礼である。
「……ああいうの、タイプですか?」
「なに?」
「好きですか? ああいうタイプ」
ああいうってどういうタイプだというのか。ああもう分からない。わたしは教育係であって、看護師としてのいろいろを彼に伝えていかなければならず、こんな話をすることが仕事ではない。
「分からない。なんで政宗くんそんなこと聞くの。そういうの面倒くさいよお」
「もう、先輩は本当に鈍感」
こっち見んな。
「面倒くさいとか言わないでくださいね。上岡さんに」
「上岡さんには言わないけど」
「俺にも」
「あーはいはい!」
なんなの。仕事に集中しろっつーの。
病棟の白い廊下は、就寝前の落ち着いた静けさがある。シューズが微かにこすれる音、患者さん同士のおしゃべり、不安と緊張。いろいろなものが充満している。
ある病室の前で止まる。そのまま入ることに少し抵抗があった。ここは、清四郎くんがいる病室だ。
「……顔、見てこようか」
「はい」
躊躇するかと思ったら政宗くんは真っ直ぐ前を見ている。そうだね。正宗くんが暗い顔をしていたんだじゃ清四郎くんは感じ取ってしまうだろうから。子供は敏感だ。
もうすぐ消灯時間なので、その前に様子を見たかった。
「清四郎くん……あ、こんばんわ」
「こんばんわ。お世話になっております」
ベッドで漫画本を読む清四郎くんと、椅子に座る女性がいた。清四郎くんのお母さんだ。わたしたちがそばへ寄ると申し訳なさそうに頭を下げた。
「もうすぐ寝る時間ですものね。すみません。清四郎が少し眠れないみたいで……」
「そうですか。大丈夫ですよ。すぐ近くにわたしたちが居ますから」
「清四郎くん、なに読んでるの?」
わたしとお母さんが話している途中で、正宗くんが清四郎くんに声をかけた。空気を読んだらしい。
「まーんーがー」
「なんの漫画?」
政宗くんの問いかけを無視している。足のことで泣いていたそうだし、いまも少し不機嫌というか落ち込んでいるのだろう。無理もない。普段は明るくて人懐っこい子なのに。
「お母さん、帰っても大丈夫だよ」
清四郎くんは正宗くんの質問には答えずお母さんに手を振った。
「そう? じゃあ、そろそろ……清くん、また明日くるからね」
お母さんはバッグを持ち、椅子を片付けた。消灯時間まであと数分で面会時間はとっくに過ぎていはいるものの、患者が子供の場合、家族はそのまま寝るまで付き添うことも少なくない。
「お気をつけて」
「よろしくお願いします」
清四郎くんへ笑顔を向け、お母さんは病室から出ていった。
紙をめくる音が続く。読んでいるのかいないのか、清四郎くんは静かに漫画本をめくる。彼の目線と同じか下になるように、ベッドの横にしゃがんだ。
「清四郎くん、眠れないかな?」
「……だいじょうぶ」
「もし辛かったら、コールしてね。わたしがすぐ来るから」
漫画本から目を離さない。落ち着いている様子だけれど、ちょっと注意が必要かもしれない。
「……正宗さんも、くる?」
「もちろん。わたしか、正宗くんがくるよ」
清四郎くんは、搬送からいままで容体も精神的にも落ち着いていて、手のかかる患者さんではなかった。でも、ここへきてサッカーがいままで通りできないかもしれないとわかり、不安が爆発して泣いたのだと思う。
しっかりした子だという先入観は、そこばかり見てしまい多少辛くても大丈夫だろうと勘違いをする。正宗くんの前で泣いたことで、やはりまだ子供なのだとわかる。
大人でも、いままでいつも通りにできていたことが交通事故でできなくなるかもしれないと分かれば、辛いんだもの。小さな体で、不安をいっぱいため込んでいるのだ。
「正直に言うとね、ちょっと夜は眠れないんだ」
まるで秘密を告白するみたいに恥ずかしそうにそういった。恥ずかしくなんかないのに。
しゃがむわたしの横に正宗くんも同じようにしてふたりで正宗くんを見つめる。
「怖い夢を見る?」
「……うん。少し」
耐える姿を見ているとぎゅっと胸が苦しい。この子の小さな胸から少しでも不安がなくなりますように。
「呼んだら俺が飛んでくるから。ね」
「う、うん。わかった」
政宗くんの言葉に清四郎くんは安心した様子で漫画本を閉じる。
「あ、俺これ読んだことない」
「面白いよ。貸してあげる」
「ありがと。さ、寝ようか」
清四郎くんは大人しくごそごそと布団の中に入った。
ベッドのライトを消し、病室をあとにする。
「ゆっくり眠れるといいんですけれどね……」
「そうね」
病室の電気が消えていき、さらに静かさを増していく病棟内。
そのあといくつか病室を見てまわり、わたしたちはステーションへ戻った。
わたしが日誌を書いている途中、政宗くんは先輩に言われて伝票などを整理している。
年齢も状況も違っているけれど、サッカーをする患者さんがふたりいて普段思わないことをいろいろ考えてしまう。
「あっ、間違えた……先輩、ここの記入を間違えてしまいました。修正液でもいいですか?」
「どれ……ああ。うん、いいよ。じゃああそこにあるから」
「すみません」
あそこにあるからって言ったけれど、おそらくスタッフのなかで誰よりも文房具のなにがどこにあるかわかっているのは正宗くんだと思う。
「本当に、鈍感だなぁ」
正宗くんがため息まじりにそう言う。
「先輩、口説かれているんですよ。上岡選手は独身です」
「まじか」
「まじです」
独身なのか。はっ。だからなんだっていうんだ。独身だということと口説いているのは関係ない。既婚者だってバツイチだって口説くでしょう。そう反論すると、正宗くんは冷ややかな目つきでわたしを見た。
「あんなチャラチャラした感じで明るいですけれど、今シーズンの復帰は絶望ですからね。リハビリも含め数か月はチーム離脱。復帰すぐにベンチもきつい。冷たい言い方かもしれませんが、彼はいまたしか二十八歳だから選手としてひとつのピークなんですよね。そんな時に大怪我……ものすごく辛いと思います」
眼帯を指でおさえながら、つらつらと静かな声でそう話す。相変わらずよく知ってる。年齢はカルテ見ればわかるか。
「辛い気持ちを、ひとめで美人なのに奥手と分かる先輩をからかって遊ぶことで紛らわせているのかもしれません」
「政宗くん、言い方」
上岡さんにもわたしにも失礼である。
「……ああいうの、タイプですか?」
「なに?」
「好きですか? ああいうタイプ」
ああいうってどういうタイプだというのか。ああもう分からない。わたしは教育係であって、看護師としてのいろいろを彼に伝えていかなければならず、こんな話をすることが仕事ではない。
「分からない。なんで政宗くんそんなこと聞くの。そういうの面倒くさいよお」
「もう、先輩は本当に鈍感」
こっち見んな。
「面倒くさいとか言わないでくださいね。上岡さんに」
「上岡さんには言わないけど」
「俺にも」
「あーはいはい!」
なんなの。仕事に集中しろっつーの。
病棟の白い廊下は、就寝前の落ち着いた静けさがある。シューズが微かにこすれる音、患者さん同士のおしゃべり、不安と緊張。いろいろなものが充満している。
ある病室の前で止まる。そのまま入ることに少し抵抗があった。ここは、清四郎くんがいる病室だ。
「……顔、見てこようか」
「はい」
躊躇するかと思ったら政宗くんは真っ直ぐ前を見ている。そうだね。正宗くんが暗い顔をしていたんだじゃ清四郎くんは感じ取ってしまうだろうから。子供は敏感だ。
もうすぐ消灯時間なので、その前に様子を見たかった。
「清四郎くん……あ、こんばんわ」
「こんばんわ。お世話になっております」
ベッドで漫画本を読む清四郎くんと、椅子に座る女性がいた。清四郎くんのお母さんだ。わたしたちがそばへ寄ると申し訳なさそうに頭を下げた。
「もうすぐ寝る時間ですものね。すみません。清四郎が少し眠れないみたいで……」
「そうですか。大丈夫ですよ。すぐ近くにわたしたちが居ますから」
「清四郎くん、なに読んでるの?」
わたしとお母さんが話している途中で、正宗くんが清四郎くんに声をかけた。空気を読んだらしい。
「まーんーがー」
「なんの漫画?」
政宗くんの問いかけを無視している。足のことで泣いていたそうだし、いまも少し不機嫌というか落ち込んでいるのだろう。無理もない。普段は明るくて人懐っこい子なのに。
「お母さん、帰っても大丈夫だよ」
清四郎くんは正宗くんの質問には答えずお母さんに手を振った。
「そう? じゃあ、そろそろ……清くん、また明日くるからね」
お母さんはバッグを持ち、椅子を片付けた。消灯時間まであと数分で面会時間はとっくに過ぎていはいるものの、患者が子供の場合、家族はそのまま寝るまで付き添うことも少なくない。
「お気をつけて」
「よろしくお願いします」
清四郎くんへ笑顔を向け、お母さんは病室から出ていった。
紙をめくる音が続く。読んでいるのかいないのか、清四郎くんは静かに漫画本をめくる。彼の目線と同じか下になるように、ベッドの横にしゃがんだ。
「清四郎くん、眠れないかな?」
「……だいじょうぶ」
「もし辛かったら、コールしてね。わたしがすぐ来るから」
漫画本から目を離さない。落ち着いている様子だけれど、ちょっと注意が必要かもしれない。
「……正宗さんも、くる?」
「もちろん。わたしか、正宗くんがくるよ」
清四郎くんは、搬送からいままで容体も精神的にも落ち着いていて、手のかかる患者さんではなかった。でも、ここへきてサッカーがいままで通りできないかもしれないとわかり、不安が爆発して泣いたのだと思う。
しっかりした子だという先入観は、そこばかり見てしまい多少辛くても大丈夫だろうと勘違いをする。正宗くんの前で泣いたことで、やはりまだ子供なのだとわかる。
大人でも、いままでいつも通りにできていたことが交通事故でできなくなるかもしれないと分かれば、辛いんだもの。小さな体で、不安をいっぱいため込んでいるのだ。
「正直に言うとね、ちょっと夜は眠れないんだ」
まるで秘密を告白するみたいに恥ずかしそうにそういった。恥ずかしくなんかないのに。
しゃがむわたしの横に正宗くんも同じようにしてふたりで正宗くんを見つめる。
「怖い夢を見る?」
「……うん。少し」
耐える姿を見ているとぎゅっと胸が苦しい。この子の小さな胸から少しでも不安がなくなりますように。
「呼んだら俺が飛んでくるから。ね」
「う、うん。わかった」
政宗くんの言葉に清四郎くんは安心した様子で漫画本を閉じる。
「あ、俺これ読んだことない」
「面白いよ。貸してあげる」
「ありがと。さ、寝ようか」
清四郎くんは大人しくごそごそと布団の中に入った。
ベッドのライトを消し、病室をあとにする。
「ゆっくり眠れるといいんですけれどね……」
「そうね」
病室の電気が消えていき、さらに静かさを増していく病棟内。
そのあといくつか病室を見てまわり、わたしたちはステーションへ戻った。
わたしが日誌を書いている途中、政宗くんは先輩に言われて伝票などを整理している。
年齢も状況も違っているけれど、サッカーをする患者さんがふたりいて普段思わないことをいろいろ考えてしまう。
「あっ、間違えた……先輩、ここの記入を間違えてしまいました。修正液でもいいですか?」
「どれ……ああ。うん、いいよ。じゃああそこにあるから」
「すみません」
あそこにあるからって言ったけれど、おそらくスタッフのなかで誰よりも文房具のなにがどこにあるかわかっているのは正宗くんだと思う。