放課後に唯織に謝ろうと考えていたのだが、タイミング悪く教師に呼び出されてしまい解放された時には唯織の姿はなかった。

 誰もいなくなった教室で渡されたプリントを広げる。

『進路希望調査』

 僕は全ての希望欄に就職と書いたが、教師からはもう少し考えてから提出するようにと言われてしまった。

 考える事なんてないと言っても本当にそれがやりたいことなのかと返され何もいなかった自分が腹立たしい。どんな希望をもったところで僕にこれ以外の選択肢があるわけがないのに。

「画家になれるなら……」

 悪態をついた後で後ろに誰かの気配を感じて思わず振り返る。

「あ、朱鳥?」

 唯織だった。僕の事を待っていたのだろう。そんなことしないで大河と一緒に帰れば良いのに。それより今のこと聞かれただろうか。焦りが身体を駆け巡り思考が安定しない。

「ごめん」
「え? ちょっと!」

 結局、僕は逃げ出すように学校を後にした。

 全速力で走ればすぐに足が悲鳴を上げるが構わずに走った。止まってしまったら得体の知れない何かに捕まってしまうような恐怖があった。疲労でふらふらになり殆ど歩いているのと変わらなくなると、次第に幻聴が聞こえてくる。

「お前なら立派な画家になれるぞ」

 無理だ。

「天才だ。将来は有名人だな」

 やめてくれ。

「お父さんは朱鳥の様な子を持てて幸せだ」

 僕は立派な子なんかじゃないから。

 ようやく自宅に辿り着いて二階の自室に向かうと、毛布を頭から被り外からの音や匂いを遮断する。

 父の言葉が今でも呪詛のように僕を苦しめる。

 荒くなった呼吸が落ち着くと毛布から顔を出して天井を見上げる。湿った畳から香るカビの匂いや、外で鳴いている烏の声が身体に浸透するように入って来る。

 起き上がって椅子に座り大きく息を吐きだす。

 父が買ってくれた小学生用の図鑑がずらりと並ぶ本棚。捨てるタイミングを失って今もそのままになっている。

 机に向かうと鞄から進路調査票を取り出して裏返す。西日が射し込む窓から回らない風車。それを僕は頭の中で破壊する。骨組みだけになったそれが自然豊かな森の中で腐り落ちるのを待つ。

 叩きつけるように裏紙に鉛筆を走らせる。

 あれを建てたのは父だ。僕が小学生になる頃、過疎の進むこの町をなんとかするために僕らは引っ越してきた。父は腰の重い住人たちを一人一人説得して風力発電兼観光事業の計画を立てた。これが成功すれば父は町の英雄として称えられていただろう。

 だが結果はその逆である。

 風車が完成間近となった頃、町の人たちは手のひらを返したように父を町の自然を壊すよそ者と罵るようになり計画には反対、その状況を鑑みた観光協会も資金の提供を停止してしまった。銀行からの借入もできず計画は頓挫した。
 出資した人からは詐欺師のような扱いをされ、僕ら家族は小さなこの町で孤立した。

 ついに父は耐えきれなくなり逃げるようにこの町を出ていき、それ以降僕らにも連絡をよこさない。残ったのは出資者への借金と虚しさだけだ。
捨てられた僕らを同情する人たちもいたが、こうなったのは全て僕の責任である。

 僕が絵なんて描かなければこんなことにはならなかった。

 僕は引っ越してきて直ぐにあのアトリエに連れていかれた。絵を描くことは好きだったしそこで開かれている絵画教室に通うことに抵抗はなかった。その絵画教室は子供の習い事としてこの町に根付いており、唯織や大河、館山とはそこで出会った。子供の他にも大人も通っていたのを覚えている。この町の集会所の様な役割も果たしていたのだと思う。

 そこですぐに才能を見出された僕は全国のコンクールで金賞を獲得してしまった。当時は取材やテレビも僕目当てに来たりもした。それが引き金だったのだと思う。外から人が来ることをよく思わない住民たちは僕ら家族を疎ましく思い始め、さらに絵画教室には生徒たちがあまり来なくなってしまった。

「お前の絵を見てたら絵を描くのが嫌になったよ」

 誰に言われたか忘れたが、その言葉が今も耳の奥にこびりついている。

 父の計画に住人が反対しだしのはそれからだ。

 僕が目立つような真似をしなければ館山の父親から罪をなすりつけられるような事態にならなかったかもしれない。

 玄関が乱暴に閉められる音で目を覚ます。いつの間にか眠っていたようで、西日が射し込んでいた部屋は暗闇に包まれていた。時計の指す時刻を見て血の気が引く。時計の針は十二時を過ぎていた。

 急いで一階に降りるが遅かった。

「あんた何してたの?」

 用意されていない食事に気づいた母は苛立ちを隠すことなく僕を睨み付ける。

 呂律の回っていないところを見るに今日は相当飲んできたのだろう。幸せだったころの母の面影は何処にもなく自然と目を逸らしてしまう。

「ごめん。今すぐ用意するから」

 目を合わせないように脇を通り過ぎようとして腕を掴まれる。

「なんだい! その態度は!」

 ハッとした時には頬を殴られていた。防御する姿勢もとれていなかったのでそのまま尻を付いて倒れてしまう。

 今日は相当酔っているらしい。かなり酒臭い。それに力加減も出来ていないようで口の中に鉄の様な味が広がる。

「誰のおかげでここまで生きてこられたと思ってるのさ。やることやれないならさっさと出て行きな」

 母はあの事件以降、変わってしまった。温厚で笑顔の似合う母はもうどこにもいない。

 今でこそ町の人たちは普通に接してくれるが、父が失踪した挙句、村八分の様な扱いをされたのだ。こうなってしまっても無理はない。だから僕は母を恨んでないし、怒りも覚えていない。

「その辺にして。暴力はいけないよ」
「も~、裕司(ゆうじ)さんは甘すぎるのよ~」

四十代くらいの男性に母は猫なで声で僕に見せたことの無いような表情で縋る。

「朱鳥くんも疲れてたんだよ」
「そう言うなら~仕方ないね」

 働いているスナックの常連であるこの人と母は一年位前から半同棲の様な暮らしをしている。

「今日は飲み過ぎだね。水を持っていくから居間で待ってて」
「わかった~」

 千鳥足で居間に向かう母は未だに立ち上がらない僕を見下ろして、

「あんたも連れて行ってもらえば良かった」

 止めの一撃に等しい一言を残していった。それを言われてしまったら僕はもう何もできなくなる。

「ごめんね。少し飲ませすぎてしまった。今度からは気を付けるから」

 差し出された手を握ることなく一人で立ち上がる。

「いいえ。家事全般を任されているのに何もしてなかった僕がいけないので」

 笑おうとしたがうまく笑えない。

 冷蔵庫から母専用のミネラルウォーターを取り出してコップへ注ぐ。手元が震えて少し零してしまった。こんなところを見られていたらまた殴られていたことだろう。

「後はやっておくから朱鳥君は部屋に戻って良いよ」
「ありがとうございます。でもお風呂を沸かさないといけないので」
「そうか……無理はしないでね」
「ありがとうございます」

 コップを裕司さんに渡して浴室に向かう。

 居間からは母の喜ぶ声が漏れ聞こえて来る。おそらく裕司さんと母は近いうちに再婚するだろう。裕司さんは悪い人ではないし母を大切に想ってくれているので、僕としてもそれは喜ばしい事だ。だが、そこに僕の居場所は無い。裕司さんは僕の事も大切にしようとするが母はそれに関して良い顔をしない。いつまでも僕がいたら二人の関係が悪くなってしまう。

 お湯が溜まるのを待ちながら浴室の鏡に映る自分を見つめる。

 唇も切ったみたいで血が出ている。舐めると思わず顔を歪ませてしまう程の痛みが走った。

 唯織や大河への言い訳はどうしよう。

 顔を殴られたのは久しぶりだった。父が出て行ってすぐ以来だ。よほど衝動的な行動だったのだろう。普段は他人に見られ難いところを殴っているのに。

 父が出て行き精神的に不安定になった母はストレスを僕に向けるようになった。崩壊のきっかけを作った僕に抵抗する権利はないと思ったし、それで母の気が治まるならば良いとさえ思っていた。

 いつか僕の罪が許されて母も父も戻って来て今までの幸せな家族になれる。淡い希望に縋っていた時期もあった。

「あの人に似てるあんたを愛せるわけがない」

 今日みたいに酒に酔った母が何気ない一言のように呟いた言葉がその希望を打ち消した。母が僕に、父に対する怒りをぶつけていたことは薄々わかっていた。だからやっぱりそうか。と簡単に受け入れられたし、その日から僕が何かに期待することも無くなった。

「このままこの町で死んでいくんだろうか」

 溜まっていくお湯に映る歪んだ自分の顔を見ながら呟く。もちろん応えなんて帰って来ない。

 お湯を止めて蓋を閉めると、誰にも気づかれないように僕は家を出た。