僕らの通う高校はアトリエのある家の向かい側の丘にあり、屋上からはこの街の全体を見渡せる。この町に住む人間は余程の事が無い限りこの高校に通う。生徒数を除けばどこにでもある普通の高校だ。
 
 昇降口で上履きに履き替えて2―Bの教室を目指す。廊下では複数の女子生徒がまだ談笑をしていた。

「最近、夜中に変質者が出るらしいよ」
「まじっ! なんか面白そう」
「あぶなからやめなって」
「だってこんな町で変質者って、白い渡り鳥くらい珍しいよ」
「え? なに? 白い渡り鳥?」
「知らないの? 茶色の渡り鳥の中に稀に白い鳥がいるって話」
「それお婆ちゃんから聞いたことあるかも」
「何て鳥?」
「さあ? あ、鳥って言えばさ」

 ころころと話題が変わる女子の談笑を聞き流して教室に入る。

 体格の良い大柄な男子が僕の席に座っていた。さやかな笑顔で友人と会話を楽しんでいる。自然と席を立ってくれないだろうかと願っていたが、その願いも空しく彼は僕を見つけるとこちらに向かってくる。

 唯織と喧嘩したこともあって今はあんまり話したくなかった。

「おっす。朱鳥」
「おはよう」

 長身で短髪のいかにもスポーツマンな新見大河(にいみたいが)は何事もないように気さくに声をかけてくる。僕のもう一人の幼馴染で唯織とも仲が良い。唯織からさっきのことを聞いているのかもしれない。

「今日も徒歩か?」
「うん。自転車は壊れてるから」
「俺の貸すぞ。どうせ使ってないし」
「気を使わなくていいよ」

 大河の趣味は身体を動かすことで、登下校は雨が降ろうが雪が降ろうが走る。おそらく槍が降ってもそれを辞めないような気がする。

「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「いや、また身長伸びたなって」
「わかるか? このままいったら二メートル超えそうで怖い。誰か止めて欲しい」
「そんなこと言うとまわりから嫉妬されるよ」
「大きくても良い事は無いんだけどな」

 僕も身長があるのは羨ましいと思うが大河みたいになりいかと言われれば嫌だ。過ぎたるは猶及ばざるが如し。この町では大きくても目立つだけで利点は無い。大河が夜に出歩いて熊に間違われた話は有名だ。大河の場合、背が高いだけで性格は温厚で顔も柔和な印象があるから、熊といっても『森のくまさん』だろうけど。

「いま森のくまさんとか思っただろう」
「さらっと人の心読まないで欲しい」

 柔和な印象でも上から覆いかぶさるように迫られるとさすがに恐い。

「ホームルーム始めるぞ。新見は自分の教室に戻れ」

 いつ間に来ていた担任が大河に注意する。

「もうそんな時間か。また昼休みな」

 そう言うとのそのそとした足取りで大河は教室を出て行った。

 今はなんとか切り抜けられたが昼休みは無理そうだ。大河のことだから僕を責めるためではなく仲介役になろうとしてくれているのだろう。しかし、今回は僕が全面的に悪い。変に僕を庇って大河と唯織の仲が悪くなるのは忍びない。昼休みまでに謝るための言葉を考えておかなくては。

「えー休みなのは」

 先生は教室をざっと見まわす。昔は一クラス四十人のD組まであったらしいが、今では一クラス二十人でクラスはBまでしかない。当時の状況を知らない僕でもこの教室を二十人で使うには広いと感じる。

館山(たてやま)か」

 先生が名簿にチェックをつけるのとほぼ同時に閉められた教室の扉が開かれる。
 遅刻にもかかわらず、館山は反省した様子も見せず当然のように教室に入ってくる。

 主義主張の激しい金色に髪を染めて、自分以外はみんな敵だというような鋭い目つき。関わったら碌な事がないだろうとすぐに思わせる雰囲気を漂わせる生徒。それが館山だった。ちなみに父親がこの町の有力者なので教師たちも手を焼いているとの噂だ。

「次はもう少し早く来てくれな」

 やんわりとした教師の言葉を無視して館山は自分の席に向かう。

 クラスメイトの誰もが関わりたくない意思を体現するように目を伏せている。僕もそうすればよかったけれど、館山の疲れた表情が気になり一歩遅れてしまう。必然と目が合ってしまい、館山は憎々しい程に僕を睨みつけてから視線を外すと大人しく席に座る。

 大河に申し訳ないが、昼休みは時間を取れそうにない。

 スマホなどと言うものがあればすぐに連絡が取れるのだろうが、生憎僕はそんなハイテクな機器を持ち合わせていない。

 いつもとかわらない普通の一日、校庭に猪が入って来るハプニングはあったがそんな事はさほど珍しい事でもなく、四時間目までの授業が終了する。

「鳥海」

 案の定、昼休みに入ると逃げる時間すら与えて貰えず館山に声を掛けられる。

「何?」

 不機嫌な表情の館山は教科書しか入っていない僕の鞄を覗き見て財布を取り出す。

「購買でめし買ってこい」

 差し出されたのは野口英雄が描かれたお札が二枚。
 昼休みは予定があるから。なんて言っても逆に相手を苛立たせるだけだろう。お金をちゃんと渡してくれるだけありがたい。

「何か希望は?」
「ない。適当で」
「わかった」

 僕は館山から渡された千円札二枚を受け取ると教室を出る。

 こんなことは日常茶飯事だ。パシリにされるのは高校に入ってからだが、中学の時は何かと難癖を付けられて連れまわされたりした。その度に大河や唯織もついて来ていたので周りの大人からは四人で遊んでいると思われていたけれど。

 そのおかげで僕は孤立することが無かったと言えば聞こえは良いだろうか。

 館山が素行の悪い先輩たちと本格的に付き合うようになったのは高校に入ってからだ。こんな田舎町にもそういった連中はいる。むしろ小さい町だからこそかもしれない。

 購買に着くと何を買おうか悩んでしまう。預かった二千円という額は一人の昼食代としては多すぎる。一人分なら千円あれば十分に足りる。

 以前も似たようなことがあった。あの時も二千円預かって、二千円分のパンを買ったら多いからお前も食えと怒られた。確かに僕でもあれは一人で食べるには多かったなと反省している。

 もたついていると売り切れてしまうので、とりあえず、目に付いた惣菜パンを3つ買う。ついでに自販機で飲み物を買って教室に戻る。結局、千円も掛からなかった。

 館山は一人、窓際の席で外を眺めていた。こちらからは見えないが、おそらく飛んでいる鳥を落としそうなくらい不機嫌な顔をしている事だろう。

「買ってきた」

 館山は返事をせずに机に置かれたパンを見ると溜息を吐いてその中の一つ取って立ち上がる。

「あとはやる」
「でも」
「何か文句あんのか?」

 飢えた犬が唸るように言われて身が竦んでしまう。

「別に……」

 何が館山の癪に障ったのかわからなかったが、一度機嫌を損ねてしまうと聞く耳を持たないので大人しく受け取ることにする。普段は昼食をとっていないのでこの時間の空腹に慣れていたが、貰えるというのであればありがたい。しかし、お金だけは別だ。後で返せと言われても困る。しかし、払えるだけの持ち合わせもない。仕方ないので釣銭だけは机の中にしまっておく。

「また館山か」
「私A組が良かったな」
「こっちに害はないんだし放っておこうよ」

 館山が教室を出て行くと普段通りの喧騒が戻って来るが、その喧騒に自分の居場所は無い。向けられる同情の視線から逃げるように教室を出て、廊下の端にある階段へ向かう。

 こうなった時に向かう場所はいつも決まっている。

 最上階の四階まで上ると昼休みの喧騒は遠なり、廊下には物悲しさが漂う。この階には生徒数の減少と共に使われなくなった教室たちが連なっている。
それらの一つ、プレートに擦れた字で美術室と書かれた扉を開く。

 机にあげられたままの椅子、埃をかぶった石膏像、隅に積まれたイーゼル。いつ来てもここの光景は変わらない。

 扉を閉めると音が遮断され静謐な空間に変わる。乾いた絵の具の匂いはすさんだ気分を落ち着かせる。

 書棚から隠しておいた美術雑誌を取りだして、窓側の席に腰を下ろした。

『破壊からの創造 ミグラトーレの世界』

 何度も読んだとあるストリートアーティストの特集記事。性別、年齢、出身、全てが謎に包まれた新進気鋭のアーティスト。わかっているのは作品に必ず鳥を模した『M』のサインが刻まれるという事だけ。
 作品の特徴は芸術的な破壊。創造とかけ離れた破壊という行為をミグラトーレは芸術的にこなす。

 初めは平和像の破壊だった。当時はワイドショーでも取り上げるくらいの騒ぎで、そのどれもが批判的なものだった。しかし、その平和像を建てた政治家の汚職が発覚すると世間は手のひらを反すように賛同し、作品の政治的意味を模索するようになる。

 対する本人は作品に対して沈黙を保っており、それがまた彼の魅力を引き立てているように思える。

 だが、僕はそう言った作品よりも廃ビルを爆破し複雑怪奇に入り組んだ鉄骨の芸術であったり、落書きだらけの壁にハートの方の穴をあけたりした作品の方が好きだ。

 これらの作品は壊すことで新たな価値を創造している。
 
 そして彼の一番の特徴はそれらの破壊と創造が突如として行われることにある。昨日までそこにあったのもが、次の日には変わっている。
それらの予測できない行動が、変わりたい、変えたい、と思う若者を中心に受け入れられていた。

 僕も一度でいいから作品を生で見てみたいが、それが叶うことはないだろう。

「やっぱりここだったか」

 突然、扉が開かれて大河が入って来る。
 雑誌に乗せられた作品に想いを馳せていて廊下から聞こえる足音に気が付かなかった。

「大河か」
「館山だと思ったか? あいつなら早退したよ」
「そっか」
「朱鳥もあいつにガツンと言ってやれよ」

 大河は呆れた表情で向かいに座る。昼休みに起こった事は知っている様子だった。

「これくらい平気だよ。お金だって貰ってるし」

 それに今日はパンも貰ったし、実質館山に奢られたようなものだ。

「甘い事言ってるから付け上がるんだ」
「付け上がってるとは思わないけど」
「あいつ最近は悪い先輩とつるんでるらしいからな。気をつけろよ」

 大河は溜息を吐く様に呟いて机に広げられた雑誌に視線を落とす。それを追うように僕も雑誌に視線を落とした。

「またこの記事か。好きだな」
「うん。好きだよ。人は皆が変えられないと思っているものを簡単に変えてしまえる。僕には出来ないことだから」

 大河の言葉が続かないので、雑誌から大河に視線を移すと大河も僕の事をじっと見つめていた。

「いや。好きってそういう意味じゃなくて、尊敬って意味だよ」
「わかってるよ。俺は普段からそれくらい素直にしてくれたらって思ってるだけだよ。そうすりゃ唯織とも喧嘩することなかっただろ」

 大河は立ち上がって窓を開け放つ。絵の具の匂いが籠った教室に秋特有のすすけた匂いが入り込む。

「喧嘩の理由は聞いた?」
「聞いた。唯織もどうして勝手にそんなことするかな。朱鳥が怒るのも無理はないと思うけど」

やっぱり大河は僕を責めるような事はしない。

「そうじゃないよ。確かに勝手なことをしたかもしれないけど、それは僕の事を思ってのことだし、僕が唯織を傷つけたのは本当の事だから」
「その気持ちがあるなら」
「うん。今度ちゃんと謝る」

 僕がちゃんと謝りさえすれば今まで通りの関係に戻れる。果たしてそれで良いのだろうか。

 大河と唯織がお互いに想いを寄せている事を僕はなんとなく悟っている。だけど、二人が付き合っているという話は聞いたことがない。僕がいる所為で踏み出せないのではないのか。僕が二人の足枷になっているのではないのか。

「なあ大河って……」
「何だ?」
「何でもない」

 それを確かめる勇気は僕にない。
 何も変わらず、変えられない日常。

 この記事を読んでいてふとこの町も破壊してくれないだろうかと考える時がある。

 そんな事は僕の絵の中で留めておかなくてはいけない。