「きみは自分の好奇心の方が大事なんだよ。俺よりも」
うん、わたしもそう思う。
「行くから。じゃあ、元気で」
「正宗くん……」
「先輩、行きましょう」
彼女が「待ってよ」と引き留める。
「てっちゃんこそ、眼帯で顔を隠してばかり。わたしのこと、ちゃんと好きなの?」
個人的には仕事の後輩でもあるし断然正宗くんの味方なので、ここでしおらしく「わたしのこと好きなの?」なんて聞いてくるなんてずるいと思う。
さっきまで自分のことウチって言っていたじゃないの。なんか男女の修羅場って感情の上下が凄い。部外者であるので、正宗くんがんばれと応援しつつもちょっと飽きてきた。彼はなんて答えるのだろう。
「……好きだったよ」
ため息交じりに答える正宗くん。眼帯の顔は悲壮感に満ちあふれている。ああ、なんか嫌だな、知っている人の苦しい表情を見るのは嫌だな。どうしてカップルの修羅場を見なくちゃいけないのかな。拷問だ。
「もう戻れないや。なつみ、ごめんね」
正宗くんは、低い声で言うとわたしの手をつかみ彼女を押しのけるようにして外に出る。
「ちょっと、その女はなんなの」
「……」
正宗くんに押し出されるようにして、全員がドアから出た。そして終了の合図のようにドアは閉まった。
「行こう」
「てっちゃん!」
彼女の声に後ろ髪を引かれているのはわたしだけのようで、政宗くんはずんずん力強く進んでいく。仕事場では見ない態度と行動だ。掴まれた腕がちょっとだけ痛い。
「いいの?」
マンションの通路を曲がったところで手を離された。エレベーターではなく、階段使うようだ。
「いいんです。こうでもしないとまた追いかけられる」
重苦しい空気を振り払うようにタンタンタンと軽やかな靴音で階段を下りていく。
「もう俺は、戻りません」
言葉通り、正宗くんは一度も振り向かなかった。わたしは、もしかしたら追いかけられているかもしれないと思いうしろを振り返ってみたけれど、誰もいなかった。
駐車場の車に一直線に向かう。荷物を後部座席に放り込みわたしは運転席、政宗くんは助手席に乗り込んだ。車内が静か過ぎて自分の呼吸が助手席の正宗くんに聞かれてしまいそうで、少し乱暴にエンジンをかけた。政宗くんはため息をついて「すみません」と言った。
「本当にすみません。お見苦しいところを」
「うん」
たしかにお見苦しかった。でも、どうしてわたしに謝るのかよくわからない。
「傷つけないと別れられないっていうのも、辛いですよね」
わからないけれど、じっと聞いてやるのがいまのわたしの役目だと思う。
「どうしてこうなる前に、ね。もっと早くちゃんと話をすれば俺もなつみも、こんな思いをすることはなかった。俺も悪いんです。最初はあれこれ言って嫌われるのが嫌だった。いまになってあんな風に言いたくなかった」
正直ふたりのやり取りを見ていて、バカバカしいと思った。でも、本人たちは真剣だったんだね。
段々と彼女から心が離れてしまったのは真実なのだろう。そして、別れたことを後悔しているのではなく、こんな風にしか別れられなかったことを悔やんでいる。
「わたし、分からないけれど……こういうのよく分からないんだけれど」
縁遠かったものが目の前で繰り広げられていて、自分に直接関係無いけれど肩を落とすひとを放っておけない。
「政宗くんは、自分を責めることないよ。なんでこんなに辛い思いをしなくちゃなんないんだろうって苦しいかもしれないけれど、きっとそれも意味があることなんだって思おうよ」
正宗くんはこちらを向いた。余計なことを言ってしまっただろうか。無関係なのに出しゃばりだなって思われたかもしれない。彼はふうと息を吐くと、シートに体をあずけて眼帯のないほうの目を閉じた。
「……先輩って、ひとを励ます天才ですよね」
「そう?」
「そうです」
ふふっと笑った正宗くんを見て、少し安心した。
自宅へ戻る途中、二十四時間営業のスーパーへ寄って買い物をした。
今日はあるもので済ませたいが、明日から正宗くんが料理をしてくれるというので、甘えることにする。予算決めをして品物もメニューも彼に任せた。
あまり家で料理しないので調味料も数少なくて、政宗くんがいくつか揃えてくれた。
「先輩、苦手な食べ物とかありますか?」
「特にないよ。めちゃくちゃ辛いとじゃなければ」
「分かりました」
「政宗くんに料理教わろ」
「分かりました。仕事はまだまだですが料理の腕なら先輩に負けません」
失礼だな。できないわけじゃないのよ。ある程度はできるの。
「一人暮らしで自炊なんでしょ?」
政宗くんは頷いた。彼女はきっと食べる専門だったんじゃないかと思う。嫌がるだろうから話題に出さないようにするけれど。
「ひとりぶん作るの、面倒じゃない?」
「ひとりぶんだからこそ、極上のものを食べたいと思いませんか? 多めにできたら冷凍しておけばいい」
「タッパーも買わないといけない?」
「ラップでいいです。とりあえず」
はいはい。あとお任せしますよ。ラップ……いつ買ったのか思い出せないものが棚にあるはず。会計を済ませ袋詰めをする。食材たちは颯爽と取り出されたエコバッグに納められ、買い物は終了した。車に戻り再び夜の道路を走って、やっとわたしのマンションへ帰ってきた。
部屋に入ったときは、とても疲れきっていた。夜勤からの修羅場はきついです。
「はー! ただいま。疲れた」
政宗くんは買い物したものを冷蔵庫にしまっている。材料からはなにができるのか想像できなかった。
テレビをつけてチャンネルをあれこれ見てみる。深夜のニュース番組にするか、バラエティ、それともDVDでも見るか。
「昨日も今日も、ご迷惑をおかけしました。すみません」
「強引にここまできておいて、いまさらそんなに何度も謝らなくていいってば」
自分の部屋に後輩が転がり込んで住み着くというこの状況はまだ慣れないし正直飲み込めていないけれど、なぜか笑ってしまう。怒ってはいないし謝らなくてもいいのだ。
「座っても、いいですか?」
「だから、座ることを遠慮しなくていいし、勝手に座ってよ」
正宗くんはビールを二本持って、ため息をつきながらソファーに座った。
「仕事でも失敗してしまったし」
「引っ張るね……」
「なんか、最近ついてないなぁと思っていて」
「そんなに何度もため息をつくと幸せが逃げるっていうよ」
政宗くんはさっきからため息ばかりついている。話題を変えてあげないとだめかなぁ。話の糸口を探そうと記憶を辿ってみる。
「あ、そうだ」
声を出すと缶ビールを持ったままの正宗くんがこちらを向いた。
「まず乾杯」
「あ……はい」
プシッという気持ちのいい音とともに、缶を合わせる。
「お疲れ様でした」
「どうも。政宗くんもお疲れ様」
冷たい液体を喉に流し込む。面倒なこともこれで流れていけばいいとさえ思う。
「正宗くんちの下駄箱の上に」
本当は話もしないで寝てしまいたいくらい精神的に疲れている。
今日はもう買ってきた柿の種と豆腐さえあればいい。料理するのも食べるのも面倒くさい。