ふっと目があいたとき、亜子は、自分がどこにいるのかわからなかった。
天井が見えた。LEDのライトも見える。見憶えのない景色。それで、自分の家ではないらしいわ、ということを知った。
頭を起こそうとした。異常に重い。なんでこんなにだるいのでございましょう。そもそもここはどこ?
ようやく上半身を起こしたとき、それが目に入った。
お腹から血をもりもり出した死体。
悲鳴は出なかった。まだ半分夢のようで、現実感がない。
これはなんでございましょう。豚の丸焼き?
思い出した。ここは赤沢さまのお宅だ。このお方に、さっき襲われそうになったんでございます。
亜子は、自分の穿いているスカートを見た。とくに乱れてはいない。どうやら豚さんには、なにもされていないようですわ。
いったいなにが、起こったのでございましょう?
おクスリを飲まされた。豚さんが迫ってきた。おやめくださいと言おうとした。そこで意識が消えた。
目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。
時計を見ると、今は九時半だった。このお宅に着いたのは確か七時過ぎで、ワインを飲まされたのが、だいたい八時半くらいだった。
とすると、意識がなかったのは、ちょうど一時間。そのあいだに、誰か豚さんに恨みを抱いているお方がやって来て、刃物でエイッとやり、そのまま逃げた。
いや、そうではないかもしれない。きっと犯人さんは、最初からこの家のどこかに隠れていらしたのだわ。リビングの収納スペースとか、和室の押入れとかに。
赤沢さまは、芸能界の裏情報をたくさん持っていると自慢していらした。そのせいで、命を狙われてしまったのでございましょう。犯人さんは凶器を握り締めて、赤沢さまの帰りを待った。
ところが赤沢さまは、お一人ではなく、亜子を連れていた。そのため犯人さんは、じっと待つしかなかった。
赤沢さまが、亜子を襲おうとする。亜子はおクスリのせいで眠ってしまう。
それを見て、犯人さんは潜んでいた場所から出る。そっと赤沢さまの背後に忍び寄り、ポカリと殴って気絶させる。そして、大きなお腹を切って逃げた。
こんなところでございましょうか。
さて。ではわたくしは、どういたしましょう。
警察にお電話する。それ以外に選択肢はない。
でも、と亜子は考える。
この事件は、おそらくセンセーショナルに報道されるでございましょう。とくに、被害者と最後の夜を過ごした、若いアイドル志望の女の存在は、マスコミの関心を集めるにちがいない。
二十歳(はたち)過ぎの成人だから、顔や名前も出てしまうでしょう。たとえテレビや新聞がそうしなくても、インターネットには必ず出まわる。そうなったら、もうおしまいでございます。殺人事件に関わったいわくつきの女を、いったいどこの事務所が、アイドルとしてデビューさせてくださるでしょう!
そうなったら、生きる意味はない。アイドルになれなければ、死ぬしかないのでございます。
だから亜子は、警察を呼ぶ代わりに、探偵の蝶舌さまを呼んだ。
幸い赤沢さまは死ぬときに、断末魔の叫びなどはおあげにならなかったらしい。もしそうなら、ご近所のどなたかが通報して、とっくに警察がご到着されているはずだから。
誰も亜子が、ここにいることを知らない。編集部のあるオフィスビルに入るときも、出るときも、誰ともすれちがわなかった。このお宅に入るときも、人の姿はなかった。
赤沢さまの車に乗っていた二十分ほどのあいだに、誰か知り合いに見られたという可能性も、ほとんどない。となると心配なのは、指紋の問題と、電話だ。
もし亜子が、このまま逃げた場合、このお宅や赤沢さまの車に残した指紋が気になる。それを全部拭き取れる自信は、とてもない。赤沢さまのものではない髪の毛や、食器やグラスに残った唾液の存在も、警察の科学捜査によって浮かび上がってくるでしょう。それらをどうしたらよいのかは、蝶舌さまの知恵に頼るしかなかった。
そして、もっとも気になるのは、赤沢さまに昨日かけた電話だった。
あのとき亜子は、自分の名前を言い、オフィスに行く約束をした。もしその通話内容が録音されていたら、必ず捜査線上に浮かぶ。そういう危険があるのなら、むしろ現場を逃げ出すことで、殺人容疑すらかかってくるかもしれないのだわ!
それについての相談も、できる相手は蝶舌さましかいなかった。そこで電話をかけたのだが、ずいぶん待った気がするのに、まだいらっしゃらない。
時計を見る。九時五十分。電話をしたのはいつ? 九時半? 何分で着くと言ってらしたっけ? ついさっきのことなのに、もう思い出せない。
まださっきのおクスリが、残っているのでございましょう。記憶があいまいなのはそのせいだ。ああだるい。また眠ってしまいたい。
と、そう思ったとき、玄関のドアノブがまわった。
蝶舌さまだわ。
ガタンと音がする。鍵がかかっているらしい。とすると犯人さんは、合鍵でも持っていらして、出ていくときにロックして帰られたのだろうか。
亜子は急いで玄関に行って、鍵をあけた。
ドアが開くと、中年男性の姿があった。
ノーネクタイに黒のスーツ。カエルのようなひどい顔色――蝶舌さまではない。
その瞬間悟った。犯人さんが、犯行現場に戻ってこられたのだ。
天井が見えた。LEDのライトも見える。見憶えのない景色。それで、自分の家ではないらしいわ、ということを知った。
頭を起こそうとした。異常に重い。なんでこんなにだるいのでございましょう。そもそもここはどこ?
ようやく上半身を起こしたとき、それが目に入った。
お腹から血をもりもり出した死体。
悲鳴は出なかった。まだ半分夢のようで、現実感がない。
これはなんでございましょう。豚の丸焼き?
思い出した。ここは赤沢さまのお宅だ。このお方に、さっき襲われそうになったんでございます。
亜子は、自分の穿いているスカートを見た。とくに乱れてはいない。どうやら豚さんには、なにもされていないようですわ。
いったいなにが、起こったのでございましょう?
おクスリを飲まされた。豚さんが迫ってきた。おやめくださいと言おうとした。そこで意識が消えた。
目が醒めると、赤沢さまは死んでいた。
時計を見ると、今は九時半だった。このお宅に着いたのは確か七時過ぎで、ワインを飲まされたのが、だいたい八時半くらいだった。
とすると、意識がなかったのは、ちょうど一時間。そのあいだに、誰か豚さんに恨みを抱いているお方がやって来て、刃物でエイッとやり、そのまま逃げた。
いや、そうではないかもしれない。きっと犯人さんは、最初からこの家のどこかに隠れていらしたのだわ。リビングの収納スペースとか、和室の押入れとかに。
赤沢さまは、芸能界の裏情報をたくさん持っていると自慢していらした。そのせいで、命を狙われてしまったのでございましょう。犯人さんは凶器を握り締めて、赤沢さまの帰りを待った。
ところが赤沢さまは、お一人ではなく、亜子を連れていた。そのため犯人さんは、じっと待つしかなかった。
赤沢さまが、亜子を襲おうとする。亜子はおクスリのせいで眠ってしまう。
それを見て、犯人さんは潜んでいた場所から出る。そっと赤沢さまの背後に忍び寄り、ポカリと殴って気絶させる。そして、大きなお腹を切って逃げた。
こんなところでございましょうか。
さて。ではわたくしは、どういたしましょう。
警察にお電話する。それ以外に選択肢はない。
でも、と亜子は考える。
この事件は、おそらくセンセーショナルに報道されるでございましょう。とくに、被害者と最後の夜を過ごした、若いアイドル志望の女の存在は、マスコミの関心を集めるにちがいない。
二十歳(はたち)過ぎの成人だから、顔や名前も出てしまうでしょう。たとえテレビや新聞がそうしなくても、インターネットには必ず出まわる。そうなったら、もうおしまいでございます。殺人事件に関わったいわくつきの女を、いったいどこの事務所が、アイドルとしてデビューさせてくださるでしょう!
そうなったら、生きる意味はない。アイドルになれなければ、死ぬしかないのでございます。
だから亜子は、警察を呼ぶ代わりに、探偵の蝶舌さまを呼んだ。
幸い赤沢さまは死ぬときに、断末魔の叫びなどはおあげにならなかったらしい。もしそうなら、ご近所のどなたかが通報して、とっくに警察がご到着されているはずだから。
誰も亜子が、ここにいることを知らない。編集部のあるオフィスビルに入るときも、出るときも、誰ともすれちがわなかった。このお宅に入るときも、人の姿はなかった。
赤沢さまの車に乗っていた二十分ほどのあいだに、誰か知り合いに見られたという可能性も、ほとんどない。となると心配なのは、指紋の問題と、電話だ。
もし亜子が、このまま逃げた場合、このお宅や赤沢さまの車に残した指紋が気になる。それを全部拭き取れる自信は、とてもない。赤沢さまのものではない髪の毛や、食器やグラスに残った唾液の存在も、警察の科学捜査によって浮かび上がってくるでしょう。それらをどうしたらよいのかは、蝶舌さまの知恵に頼るしかなかった。
そして、もっとも気になるのは、赤沢さまに昨日かけた電話だった。
あのとき亜子は、自分の名前を言い、オフィスに行く約束をした。もしその通話内容が録音されていたら、必ず捜査線上に浮かぶ。そういう危険があるのなら、むしろ現場を逃げ出すことで、殺人容疑すらかかってくるかもしれないのだわ!
それについての相談も、できる相手は蝶舌さましかいなかった。そこで電話をかけたのだが、ずいぶん待った気がするのに、まだいらっしゃらない。
時計を見る。九時五十分。電話をしたのはいつ? 九時半? 何分で着くと言ってらしたっけ? ついさっきのことなのに、もう思い出せない。
まださっきのおクスリが、残っているのでございましょう。記憶があいまいなのはそのせいだ。ああだるい。また眠ってしまいたい。
と、そう思ったとき、玄関のドアノブがまわった。
蝶舌さまだわ。
ガタンと音がする。鍵がかかっているらしい。とすると犯人さんは、合鍵でも持っていらして、出ていくときにロックして帰られたのだろうか。
亜子は急いで玄関に行って、鍵をあけた。
ドアが開くと、中年男性の姿があった。
ノーネクタイに黒のスーツ。カエルのようなひどい顔色――蝶舌さまではない。
その瞬間悟った。犯人さんが、犯行現場に戻ってこられたのだ。