アトリエに着くと息をつく暇もなくスケッチブックに鉛筆を走らせる。
ものの十分で一枚目が完成する。いつもと何も変わらず、破壊の限りを尽くした。
「ちがうな」
そのスケッチをスケッチブックから切り離すと。すぐに次に取りかかる。瞼の裏には次の絵が完成している。それをただなぞるだけでよかった。
「ちがう」
二枚目も同じように切り離す。
キサさんはその間、何も言わずに僕を見守っていた。
その後も何度も何度も時間を忘れて同じことを繰り返す。やっていることは今までと変わらない。しかしそこに破壊という感情はあまりなかった。ただ浮かんでくるものを念写するように描いていく。それは湧き出てくる濁った水を入れ替えるような作業であった。
次第に湧いていたイメージが枯渇し始め底が見えてくる。
そこで初めて鉛筆を下した。
「限界?」
何も言わずじっとこちらを見ていたキサさんはすかさず声をかけてくる。
「いや……まだ」
何かがつかめそうな気がする。そこに溜まったヘドロのようなイメージを昇華していく。
小学生が描いたような拙い絵が脳裏に浮かぶ。
公園、砂場に築かれた城、遊具達の大名行列、向かう先は荒廃した田舎町。
構図やサイズ、テーマ全てが散乱した絵が出来上がっていく。
精神がおかしくなったのではと疑いたくなるが、僕はまだはっきりと正気を保っている。
イメージのヘドロをすべて描きだすように鉛筆を紙に押し当てる。しかし、僕の意思とは反対に右手から鉛筆がこぼれた。
虚し音をたてて床に転がる鉛筆を目で追う。鉛筆はキサさんの足元まで転がり、足先にこつんと当たって止まった。
「休憩しようか」
気持ちではまだ描き足りないけれど、何時間も鉛筆を握り続けた右手は限界で悲鳴を上げていた。指が突っ張り空気すら握れそうにない。
「これ飲む?」
「白湯ですか?」
「今は余計なイメージはいらないでしょ」
「そうですね」
イメージが枯渇した今の状態でコーヒーや紅茶など、香りの強い物を渡されるとそれがイメージに残ってしまう。それではせっかく殻にした意味がない。
キサさんが用意してくれた白湯で冷えた身体を温める。アトリエに暖房器具は用意されておらず、冬の気配漂うこの時期の夜は室内でも寒い。
「寒かったらコートを貸すよ」
「それこそ台無しですよ」
「私の匂いがそんなに好きか」
「好きですよ。落ち着きますから」
「ほんと、こういうことは素直になるね」
キサさんは僕から少し離れて座って、床に散らばったスケッチを眺める。床のほとんどをスケッチが埋めている。
「しかしまあ、好き放題に散らかしてくれたね」
「そう……ですね」
本能のままに描いたスケッチは床を埋め尽くして足の踏み場がない。
「僕の本能は破壊衝動なんでしょうか」
自虐的に言ってみる。あのスケッチされた絵が僕の本能ならばその通りだろう。
「朱鳥は私に憧れていたんでしょ」
「まあ……そうですね」
「それならこれはただの真似事だね」
キサさんは手にしていた一枚を指で弾く。弾かれた紙は不規則な軌道を描いて床へと落ちていった。
キサさんの言う通り僕の中での破壊は表層のイメージだ。
「憧れて真似することも大事だけれど、朱鳥はもう自分の色を持っているはずだよ」
キサさんは今度は適当な一枚を拾って何かを折り始める。
「なにしてるんですか?」
「見ての通りだよ。出来損ないイメージはどこかへ飛ばしてしまえば良いよ」
適当なことを言って折り上げた紙飛行機を投げる。紙飛行機は円を描くようにアトリエの中を旋回して床に落ちていく。
いままでずっと避けてきたイメージがヘドロのようなイメージの中から滲み出てくる。
「白い渡り鳥」
ヘドロから飛び出した白い渡り鳥は僕を翻弄するように脳内を旋回する。
破壊でもない、混沌でもない、新しいイメージが見える。
けれど、僕にそれが描けるだろうか。
白い渡り鳥はトラウマの象徴だ。あの時と同じ轍を踏むのではないのかという恐怖が重くのしかかってくる。
「違う。そうじゃない」
否定する自分に語りかける。
誰がどう感じようが関係ない。周りを気にして制限をかけても良い作品には仕上がらない。思うがまま想像すれば良い。
湧き上がるイメージはピースを一つ一つ組み合わせるように完成されていく。
落ちていた鉛筆を拾って紙に線を引く。
引けた線は歪でミミズが張ったような拙い線だった。
握った右手が震えていうことを聞いてくれない。しかし、描くと決めたからにはどんなものでも描かなければならない。何度も、何度も、歪んだ線を描いてやり直す。
震えを抑え込もうとすればするほど震える。
どうすれば止まる。
どんな風に力を抜けば思ったとおりの線が引ける。
力を抜きすぎた右手が鉛筆を落としそうになった時、キサさんの手が添えられる。
「考える必要はない」
右手から伝わる温かさは全身に広がって行く。
「私を朱鳥の世界に連れて行って」
耳元でささやかれる声は荒んだ心を穏やかにしていく。
「わかりました」
今度は描きなれた絵のように留まることなく真っ直ぐな線を引く。
エスコートするように添えられた手を自分の世界に引き込んでいく。
丘に建つ朽ちた風車、そこを宿木にする鳥たち。飛び立つ者、戻ってくる者、その場にとどまる者。朽ちた風車からは新たな芽が風車の足元を覆い隠している。背景にはよくある田園風景や錆びだらけで穴の空いた看板、田舎には不釣り合いな最先端な建物。
今あるものと、今後あり得る物を織り交ぜていく。
「後は大丈夫だね」
「はい」
キサさんの添えられた手が離されても、ぬくもりがいつまでも感じられた。
スケッチに命を吹き込むように細かい書き込みをしていく。
完成するまでに夜明けを待つ必要はなかった。
ものの十分で一枚目が完成する。いつもと何も変わらず、破壊の限りを尽くした。
「ちがうな」
そのスケッチをスケッチブックから切り離すと。すぐに次に取りかかる。瞼の裏には次の絵が完成している。それをただなぞるだけでよかった。
「ちがう」
二枚目も同じように切り離す。
キサさんはその間、何も言わずに僕を見守っていた。
その後も何度も何度も時間を忘れて同じことを繰り返す。やっていることは今までと変わらない。しかしそこに破壊という感情はあまりなかった。ただ浮かんでくるものを念写するように描いていく。それは湧き出てくる濁った水を入れ替えるような作業であった。
次第に湧いていたイメージが枯渇し始め底が見えてくる。
そこで初めて鉛筆を下した。
「限界?」
何も言わずじっとこちらを見ていたキサさんはすかさず声をかけてくる。
「いや……まだ」
何かがつかめそうな気がする。そこに溜まったヘドロのようなイメージを昇華していく。
小学生が描いたような拙い絵が脳裏に浮かぶ。
公園、砂場に築かれた城、遊具達の大名行列、向かう先は荒廃した田舎町。
構図やサイズ、テーマ全てが散乱した絵が出来上がっていく。
精神がおかしくなったのではと疑いたくなるが、僕はまだはっきりと正気を保っている。
イメージのヘドロをすべて描きだすように鉛筆を紙に押し当てる。しかし、僕の意思とは反対に右手から鉛筆がこぼれた。
虚し音をたてて床に転がる鉛筆を目で追う。鉛筆はキサさんの足元まで転がり、足先にこつんと当たって止まった。
「休憩しようか」
気持ちではまだ描き足りないけれど、何時間も鉛筆を握り続けた右手は限界で悲鳴を上げていた。指が突っ張り空気すら握れそうにない。
「これ飲む?」
「白湯ですか?」
「今は余計なイメージはいらないでしょ」
「そうですね」
イメージが枯渇した今の状態でコーヒーや紅茶など、香りの強い物を渡されるとそれがイメージに残ってしまう。それではせっかく殻にした意味がない。
キサさんが用意してくれた白湯で冷えた身体を温める。アトリエに暖房器具は用意されておらず、冬の気配漂うこの時期の夜は室内でも寒い。
「寒かったらコートを貸すよ」
「それこそ台無しですよ」
「私の匂いがそんなに好きか」
「好きですよ。落ち着きますから」
「ほんと、こういうことは素直になるね」
キサさんは僕から少し離れて座って、床に散らばったスケッチを眺める。床のほとんどをスケッチが埋めている。
「しかしまあ、好き放題に散らかしてくれたね」
「そう……ですね」
本能のままに描いたスケッチは床を埋め尽くして足の踏み場がない。
「僕の本能は破壊衝動なんでしょうか」
自虐的に言ってみる。あのスケッチされた絵が僕の本能ならばその通りだろう。
「朱鳥は私に憧れていたんでしょ」
「まあ……そうですね」
「それならこれはただの真似事だね」
キサさんは手にしていた一枚を指で弾く。弾かれた紙は不規則な軌道を描いて床へと落ちていった。
キサさんの言う通り僕の中での破壊は表層のイメージだ。
「憧れて真似することも大事だけれど、朱鳥はもう自分の色を持っているはずだよ」
キサさんは今度は適当な一枚を拾って何かを折り始める。
「なにしてるんですか?」
「見ての通りだよ。出来損ないイメージはどこかへ飛ばしてしまえば良いよ」
適当なことを言って折り上げた紙飛行機を投げる。紙飛行機は円を描くようにアトリエの中を旋回して床に落ちていく。
いままでずっと避けてきたイメージがヘドロのようなイメージの中から滲み出てくる。
「白い渡り鳥」
ヘドロから飛び出した白い渡り鳥は僕を翻弄するように脳内を旋回する。
破壊でもない、混沌でもない、新しいイメージが見える。
けれど、僕にそれが描けるだろうか。
白い渡り鳥はトラウマの象徴だ。あの時と同じ轍を踏むのではないのかという恐怖が重くのしかかってくる。
「違う。そうじゃない」
否定する自分に語りかける。
誰がどう感じようが関係ない。周りを気にして制限をかけても良い作品には仕上がらない。思うがまま想像すれば良い。
湧き上がるイメージはピースを一つ一つ組み合わせるように完成されていく。
落ちていた鉛筆を拾って紙に線を引く。
引けた線は歪でミミズが張ったような拙い線だった。
握った右手が震えていうことを聞いてくれない。しかし、描くと決めたからにはどんなものでも描かなければならない。何度も、何度も、歪んだ線を描いてやり直す。
震えを抑え込もうとすればするほど震える。
どうすれば止まる。
どんな風に力を抜けば思ったとおりの線が引ける。
力を抜きすぎた右手が鉛筆を落としそうになった時、キサさんの手が添えられる。
「考える必要はない」
右手から伝わる温かさは全身に広がって行く。
「私を朱鳥の世界に連れて行って」
耳元でささやかれる声は荒んだ心を穏やかにしていく。
「わかりました」
今度は描きなれた絵のように留まることなく真っ直ぐな線を引く。
エスコートするように添えられた手を自分の世界に引き込んでいく。
丘に建つ朽ちた風車、そこを宿木にする鳥たち。飛び立つ者、戻ってくる者、その場にとどまる者。朽ちた風車からは新たな芽が風車の足元を覆い隠している。背景にはよくある田園風景や錆びだらけで穴の空いた看板、田舎には不釣り合いな最先端な建物。
今あるものと、今後あり得る物を織り交ぜていく。
「後は大丈夫だね」
「はい」
キサさんの添えられた手が離されても、ぬくもりがいつまでも感じられた。
スケッチに命を吹き込むように細かい書き込みをしていく。
完成するまでに夜明けを待つ必要はなかった。