「こんなもんか」

 鉛筆を丁寧にしまい、描き上げた絵をスケッチブックから切り離す。
面白みのないモノクロの絵。下手くそで色の塗られていない絵はこれで完成している。僕はこの絵に色を塗る気は無い。

「吹き飛んでしまえ」

 呪詛のように呟いて描いた絵を放り投げる。

 投げられた絵は枯葉のように不規則に揺れながら乾いた音を立てて床に落ちた。
床には同じように切り離された絵が無造作に散らばっている。それでもどこに

 何の絵があるのかちゃんと把握している。

 ふと、床に散乱した絵が一枚無くなっている事に気が付いた。その辺に飛ばされていないかと見まわしてみるが見当たらない。

「まあ、いいか」

 誰に見せるわけでもないので、すぐにどうでも良くなる。
 乱雑に散らばっている絵を踏みつけながらアトリエを出る前に辺りを見渡す。

 イーゼルに工作椅子が複数、そして散らばったデッサンの海。そのどれにも色はついていない。

 デッサンの海と言えば聞こえはいいかもしれないが、実際はゴミが散らばっているだけ。

 片付けをしなくてはいけないだろうなと思いながらも、先延ばしにしている。片付けは苦手だ。片付けてしまうと描いた絵と向き合わなくてはいけない気がしてしまう。

 アトリエの持ち主に申し訳なさを覚えながらアトリエを出る。
 
 冷たい質感を孕んだ秋の風に頬を撫でられ、ふと空を見上げると近かった雲が遠くなりだしている。雲を追うように視線を移すと、視界の端に回らない風車が映り、直ぐに視線を下に戻した。

 足元に注意しながら舗装されていない山道を下る。

 僕が絵を描いているアトリエは町外れの丘の上ある。打ち捨てられた家に併設されたアトリエは、僕を除いて利用する人間はいない。

 学校の美術室ほどの広さのあるそこでは、幼い頃に絵画教室が開かれていたが、それも昔の話。家主もあの騒動の後に何年か前に引っ越してしまった。
 
 昔は白を基調にしていた外壁は塗装が僅かに剥がれた程度で廃屋と言う程傷んではない。内装も同じで絵の具のこびり付いた床や壁の汚れは目立つが雨風を凌ぐには申し分なかった。

 不法侵入であることは重々承知している。だからこそ、僕はここに来るときは誰かに見られないように注意を払っている。だが、いくら注意を払っていてもこんな狭い町で隠し事は難しい。

「おはよう。不法侵入も程々にしないと本当に捕まるよ」

 山道を抜けて街道に出ると、自転車を止めて道路わきにあるよくわからない大きな彫刻に寄りかかっていた女子が声を掛けてくる。

「おはよう。この町を出られるなら捕まりたいかな」
「その冗談は笑えないね」

 などと言いながらも笑顔を向けて来る。
 瀬戸唯織(せといおいり)。幼い頃からの仲で同じ高校に通っている。所謂幼馴染である。といっても小さな町なので同世代はみんな幼馴染だ。昔から変わらない顔ぶれ。

 唯織は今日も栗色の長い髪を靡かせて、大きめのカーディガンを着てスカート丈は短め。

 都会の女子高生は皆そんな格好をしていらしいがのようだが、こんな田舎では悪い意味で目立っている。それにこれから来る厳しい冬の寒さにスカートでどれだけ耐えられるのだろうか。

「女子高生の生足に興味がおありで?」
「ないよ。冬は寒そうって思っただけ」
「おしゃれに試練はつきものだからね」
「なんで得意げなの」

 得意げにほほ笑む唯織の横顔を見て化粧をしている事に気づく。化粧なんてしなくても十分に可愛いと思うのだが。

「私の顔に何かついてる?」
「何も。背伸びは大変だなと思っただけ」
「背伸びじゃないし。都会の女子に慣れてないといざって時に困るでしょ」

 いざって時がどんな時なのか僕には思いつかない。もしかしたら唯織は高校を卒業したらここを出て行くのかもしれない。

「で、どう? この格好」
「どうと言われても」
「都会出身なんだからわかるでしょ。都会っぽい?」
「都会がどんな所だったなんて忘れたよ」

 都会っぽさが何なのか恐らく都会の人に聞いても答えられないだろう。そんなものを求めている内は田舎から抜け出すことはできない。はっきりといえば怒るだろうから言わないでおく。

『住民の平穏を守れ! 大型ショッピングモール建設 断固反対!』

 この町に唯一、信号機のある交差点。そこにセンセーショナルな文言が書かれた大きな看板が住人を監視するように建てられている。
 見てわかる通り相変わらずここの住人は外からの人間を拒絶している。そうなったのはきっと僕の所為だ。

「朱鳥も反対?」

唯織は看板をじっと見つめていた僕の視界を遮るように顔を覗き込む。

「別にどうでもいい」
「私はカラオケくらい欲しいな」
「カラオケならあるよ? 」
「あれはスナックでしょ。私が言ってるのはそうじゃなくて、若者が集まる場を言ってるの」
「でもカラオケだけじゃ採算とれないと思うけど」
「いやいや、あったら私が毎日通うし。皆も誘うから大丈夫」

 地元の高校生が通うだけで採算が取れていたのなら、この町はここまで廃れることは無かっただろう。

 高齢化の煽りを受けてこのままいけば十年後に消滅することは確実だ。それをここの住人は受け入れてしまっている節がある。

 町おこしをしようと住民が一念発起したこともあった。しかし、後に残ったのは住民たちの虚しさと、観光名所にしようと丘に建てられた回らない風車が数基。彼らは取り壊し費用すら掛けられないまま、腐り落ちるのを待っている。

 忌々しく睨み付けていると風車の中に人の影の様なものが映った。

 もしかしてあの人影は。

「どうしたの?」

 いつの間にか信号は青に変わっており、渡ろうとしない僕を心配そうな表情で振り向いた唯織が声を掛ける。

「風車に誰かが居たように見えて」
「ああ、あれか。どうせ館山(たてやま)たちだよ。最近はあそこに集まってるらしいから」

 館山ときいて一気に興が冷めてしまう。

 そうだよな。帰ってくるわけないか。
 もう一度、風車の方へ視線を向けるがそこにはもう人影はなかった。

「また、あそこで絵を描いてたの?」
 
 唯織は僕の顔色を伺いながら聞いてくる。絵の事に言及するのは珍しい。僕らはこの話題を意識的に避けて過ごしている。出来たかさぶたを剥がしてしまわないように。

「これくらいしかやる事無いし」

 わざと無下に答えて話を打ち切る。唯織には悪いが、この手の話はあまりしたくない。

「朱鳥の絵ってあれだよね。あれ、あの、有名な墨汁で描いた人の」

 いつもならこれで引き下がってくれるのだが、今日の唯織は違った。

「墨汁画? て言うの?」
「水墨画だよ」
「そう。それ! 白黒でどこかジョウチョがあるというか」
「無理に感想言わなくて良いよ」
「無理になんて言ってないよ。本当に、本当に朱鳥の絵はすごいと思ってる」

 縋るように感想を言う唯織の表情は自分の行いを正当化しようと必死になっているように見えた。だから気づいてしまう。無くなっていた絵は唯織が持ち出したのだと。

「絵をどうしたの?」

 素直に聞いてみるも、唯織は直ぐに答えようとせず、歩みを止めて足元をじっと見つめている。

「あのさ。怒らないでね」

 そんな前振りをして唯織は僕の目を見つめては逸らして、を繰り返す。

「朱鳥の絵を応募したの。コンクールに」
「なんでそんなこと」

 冷めていた感情が瞬間的に燃え上がる。

「朱鳥は才能あるし、埋もれさせちゃうのはもったいないと」

 善意からの行動なら、どうしてそんなに申し訳なさそうに語るのか。もっと胸を張って堂々としていればいいじゃないか。罪悪感を覚えているから、罪滅ぼしと思っているから、今にも泣きだしそうな苦しい表情になるんだ。

 責める言葉が浮かんでくるが口に出すことはしない。出してしまったら我慢してきたことが台無しになる。

「これに受賞したら美大に行けるかもしれないし、そうしたら画家の道だって開けるかもしれないでしょ」

 美大に行きたい。画家になりたい。そんなこと言った覚えはない。僕はそんな事を望んでいない。才能がない僕がそんな事を望んでも良い事なんてない。

「それに朱鳥は絵を描くの」
「やめてくれよ」

 言葉を遮ろうとして、つい言葉が漏れてしまう。

「何が?」
「そういうこと。勝手にしないでくれよ」
「でも、朱鳥は」
「好きじゃないから」

 反射的に出た言葉が引き金になり、堰を切ったように言葉が出て来る。

「絵を描くのはストレスの捌け口にしてるだけだ。イライラしたら物に当たったりするだろ。それと同じだよ。それに色も塗ってないし、あれはスケッチだから送ったところで誰の目にも止まらない」
「そんなことないよ。朱鳥には才能が」
「才能なんてない。本当に才能がある人はこんなところにいないし。それにあんな絵、誰も受け入れてくれる訳ないだろ。余計なお世話だ」
「余計なお世話って、私は朱鳥の為に」
「僕の為? 僕はそんなこと頼んでなよ」

 その先は言ってはいけない。脳内の僕を押し切って言葉が漏れ出る。

「自分の為だろ」

 訪れる静寂は重くのしかかり、視線を下げさせる。

 泣くだろうか。寧ろ、泣いて喚いて責めてくれないだろうか。誰がどう見ても感情的になった僕が悪い。責められるべきは僕だ。

「ごめんね……」

 僕の思いとは裏腹に唯織は軽い笑顔を僕に向けた。

「私また余計なことしちゃったか」
「謝るのは僕の」
「先行くね」

 弁解の余地はなく、唯織は自転車に跨って行ってしまう。

「最低だ」

 その場に取り残された僕は自責の言葉を吐き出して空を仰ぐ。
 
 頭上では白い烏が僕に何かを告げるように虚しく鳴いていた。
 
 まただ。また僕は絵の事で人を傷つけてしまった。
 
 絵が描けなくなる呪い。そんなものがあれば良かったのに。
 
 こんなことを思っているのに僕は絵を描くことを辞められない。いっそのこと腕を切り落としてしまおうか。いや、腕が無くても口で筆を握って絵を描くだろう。口を塞げば今度は足で、足が無ければ顎で。
 
 僕は絵を描かなければならない呪いにかかっている。