1.



「おい! あんたがこの靴屋の店主かい?」

 男が店へ立ち入るなり、商品ではなく店主めがけて一直線に突き進んだ。

 五月頭――ゴールデンウィークの真っ只中である。昼間は客足も増え、商店街が最も賑わう時間帯だ。つまり、新顔の客人が訪れやすい。靴屋もまた例外ではなく、珍しく常連ではない訪問者が闖入した。

 店主――鞣革(なめしがわ)靼造(たんぞう)――が堂々たる体躯をもたげて工房から顔を出すと、その男は最初から店主との会話が目的だったかのごとく間合いを詰める。

 二人に面識はない。もしかしたら過去に話したことがあるかも知れないが、来客の顔を全て覚えている店主に限って、それはあり得ない。


「どちらさんだい」

 店主は抑揚なしに問い返す。

 ただでさえ無愛想だの朴念仁だのと揶揄される上、客に向かってぞんざいな口の利き方をするのは接客態度としてお世辞にも褒められたものではない。

 さりとて今さらこの性分を変えられるはずもなく、ましてやぶしつけに店へ怒鳴り込むような不審者に愛想を振りまく道理もなかった。

 店主は服装こそ紳士的ないでたち――ワイシャツに蝶ネクタイ、サスペンダーで吊ったスラックス、分厚い革のブーツ――だが、不機嫌な面構えで相手を上から下まで詮索する強面だから怖い。靴屋らしい牛革の匂いと合成樹脂の匂いが、体躯から漂っている。

 一方、男はまだ二〇代半ばほどの青年だった。店主ほどではないが上背の高い、そして腕っぷしの強そうな力こぶをTシャツからはみ出させている。髪は短い刈り上げだ。アクセサリの類は身に着けていない。無地のTシャツと破れたジーンズ、そして足元は裸足にサンダル。いずれもスーパーで安売りされているファストファッションだ。

 靴屋としてはサンダルをもっと見栄えのするものに履き替えさせたいが、肝心の客人が商品棚には目もくれないため、勧めるのも(はばか)られた。

「僕のことはどうでもいいだろ」

 青年は店主の質問を邪険に跳ねのけた。

 いや、どうでも良くないから「どちらさんだい」と尋ねたのだが、青年はこちらの都合などまるで気にせず、言いたいことだけをまくし立てる。

「店主さんって年齢は三〇代か? いかつい顔してるなぁ」

「二八歳だ」不愉快に答える店主。「買い物が目的ではないのなら、出て行ってくれ。こう見えて我輩は忙しい。奥の工房で修理の仕事が控えている」

「修理! そうそう、それだよそれ」

 青年は刈り込んだツンツン頭を大きく揺らして、うんうんと頷いた。

 何が「それ」なのか見当も付かない。店主は眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。険しい仏頂面が輪をかけて歪む。普通の人間ならば恐れをなして遁走するに違いない。

「おっ、出た出た、その表情! ひたすら怖い唐変木だけど、何だかんだで会話には応じてくれるって僕の妹が言ってたよ」

 ――妹?

 店主は新たな名詞にこめかみを疼かせた。

 そこらへんのチンピラにしか見えない青年が「僕」というかしこまった一人称を使っているのも気になったが、もろもろ裏事情があるようだ。

「妹とは誰のことだ」

「おいおい、忘れたとは言わせないぜ? 何せあんたは、僕の大切な妹をたぶらかした張本人なんだからさぁ!」

「たぶらかした、だと?」

「妹はまだ高校生でさ。大人に手ぇ出されたら、周りが止めるに決まってるだろ!」

「は?」

 店主は腹の底から一音だけ絞り出した。

 何を言っているのだ、この男は。

 全く身に覚えがなかった。難癖にもほどがある。そもそも店主が高校生と接した記憶と言えば、先月ランニングシューズを修理した女子高生・跡部(あとべ)鞘香(さやか)くらいなもの――。

「ああ、あの女か」

 ――まさに鞘香が条件に当てはまったので、店主は手を叩き合わせた。

 鞘香には兄が居ると聞いた。四年前に両親を亡くし、それ以来ずっと兄が家計を支えて来たという。

 当時の兄は大学生だったが、中退して工場に就職した。それから四年経てば、二〇代半ばの青年にも合致する。よく見れば、目許や顔の輪郭が鞘香に似ていた。

 一人称の「僕」も、もともとインテリ大学生だったと考えれば腑に落ちる。髪型がやけに短いのも、工場帽をかぶるときに長髪では邪魔になるからだろう。

「我輩は、おたくの妹をたぶらかした覚えはないのだが」

「またまた、はぐらかそうとしたって無駄だぞ?」ずいと顔を寄せる兄。「鞘香の奴、連休に入ってからずっと、靴屋とあんたのことを自慢げにのろけるんだ! 食事のときも(だん)(らん)のときも、寝る前の挨拶でさえいちいち話題に出して褒めそやすんだよ!」

 そんな事態になっていたのか。

 店主は数日前、鞘香が抱えた悩みを紐解いて(・・・・)やったことがある。靴の修理を承るついでのサービスだったが、彼女のこじれた友人関係を和解へと導いた。

 鞘香が店主に甚大な恩情を抱いたのは言うまでもない。今頃は直したランニングシューズで陸上部に専念しているはずだ。その勇姿を想像すると、店主の仏頂面にも頬をほころばせる余地が生じた。

「あっ、今ニヤけたな? 僕の妹を思い浮かべてよこしまな笑みを浮かべただろ!」

「よこしまではない。誰だって笑うときくらいある」

 いちいち食ってかかる青年が鬱陶しい。せっかくの微笑も一瞬で引っ込んでしまった。

 この兄は、何が言いたいのだ?

 大事な妹が年の離れた靴職人に惚れているとでも勘違いし、心配しているのか?

 とんだ誤解である。鞘香は常人よりパーソナルスペースが近いせいで、誰とでも仲睦まじく接しているだけだ。

「僕が妹に買ったランニングシューズを、別物同然に改造したそうじゃないか」

「客人の足癖に応じてカスタマイズしただけだ。メーカーで修理しても仕様通りにしか修復されないが、我輩のような靴職人ならば、客一人一人に即したアレンジも可能だ」

 そこがメーカー修理と個人経営店の大きな違いである。この利点がなければ、並み居る量販店の大攻勢に、店主は瞬く間に滅ぼされていただろう。

「妹が僕にランシューを見せびらかしながら言うんだよ。『お兄ちゃん、ランシューが生まれ変わったよ』ってさ! 僕が購入した限定レアモデルが見る影もない!」

「まぁデザインが一部変わってしまったのは申し訳ないが」

 貴重な限定モデルに手を加えたのは、店主も恐れ多い気持ちではある。

 それでも昔から靴職人は、修理と称して靴を改造し続けて来たし、そもそも客の要望でもあるのだから咎められるいわれはない。

「客人よ。あのランシューは高校三年間ずっと酷使され、見るも無惨な有様だった。あのまま履き続けても鞘香さんは好成績を出せない。そこで我輩が修理したのだ」

「言うねぇ。だから僕は思ったのさ! ランシューをいじった奴のツラを見てみたい、ってね! なぜ妹がそこまで入れ込むのか、じきじきに話してみようってさ――」

「ちょっとお兄ちゃん! 先走り過ぎ!」

「――げ。鞘香」

 青年が店主の胸倉に手を伸ばそうとした矢先、店外から溌溂とした女声が轟いた。

 それは店主も記憶に新しい女子高生の声である。

 跡部鞘香だ。

 まだ五月なのにキャミソールとカットジーンズ一丁という、肌を大いに露出した薄着で店内へ駆け込んだ。

 鞘香の私服姿を拝んだのは初めてだ。相変わらず元気いっぱいの健脚で、小麦色の柔肌が目に眩しい。切り揃えたショートヘアは天真爛漫な鞘香にぴったりだ。

 兄と同様、アクセサリを一切身に着けない質素ないでたちは、貧しい生活が忍ばれる。

「鞘香、もう追い付いたのかよ? 早いな」

「そりゃ私は短距離走の代表だもん!」

 走って来たのに息一つ切らさない鞘香は、兄の手をぐいと引っ張った。

 触れ合い(スキンシップ)も日常茶飯事なのだろう、鞘香は兄をあっという間に店主から引き剥がし、代わりに彼女が間近に滑り込んだ。店主のそばに立つ。パーソナルスペースが近い。

 なるほど、これは誤解されかねない。鞘香は人懐っこ過ぎる。

「お兄ちゃんってば、私の話をちゃんと聞いてから動いてよね! 店主さんは私の恩人なの! くれぐれも無礼な振る舞いはやめてちょうだい!」

「けど、鞘香――」

「店主さん、お兄ちゃんが粗相(そそう)をしませんでしたか? ご迷惑をおかけして済みません」

 鞘香はぺこぺこ謝り倒した。

 この子は健気だ。自分に非がなくとも、先に謝罪してしまう優しさがある。だがそれは心苦しいし、彼女に謝られてもお門違いなので、店主は鞘香の頭をそっと()でた。

「謝ることはない。我輩は平気だ」

「良かったぁ! お兄ちゃんのせいで私まで嫌われたらどうしようって、気が気じゃなかったんですよ!」

 きゃっきゃと飛び跳ねる鞘香が無邪気すぎる。ほっと胸を撫で下ろし、店主に撫でられた頭部を見上げては、えへへと嬉しそうにはにかむのだ。

 兄がそれ見たことかと気勢を荒げた。

「やっぱり僕の妹とイチャ付いてるじゃないか! 淫行め!」

「お兄ちゃんは黙ってて!」

「だが鞘香――」

「いいから黙って!」

「お、おう……」

 兄はたじたじである。どうやら妹に頭が上がらないらしい。

「大体ねぇ、お兄ちゃんは目的がすり替わってるのよ! 私は店主さんに改めてお礼を言いに来たの! あと修理したい靴があれば、私が仲介してあげるって話だったでしょ!」

「あ、ああ。そう言えばそんな話だっけか」

 ――修理の仲介?

 店主は鞘香から発せられた一言に耳をそばだてた。

「何だ、新たな修理の依頼でも持って来たのか」

 そう切り出すと、鞘香がぴょんと反転して店主に向き直った。店主と話せるのが楽しくて仕方ないという風体だ。

「実はそうなんです! 私、お兄ちゃんや友達にも布教してるんですよ! 修理したい靴があれば『鞣革製靴店』をぜひ、って!」

 (くち)コミの(かがみ)である。

 誠実な仕事をすれば評判を呼ぶ。店主の善行が巡り巡って自分の利益に繋がるのだ。情けは人のためならず、とは良く言ったものである。

「では、今日は兄君《あにぎみ》の靴を修理しに来たわけか? 部活動はどうした?」

「部活は休憩日(インターバル)です! 適度に休むことも大会前は重要だぞって顧問に叱られちゃって」

 ぺろりと舌を出す鞘香がお茶目だ。

 だから骨休めのために、私服で商店街へ出かけたわけだ。ついでに兄を伴って、靴の修理を依頼しに来た、と。

「言っとくが、靴の修理は僕じゃないぞ」言い訳がましく弁解する兄。「改めて自己紹介しようか。僕は跡部赳士(たけし)、二四歳。鞘香が世話になったと聞いて顔を出したまでさ!」

「では、誰の依頼なのかね?」

 とっとと先を促す店主が素っ気ない。

 赳士の依頼でなければ、鞘香は誰の修理を仲介するのだろう――?

「実はもう一人、連れが居るのさ!」

 赳士が後ろを振り返った。

 遥か遠方、商店街の往来からようやく最後の人影が近付いて来た。

 三人目の到来だ。

 女性である。年齢は赳士と同じくらい。鞘香とは対照的なロングヘアーで、フリルの多いガーリーなブラウスとスカートを着ている。汗一つかかない鞘香に対し、その女性は急いで来たせいかハンカチで首筋を拭いていた。

 元が良いのか化粧は薄い。片手には日傘をさしている。肩にはトートバッグ。その中から、壊れた靴のようなものが垣間見えた。

「ふぅ、やっと追い付いたわ。タケくんも鞘香ちゃんも、靴屋が見えた途端、血相を変えて走って行っちゃうんだもの……」

「ああ、済まなかったね歩美(あゆみ)

 赳士が女性をそう呼んだ。

 それが彼女の名前のようだ。さり気なく店主は足元を観察すると、歩美はミュールを履いていた。なるほど、走りづらいわけだ。

 普通、置き去りにされたらもっと激昂しそうなものだが、歩美は走り疲れたせいか――あるいはすでに兄妹と親しい間柄ゆえか――怒ったりはしなかった。

「兄妹揃って足が速いんだもの、呆れるしかないわね」

 歩美は日傘を畳んでトートバッグにしまうと、中にあった壊れた靴がさらにはみ出た。

 店主は目ざとく確認してから、遠慮なしにズイと巨躯を歩美へ寄せる。やにわ長身の仏頂面が迫ったせいで、歩美は表情を凍り付かせた。あからさまに青ざめている。

「わっ、怖……! この方が鞘香ちゃんの言っていた店主さん? 噂通りの鬼面ね」

「その肩に()げているのが、直したい靴かね?」

 店主は噂を無視して、トートバッグを俯瞰した。

 壊れた靴は、一足のパンプスだった。左右両方ともヒールがぽっきり折れている。

「ヒールの砕けたパンプスか」

「そうよ……鞘香ちゃんの評判を聞いて、わたしも修理してもらおうかなって」

「歩美は僕の婚約者(フィアンセ)なのさ!」

 赳士が歩美の隣に肩を並べた。

 青ざめた彼女を支える勇姿は、確かに恋人らしい所作だ。ぴったり寄り添ったことで、歩美は安堵したように顔色を回復させた。

「ほう、婚約者」

 店主が復唱すると、赳士はことさら相槌を打った。

「その通り! 僕は工場で家電を製造し、歩美は営業をやってるのさ」

 職場恋愛というわけか。だとしても製造の現場と外回りでは接点がなさそうだが、そんな疑問も当人の口から即座に解説された。

「わたしが営業で売り込むときは、必ず担当商品の製造工程を視察してるのよ……そうすれば品物をより深く理解できるし、取引先にも詳細な説明が出来るでしょう?」

 今の時代、上辺だけの宣伝では売れない。具体的に何を気遣って製造したのか、何を売りに設計したのかを商談で語れれば、売り込みにも説得力が増す。若い身空で熱心だ。

「歩美の工場視察は、僕が案内してるのさ。それが二人の馴れ初めになった」

「ふむ。ではその壊れたパンプスは、さしずめ外回りに履く一足かね?」

「ええ……そうよ。取引を結びたいときに履く『勝負靴』だわ」

 歩美は神妙に認めた。

 見た所、パンプスのヒールは細くて長い。いかにも(もろ)そうだ。外回りならば歩数も半端ではないし、使い込めばあっさり折れてしまうのも詮なきことだった。

「わたしは脛永(はぎなが)歩美、ヒールを直したいんだけど……頼んでも大丈夫? 鞘香ちゃんの紹介だから来てみたものの、タケくんはこの店を怪しんでるわよね……店主の顔も怖いし」

 無愛想な店主に気圧(けお)されながら、歩美は半信半疑で問うた。

 新たな仕事が幕を開けようとしていたが、ほのかな暗雲もまた立ち込めていた。



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