どういうことなの、廊下が暗いって……意味が分からない。夜なのだから暗いのは当たり前じゃないの。患者さんが暴れて一刻を争う状況でなにを言っているのか。
当直の先生を呼び、柏木さんと宥めながら三人がかりでベッドに戻し、鎮静剤を打った。ようやく落ち着いてくれた柏木さんは、ゆっくりと眠りについていった。毎晩ではないにしろ、こういうのはよくあることだ。暴れる患者さんもいるし、体格差もあるので自分も怪我をしないように気をつけなければいけない。こういう時、男性看護師はとても頼りになるのだ。
頼りになるのに……怯えた顔で、廊下が暗いとか? なにそれ? 夜だし、昼間でも日当たりが悪い場所の廊下は暗いっつーの。なんなの、病院だぞ、ここは。自分は看護師なんだぞ。暴れる患者さんのために動けないなんて。
落ち着いて。頭ごなしに責めてはだめだ。それじゃあ、だめなんだよ。千代子。
騒ぎがおさまって、再びの静寂が病棟を包む。このままなにも起きないで欲しいと願わずにはいられない。ステーションにはわたしと正宗くんがおり、ほかのスタッフは食事休憩と、ラウンドに行っている。目の前に、暗い顔をした正宗くんがいる。
「す、すみません……」
静かに肩を落とす正宗くんはいままで見たこともないほどとても頼りなく見える。
「まぁ、びっくりしたんだよね」
「……」
「頭で考えていても、体が動かないことってあるもんね」
「……」
おい、なんか言ってよ。黙っていないで。
「すみません……俺、怖くて」
消え入りそうな声で訴える。分かるよ、分かるんだよ。わたしも始めはとても怖かった。自分以外の人間の体、厳しい指示の声、駆け回る先生や先輩たち……。自信のなさも相まって自分はどうすればいいのか分からなくて。分からないことが恐怖で。
だからここで怒ってはいけない。そうだよ。自分が新人だったときはどうだった? 不安で、なにをすればいいのか分からずにいて。通常業務では、いまの正宗くんより動けていなかったはず。彼はがんばっている。そこは認めてあげないと。
なにぼーっと突っ立っていたの、いままでなにを見ていた、なにを学んできた! とか言っちゃだめ。
「患者さんの安全が第一なのよ。だから、自分が怖いからとかは言えないの」
「すみません。以後、気をつけます」
怯えて立ちすくむなんてこと、次はないといい。本当に、わたしにとっては暗い廊下よりも怖い。
「怖くて、俺……夜の病院が」
「……は?」
なにを言っているの? 現在が夜の病院であり、改めて言葉にされるとなにやら背筋が寒い気がしてくる。夜の病院が怖いとはどういうことなの? 問いかけは言葉にならず視線になってしまったようで。
「病院、出るじゃないですか」
「出るって」
「アレが」
「あ?」
あ。アレ? アレが出るってなに? ちょっと待ってよ。今日までの様々理解不明な出来事が脳内を駆けめぐる。
正宗くんの彼女のことを思い出した。苦手なことをする彼女と合わなくて。自分はアレが嫌いなのに。
「幽霊?」
正宗くんは、首がもげそうなほど縦にブンブン振った。そっちか。
「正宗くん……」
「怖い」
あほか。本当は言ってやりたい。誰でも苦手はあるけれど、それかよ。ぐぐぐぐ……いかん。感情的になってはだめだ。
わたしの役目は一年間きみを支えて悩みを聞き共に頑張り基本を以下略。ここで怒って責めてはいけないんだよ。彼を信じろ。
「大丈夫だよ」
「千代先輩……」
「心配いらないよ。いないから、幽霊なんて、ね」
看護師になりたくて、がんばって勉強したんだろう。眠い目をこすりながら試験勉強もしただろう。やっとここまで来たのでしょう。新人看護師として働き始めた、動き出した未来なのだ。ねぇ! そうでしょう! わたしは心の中で両手を広げて目を輝かせた。
「なりたくてなったんでしょ? 看護師」
その質問は時々自分にも投げかけている。なりたかったのだ。自分はひとつの夢を叶えた。
「やりたい仕事に就けていることは、ひとつの自信に」
「……夜勤のあるところをどうして選んだのだろう」
正宗くんはわたしの質問の答えを返してくれず、ひとりで頭を抱えている。
自信になるかならないかは「こんなんと違う」と理想と現実の開きが無いことが条件なのだが。
そうだよ。夜の病院が怖いなら、夜勤がないところを希望すればよかったのに。どうしてうちを希望したのだ。なんとかなると思ったのだろうか。想像でしかないけれど夜勤がない病院はなにかが正宗くんの希望に添わなかったのかもしれない。それにしたって。
「辞めるならいまだけど」
傷口は浅い方がいいに決まっている。これじゃやっていけないのではないだろうか。またさっきみたいなことがあったら、真夜中の緊急搬送に遭遇したらどうするのか。
「辞め、ません」
「うちは準夜勤、深夜勤とあるから、丑三つ時のラウンドとか地獄じゃん」
「やめてください。うう」
どうしてそんなに苦手なのに、看護師になったのだろう。不思議だ。
「俺は、看護師に……なりたかったんです」
「うん」
眼帯をおさえて、弱々しく言う正宗くん。
「わかったから」
「……すみません」
「なりたかったなら頑張れるよね。大丈夫だから。正宗くんならできるから」
成績優秀、要領はいいけれど、夜の病院が苦手な優等生、一回目の壁が夜の病院……か。なんだそれ。そんなの聞いたことない。大丈夫、と言われてわたしを上げた彼は、飲み過ぎて死にそうになっていた時と同じ顔をしている。
「わたしがついてるから。一緒にがんばろう」
嘘じゃないよ。本当に思っているんだよ。
「先輩……」
「いい? 正宗くん」
そんな情けない顔をしないで。
「ほかのひとにできて、正宗くんにできないことなんてない」
本当に、そうなんだよ。
働いているうちに経験を積み度胸もついてくる。夜の病院が「出そうで怖い」などと思っている暇なんかない。たぶん。強くなろう。
「さ、落ち込んでいる暇なんか無いんだからね」
ポンポンと、正宗くんの肩を叩いた。
ああ、あとでねって言っていたのに、清四郎くんのところに行けなかったな。もうとっくに映画は終わり寝ているだろう。