「わたし、ここで待っているから。早くしてね」
靴を脱がず、玄関で待つことにした。
「寒くないですか?」
「だいじょうぶー」
「すみません。すぐ用意しますんで」
ゴチャゴチャせずさっぱりとした玄関だった。男のひとり暮らしとはこのようなものなのか。スニーカーが二足玄関に出ていて、真新しいものとそうでないものだった。お出かけ用と通勤用だろうか。
手持無沙汰なので下駄箱の上に並ぶ置物を見ていた。山から採掘してきたようなこぶし大のゴロリとした青い石が転がしてある。そのまわりに手のひらサイズで丸く加工されたものもある。丸い玉が連なったブレスレットがあって、彼女のものなのかな? 正宗くんはこんなにつけていただろうか。革ひもに吊るされペンダントになっているものもある。全部、青い石。なんだろうこれ。こんなにたくさん、石のインテリアが好きなのかな。
バタンバタン。奥から物音が聞こえる。できるだけ少ない荷物にして欲しいし、できるだけ早くここから去りたい。帰ってビールを飲みたいです。

「もうちょっとお待ちください。あと鞄に詰めたらおわりです」
「いいけど。忘れ物ないようにだけして。下着とかパソコンとか、充電器とか」
「それは持ちました。通帳と印鑑と……とりあえずのものだけなんで……」
あたりまえだ。わたしのところは仮の宿なんだから。
正宗くんはスポーツバッグをひとつ持って玄関に来た。それからまた部屋に引き返してもうひとつ大きなバッグを持ってきた。
「お待たせしました」
「大丈夫? 忘れ物ない?」
「はい。ご迷惑おかけしました」
充電器は持った、あれ持ったこれ持ったと確認している。まぁ、忘れたら戻ってくればいいでしょう。思わずため息が出る。
「ねぇ、こんなこと長く続かないんだしさ。別れたいならちゃんときっちりハッキリ別れなよ。彼女と」
 まるで逃げまわるようにしている正宗くんが、不自然で不誠実み見えて、とても腹立たしかった。
「よく話をすればいいのに。彼女も分かってくれると思うし」
ふたりの問題だから、頭を突っ込むつもりはないけれど……。
「お別れしましょうって。真面目に、真剣に言わないと。かわいそうだよ」
「言っていますよ。真剣に受け取らないのは彼女のほうだ」
「真剣さが伝わらないんじゃないのかな」
「どうしてそんなことが分かるんですか? 俺が適当にあしらっているとでも思っているんですか?」
ちょっと険しい目つきになった。あ、ちょっと怒らせちゃったかな。それ以上続けるつもりはないらしく、行きましょうと言われてドアノブに手をかけ開けた。
「そん……」
玄関ドアが細く開けられて、隙間になにかが張り付いていることに気がついた。ドアが開いたそこ……顔が。顔? え?
「ひい!!」
隙間からこちらをのぞく顔がある。女の顔だった。
「い、やああああでたあぁあぁ!!」
悲鳴をあげてしまってから深夜であることに気付いて口に手を当てた。隣にいる正宗くんが舌打ちをする。
「てっちゃん……!!」
しゃべった! てっちゃんて誰!
「なつみ……! なにしてんだよ」
なつみ?!
ドアが開き女性が顔を出した。足がある人間だった。安心した……いや、安心している場合ではない。金髪でメイクが濃い……アイラインが黒と赤……つけまつげがヒジキに見える……。この子は何者?
「なんでいつもそういうことをするんだよ!」
「てっちゃん、なんでナンバー変えたんだよ。ウチ入れないじゃん! 電話も出ないしメッセージの返事もくれない!」
これが正宗くんの彼女なのか。元ヤンキーでOLさんだって言っていた彼女。これか、これが彼女か。どうして。いや、ひとの好みはいろいろある。よく見れば可愛い、と思う。
目の前で突然始まった修羅場に怯えながら、わたしは思い直す。彼女の職場の上司はメイクのことをなにも言わない寛容な人物らしい。
「何回も言っているし、きみが真面目に聞かないからこうなったんだよ」
「はぁ? ウチのせいなの?」
「そうだよ」
「てっちゃんがウチを避けるからでしょー」
「なつみが、俺の話をきちんと真面目に聞かないからだ」
「てっちゃんがちゃんと言わないからじゃん!」
「言っているだろ! もう限界なんだって!」
「なにか言ったっけー? 聞こえてなかったかもー」
「もう別れたいんだって、なつみに何度も言った!」
「……!」
「……!!」

……おなかすいたな。

「誰よこの女ぁ!!」
あれ、途中の話を聞いていなかったけれど、流れ弾がきた。酷いな、防御してなかったよ。
わたしは処女でもあるけれど、こういう修羅場に居合わせたことが無いし、あたり前だけれど浮気とか未体験だし、浮気相手だったこともないの。慣れてないの。なつみさんの「この女ぁ!」には、大変な憎しみが込められている。
「ば、バイタル取りましょうか?」
「ああ? なにこのババァ」
 なにやだ! ババァだと? このふたり、わたしのことをおばあちゃんとかババァとか言いやがってコノヤロウ。ふざけんな。
「ババァじゃない謝れ。職場の先輩だし四歳年上なだけだ」
「余計なことを言わなくていいわ!」
「余計なことでしたか?」
 流れ弾に当たったと思ったら背中から斬りつけられた。しんどい。
「なにしてんのよ、アンタ。てっちゃんと一緒に」
「なにしてるって」
 はて、わたしはなにをしているんだろう? わたしは人差し指を頬に当てて首を傾げた。
「可愛く首を傾げてもだめだかんな!」
なつみさんがまた目を血走らせる。
 言い返そうにも、わたしはただの職場の先輩である。帰り道に荷物を取るから寄って欲しいと言われて同行していまして、それでこのあとわたしの部屋に行くんですって言えばいいの? 彼、いまわたしの部屋にいるんですよ。着替えがないんで取りにきたんですぅ。
 いや、だめだ。ばかか。そんなことを言ったらきっとこのなつみさんは口から火を吐いてわたしを焼き殺すに違いない。そしてわたしの焼け焦げた屍を乗り越えて正宗くんをへし折ると思う。
「送ってもらって、荷物取りに来ただけだから。俺、他で寝泊まりするから。ハイハイ出て。もう俺いくから」
「ちょっと待ってよ、てっちゃん!」
 正宗くんは、本当は押しのけてでもここから出たいのだろう。これは止められない。ここでふたり、ゆっくり話し合うような感じではない。
「別れたいって、何度も言っているよ。ごめんな。もう限界」
「げ、限界ってなによ」
「だから、それも何度も言っている。いいか、俺の話をよく聞いて」
ひとつの呼吸をして、なつみさんに人差し指を突き立てた。正宗くん、怖い。
「部屋の電球抜かれて真っ暗なまま夜を過ごし暗視カメラを設置して変化が無いか夜通し観察したり、帰ってきたら心霊怪奇ファイルDVDを朝まで見るのにつきあわされたり、せっかく会える休みの日なのに心霊スポットめぐりをしたり。行き先は秘密よってミステリーツアー企画してくれたからワクワクしていたら行き先が交通事故現場と恐山。俺、あのときは本当にあの世とこの世の境目を体験したよ。きみはなにも感じなかったみたいだけれどね。苦手だからやめて欲しいって、何度も何度も言ったよな。なのに、聞き入れられない。やめてくれない。本当に俺が好きなの? よく分からない。もう耐えられない」
 そこまで一気に捲し立てた正宗くんは、軽く息を切らせている。
……気の毒。これは彼女が無神経過ぎだ。
「自分が楽しければいいのか?」
「だって、てっちゃんわたしが喜ぶ顔が見たいって、好きだって」
「そりゃ、彼女の喜ぶ顔は見たいだろ。でも、俺が嫌だと頼んでいるのに無視するのは違うだろう」
正宗くんは彼女のために一生懸命だったのだろう。とにかく気の毒としか言えない。こんなに訴えているのに当の彼女は悪びれもせず「ええ、だってぇ」などと口を尖らせている。
彼女、本当に正宗くんのことを好きなのだろうかと疑ってしまうな。