病院に到着して、着替えを済ませる。申し送りを終え時間を確認し、ラウンドに入ろうとした。
「野中さん、ちょっといいですか?」
わたしを呼び止めたのは、師長だった。
「はい」
「正宗くんのことなのですが」
びくりとする。悪い知らせだろうか、知らないうちになにかあったのだろうか。
「な、なにか……ありましたか」
恐る恐る聞いてみる。わたしがいないあいだに、なにか問題でもあったのかもしれない
わたしが眉間に皺を寄せたので師長が「そんな構えなくても大丈夫」と言う。少しだけほっとしたのだが。
「勤務態度は真面目です。覚えも早いですね。要領もよいので経験を積むにつれてもっとよく動けるようになるでしょう」
「……はぁ」
ありがたいことだった。優秀な新人だということを師長が分かってくれたのが嬉しかった。
「実は正宗くんから相談があったんです。清四郎くんと一緒にサッカーの映画を見てもいいかと」
あ、その話か。正宗くんわたしにはなにも言っていなかったな。そうか、師長に相談したんだ。
「それはわたしも相談されました。なので、師長に相談をすると言っていたので許可を得るように話しました」
師長は頷く。これはあまりいい感触ではない。 
「勤務中に長時間……映画なので二時間でしょうか。とにかく現場を離れることは好ましくないので反対しました」
やっぱり。
「申しわけありません……」
わたしは、頭を下げた。もうちょっとちゃんと話を聞いてあげればよかったかもしれない。分かりやすく肩を落としたわたしを見て師長がふっと苦笑いをした。
「すごく熱心に頼まれましてね。折れちゃいました、わたし。ホホ」
「え?」
更にオホホと笑う師長。なんだって。
「ステーションで見ればいいかなって結論に至りました。もちろんなにかあれば現場に行ってもらいますけれど。わたしも見せてもらおうかしら」
 なに言ってんだろう……いや、その判断を下したならそれでいいんですけれどもね、ええ。
 師長の笑顔を見てなんだか気が抜けたと同時にほっとした。正宗くん、どういう頼みかたしたんだろうか。
清四郎くんも喜ぶだろう。
「そ、そうなんですか。ありがとうございます。師長、すみません」
深々と頭を下げた。無理なお願いだとは思っていたけれど正宗くんの清四郎くんを思う気持ちも汲んであげたかったから、許可が下りたならよかった。
「でもね、野中さん。清四郎くんなのですが」
神妙な顔をした師長が静かにいう。少しまわりを気にしたので聞かせたくないことなのかと思い一歩だけ師長に寄った。
「足、ちょっと後遺症が残るみたいなのです」
「……そうなんですか?」
清四郎くんの笑顔を思い出し胸がぎゅっと締め付けられる。わたしはいまその事実を知ったのだが、正宗くんは知っているのだろうか。
「そろそろリハビリを始めます。おそらく日常生活には支障はないでしょう。しかし、サッカーをいままでどおりできるかといわれたら、ちょっと微妙ですね」
「正宗くんは、そのことを……」
「伝えました。清四郎くんはまだ知りませんが、そのうち柔らかく伝えられるはずですが。まだ小学生ですからね」
状況が状況だけに、もしかしたら映画を一緒に見るアイディアは実行されないかもしれない。正宗くん、清四郎くんのことを聞いていたのなら相談してくれればよかったのにな。
してあげたいことと、相手がしてほしいこと、望みが合致するとは限らない。優しさや願望の押し付けになってしまうことだってある。人間が一番難しいと思うのだ。
その人間を相手にするわたしたちは細心の注意を払わなければいけない。
師長に挨拶をして仕事に戻った。検温と点滴のチェックなどをこなし合間にラウンド、書類や伝票を片づけるうちに、今日の勤務が終わろうとしていた。

ステーションのデスクで肩こりを解すように腕を回しているところで、準夜にはいる朋美がずいぶん早めに出勤してきた。
「おはよう。早いんだね」
「お千代、お疲れさまー」
朋美に手招きで更衣室に呼ばれたので少しだけ席をはずす。すると、紙袋に入ったものを渡された。
「これ、実家から送られてきたの。おすそ分け」
中身を見てみるとビニールに入った物体が見える。なんだか分からないが嗅いだことのある匂いがするような。
「干物なんだけど、いろいろ詰め合わせてきたから食べて。実家からたくさん送られてきて消費するの手伝ってほしい」
「干物か、美味しいよね。わたし好きだよ、ありがとう!」
冷凍もできるはずだから、正宗くんも喜ぶだろうなぁ。
「正宗くんも、好きでしょ?」
「そうだね。基本うち日本食だし先日は焼き魚だった、し……」
そこまで言ってはっと口に手を当てる。朋美はニヤニヤしながら顔を覗き込んでいた。
「ほらほら、口を滑らせすぎ」
「おお。ハメたな、朋美」
「ハメてないよ。人聞きの悪いこといわないで」
なんだかいろいろ自覚が足りない。面倒だとは思うけれど秘密は秘密だ。自分でダダ漏れしていいものではない。
「なんでそんな面倒臭そうな顔をすんのよ。楽しくないの?」
「楽しくないし、実際、面倒だもん」
ありがとうと言って紙袋をロッカーにしまった。保冷剤も一緒に入っているらしいので勤務はもうすぐ終わりだし冷蔵庫に入れなくても大丈夫だろう。
「酷い言われよう。まぁ、仲良くやりなよ。うまくいかないと仕事に響きますから」
だから、そういうのが面倒なんだって、やりにくいじゃないか。職場が一緒でなければよかったと思うのだ。
「そう言わないで。干物を彼に美味しく焼いてもらってよ」
干物女が干物を持って帰るなんて笑える。
「干物は冷凍できるけど、わたしはできない」
「意味わかんない」
そうでしょうね。
バッグの中にあったスマホをチェックすると政宗くんからメッセージが入っていた。
『終わったら連絡ください。駐車場にいます』
やっぱり迎えに来たのか。いいっていったのに、誰かに見つかったらどうするんだろう。
秘密にしている自覚が足りないのは政宗くんのほうじゃないのだろうか。
「支度するわ」
朋美がそう言って、ユニホームを取り出した。
「うん」
わたしは更衣室を出て、ステーションへ戻り仕事へ戻った。交代の申し送り時間までラストスパート。バタバタと走り回って今日の勤務を終えた。

正宗くんが駐車場で待っているという状況は、嬉しいような恥ずかしいような。困ったような。複雑な気持ちで『いま終わりました』と返信を入れ、急いで支度をして病院を出た。
小走りに駐車場へ行くと、わたしの車の運転席に正宗くんがいた。
車の保険、家族限定とか自分限定にしていなくてよかった。まさか自分の車を、他人が、しかも男が運転するようになるなんて思ってもみなかった。
わたしに清四郎くんのことを伝えたときの師長みたいに、まわりを気にして車に乗り込み素早くドアを閉めた。
「ありがとう。いいのに、迎え」
「お疲れ様です。大丈夫ですって」
今日も変わらず眼帯の目で静かに微笑んで、車を発進させた。しばらく走ると赤信号で停止する。
「あ、帰りはわたしが運転するって言ったのに発車しちゃった」
「ああ、大丈夫ですよ」
「眼帯で運転は危ないから」
「そうなんですけれど、夜の帰りは心配だったんで」
くすぐったいことを言われると甘えてしまうのだが。
ちゃんと政宗くんの両目は見えているのだが眼帯に慣れてしまっているんだろうな。これからは迎えに来てもらってもわたしが運転して帰るようにしよう。事故でも起こされたら困る。
「先輩を送ったら、ちょっと出かけてきたいんですけど」
「忙しいね。買い物? そこからまた帰ってきて深夜に出るの」
だったら尚更今日は迎えに来なくてもよかったのではないだろうか。無茶するなぁ。
「DVDをレンタルしに行きたいんです。自転車で行ってきますから」
青信号になり車が発進する。
もしかして清四郎くんのことかな。いったん帰ってからまた自転車で出るなんてことをしなくてもいい。
「帰らないで、このまま寄ろうよ」
「でも、先輩は疲れていますし」
「いいよ。……清四郎くんのやつでしょ?」