案の定、布団はなく僕らはくたびれたソファーで寄り添って一枚の毛布を分け合う。

 息遣いが聞こえそうなほどに近い距離に高鳴る心臓の音が聞こえていないか心配だった。聞かれてしまったらまたからかわれてしまう。

 不意に肩が触れて身体が跳ねる。

「ごめん。痛かったかい?」
「平気です。怪我したのは反対側なので」

 用意された二つのコップから立ち上る湯気を目で追いながら気分を鎮める。

「こうしていると安心するよ」

 思わず零れてしまったのだろう。顔を覗き込むとハッとした顔をして頬を赤くする。
「電気消そうか」

 キサさんは今のことを無かったことにして、常夜灯の明かりだけを残して照明を落とす。

「それじゃあ私の身の上話を始めようか。なにから知りたい?」

 知りたいとは言ったけれど、具体的に僕はキサさんの何を知りたいのだろう。年齢、出身、家族構成、いざ、何でも聞けるとなるとどうでもいい事しか思いつかない。

「悩んでるなら。まずは君がボコボコにした彼のことから」
「あの人の話は良いです」

 忌々しい顔を思い出して左腕の傷が疼く。

「まあまあ、ミグラトーレの私を語る上で重要な人だからさ」

 重要な人。そんな些細な言葉ですら嫉妬の対象になってしまう。

「あの人は私の元協力者なんだ。だから君が想像しているような関係はないから。安心して。私はまだ誰にも汚されていないよ」
「そんなこと想像してませんから」

 あの人が恋人だったと想像したりしていないけれど、それを聞いてどこか安心してしまうのは事実だった。

「彼とはミグラトーレの最初の作品から関係しているんだ」
「平和像破壊ですね」

 ミグラトーレ最初期にして表舞台に躍り出るきっかけになった作品。

 ある日、平和の象徴として造られた像が心臓部分に穴をあけられて破壊される事件が発生した。当初は愉快犯の犯行とされていたそれは、平和像を建てた当時の首相と平和基金団体との裏金が発覚したことにより、大きく風向きを変える。

 像の破壊は事件を暗喩する意味を込められたものではないかと世間で騒がれるようになり、そこからはウイルスが感染していくようにミグラトーレを称賛する声が上がった。

「よく勉強しているね。実の話、あれは単なる偶然なんだよ。作品が認められなくて焦ってた私は注目されることをしてやろうと平和像を壊しただけなんだ。それをたまたま見ていた記者の彼が政治と絡めて拡散した」
「衝撃の事実ですね」
「ごめんね。イメージ崩しちゃって。若気の至りだよ。結果的に私のしたことは器物破損だから」

 薄暗い部屋でもはっきりとわかるほどにキサさんの表情は暗い。

「それから彼は私に裏で汚い事をしている人間の情報を流すようになり、私はそれを利用して作品を作り上げていった。本当は芸術的な意味なんて殆どないに等しかった。周りが勝手にイメージを付け加えているだけ。当の本人は世間では認められていない、壊すのが得意なだけの芸術家」

 吐き捨てるように言って、コップに口を衝ける。

「僕はビルを壊して作った鉄骨のアートが好きです」
「ありがとう。あれは私が勝手に制作した作品だから」

 暗い表情が一転して朗らかに照れくさそうにほほ笑む。

 励まそうとかそんなおこがましいことをしようと思ったわけじゃない。ただ、好きなものを好きだと言ったに過ぎない。それでもこうして思いを伝えるだけで変えられることもある。

「でも世間が望んでいることはそれじゃない」

 再び表情を暗くしたキサさんは諦めの混じった声で呟く。

「私は世間なんて気にしないで自分のやりたいことを表現したい」

 キサさんの言う通り、マスコミが取り上げて、世間が騒ぐミグラトーレの作品は政治関係や風刺を題材にしたものが多い。

「あれは私の作品じゃないから、もうやめるって彼に言ったの。けれど彼は認めなかった。彼は私の作品をお金稼ぎの道具としか見ていなかった。その事実を知って私は完全に距離を置いたの。それから彼は私に付き纏うようになった」
「そうなんですか」

 キサさんを表舞台に出してくれたことは感謝するが、結局、あいつは自分勝手な都合を押し付けているだけだった。

 こうなったのも自業自得じゃないか。もう一発くらい殴っておけばよかった。

 やりすぎたと罪悪感を抱いていた自分が馬鹿らしくなる。

「もう少し彼に興味を持ってあげても良いんじゃない? 一応、ミグラトーレの生みの親みたいなものだし」
「嫌です。あんな奴が居なくてもキサさんはきっと有名になれましたから」
「今日はやけに素直に気持ちをぶつけて来るね」

 キサさんはくすぐったそうに身をよじる。触れあっている個所が、そこに新たな生命が生まれたように熱を帯びている。

「でもね。やっぱりミグラトーレの存在は大きいの。私の名前で作品を出しても世の中は受け止めてくれなかった」

 まるで夢に破れて打ちひしがれたように溜息をつく。

「ごめんね。夢を壊すような事になって。ここに来てから頑張って良いお姉さんを演じてきたけど、実際の私は情けなくて、認知度の低い芸術家なの。幻滅した?」
「幻滅なんてしてないです。僕の中では今でも憧れの存在で、大切な人ですから」
「ありがとう」
「お世辞じゃないですよ」
「わかってる」

 気休めとしか捉えてもらえていない。僕はミグラトーレとしてではなく、今のキサさんも含めてそう思っている。

「本当ですからね」
「しつこいね。だったら表現してみせてよ。芸術家らしく」

 僕はまだ芸術家ではないが、そう言われてしまうと何かしなくてはならない。

 ただ、何もないここではできることは限られていて、暫く逡巡した結果、触れ合っている方の手を握ることにする。

「…………」
「…………」

 つないだ手は見る見るうちに温まって行きお互いの体温と混ざり合う。

「誰にも渡したくない程、大切です」
「今日の君は本当に直球ばかり投げて来るね」

 キサさんの言う通り、僕は変な熱に侵されているように思った言葉を口にしてしまう。この熱の正体はきっとひどいことを言ってしまった罪悪感であり、離れて欲しくないと思うわがままなのだろう。

「今日はすみませんでした。何も知らないのに知ったようなこと言って」
「ちゃんと話さなかった私も悪いから。私も怖かったんだよ。本当の事を言って幻滅されてしまうのが」

 僕が素直に何でも話すのは、キサさんの影響だろう。向こうが心を開いてくれたその分だけ僕も心を開くことが出来る。

「こんな風に接することが出来るのは君だけだから」

 それまでの事が清算されてしまうくらいにその言葉は響いた。言葉の真意を確かめる為にキサさん顔を見る。

「なし。今の発言はなしで」

 キサさんはいつものいたずらな笑みを浮かべていなかった。片方の手で顔を覆って、僕から顔をそむけてしまう。握っている手から汗が滲んでくる。今が攻め時である。

「キサさん。一つお願い良いですか?」
「何?」
「名前で呼んでください。僕の事」

 思い切って距離を詰めてみる。今ならばそれが許されるような気がしていた。

「気が向いたら呼ぶよ」
「自分は下の名前で呼ばせていたのに」
「大人をからかうな」

 辛抱ならなかったのか、キサさんは僕から手をはなして立ち上がる。
「トイレに行ってくる。ちょっと時間かかるから、あ、あす、朱鳥くんは先に寝てて」

 きっと顔は湯気が出るくらい真っ赤なのだろう。

 汗が滲んだ掌は外気に触れてすぐに冷たくなっていく。ぬくもりを逃さないように右手に残るキサさんの感触を握り返した。

 この関係はいつまでも続くわけではない。けれど、今だけは胸に沸いたこの感情を大切にしまっていきたかった。

 喜びとは異なる、異質で暖かい感情の正体を僕はまだ知らない。