和樹は舌打ちした。
つい小宮と、おしゃべりなんぞをしてしまった。
狭い車内で並んで坐っているせいだ。だからおかしな気分になる。さっさとドライブを終わろう。
海賊船が見えてきた。
だだっ広い駐車スペースに車を駐める。ほかに車は一台もない。エンジン音が止まると、完璧な静寂が来た。
「人っ子一人いないな。公園をおれたちで独占だ。さあ降りるぞ」
小宮に言ってから、後ろを振り返る。
「どうする? おれたちは公園で遊んでるけど、多美はあっちに散歩にでも行くか」
海に突き出た堤防のほうを顎で示す。
多美がじっと和樹を見返す。
いよいよ子どもを殺す。その覚悟ができた、いい顔をしている。
多美はうなずいて、
「和さんが偵察して、よさそうだったら電話して。そしたら行くから」
「わかった」
キーを多美に渡して、車を降りた。
と、風を全身に感じた。
爽やかな八月の夜の風。
その潮っぽい匂いを吸い込んで、またしても子ども時代を想った。
あのころは、良かった。
不安も怖れも憎しみも、なんにもなかった。
小宮が助手席から降りてきた。
おやと思った。顔に怯えがない。
こいつもまた、覚悟の決まった顔をしている。
さあ殺してくださいと、言っているように見えた。
「本当だ。船だ」
妙に明るい声。和樹はつられてそっちのほうを見、
「おまえ、駆けっこは得意か?」
「ビリしかとったことありません」
「でもまだ三十そこそこだろ。五十近いおれよりは、いくらなんでも速いだろう」
「遅い自信はあります」
「逃げてもいいんだぞ」
「そしたら純はどうなります?」
「さあな。夜は暗くて危険だ。母親がちょっと目を離した隙に、どんな事故が起こるかわからない。もし海に落ちたら、救かるのはまず無理だろうな」
「村松さん、それは殺人です」
「だから?」
「警察に話します」
「ならおまえも事故に遭うよ、必ず」
「ぼくは死ぬまで殴ってもらっていいんです。だけど、純には触れないでください」
「おまえが頼む立場か。天にでも祈ってろ」
公園の入口に向かった。小宮がついてくる。
晴れた星空が広がっている。その下を、娘を殺した男と歩いている。
陸風が、服の隙間を抜けていく。
公園に足を踏み入れる。軟らかい砂の感触。
不意に、友華を初めてここに連れてきたときのことを思い出した。
強い風に吹かれた砂粒が顔を襲い、
『お砂パチパチ痛い!』
と叫んで、それ以来友華はここを、お砂パチパチの公園と呼ぶようになった。
『砂が目に入らないようにして、あのお船にのぼってごらん。高いところに行ったら、お砂は来ないよ』
『パパ、抱いてのぼって。恐い』
三歳の娘を左腕に抱き、右手で手すりを握って海賊船にのぼった。
あれは面白かった。
公園で遊ぶ楽しさを、三十過ぎて再発見した。
そうだ。あのとき思ったのだ。幸せとはすなわち、自分の子どもと公園で遊ぶことなのだと。
それなのに、愛人に走った。たまたま街で知り合った、海野多美に溺れた。
いったいどこで、なにをまちがったのだろう?
* * *
「純さん」
多美さんの声がして、スポーツバッグのチャックが開けられた。
「ふう」
ぼくはようやく大きく息をついた。ずっと折り曲げていた首の後ろが、ミシミシと鳴る。
「二人は出て行ったわ。ひとまず純は大丈夫よ」
「良かった」
バッグからそっと腕を抜き、脱皮をするように上半身を出した。
「二人を尾行して。たぶん、年上のほうが年下のほうを殴るけど、もしやりすぎて殺しそうになったら、うまく止めて」
「任務変更だね」
「できる?」
「そりゃまあ、探偵だから」
車を降りて歩く。
陸風が心地良い。
さて、どこに身を隠して二人の男に近づこうかと考えていると、子どものころによくやった、公園でのかくれんぼを思い出した。
つい小宮と、おしゃべりなんぞをしてしまった。
狭い車内で並んで坐っているせいだ。だからおかしな気分になる。さっさとドライブを終わろう。
海賊船が見えてきた。
だだっ広い駐車スペースに車を駐める。ほかに車は一台もない。エンジン音が止まると、完璧な静寂が来た。
「人っ子一人いないな。公園をおれたちで独占だ。さあ降りるぞ」
小宮に言ってから、後ろを振り返る。
「どうする? おれたちは公園で遊んでるけど、多美はあっちに散歩にでも行くか」
海に突き出た堤防のほうを顎で示す。
多美がじっと和樹を見返す。
いよいよ子どもを殺す。その覚悟ができた、いい顔をしている。
多美はうなずいて、
「和さんが偵察して、よさそうだったら電話して。そしたら行くから」
「わかった」
キーを多美に渡して、車を降りた。
と、風を全身に感じた。
爽やかな八月の夜の風。
その潮っぽい匂いを吸い込んで、またしても子ども時代を想った。
あのころは、良かった。
不安も怖れも憎しみも、なんにもなかった。
小宮が助手席から降りてきた。
おやと思った。顔に怯えがない。
こいつもまた、覚悟の決まった顔をしている。
さあ殺してくださいと、言っているように見えた。
「本当だ。船だ」
妙に明るい声。和樹はつられてそっちのほうを見、
「おまえ、駆けっこは得意か?」
「ビリしかとったことありません」
「でもまだ三十そこそこだろ。五十近いおれよりは、いくらなんでも速いだろう」
「遅い自信はあります」
「逃げてもいいんだぞ」
「そしたら純はどうなります?」
「さあな。夜は暗くて危険だ。母親がちょっと目を離した隙に、どんな事故が起こるかわからない。もし海に落ちたら、救かるのはまず無理だろうな」
「村松さん、それは殺人です」
「だから?」
「警察に話します」
「ならおまえも事故に遭うよ、必ず」
「ぼくは死ぬまで殴ってもらっていいんです。だけど、純には触れないでください」
「おまえが頼む立場か。天にでも祈ってろ」
公園の入口に向かった。小宮がついてくる。
晴れた星空が広がっている。その下を、娘を殺した男と歩いている。
陸風が、服の隙間を抜けていく。
公園に足を踏み入れる。軟らかい砂の感触。
不意に、友華を初めてここに連れてきたときのことを思い出した。
強い風に吹かれた砂粒が顔を襲い、
『お砂パチパチ痛い!』
と叫んで、それ以来友華はここを、お砂パチパチの公園と呼ぶようになった。
『砂が目に入らないようにして、あのお船にのぼってごらん。高いところに行ったら、お砂は来ないよ』
『パパ、抱いてのぼって。恐い』
三歳の娘を左腕に抱き、右手で手すりを握って海賊船にのぼった。
あれは面白かった。
公園で遊ぶ楽しさを、三十過ぎて再発見した。
そうだ。あのとき思ったのだ。幸せとはすなわち、自分の子どもと公園で遊ぶことなのだと。
それなのに、愛人に走った。たまたま街で知り合った、海野多美に溺れた。
いったいどこで、なにをまちがったのだろう?
* * *
「純さん」
多美さんの声がして、スポーツバッグのチャックが開けられた。
「ふう」
ぼくはようやく大きく息をついた。ずっと折り曲げていた首の後ろが、ミシミシと鳴る。
「二人は出て行ったわ。ひとまず純は大丈夫よ」
「良かった」
バッグからそっと腕を抜き、脱皮をするように上半身を出した。
「二人を尾行して。たぶん、年上のほうが年下のほうを殴るけど、もしやりすぎて殺しそうになったら、うまく止めて」
「任務変更だね」
「できる?」
「そりゃまあ、探偵だから」
車を降りて歩く。
陸風が心地良い。
さて、どこに身を隠して二人の男に近づこうかと考えていると、子どものころによくやった、公園でのかくれんぼを思い出した。