「先輩、意思が揺らいでいます」
「なによ」
「出ていけってはっきり言えばいいのに」
「あ、う」
なんだろう。どうしたいのだろう。わたしはなにがしたいのだ。
「俺は、先輩と一緒にいると居心地いいので」
なにそれ。急にそんなことを言わないで、本当にずるい。今度はドキドキしてプリンのことが考えられない。
「もうしばらくここに隠れさせてください」
「な、んで」
「だって、あの彼女ですよ? また来るかもしれない」
それはそうかもしれない。でも、もう自分でなんとかして欲しいのに。わたしは関係ないのに。巻き込まないで。なんならあそこから引っ越しすればいい。もう出ていって。
「そう言えばいいのに」
「そうです。いま考えたこと言えばいいのに」
はっきり言わないわたしを責めるように政宗くんはまた苦笑する。
「可愛い後輩が心配じゃないんですか?」
「か、可愛くないよ。別に」
乱れる心を悟られないように必死になり過ぎて、プリンの蓋がなかなか開けられなかった。ここに居る必要はもうないだろうなんて、不用意にカマをかけるようなことを聞いてしまったけれど、反撃にあった。
仕事ではわたしが指示を出すほうだけれど、一歩病院から出たらまる立場が逆転する。
乾ききった干物を戻そうとしたって、水分吸収に時間がかかるんだから。柔らかくなるのは、すぐじゃないんだから。わたしは仕事だけで生きてきたから、生活に入り込んできたきみを持て余している。
「さっきも言いましたが、居心地がいいので出ていきません」
わたしがはっきり言わない分、政宗くんが爆撃のようにはっきり言った。
居心地がいいなんて思ってもないことを言われて本当にどうしたらいいのか分からない。政宗くん、ずるいよ、やっぱり。
「俺、風邪ぶりかえしたら嫌なので先に休みますね」
「あ、うん……」
結構深刻な話をしていたはずなのに、さわやかな顔をしやがって。食器を流しに運ぶ政宗くんの背中を見ながらプリンを口に運ぶ。せっかく食べたくて買ってきたのに、プリンの味がよく分からなかった。
◇
「俺は夜から出勤です」
「わたし昼間だよ」
「じゃあ、先輩が終わった頃に迎えにいきます」
正宗くんがうちに来て半月ほど経つとこんな会話をするようになった。
日勤と準夜勤とか準夜勤と深夜など重なるとき意外でわたしがバス通勤をするとき、彼はわたしを迎えに来てくれる。迎えに来て買い物をしながら帰宅するのでちょうどいいらしい。
今日はわたしが昼間の勤務で正宗くんが深夜なのだが、迎えに行くと言ってきかない。
仕事があるのにわたしの迎えと買い物、家事をこなすのだから疲れが溜まらないか心配になる。
「疲れているんだから先に寝ていていいってば。眼帯で運転するのも危ないし」
「違反ではないですよ。さすがに長時間の運転は避けますけど」
「そうだけど、本当に疲れているんだったら無理に来なくていいよ。休んでいていいんだからね」
「先輩が帰ってきてから寝ても、俺は起きられますし」
「寝起き悪くて悪かったわね」
正宗くんは、エプロンを取りながら片手にマグカップをふたつつかんで日勤へいく準備をするわたしを追いかけている。
「慣れないんだから無理しないで。今日はわたし日勤、正宗くん深夜でしょ? 体を休める体調管理も仕事のうちなんだからね」
「そうですね。でも無理はしていませんよ。やりたくてやってるんです」
「いいって。炊事洗濯でじゅうぶんです。子供じゃないんだからひとりで帰ってこれるっつうの」
帰りに迷子になる心配でもしているのだろうか。
本当によく家のことをやってくれている。掃除と洗濯、朝ごはんや夕飯の支度、たまにお弁当も作ってくれる。まさに主夫。世話好きでよく気がつくからいいお嫁さんになるよ。男だけれど。仕事でももっと活かせればいいなと思うよ。
「先輩、床とかソファーで寝ないでちゃんとベッドいってくださいね」
「ああう、わかったよお」
自分だってずっとソファーで寝ていたじゃないの。体が痛くなるだろうし疲れが取れないのも困るので、結局ソファーと壁のあいだに来客用の布団を出して寝床を確保してあげた。どこでも眠れるからいいというのでそうなったのだけれど、もうちょっと部屋が広かったらよかったな。かといって寝室のわたしのベッドの隣に布団を並べるのは気が引けたのでよかった。
テキパキ食事の準備をしてくれる政宗くんに焼いてもらったトーストにレタスのサラダをガサガサと乗せた。
「こぼしてます」
「んー」
買い置きのインスタントはるさめスープにお湯を注いでくれた。
「風邪ひくんで、あと体にも悪いし、床で寝ないでくださいね。帰ってきて床に大の字になってる先輩怖いから。死体みたいで」
「はあい」
「人手不足なんですから、先輩に休まれるとみんな困るんですよ」
なんかさっきと立場逆転していないか。
「あーん、わかった、わかった」
ごもっともでございます。まったくこれじゃどっちが教える側なのか分からない。
看護師って激務なんだよ。走り回って、患者さん担いだりして一日中動き回っている。今日も終わったね、お疲れ様わたし! 帰ってきて、美味しいおつまみに缶ビール飲んだら天国よ。ほろ酔いでそのまま寝ちゃうのよ。最高。
死体に見えるならそれでいい。寝たら途中で起きないから半分死んでいるのかもしれない。
「夜勤こなして帰ってきて、お酒飲んで寝て起きたら時間が分からない時があるよね。朝か? あれ、寝たのは朝だけれど、いまは朝なのか? みたいな」
「そうですね。でも、俺はちゃんと目覚ましかけるし」
「……ふん。どうせわたしはだらしないですよ」
ソファーで寝ることから布団に昇格した政宗くんはきちんと目覚ましをかけてきちんと起きる。床で寝たりしない。
そういえば最近、シフトが一緒にならない。日勤と夜勤に分かれてしまうことや、外部研修とかセミナーとかが入りお互い忙しい。勤務中はいつもわたしが常にいる状況ではなくなっている。そうなると、生活が完全にすれ違いになるかと思ったのだが、一緒に食事をして色々な話をする時間はあった。
その時に、仕事上の質問や悩みも聞ける。それはお互いにいいことだった。
わたしはひとりでいた頃と同じでいつも通りにしているつもりだ。たぶん正宗くんが合わせてくれているのだと思う。わたしの部屋にいるという自覚がそうさせるのが元々の性格なのか。わたしの生活にするりと入り込んできた政宗くんだが、思いのほかストレスがたまらない。
でも疲れているなら休んで欲しいし、ビール飲んで床で寝ていたってかまわないんだよ。きちんとしなくてもいいのに。
「あんまり無理しないでいいから。自分のことをしていていいよ」
「していますよ。それに無理はしていないんで。安心してください」
「だって、そんなにきっちりして息が詰まらないの?」
「普通です。ひとりで住んでいようとこうですよ。先輩がだらしないだけです」
失礼だし。
まぁ、いま体調を崩している様子もないし、食事もちゃんと食べていて落ち込む様子もない。寝不足でもなさそうだし。
しっかり生きていてわたしとは大違い。だらしないわたしがますますだらしなく見える。
恋愛を遠ざけてしまう理由のひとつに、自分のだめさ加減を再確認することが挙げられるのだ。
ああもうそんなの面倒じゃあもう恋なんてしないいやだもう仕事が恋人。
「ま、いいか」
マグカップのスープをぐっと飲んで椅子から立ち上がった。この持続力の無さよ。
「なんか言いましたか?」
「なんでもないよ。いってきます」
バッグを取り、わたしは部屋を出た。