次の日の日暮れに作品は完成した。制作の遅れや、大きなトラブルも起こらず、計画通りに進んだのは唯織の的確な指示もあるがそれだけではない。
かつては芸術の町と言われていただけあって、その子供たちにも制作の精神が受け継がれていた。唯織の指示を皆が共有して理解し、手が足らない場所にはすかさず手伝いに向かう。大人たちも直接制作にかかわることはできないが、差し入れの提供や帰りの遅くなった生徒の送迎など出来ることをしてくれた。
外部の人間を拒絶しやすい住人は、内部の結束はかなり強固なものだと改めて思い知らされた。
後は一枚一枚のベニヤ板を繋ぎ合わせて組んだ足場に固定するだけ。危険を伴うこの作業はだけは町の大人たちが担うことになっている。
「こんなにあっさり出来てしまうなんて」
完成した巨大貼り得を前にして呟く。最終確認のために校庭で繋げられた絵は下絵の通りに描かれていた。校舎の二階から眺める、校庭に敷かれた貼り絵は特別にライトで照らされている。地上絵のように圧巻の大きさである。これが明日には壁画のように校舎の壁に飾られるのだから、さぞかし圧倒されることだろう。
ただ、下絵を描き上げた日から抱いていた不満は消えることはない。
何かが足らない気がしているのだ。
それが何なのかはわからない。
背景まで拘って細かい書き込みをしている。草の葉一つ一つや鳥たちの動き、羽の細部にまで拘ったつもりである。
それでもこの胸に残る隙間は埋められなかった。
キサさんならわかるのだろうか。
ふと、僕はあの人から芸術に関することはほとんど教えられていないことに気づく。
ポケットからスマホを取り出して意見を聞こうと思ったけれど、すぐに思い直してポケットにしまった。こんなことを気軽に聞いて良い相手ではないし、僕は弟子にしてもらうことを断られている。
「こんなところにいたのか」
「大河か。体育館にいなくて良いのか?」
現在は完成の祝賀会が体育館で開かれており、裕司さんの店から提供された飲み物やお菓子で大いに盛り上がっていた。
「いなくちゃいけないのは朱鳥の方だろ」
「僕はああいうのは苦手だから」
一応、最初のあいさつだけは済ませてある。
それだけで、見ず知らずの生徒から声をかけられたり、スマホで写真を取られたりですっかり疲れてしまった。
「あっという間にここまで来ちまったな」
大河は校庭に敷かれた貼り絵を眺めて呟く。
「そうだね。まさかこんなことになるなんて思わなかったよ」
「それもあの人の影響なのか?」
「まさか大河も噂を信じているの?」
「全部が噂通りとは思っていないけど、半分くらいは当たっているんだろう」
当たらずも遠からずではあるけれども素直に答えたくはなかった。
「それより、あの絵どう思う?」
うまく話を逸らすために感想を聞いてみる。
「どうって……良いんじゃないか?」
「普通ってことだよな」
こちらの指摘が正しかったようで黙ってしまう。嘘をつけない大河のそういうところは美徳である。
「気にしなくて良いよ。僕もそう思っているから」
これが巨大な貼り絵ではなかったら、普通の作品だろう。今さら遅いけれど、もっと何か出来たような気がしてならない。これも僕が逃げ続けていたことの結果なのだ。
もっと早くから向き合っていれば、訂正の機会はいくらでもあった。
「ああ、こんなところにいた」
唯織が教室の入り口でひょっこり顔を出す。
「唯織まで抜け出して来たの?」
「私だけじゃないよ」
唯織の手招きで中に入ってきたのは館山だった。
「館山?」
「朱鳥は何処だってうるさいから一緒に探してたの。朱鳥のこと好きすぎでしょう」
「そういうことは本人のいねとこで言えよ」
「本人がいなきゃ良いんだ」
「別に聞こえてなけりゃ問題ねえだろ。文句あんのか」
相変わらず口は悪いけれど、表情はだいぶ和らいだように思える。最近は一部のせクラスメイトとも打ち解けはじめている。
「図らずとも四人そろったな」
「懐かしいね」
絵画教室に通っていた頃はよく四人で集まっていた。
「そうか? 俺は別に」
「正直になりなさいよ」
「うるせえな、お前はもう帰れ」
「はあ? 誰のおかげで朱鳥に会えたと思ってるのよ」
「おいおい、喧嘩はよせって」
それまで静かだった教室が急に賑わいだす。あの頃もそうだった。唯織と館山が頻繁に衝突して大河がなだめる。それを僕が少し離れた場所で見ている。
「ところで、館山は僕に用があったんじゃないの?」
「そうだった。こいつの相手する意味なかったわ」
「なにその言い方。もう絶対に助けてやんない」
唯織は歯を見せて不満の表情を向ける。本気で思っているわけではないだろう。
「まあ、そう言わずに仲良くやろうぜ」
「え? 大河は館山の味方なわけ?」
「みんなの味方じゃダメか?」
「優柔不断!」
唯織の怒りが大河に飛び火していたが放っておこう。僕にも飛び火しかねないし、大河なら容易く鎮火させるだろう。
館山は窓際に歩いて行き、貼り絵を見下ろす。
「昔描いた絵のことは覚えてるか?」
「覚えているよ」
何度も忘れようとした。忘れようとしてその絵は記憶の中で色褪せて行ったけれど、構図はいまでも思い出せる。鳥がこの町を見下ろしている風景。ちょうど、学校の屋上から見たようなそれに似ている。実際はもっと高所からだが。
「そうか……それならいい」
何か言おうとして館山は口を噤む。
「普通だよね。この作品」
「そうだな。普通だ。普通に上手い」
けどそれだけだ。と言葉の後には続くのだろう。全てを言いきらないけれど何が言いたいのかは伝わる。
「やっぱり僕には」
「おい、あそこ!」
才能がない。と言おうとしたけれど、その言葉は大河の大きな声に驚いて飲み込んでしまった。
「誰かいるね」
「あれって先輩じゃ」
校庭に人の影があるが、髪の色からすぐに誰かわかった。キサさんにバイクを爆破されてから大人しくなっていたリーダー格の先輩。左手にスチールの缶を持ち、右手に何かを握っている。暗いうえに遠いので何を持っているのかわからないが嫌な予感がした。
「まさかあいつ!」
真っ先に行動を越したのは大河だった。
鉄砲玉のように教室を飛び出して校庭へ向かう。僕らもその後に続いた。
靴に履き替えることもせずに校庭へ急ぐ。
「なにやってんだ!」
「うるせえ。はなせ!」
大河ともみ合っていた先輩は手にしていた火のついたマッチを貼り絵に向かって投げる。
次の瞬間には這うような火が起こり、火は腹を空かせた怪物のように貼り絵を飲み込んでいく。
「うそっ」
唯織は目の前の惨劇に立ち尽くしていた。
「犯罪者の息子が作った作品なんて見たくもねえ」
先輩は大河に押さえつけられたまま笑い混じりに喚いていた。
もうどうしようもない。何も手にしていない僕らに炎を消す術はなかった。このまま炎にのまれて灰となるのを見ているしかない。穏やかだった心に再び暗澹とした感情が芽生え始める。
「どけ」
火が炎になるのを茫然と眺めている僕らをどかして、館山は消火器で消火剤を散布する。白い粉のようなものが火にかかり勢いは弱まるが、完全に消し切れていない。
「何が犯罪者の息子だ。勝手なこと言いやがって」
「大河! そんなやつ放っておけ!」
馬乗りになった大河は石のような拳を先輩に容赦なく振り下ろす。
傍で冷静さを失っている人間を見ると意外と正気に戻れるもので僕は館山が用意した消火器の安全ピンを抜いて駆け寄る。
「大河はダメだ。僕が手伝うよ」
「わかった」
風上に立ち火の根元に向かって消火剤をかける。2本での消化が功を制したのか、それとも火の手が上がってから比較的にすぐであったことが幸いしたのか、火の勢いは弱まっていき、最終的に抑え込むことになんとか成功する。
大きな火災にはならずとりあえず安堵する。
それでも貼り絵の左下部分が焼けてしまう。
まるで巨大な手で千切られたような姿になってしまった。
「みんなで作った作品台無しにしやがって! 何が楽しい!」
「大河! もうやめろ!」
冷静さを失った大河はまさに野生の熊のようにのしかかって一方的に殴り続けている。先輩の方はとっくに気を失って泡を吹いていた。
今さら、大河が熊と呼ばれた本当の理由を思い出してしまう。背が大きいとか、大らかだとか、ではない。大河はキレると誰にも手がつけられなくなるのだ。
「いい加減にしなさいよ!」
バケツを持った唯織が本来なら消化のために用意した水を大河の頭に向かって思い切りかける。
「そんな奴殴っても意味ないじゃない」
「わかってる。でも、許せないんだ。普通、壊して良いものと、悪いものの区別くらい出来るだろう。壊れちまったら……元には戻せないじゃないか」
怒り狂っていた大河は今度はぼろぼろと涙を流し始めた。
「もう。大きな男が泣かないでよ」
みっともなく泣き顔を見せる大河の頭を叩いて、沈痛な面持ちで視線を足元に向ける。
壊して良いものと悪いもの。
僕がこれから破壊しようとしているものはどちらであろうか。焼け野原になった町で大河は再び泣くのだろうか。それとも僕に対して怒りをあらわにするのだろうか。
「聞いてんのか?」
ぼうっと考えていると館山に肩を叩かれる。
「ごめん。聞いてなかった」
「直せそうか」
焼けてしまった個所は錆びた看板や、倒れて錆びた信号機、壁に穴のあいた古民家など、古く朽ちた物を描いた場所だ。
今は完全に焼け落ちてしまっている。
『お前のこんな絵は認めない』
誰かにそう言われているような気分だった。
自分でもそう思っていた。
何か違うと。こんなものでは僕は認めてもらえないと。
何かが足りない。それを教えてくれる人は僕の傍にはもういない。
考えている時間的余裕はない。
こんなことならキサさんがしたようにいろんな色で塗りつぶして……
「そうか……」
目の前の作品が色を失っていき、やがて違う色に塗りつぶされていく。
「そうだったのか」
忘れようとして本当に忘れてしまっていた。
自分の才能は描くことではない。
「このままにしよう」
「は? お前何を」
館山は理解できないと言いたげに僕を睨む。
焼けてしまった部分を見て人々は何を思うのだろう。それは各々によって違う。
見る人の解釈によってこの作品は完成する。
今回は時間がないから、そうせざるを得ない。自分の目には全く違う色に塗られた作品を前に悔しさが込み上げてくる。
「これで良いんだ」
「まあお前がそれで良いって言うなら俺は良い」
「私も朱鳥がいいなら反対する気はない」
「俺も」
「じゃあ、みんなを説得するのを伝だってくれる?」
騒ぎを聞いて多くの生徒達が駆けつけてくるのが見える。僕一人ではあの数の生徒を説得する方法が思いつかない。
「しょうがない。やるわよ」
「俺は断る。こいつを駐在につきだす必要があるからな」
「逃げんな」
「逃げてねえよ。俺がいたら皆が委縮するだろうが。で、大河はどうする。一緒に行くか?」
「行く」
鼻声の大河はのそりと立ち上がると先輩を軽々担ぎあげる。
その後の説得にはかなり難儀した。苦労して作った作品が壊されたのだ、感情的になっている生徒もいたし、泣きだす生徒もいた。それでも説得することができたのは、唯織の人望もあってだろう。本当に納得がいっている人数は半数もないと思う。
もちろん、その後に祝賀会の続きなんて出来るわけもなく、その日はその場でお開きなる。
僕らも戸締りをしてから学校を後にした。
長かったような短かったような一日が終わって行く。夜が明ければ、予餞会当日であり計画実行の日でもある。
あんな事があったからなのか僕たちの足取りは重く、話しだす機会も失っていた。
結局何も話さないままに、別れ道のとこまで来てしまう。
「朱鳥は本当にあれで良かったって思ってる?」
「ごめん」
僕の告白に唯織は安堵ともとれるため息を漏らす。
「でも、手抜きをしたわけじゃないんだ。直さなかったのは本当にそっちの方が良いと思ったからで」
「わかってる。私も何となくだけど直さない方がいいと思ったし。朱鳥が納得していないのは別の事でしょ?」
「どうしてわかるの?」
「わかるよ。幼馴染だもん。それに私は朱鳥の作品のファンだから」
吹っ切れたように笑顔を見せる。それでも、口の端は悔しそうに強く結ばれていた。
「ごめん。うまくできなくて」
「いいよ。私は朱鳥がもう一度、向き合ってくれただけで嬉しいから。それじゃあまた明日、おやすみ」
「おやすみ」
別れの言葉を言ってそれぞれの道に歩き始める。
これは僕が逃げ続けていた報いだ。芽生えた悔しさは誰の所為にもできない。
だからもう一つ、今度は間違えない為にやらなきゃいけないことがある。
僕は唯織が見えなくなったのを確認してからポケットにしまっていたスマホを取り出す。
『話があります。会えませんか?』
決心が鈍る前に送信ボタンを押す。
僕は確かめなくてはならない。この計画の本当の意味を。
僕らが仕掛けていた爆弾が何を壊そうとしているのか。
かつては芸術の町と言われていただけあって、その子供たちにも制作の精神が受け継がれていた。唯織の指示を皆が共有して理解し、手が足らない場所にはすかさず手伝いに向かう。大人たちも直接制作にかかわることはできないが、差し入れの提供や帰りの遅くなった生徒の送迎など出来ることをしてくれた。
外部の人間を拒絶しやすい住人は、内部の結束はかなり強固なものだと改めて思い知らされた。
後は一枚一枚のベニヤ板を繋ぎ合わせて組んだ足場に固定するだけ。危険を伴うこの作業はだけは町の大人たちが担うことになっている。
「こんなにあっさり出来てしまうなんて」
完成した巨大貼り得を前にして呟く。最終確認のために校庭で繋げられた絵は下絵の通りに描かれていた。校舎の二階から眺める、校庭に敷かれた貼り絵は特別にライトで照らされている。地上絵のように圧巻の大きさである。これが明日には壁画のように校舎の壁に飾られるのだから、さぞかし圧倒されることだろう。
ただ、下絵を描き上げた日から抱いていた不満は消えることはない。
何かが足らない気がしているのだ。
それが何なのかはわからない。
背景まで拘って細かい書き込みをしている。草の葉一つ一つや鳥たちの動き、羽の細部にまで拘ったつもりである。
それでもこの胸に残る隙間は埋められなかった。
キサさんならわかるのだろうか。
ふと、僕はあの人から芸術に関することはほとんど教えられていないことに気づく。
ポケットからスマホを取り出して意見を聞こうと思ったけれど、すぐに思い直してポケットにしまった。こんなことを気軽に聞いて良い相手ではないし、僕は弟子にしてもらうことを断られている。
「こんなところにいたのか」
「大河か。体育館にいなくて良いのか?」
現在は完成の祝賀会が体育館で開かれており、裕司さんの店から提供された飲み物やお菓子で大いに盛り上がっていた。
「いなくちゃいけないのは朱鳥の方だろ」
「僕はああいうのは苦手だから」
一応、最初のあいさつだけは済ませてある。
それだけで、見ず知らずの生徒から声をかけられたり、スマホで写真を取られたりですっかり疲れてしまった。
「あっという間にここまで来ちまったな」
大河は校庭に敷かれた貼り絵を眺めて呟く。
「そうだね。まさかこんなことになるなんて思わなかったよ」
「それもあの人の影響なのか?」
「まさか大河も噂を信じているの?」
「全部が噂通りとは思っていないけど、半分くらいは当たっているんだろう」
当たらずも遠からずではあるけれども素直に答えたくはなかった。
「それより、あの絵どう思う?」
うまく話を逸らすために感想を聞いてみる。
「どうって……良いんじゃないか?」
「普通ってことだよな」
こちらの指摘が正しかったようで黙ってしまう。嘘をつけない大河のそういうところは美徳である。
「気にしなくて良いよ。僕もそう思っているから」
これが巨大な貼り絵ではなかったら、普通の作品だろう。今さら遅いけれど、もっと何か出来たような気がしてならない。これも僕が逃げ続けていたことの結果なのだ。
もっと早くから向き合っていれば、訂正の機会はいくらでもあった。
「ああ、こんなところにいた」
唯織が教室の入り口でひょっこり顔を出す。
「唯織まで抜け出して来たの?」
「私だけじゃないよ」
唯織の手招きで中に入ってきたのは館山だった。
「館山?」
「朱鳥は何処だってうるさいから一緒に探してたの。朱鳥のこと好きすぎでしょう」
「そういうことは本人のいねとこで言えよ」
「本人がいなきゃ良いんだ」
「別に聞こえてなけりゃ問題ねえだろ。文句あんのか」
相変わらず口は悪いけれど、表情はだいぶ和らいだように思える。最近は一部のせクラスメイトとも打ち解けはじめている。
「図らずとも四人そろったな」
「懐かしいね」
絵画教室に通っていた頃はよく四人で集まっていた。
「そうか? 俺は別に」
「正直になりなさいよ」
「うるせえな、お前はもう帰れ」
「はあ? 誰のおかげで朱鳥に会えたと思ってるのよ」
「おいおい、喧嘩はよせって」
それまで静かだった教室が急に賑わいだす。あの頃もそうだった。唯織と館山が頻繁に衝突して大河がなだめる。それを僕が少し離れた場所で見ている。
「ところで、館山は僕に用があったんじゃないの?」
「そうだった。こいつの相手する意味なかったわ」
「なにその言い方。もう絶対に助けてやんない」
唯織は歯を見せて不満の表情を向ける。本気で思っているわけではないだろう。
「まあ、そう言わずに仲良くやろうぜ」
「え? 大河は館山の味方なわけ?」
「みんなの味方じゃダメか?」
「優柔不断!」
唯織の怒りが大河に飛び火していたが放っておこう。僕にも飛び火しかねないし、大河なら容易く鎮火させるだろう。
館山は窓際に歩いて行き、貼り絵を見下ろす。
「昔描いた絵のことは覚えてるか?」
「覚えているよ」
何度も忘れようとした。忘れようとしてその絵は記憶の中で色褪せて行ったけれど、構図はいまでも思い出せる。鳥がこの町を見下ろしている風景。ちょうど、学校の屋上から見たようなそれに似ている。実際はもっと高所からだが。
「そうか……それならいい」
何か言おうとして館山は口を噤む。
「普通だよね。この作品」
「そうだな。普通だ。普通に上手い」
けどそれだけだ。と言葉の後には続くのだろう。全てを言いきらないけれど何が言いたいのかは伝わる。
「やっぱり僕には」
「おい、あそこ!」
才能がない。と言おうとしたけれど、その言葉は大河の大きな声に驚いて飲み込んでしまった。
「誰かいるね」
「あれって先輩じゃ」
校庭に人の影があるが、髪の色からすぐに誰かわかった。キサさんにバイクを爆破されてから大人しくなっていたリーダー格の先輩。左手にスチールの缶を持ち、右手に何かを握っている。暗いうえに遠いので何を持っているのかわからないが嫌な予感がした。
「まさかあいつ!」
真っ先に行動を越したのは大河だった。
鉄砲玉のように教室を飛び出して校庭へ向かう。僕らもその後に続いた。
靴に履き替えることもせずに校庭へ急ぐ。
「なにやってんだ!」
「うるせえ。はなせ!」
大河ともみ合っていた先輩は手にしていた火のついたマッチを貼り絵に向かって投げる。
次の瞬間には這うような火が起こり、火は腹を空かせた怪物のように貼り絵を飲み込んでいく。
「うそっ」
唯織は目の前の惨劇に立ち尽くしていた。
「犯罪者の息子が作った作品なんて見たくもねえ」
先輩は大河に押さえつけられたまま笑い混じりに喚いていた。
もうどうしようもない。何も手にしていない僕らに炎を消す術はなかった。このまま炎にのまれて灰となるのを見ているしかない。穏やかだった心に再び暗澹とした感情が芽生え始める。
「どけ」
火が炎になるのを茫然と眺めている僕らをどかして、館山は消火器で消火剤を散布する。白い粉のようなものが火にかかり勢いは弱まるが、完全に消し切れていない。
「何が犯罪者の息子だ。勝手なこと言いやがって」
「大河! そんなやつ放っておけ!」
馬乗りになった大河は石のような拳を先輩に容赦なく振り下ろす。
傍で冷静さを失っている人間を見ると意外と正気に戻れるもので僕は館山が用意した消火器の安全ピンを抜いて駆け寄る。
「大河はダメだ。僕が手伝うよ」
「わかった」
風上に立ち火の根元に向かって消火剤をかける。2本での消化が功を制したのか、それとも火の手が上がってから比較的にすぐであったことが幸いしたのか、火の勢いは弱まっていき、最終的に抑え込むことになんとか成功する。
大きな火災にはならずとりあえず安堵する。
それでも貼り絵の左下部分が焼けてしまう。
まるで巨大な手で千切られたような姿になってしまった。
「みんなで作った作品台無しにしやがって! 何が楽しい!」
「大河! もうやめろ!」
冷静さを失った大河はまさに野生の熊のようにのしかかって一方的に殴り続けている。先輩の方はとっくに気を失って泡を吹いていた。
今さら、大河が熊と呼ばれた本当の理由を思い出してしまう。背が大きいとか、大らかだとか、ではない。大河はキレると誰にも手がつけられなくなるのだ。
「いい加減にしなさいよ!」
バケツを持った唯織が本来なら消化のために用意した水を大河の頭に向かって思い切りかける。
「そんな奴殴っても意味ないじゃない」
「わかってる。でも、許せないんだ。普通、壊して良いものと、悪いものの区別くらい出来るだろう。壊れちまったら……元には戻せないじゃないか」
怒り狂っていた大河は今度はぼろぼろと涙を流し始めた。
「もう。大きな男が泣かないでよ」
みっともなく泣き顔を見せる大河の頭を叩いて、沈痛な面持ちで視線を足元に向ける。
壊して良いものと悪いもの。
僕がこれから破壊しようとしているものはどちらであろうか。焼け野原になった町で大河は再び泣くのだろうか。それとも僕に対して怒りをあらわにするのだろうか。
「聞いてんのか?」
ぼうっと考えていると館山に肩を叩かれる。
「ごめん。聞いてなかった」
「直せそうか」
焼けてしまった個所は錆びた看板や、倒れて錆びた信号機、壁に穴のあいた古民家など、古く朽ちた物を描いた場所だ。
今は完全に焼け落ちてしまっている。
『お前のこんな絵は認めない』
誰かにそう言われているような気分だった。
自分でもそう思っていた。
何か違うと。こんなものでは僕は認めてもらえないと。
何かが足りない。それを教えてくれる人は僕の傍にはもういない。
考えている時間的余裕はない。
こんなことならキサさんがしたようにいろんな色で塗りつぶして……
「そうか……」
目の前の作品が色を失っていき、やがて違う色に塗りつぶされていく。
「そうだったのか」
忘れようとして本当に忘れてしまっていた。
自分の才能は描くことではない。
「このままにしよう」
「は? お前何を」
館山は理解できないと言いたげに僕を睨む。
焼けてしまった部分を見て人々は何を思うのだろう。それは各々によって違う。
見る人の解釈によってこの作品は完成する。
今回は時間がないから、そうせざるを得ない。自分の目には全く違う色に塗られた作品を前に悔しさが込み上げてくる。
「これで良いんだ」
「まあお前がそれで良いって言うなら俺は良い」
「私も朱鳥がいいなら反対する気はない」
「俺も」
「じゃあ、みんなを説得するのを伝だってくれる?」
騒ぎを聞いて多くの生徒達が駆けつけてくるのが見える。僕一人ではあの数の生徒を説得する方法が思いつかない。
「しょうがない。やるわよ」
「俺は断る。こいつを駐在につきだす必要があるからな」
「逃げんな」
「逃げてねえよ。俺がいたら皆が委縮するだろうが。で、大河はどうする。一緒に行くか?」
「行く」
鼻声の大河はのそりと立ち上がると先輩を軽々担ぎあげる。
その後の説得にはかなり難儀した。苦労して作った作品が壊されたのだ、感情的になっている生徒もいたし、泣きだす生徒もいた。それでも説得することができたのは、唯織の人望もあってだろう。本当に納得がいっている人数は半数もないと思う。
もちろん、その後に祝賀会の続きなんて出来るわけもなく、その日はその場でお開きなる。
僕らも戸締りをしてから学校を後にした。
長かったような短かったような一日が終わって行く。夜が明ければ、予餞会当日であり計画実行の日でもある。
あんな事があったからなのか僕たちの足取りは重く、話しだす機会も失っていた。
結局何も話さないままに、別れ道のとこまで来てしまう。
「朱鳥は本当にあれで良かったって思ってる?」
「ごめん」
僕の告白に唯織は安堵ともとれるため息を漏らす。
「でも、手抜きをしたわけじゃないんだ。直さなかったのは本当にそっちの方が良いと思ったからで」
「わかってる。私も何となくだけど直さない方がいいと思ったし。朱鳥が納得していないのは別の事でしょ?」
「どうしてわかるの?」
「わかるよ。幼馴染だもん。それに私は朱鳥の作品のファンだから」
吹っ切れたように笑顔を見せる。それでも、口の端は悔しそうに強く結ばれていた。
「ごめん。うまくできなくて」
「いいよ。私は朱鳥がもう一度、向き合ってくれただけで嬉しいから。それじゃあまた明日、おやすみ」
「おやすみ」
別れの言葉を言ってそれぞれの道に歩き始める。
これは僕が逃げ続けていた報いだ。芽生えた悔しさは誰の所為にもできない。
だからもう一つ、今度は間違えない為にやらなきゃいけないことがある。
僕は唯織が見えなくなったのを確認してからポケットにしまっていたスマホを取り出す。
『話があります。会えませんか?』
決心が鈍る前に送信ボタンを押す。
僕は確かめなくてはならない。この計画の本当の意味を。
僕らが仕掛けていた爆弾が何を壊そうとしているのか。