1.



 踘谷(きくたに)鞠子(まりこ)が陸上部を辞めた。

 跡部(あとべ)鞘香(さやか)がそのことを知ったのは、翌日の部活動だった。職業体験学習が終了し、通常の授業カリキュラムに戻った矢先である。

 いよいよ週末には陸上競技の夏大会――地区予選――が開幕する。鞘香は短距離走者として市立実ヶ丘(みのりがおか)高校の看板を背負い、親友の鞆原(ともはら)踏絵(ふみえ)も走り高跳びと幅跳びに出る。

 本番前の追い込みとして重要な日にも関わらず、雑用を一手に背負うマネージャーが退部するという珍事は、痛手以外の何物でもなかった。

「踘谷が抜けた穴は、他のマネージャーや部長、副部長に分担してもらう」

 夕焼けが目に染みる部活終了時、顧問の()(だし)八兵(はちへい)が改めて部員一同へ説明した。

 鞘香、踏絵、そして男性陣では起田渉(おきだわたる)が苦虫を噛み潰しながら徒跣を見つめている。

 この三人は、鞠子が退部した理由を知っている。原因はもちろん、職業体験学習で深く刻まれた軋轢だ。鞠子は起田の製造する革靴に傷を付けた――という非を問われている。

 それは表面上、徒跣によって解き明かされたかに見えた。

 起田はそれを信じ切っており、鞠子を心の底から軽蔑した。ゆえに彼の苦い表情は、決して鞠子の退部を惜しんでのことではない。単に自分が被害に遭ったという悔しさだ。

 踏絵も彼と同様で、鞠子が犯人だと思っている。鞠子が居なくなって清々しているはずだが、やはり大会直前に退部されると困るため、渋い表情をかたどっているに過ぎない。

(真相を知ってるのは私だけ、かな?)

 鞘香は唯一、異なる意味での渋面だった。

 顧問の徒跣は善人ではない。詳しいことは判らないが、学習先である靴屋の店主とただならぬ因縁を持っているそうだ。その店で揉め事を起こすために、わざと徒跣が事件を仕組んだのだ。

 かねてから鞘香に懸想していたことなども踏まえ、火種がくすぶっていたのも背景として挙げられる。

 そう――真犯人は徒跣(・・)

 それを隠すためのスケープゴートとして、鞠子は冤罪をかけられ、部から追放された。

(今は大会を控えてるから、徒跣先生を追及できないけど)

 鞘香はもどかしかった。

 これ以上、陸上部の人間関係がギクシャクすると大会に影響が出かねない。

 かと言って、みすみす真犯人を見逃すのも、良心の呵責にさいなまれる。

 何も知らない部員たちが「なぜこの時期に退部したんだろう?」と疑問を口にすると、徒跣はあらかじめ用意していたように回答した。

「踘谷は受験生だ、早めに勉強へ専念したいらしい。志望校のランクを上げたいんだと」

 ――なるほど、そういう名目か。

 うまい理由をでっち上げたものである。鞘香はますます顔色を曇らせた。

 恐らく鞠子に事情を尋ねても、同じ返事しか戻って来ないだろう。鞠子本人も退部理由を詮索されるのは嫌に決まっているし、犯人容疑を周知されたくない。そこで受験生の肩書きを利用すれば、真実はどうあれ体面を保てる。

 狡猾だった。理不尽だった。

「どうした跡部、浮かない顔をしているじゃないか」

「せ、先生――」

 目ざとく鞘香をねめつける徒跣が、何となく嫌らしい視姦のように感じられた。

 生理的な嫌悪感が湧き上がる。どう接すれば良いのだろうか。誰とでも距離を縮めることが出来たはずの鞘香は、生まれて初めて対人関係で躊躇した。

「跡部は女子のエースだろ、もっとシャキッとしてもらわないと示しが付かんぞ!」グラウンドの外へ顎をしゃくる徒跣。「ほれ、校庭の外を見てみろ! 敷地の外、フェンス越しに他校の偵察が来ているからな。みっともない姿を見せるなよ?」

「えっ! 他校の偵察……!?」

 言われてようやく鞘香は視認した。

 いや、鞘香だけではない。踏絵や起田、後輩の(おし)(たり)もまなじりを見開いて、公道から虎視眈々と望遠して来る人影を知覚した。

 ――他校のブレザーを着飾った、男女数名の塊。

 いかにも令息令嬢と言った雰囲気の、エリート校だ。特に鞘香は、中央に立つ女子高生に見覚えがあった。男子並みに背の高い、巻き毛を風になびかせたお嬢様。スリッポンの革靴を履いた大きく長い健脚は、女子陸上のライバルとしてこれ以上ない脅威だ。

(ライバル校の、足高(あしだか)さん……!)

 春大会で惨敗を喫した、不倶戴天の敵である。

 そんな女傑が、鞘香の様子を偵察に来た。今回も敵視されているということか――?

「とにかく気を抜くなよ。それじゃあ解散だ!」

 徒跣が耳元で念を押すように囁いた。まるで犯人に脅されている気分だった。

 鞘香は歯がゆい思いのまま部活を上がり、更衣室でランニングシャツを脱いだ。他の部員たちも学生服へ着替えた順に、一人また一人と帰途につく――緊張感が消えない。

 夏に向けて日が伸びており、夕方六時はまだ明るい。深紅の斜陽が曇りガラスから射し込む中、最後まで居残ったのは鞘香と踏絵だった。

「……まだ着替え終わらないの、鞘香?」

「あっ、ごめんね踏絵! 待たせちゃってるね」

 急いで短パンを脱ぎ、ランニングシューズも片付ける。

 下着は相変わらず、洒落っ気のないスポーツブラと綿パンだ。鞘香の家は貧しい。衣類に金をかける余裕はない。ただしランニンングシューズだけは例外で、大会本番用に奮発した高級品が置かれている。

 今日のような大会直前の最終調整では、本番と同じシューズで模擬戦するのだ。

「この靴を見ると、どうしても店主さんを思い出しちゃう」

 鞘香はセーラー服を着て、革靴に履き替えた。脱いだランニングシューズの砂埃を払い落としてから、巾着(きんちゃく)袋へ収納する。予算の都合で未修復の箇所もあるものの、再び履いて走れる状態まで直してくれた靴屋の店主には感謝しかない。

 店主――仏頂面で愛想がない、鉄面皮の偉丈夫だ。威圧的な外見の店主はしかし、鞘香の心を掴んで離さない恩人だった。

 誰とでも仲良く接するパーソナルスペースの近い鞘香は、ことさら店主に対しては年齢差をものともせず深い愛着を抱いている。

「……その靴屋さんで、鞠子が退部する原因を作ったのよね……」

 踏絵が言及した。だが彼女の認識は、鞘香の知る真実とは若干、異なる。

 鞘香はセーラー服のファスナーを締め、リボンを結び直してから、がっくりと肩を落とした。

「そうね、踏絵。今まで私の距離感が近いせいで、いろんな事件が発生したよね」

「ち、ちょっと鞘香……あまり自分を責めない方がいいよ……?」

 踏絵が慰め、肩に手を置いた。その面持ちは真剣に友を心配するものだ。鞘香は感謝を述べつつ、数々の事件を回顧した。

 パーソナルスペースの近さは、必ずしも友好に繋がらない。親友の踏絵ですら、ランニングシューズを巡る騒動に発展した。最終的には踏絵と仲直り出来たし、そのおかげで靴屋の店主と知り合えたのだが、事件の発端になったのは確かだ。

 続く第二の事件も、鞘香の兄が店主に難癖を吹っかけた。さらには兄の婚約者が、鞘香に反骨心を抱いた。いずれも鞘香の距離感が近すぎて、店主や兄にベタベタくっ付き過ぎたのが火種だった。

 第三の事件だってそうだ。部のエースである起田と仲睦まじく接したせいで、鞠子から嫉妬を買ってしまった。

 鞘香は()(へだ)てなく心を開いているだけなのだが、それは第三者から見ると「馴れ馴れしい」「ベッタリし過ぎ」などと誤解されてしまう――。

「極め付けは、徒跣先生までもが私に劣情を抱いてるらしい、って点だけど」

「えっ……鞘香、何か言った?」

 踏絵が声を裏返した。

 うっかりぼやきかけた鞘香は、罰が悪そうに口をつぐむ。親友はすぐに察したようで、鞘香の正面からまっすぐ瞳を覗き込んだ。

「……もしかして鞘香……徒跣先生から何か言われたの?」

「うーん、面と向かって断言されたわけじゃないんだけどね」

 親友に隠し事は出来ない。鞘香は慎重に言葉を選んで、それとなく相談してみた。

「徒跣先生って今、独身でしょ? そこへ私が親しく話しかけたから、向こうは勘違いしたらしくて」

「え……まさか徒跣先生から告白された、とか……?」

「そこまでは行ってないけど、そうなる可能性が高いって店主さんから聞いたのよ!」

「ああ……あの店主さんに」肩をすくめる踏絵。「鞘香ってば本当に、店主さんにだけは従順よね……あの朴念仁が、そんなに好きなんだ?」

 ――好き?

「ええっ!? す、好きってわけじゃ」

 ない――けど。

 最後まで言おうとしたが叶わなかった。言葉尻が小さくなって、鞘香はうつむく。窓から射し込む夕陽に染められ、顔が真っ赤になった。しかしそれは決して、夕焼けだけのせいではない。

 踏絵はますます肩をそびやかす。

「あたしとしては、教師と生徒が好き合うのはマズイと思うけど……靴屋の店主さんなら良いと思うわよ……学外の人だし」

「う~ん。私って、店主さんのことが好きなのかな?」

「……もしかして鞘香、自覚なかったの?」

「自覚?」

 鞘香が目をぱちくりさせた。踏絵はずり落ちそうになったメガネを指で押し上げる。

「……どう見ても鞘香は店主さんと、他の人より仲が良いわよ……? いくらパーソナルスペースが近いと言っても、あそこまで仲良く触れ合う人は居ないでしょ? あたしよりベッタリ抱き着いてるし……」

「えー、抱き着くことに他意はないよ? 店主さんって靴屋独特の良い匂いがするのよ」

 自覚など、あろうはずもない。

 鞘香が店主をどう想っているのかは、しばしば議論になった案件だ。前述もしたが、鞘香の兄が疑惑の目を向けたことがあったし、顧問の徒跣もまた、鞘香と店主が親し過ぎることに激昂して、わざわざ靴屋で事件を起こしたのだから。

 そう考えると、徒跣が鞘香を代表選手に選んだのも、教え子として特別な愛情を宿していたせいかも知れない。

「私はね、踏絵――」

 がたん。

「!?」

 更衣室の外で物音がした。

 鞘香が考えを打ち明けようと決意した瞬間、水を差された格好だ。

「誰!」

 人の気配を感じて、鞘香は入口に首を巡らせた。誰何(すいか)を問うも、いらえはない。

 代わりにドタバタと走り去る靴音が遠のいて行った。

「な、何……今の」怯えたように身を縮こませる踏絵。「もしかして今の会話、外で盗み聞きされてたのかしら……?」

「多分ね!」

 入口の引き戸は、曇りガラスが嵌め殺しにされている。内外を視認することは出来ないものの、聞き耳を立てるくらいなら可能だ。

 鞘香は引き戸まで駆け寄ると、鍵をひねるや全力で開け放った。

 そこはグラウンドの片隅だ。運動部の部室を集約させた『部室棟』の一角。だから足元は砂を敷き詰めた地べたであり、靴跡が明確に残っていた。

 大きい。女子の靴跡とは思えない。

 女子更衣室の前で耳を澄ませていたのは、男性?

 単なる出歯亀(でばかめ)だろうか?

 それとも――。

(この靴底って、ひょっとして?)

 鞘香はスカートのポケットからスマホを取り出し、念のため靴跡を撮影しておいた。

 誰の靴か、あとになって判明するかも知れない。

(いざとなったら店主さんに見せよう! あの人なら靴跡の模様からすぐに特定できるだろうし――……って私、また店主さんのこと考えてる)

 自然と店主に頼るのが当たり前になっていた。

 やはり、鞘香が店主を親愛以上の情念で慕っていることの証左だろうか。

「鞘香……顔が赤いよ?」

「ゆっ夕陽のせいよ、夕陽の!」



   *



 五月十一日、土曜日になった。

 待ちに待った夏の高校陸上競技大会・地区予選の当日である。

 会場は実ヶ丘市から離れ、都心の競技場で行なわれた。会場そのものは大きくない。メインスタンド一つ、バックスタンド一つのこじんまりとしたものだ。とはいえ設備は行き届いており、屋根付きの観客席は風雨や直射日光から身を守れるのでありがたい。

 私鉄の駅からも近いため、出場校は電車を利用して訪れる者も多い。

 各校はアリーナ席にそれぞれスペースをあてがわれ、自分たちの出番がないときはそこに座って観戦したり、荷物を置いたりするよう決められている。

 出場種目の時間が近付くと、四〇分前に会場内の更衣室と控え室が開放されるので、選手たちはそこでユニフォームに着替え、準備運動をするなどして過ごす。

「とうとう最後の大会ね! 本番もそうだけど、徒跣先生にも気を付けなきゃ」

「あ……あたし緊張して来た……」

 鞘香と踏絵は外から会場を見上げて、銘々の感慨を吐露した。

 学校のジャージで集まった実ヶ丘高校陸上部は、総勢二〇名ほど。そのうち出場選手は六名で、残りは応援だ。たとえ代表枠に漏れた部員でも、来年は出場できるかも知れないのだから、場慣れしておくことも大切だと徒跣は述べた。

 ろくでなしの本性を隠し、面倒見の良い顧問を演じている。

「お前ら集まったな! はぐれた奴は居ないか? よしよし」

 徒跣が点呼を終え、気分も上々に頷いている。

 起田や忍足と言った出場選手は顧問を信頼しきっているが、鞘香と踏絵はあいにく、徒跣の号令を素直に聞けずに居た。

 鞘香は言うまでもないが、踏絵も先日、徒跣が鞘香に好色な視線を向けていることを聞かされて以降、顧問から距離を置くようになった。

 おまけにあの靴跡。女子とは思えない大きな靴底は、徒跣ではないか?

 鞘香によこしまな欲望を寄せる彼が、着替え中の彼女を覗きに来たのではないか?

(先生が履いてるスニーカーの靴底と、写真の靴跡さえ照合できれば――)

「どうした跡部! まだ冴えない顔付きだな!」

 徒跣が目ざとく鞘香に呼びかけた。

 親しげにずかずかと近寄って来る。手まで伸ばして来た。肩に指先が触れる――。

 瞬間、鞘香は思わず飛びのいた。徒跣から逃れるように、大きく間合いを取ったのだ。

「ん?」

「え?」

 ――パーソナルスペースが近いはずの鞘香が、人を避けた?

 これには徒跣も、他の部員たちも目を疑った。鞘香も自分の失態に、さっと血の気が引く。いつもの彼女ならむしろ顧問の手を取って、ぶんぶんと振りあおぎそうなのに。

 徒跣に対する不信感が、ついに顕在化した瞬間だった。

「何だ跡部? 具合でも悪いのか?」

 徒跣が勘繰るように問いただす。

 一見すると泰然とした態度だが、普段の豪放磊落さは鳴りを潜め、瞳の奥に冷酷な蔑視が込められていた。

 ――静かなる憤怒。

 鞘香は徒跣の機嫌を損ねたのだ。

「あっいえ、そういうわけじゃないです!」

 鞘香は居住まいを正して、愛想笑いでごまかした。

 でも、近付かない。

 徒跣との距離は遠いままだ。心の溝が開いている。

 この空気に気付かぬ徒跣ではない。自分が疑われていることを察したに違いなかった。

「ふん、まぁいい。入口で受付を済ませて来るから、お前らはここで待っていろ」

 徒跣が離れて行く。部員たちがホッと安堵する中、鞘香だけは全身を硬直させていた。

 踏絵が隣に寄り添い、手を握って慰めてくれる。

「……平気? 鞘香」

「何とかね」でも顔色は優れない鞘香。「せっかくここまで来たんだもん、気落ちしてろくな成績を残せなかったら台なしだわ。もっと頑張らなきゃ――」

 努めて気丈に振る舞うしかなかった。

 せめて精神面だけでも発破をかけなければ、立っているのも辛い。

 本番なのだから、誰よりも強気で居なければいけないのに――。

「受付が終わったぞ! 荷物を持って入場だ!」

 向こうで徒跣が手招きしている。

 部員たちがぞろぞろと移動する中、鞘香だけは足がすくんで動けなかった。踏絵が手を引っ張るも、鞘香は青ざめたきり前進しない――否、前進できない(・・・・)のだ。

 徒跣との距離を詰める勇気が、湧いて来ない。

「うっ、どうしたんだろ私。動けないよ」

「鞘香……! 唇が紫色よ? ちゃんと息を吸って!」

 踏絵に背中をさすられる。

 鞘香はいつの間にか呼吸すらままならず、徒跣に恐慌を感じていた。

 見とがめた徒跣が踵を返し、こちらへ押し迫る。圧力が物凄い。顧問のそれではない。

「何をしている跡部! 俺の命令が聞けないのか? 俺に逆らったらどうなるか――」

「済みません先生、それ以上こっちに来ないで下さい!」

「何だとぉ!?」

 鞘香の動転は、もはや隠しきれない段階になった。

 面と向かって嫌われた徒跣も、冷静では居られない。青筋が浮かぶほど逆上している。

 鞘香は息も絶え絶えに、その場にとどまり続けた。体が、本能が嫌厭(けんえん)するのだから仕方ない。統率を乱すのは悪いことだとしても、足腰が動いてくれないのだ。

(店主さん、助けて……!)

 鞘香は巾着袋を握りしめた。それでも飽き足らず両腕で挟み、胸に強く抱きしめる。

 中にはランニングシューズが入っている。他でもない店主が補修した宝物だ。

(店主さんお願い。私を助けて! 私に力を貸して下さい!)

 祈る。願う。

 ()い、患う。

 それは、(こい)を患うのと酷似していた。

 店主の顔が見たい。今の鞘香に勇気を与えてくれるのは、店主をおいて他に居ない。

(店主さんは以前、私と約束したわ! 気が向いたら予選を見に来るって。応援しに来るって! だったら私を見付けて下さい! 声をかけて下さい! そばに居て下さい――)



「何を騒いでいるのかね、諸君らは?」



「――――っ!」

 来た。

 本当に現れた。

 かくして願いは果たされた。

 鞘香は愛しい呼び声に、顔を上げた。たまらず涙が溢れる。踏絵をどかし、徒跣そっちのけで身を翻し、声のした方を仰ぎ見る。そして、脇目も振らず飛び付いた。

 ああ、この感触だ。鞘香は抱きとめられた。相手はエプロンこそしていないが、ワイシャツに蝶ネクタイ、サスペンダーで吊るしたスラックス、厚底のブーツを着用している。

 仏頂面の救世主――牛革と合成樹脂の匂いを体に染み付かせた鞣革(なめしがわ)靼造(たんぞう)だ。

「鞣革ぁ……!」

 徒跣が唸る。鞘香を抱きとめたままの店主と、正面から対峙した。

「また会ったな、徒跣八兵」無愛想に見返す店主。「そう怖い顔をするなよ、旧友(・・)。我輩はただ、知り合いの応援に来ただけだ。一般観客席から見物させてもらうぞ」

 両雄の火花が散る。

 鞘香を巡る最後の戦いが、火ぶたを切ろうとしていた。



   *