大事だと思うとなかなか掃除ってできない。できない言い訳でしかないのだが。用具出して洗剤買ってさあやろう! って、できない。めちゃくちゃ汚れてしまう前にやればいいと分かってはいるんだけど。
浴槽を洗って床とタイルもスポンジで磨く。これで、正宗くんが帰ってきたら綺麗なお風呂で温まることができる。そんな風に考えたら楽しくなってきた。
今頃、彼はなにをしているだろう。夜のラウンド、ひとりで行けているのだろうか。ちゃんと聞いていなかったような気がする。
何度かわたしのいない夜勤を経験しているけれど、申し送りや先輩スタッフからなにも聞いてないもんな。
深夜勤の正宗くんは、明日は準夜勤。わたしも同じだ。久しぶりに夜が一緒になる。
彼もがんばっているのだ。くたくたになって帰ってきてから資料を読んだり、調べものをしたり。勉強している正宗くんを見るたび、自分が新人だった頃を思い出す。
新人の思い、教える立場。彼もそのうちプリセプターを経験する時期が来るだろう。その時に少しでも参考になるような先輩になりたいな。
洗い流した壁の泡が排水溝にすべて吸い込まれるのを確認し、部屋へ戻った。
正宗くんがある程度やってくれているから、家事の中で特別わたしがやるようなことはない。ナポリタンだって自分が食べる分の他に余分に作っていくくらいだから。
帰ってきたら食べられるようにご飯の用意をしよう。お風呂も用意しておこうか。
いろいろ考えていたら、なんだか再び寝るタイミングを逃してしまった。さっき起きたばかりなのだけれど。深夜2時を回ったところで、いつもだったらビール飲んで寝ちゃっている時間だった。
看護書を積ん読にしていたことを思い出し、少しでも読み進めようと本棚から出す。よさそうだったら正宗くんにも教えよう。テレビの音量を低くし、わたしは本のページをめくった。
ガチャガチャという音で目が覚める。カーテンの隙間から光がさしこんでいた。まさか、朝なの? わたし、また居眠りをしていたのね。なんなの、うまいこと起こしてくれる妖精がいるのならお給料を払うからお願いしたい。
「ただいま帰りました」
眠そうな顔で帰宅した彼は、コンビニの袋を下げていた。寝ぼけた頭を無理やりに起こす。いま寝ていたと気付かれたくない。
「起きていたんですか?」
「お、おかえり。ちょっとだけ本読んでた」
それは嘘じゃないよ。9割寝てたけれど。またリビングで寝ていましたとは言えないので。
「勉強されていたんですね。邪魔してすみません」
「ううん。本を開いていただけ」
「眠そう。休んでください。深夜勤でしたっけ?」
「今日わたし準夜」
「なんか自分のシフトと混同してしまって。そうか俺と一緒ですね」
「そうだね。なんか久しぶり」
本を閉じて立ち上がった。また変な姿勢で寝ていたから背中が痛い。いい加減にしろ、自分。政宗くん、お腹が空いているだろうな。
「ごはん、用意するね」
「え!!」
政宗くんは鞄を床に落とした。
「なに驚いているの」
「せ、先輩が食事の用意をしてくれるなんて」
「感動?」
「雷が落ちるかもしれない」
「じゃあ用意しないよ」
失礼なことを言わないでほしい。
「いやいや! すみませんなんでもないです嬉しいです!」
「……用意っていっても、パスタ温めてお湯沸かすだけなんだけど」
驚かなくてもいいのに。それだけいつもしていないということなんだけれど、ちょっと落ち込む。
「なんか、新鮮ですね」
疲れた顔して笑っている。疲労も蓄積しているはずで、帰宅してなにもしないで床に転がりたいけれどできないんじゃないかと心配になる。自分の部屋じゃないわけだし。
「疲れた顔してる。座っていていいよ。ご飯食べたら早く休みなよ」
「はぁ……体は平気なんですけれど……」
彼がテーブルに置いたコンビニの袋の中身は缶ビールと柿ピーだった。
「これ、ちょっと飲みたくて。先輩のも」
「あ、ありがと。連絡くれれば買っておいたのに」
わたしは立ち上がりキッチンへいく。冷蔵庫にはいっていたナポリタンを出して、レンジへ入れケトルでお湯を沸かす。
「精神的に疲れました」
「まぁ、そりゃあ」
重労働もあり精神的にも疲弊する職業だ。新人の彼はもっとすり減っていると思うけど。
「……夜勤なんて……」
「まぁまぁ」
「やっぱり……出るんですよおお! 病院って! あの病院でも!」
「えっ」
まさかと思ったタイミングでレンジがチンとお知らせをした。お皿を出し沸騰前のケトルを止めて粉末コンソメスープに注ぐ。はやくこれを政宗くんに用意しなければ。
「整形外科とか内科とか眼科とか、病院の大きい小さい関係ないんだ……うっうっ」
「泣かないで。ちょっと、ちょっと。どうしたの。話してごらんよ」
夜勤のストレスか。テーブルにお皿とマグカップを置いてコンビニ袋から缶ビールと柿ピーを出し政宗くんと自分の間に並べた。こういう時の手際だけはいい。
「まず、ごはん食べなよ。食べながら話して」
正宗くんは着替えもせず正座する。仕事場ではユニフォームがあるし、スーツを着るわけでもないから、デニムで通勤している。
「ビール飲んで。ほら、わたしもいただこう。ハイ、カンパーイ」
「……かんぱい」
朝から乾杯(夜でも乾杯)いつもは「ああ、こんな時間からビールが飲めるなんて贅沢デヘヘ」とか思っちゃうんだけれど、いまは違う。なにがあったの。そんなに暗い顔しないでよ。
「昨夜は、眠くて仕方がなかったんです。疲れもたまっていたのかもしれないし。環境の変化とかなんかいろいろ」
「分かるよ。そうだね」
「で、トイレで顔を洗ったんです。眠い頭と気持ちをスッキリさせようと思って。水でバシャバシャと」
「うん」
鏡の前の棚になにかを置く仕草を見て、あ、眼帯を取ったということかと気付く。
「で、バシャバシャして顔をあげたら、鏡に写っていて。俺の後ろに……」
やっぱりそれか。背筋がすっと冷える。
「片腕が、なくて」
やめて、やめて。やめてほしい。怖い。
「う、うちの病院で亡くなった患者さんじゃないと思うよ」
「そうですかね」
整形外科の良いところは、といったらおかしいかもしれないけれど死亡退院が少ない。昔にあったことは窺い知れないけれど。
「そ、そのひとになにか言われた? 聞かれたとか」
「やめてください……眼帯つけてダッシュで逃げたんで」
「追いかけてきたとか」
「先輩、やめて」
これ以上追い込むのはやめよう。わたしも鬼ではない。
浴槽を洗って床とタイルもスポンジで磨く。これで、正宗くんが帰ってきたら綺麗なお風呂で温まることができる。そんな風に考えたら楽しくなってきた。
今頃、彼はなにをしているだろう。夜のラウンド、ひとりで行けているのだろうか。ちゃんと聞いていなかったような気がする。
何度かわたしのいない夜勤を経験しているけれど、申し送りや先輩スタッフからなにも聞いてないもんな。
深夜勤の正宗くんは、明日は準夜勤。わたしも同じだ。久しぶりに夜が一緒になる。
彼もがんばっているのだ。くたくたになって帰ってきてから資料を読んだり、調べものをしたり。勉強している正宗くんを見るたび、自分が新人だった頃を思い出す。
新人の思い、教える立場。彼もそのうちプリセプターを経験する時期が来るだろう。その時に少しでも参考になるような先輩になりたいな。
洗い流した壁の泡が排水溝にすべて吸い込まれるのを確認し、部屋へ戻った。
正宗くんがある程度やってくれているから、家事の中で特別わたしがやるようなことはない。ナポリタンだって自分が食べる分の他に余分に作っていくくらいだから。
帰ってきたら食べられるようにご飯の用意をしよう。お風呂も用意しておこうか。
いろいろ考えていたら、なんだか再び寝るタイミングを逃してしまった。さっき起きたばかりなのだけれど。深夜2時を回ったところで、いつもだったらビール飲んで寝ちゃっている時間だった。
看護書を積ん読にしていたことを思い出し、少しでも読み進めようと本棚から出す。よさそうだったら正宗くんにも教えよう。テレビの音量を低くし、わたしは本のページをめくった。
ガチャガチャという音で目が覚める。カーテンの隙間から光がさしこんでいた。まさか、朝なの? わたし、また居眠りをしていたのね。なんなの、うまいこと起こしてくれる妖精がいるのならお給料を払うからお願いしたい。
「ただいま帰りました」
眠そうな顔で帰宅した彼は、コンビニの袋を下げていた。寝ぼけた頭を無理やりに起こす。いま寝ていたと気付かれたくない。
「起きていたんですか?」
「お、おかえり。ちょっとだけ本読んでた」
それは嘘じゃないよ。9割寝てたけれど。またリビングで寝ていましたとは言えないので。
「勉強されていたんですね。邪魔してすみません」
「ううん。本を開いていただけ」
「眠そう。休んでください。深夜勤でしたっけ?」
「今日わたし準夜」
「なんか自分のシフトと混同してしまって。そうか俺と一緒ですね」
「そうだね。なんか久しぶり」
本を閉じて立ち上がった。また変な姿勢で寝ていたから背中が痛い。いい加減にしろ、自分。政宗くん、お腹が空いているだろうな。
「ごはん、用意するね」
「え!!」
政宗くんは鞄を床に落とした。
「なに驚いているの」
「せ、先輩が食事の用意をしてくれるなんて」
「感動?」
「雷が落ちるかもしれない」
「じゃあ用意しないよ」
失礼なことを言わないでほしい。
「いやいや! すみませんなんでもないです嬉しいです!」
「……用意っていっても、パスタ温めてお湯沸かすだけなんだけど」
驚かなくてもいいのに。それだけいつもしていないということなんだけれど、ちょっと落ち込む。
「なんか、新鮮ですね」
疲れた顔して笑っている。疲労も蓄積しているはずで、帰宅してなにもしないで床に転がりたいけれどできないんじゃないかと心配になる。自分の部屋じゃないわけだし。
「疲れた顔してる。座っていていいよ。ご飯食べたら早く休みなよ」
「はぁ……体は平気なんですけれど……」
彼がテーブルに置いたコンビニの袋の中身は缶ビールと柿ピーだった。
「これ、ちょっと飲みたくて。先輩のも」
「あ、ありがと。連絡くれれば買っておいたのに」
わたしは立ち上がりキッチンへいく。冷蔵庫にはいっていたナポリタンを出して、レンジへ入れケトルでお湯を沸かす。
「精神的に疲れました」
「まぁ、そりゃあ」
重労働もあり精神的にも疲弊する職業だ。新人の彼はもっとすり減っていると思うけど。
「……夜勤なんて……」
「まぁまぁ」
「やっぱり……出るんですよおお! 病院って! あの病院でも!」
「えっ」
まさかと思ったタイミングでレンジがチンとお知らせをした。お皿を出し沸騰前のケトルを止めて粉末コンソメスープに注ぐ。はやくこれを政宗くんに用意しなければ。
「整形外科とか内科とか眼科とか、病院の大きい小さい関係ないんだ……うっうっ」
「泣かないで。ちょっと、ちょっと。どうしたの。話してごらんよ」
夜勤のストレスか。テーブルにお皿とマグカップを置いてコンビニ袋から缶ビールと柿ピーを出し政宗くんと自分の間に並べた。こういう時の手際だけはいい。
「まず、ごはん食べなよ。食べながら話して」
正宗くんは着替えもせず正座する。仕事場ではユニフォームがあるし、スーツを着るわけでもないから、デニムで通勤している。
「ビール飲んで。ほら、わたしもいただこう。ハイ、カンパーイ」
「……かんぱい」
朝から乾杯(夜でも乾杯)いつもは「ああ、こんな時間からビールが飲めるなんて贅沢デヘヘ」とか思っちゃうんだけれど、いまは違う。なにがあったの。そんなに暗い顔しないでよ。
「昨夜は、眠くて仕方がなかったんです。疲れもたまっていたのかもしれないし。環境の変化とかなんかいろいろ」
「分かるよ。そうだね」
「で、トイレで顔を洗ったんです。眠い頭と気持ちをスッキリさせようと思って。水でバシャバシャと」
「うん」
鏡の前の棚になにかを置く仕草を見て、あ、眼帯を取ったということかと気付く。
「で、バシャバシャして顔をあげたら、鏡に写っていて。俺の後ろに……」
やっぱりそれか。背筋がすっと冷える。
「片腕が、なくて」
やめて、やめて。やめてほしい。怖い。
「う、うちの病院で亡くなった患者さんじゃないと思うよ」
「そうですかね」
整形外科の良いところは、といったらおかしいかもしれないけれど死亡退院が少ない。昔にあったことは窺い知れないけれど。
「そ、そのひとになにか言われた? 聞かれたとか」
「やめてください……眼帯つけてダッシュで逃げたんで」
「追いかけてきたとか」
「先輩、やめて」
これ以上追い込むのはやめよう。わたしも鬼ではない。