1.
市立実ヶ丘高校三年一組の担任教師は、陸上部の顧問でもある。
最前列のど真ん中に席を構えた跡部鞘香、および後ろの席に座る鞆原踏絵は、教壇に立つ御年二八歳の男性教師をじっと見つめていた。
六時間目のレクリエーション、主に学校行事や進路相談に充てられる五〇分は、ゴールデンウィーク明けで身の締まらない生徒たちへ新たな試練を与えようとしていた。
「よく聴けお前ら。かねてから伝えていた通り、明日から三年生は課外授業が始まるぞ」
学校指定のジャージで立ち居振る舞う男性教師は、飾らない気さくな好青年である。
ジャージの胸元には名札が貼り付けられ、その存在を主張している。
『徒跣八兵』
――難しい苗字だ。
ご丁寧に読み仮名まで振られていた。本人も難読を見越しているのだろう。
「明日から三日間、職業体験学習だ! それぞれ希望した職場へ出かけてもらうぞ。あいにく人数調整の都合で、希望通りにならなかった生徒も居るとは思うが、なぁに三日の辛抱だ。存分に社会勉強を楽しんでくれ」
職業体験学習。
最近とみに増えた課外授業は、日々叫ばれる地域交流と決して無関係ではない。
高校生ともなれば、アルバイト等で社会に関わり始めるし、早ければ高卒から働き始める生徒だっている。前もって労働に触れておくことは大切だ。
「工場からスーパーの品出しまで、幅広い企業がお前らを受け入れて下さる。くれぐれも迷惑をかけないように! さもないと受け入れ先から苦情が入って、内申に響くぞ」
徒跣は、連休明けの五月病真っ盛りな教室に喝を入れた。
三年生が学校を巣立つ下準備として、職業体験学習が授業そっちのけで組まれている。受験生には手痛いが、幸いにも鞘香と踏絵は胸躍る気持ちで待ち望んでいた。
「踏絵、楽しみだね!」肩越しに振り返る鞘香。「私たち、同じ職場を選んだのよね!」
「さ、鞘香……教卓の目の前で堂々と振り向くのやめなよ……」ずり落ちたメガネを押し上げる踏絵。「あっほら、徒跣先生がこっち睨んでる……」
「こらぁ跡部! 俺が教壇に立っているというのに、よそ見をするとはいい度胸だ!」
さっそく叱られて、鞘香は首をすくめた。
たちまち教室中がどっと沸く。笑い声に包まれる中、徒跣は教卓から上半身を乗り出して、正面席の鞘香に遠慮なく顔を寄せた。鼻息が荒い。
「俺はお前の担任だけでなく、陸上部の顧問でもある! 必然的に距離感も近くなって気が緩むのかも知れないが、授業中は私語を慎むように心がけろ。いいな?」
「はうっ済みません済みません」
鞘香は両手を合わせて拝み倒した。何を隠そう、この徒跣の指導によって鞘香は短距離走で頭角を現した経緯があるため、頭が上がらないのだ。
「接客系の体験学習は、主に実ヶ丘商店街が受け入れ先として協力して下さった」
徒跣は改めて声を張った。
すでに周知されていたことだが、生徒たちは見慣れた地元の商店街を思い浮かべ、明日からの就労風景に思いを馳せる。
「公立校と商店街が地域密着することで、理解を深め合う狙いもある。地域活性化の一環だな。職業体験は受け入れ先の厚意があって初めて成立する。何度も言うが、くれぐれも迷惑をかけないように!」
はーい、と生徒たちは紋切り型の返事を寄越した。
地元の実ヶ丘商店街――。
鞘香と踏絵は、その一角に並々ならない奇縁を持っている。言うまでもなく職業体験もその店舗を嘱望していた。
「いよいよ明日だね――鞣革製靴店の職業体験!」
「……鞘香はどのみち、あの店でアルバイトする予定なんでしょ?」
「うん! 本格的に働く前に、課外授業として疑似体験できるのは良い機会だわ!」
鞘香は小さな胸を弾ませた。来週には陸上部の地区予選が幕を開けるが、その後は靴屋のアルバイトも予定に入っている。ランニングシューズの修理代金を返済するためだ。
「なお、きちんと就労しているかどうか、先生たちも見回りに行くぞ。手を抜くなよ?」
徒跣が釘を刺すように脅した。
時間によっては回り切れない場所もあるだろうが、生徒たちは身が引き締まる思いだ。
「商店街は店が集中しているから、見回りもしやすいな。挨拶がてら先生が付き添うこともあるだろう。特に跡部、お前は誰にでも馴れ馴れしく接触する悪癖があるから、俺が見てやらんといけないしな!」
「え~? そんなことないですよ!」
「……あるわよ」
後ろの踏絵にも釘を刺された。
鞘香はパーソナルスペースが近いため、人懐っこく緊張感に乏しい。職業体験中に妙な騒ぎを起こしやしないか、周りに心配されるのも詮なきことだった。
現実はそんな危惧すら遥かに上回る事態へ発展するとも知らずに――。
*
「見事に陸上部ばかり残ったな」
徒跣が同行する実ヶ丘商店街は、大半の生徒が普段から利用しているため、見慣れた風景に誰もがだらけていた。
挨拶回りに失礼がないよう、徒跣はジャージではなくワイシャツ姿で歩いていた。ノーネクタイのクールビズだ。厳密なフォーマルではないが、とりあえず格好は付く。
受け入れ先の店舗へ到着するたびに一人抜け、二人抜け……と教え子たちが散らばって行き、かくして最後まで残った一行が、奇遇にも陸上部員だらけだった。
「陸上部・男子のエース、起田渉!」
「はい」
徒跣の点呼に、やたら足の長い男子生徒が応じた。
学ランの襟を正すまでもなく、礼儀正しい着こなしの品行方正な青年だ。日に焼けた肌はいかにもアスリート然としており、同じく小麦色の鞘香と並ぶと、とても絵になる。
「同じく陸上部・女子のエース跡部鞘香!」
「はい!」
「予選出場に何とか滑り込んだ鞆原踏絵!」
「あっ、はい……」
「陸上部のマネージャー、踘谷鞠子!」
「はぁい」
最後に返事したのは、教師に応じるのが面倒臭そうな女子生徒だった。
セーラー服のリボンがゆるんでいる。しかし縮毛矯正された茶髪は寝癖一つなく完璧にセットされており、ときどき吹き抜けるそよ風になびいていた。
スカート丈は鞘香より短いが、あらわになった足は日に焼けておらず、鍛えられてもいない。なるほど選手ではなくマネージャーだと察しが付く。
「そして陸上部顧問の俺、徒跣八兵!」ドンと自分の胸を叩く徒跣。「奇遇だな。陸上部の面子が揃って同じ靴屋を志望するとは。お前ら示し合わせたんじゃあるまいな?」
「偶然ですよ、ははは」
和やかに答えたのは起田である。
彼は鞘香たちをぐるりと見渡してから、顧問に向き直ってこう告げる。
「陸上部は誰よりも『靴』に気を遣いますからね。ランナーにとって、靴は足を守る大切な道具です。興味が湧くのは当然じゃないですか?」
「確かにな」
徒跣は素直に引き下がった。
部のエースである起田は、顧問からの信頼も厚い。
見れば、踏絵と鞠子が惚れ惚れするような表情で、起田の顔をうっとりと眺めていた。
(二人とも、起田くんにぞっこんなのね)
鞘香には今いち判らない感情だが、彼女も起田に悪い気持ちは抱いていない。部を背負って立つエースどうし、親しく交流するよう心掛けている。
「確か、跡部さんが先日、この靴屋でランシューを修理してもらったと聞いたよ?」
その起田が、鞘香に話を振った。
彼の耳にも入っていたようだ。鞘香はここの店主から助力を得たことがある。愛用のランニングシューズを直してもらってからまだ間もない。
「うん! だから実は顔見知りよ!」
鞘香は起田に寄り添って頷いた。パーソナルスペースが近い。
エースどうし仲良く歩く姿は、打って変わって踏絵と鞠子の不興を買った。
「ちょっと跡部さん、起田くんから離れなさいよ」
特に鞠子からは、蛇蝎のごとく睨まれている。愛しの男子に近付く鞘香が疎まれるのは仕方ないが、当の鞘香はこれが通常の距離感なので、なぜ嫉妬されるのか理解できない。
「こらこら、お喋りするな」
徒跣が強引に割り込んで、このツーショットは終了した。起田と鞘香が離れたことで、鞠子も殺気を引っ込めてくれる。
徒跣は意外と生徒を観察している。今の割り込みも、空気を悪くしないためだろう。
鞠子はと言うと、空位になった起田の隣へちゃっかり歩み寄ったのが抜け目ない。すると踏絵も負けじと、鞠子の反対側から起田に隣接した。静かな修羅場だ。
「お前らの向かう靴屋が、最後の受け入れ先だ。くれぐれも失礼のないようにな、跡部」
「む。なんで私だけ名指しで注意するんですか」
「お前は人との距離感が近すぎるからな。特に異性と仲良くすると要らんトラブルを招きかねん。親しい男は顧問の俺一人で充分だ」
「えー、何ですかそれ」
冗談ともつかない顧問のドヤ顔に、鞘香はたまらず吹き出した。だが、異性と近いせいで余計な勘違いを生みやすいのは事実だ。今も起田のことで女性陣から睨まれたし。
間もなく靴屋の軒先が見えて来た。軒先には長身の男性が突っ立っており、鞘香たちの到着を今や遅しと待ちぼうけていた。
「やっと来たか」
無表情のまま、唇の筋肉だけを動かす。
横柄な物言いである。いかにも気難しい唐変木だ。服装はワイシャツにネクタイ、サスペンダーで吊るしたスラックス。靴は工房用の安全靴だ。店名の入ったエプロンをかけている。前髪の間から輝く鷹の目のような眼光が、これまた近寄りがたい印象だった。
顔のせいで三〇代に見えるが、実際は二八歳である。明らかに外見で損をしている。
「その四名が、我輩の受け入れる職業体験生で相違ないか?」
「ええ、よろしくお願いします」深々と頭を下げる徒跣。「おい、お前らも一人ずつ挨拶しろ! この方が店主の――」
「はい、私知ってます!」溌溂と挙手する鞘香。「店主さん、おはようございます! 跡部鞘香、また来ちゃいました!」
言うが早いか店主に駆け寄る始末だ。挨拶もへったくれもない。
場をわきまえない親密なそぶりに、徒跣も店主ものっけから頭を悩ませた。
「あ……あたしも店主さんと知り合いです、よろしくお願いします……」
踏絵もおずおずと手を振ってみせる。徒跣に睨まれてすぐ引っ込めたが。
鞠子が一人、呆れ顔で酷評した。
「跡部さんって、起田くんにも馴れ馴れしいくせに、年の離れた店主にまでベタベタするなんて最低ね。天然の男タラシだわ」
「おい踘谷、愚痴ってないで挨拶しろ」
徒跣に注意されて、鞠子は仕方なく会釈する。
「踘谷鞠子です、よろしくお願いします」
「最後は僕かな。起田渉と申します、これから三日間、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「うむ」
店主は最も礼儀正しくお辞儀した起田にのみ、大きく相槌を打った。
無表情で堅苦しそうな店主は、とにかくふてぶてしい。懐いているのは鞘香だけだ。踏絵も顔見知りだが、引っ込み思案な彼女は一定の距離を置いたきり近付こうともしない。
必然的に鞘香だけが悪目立ちして、徒跣と鞠子から顰蹙を買うのだった。
「おいお前ら! 俺はもう行くが、問題だけは起こすなよ? 特に跡部! 受け入れ先の店主と良からぬ噂が立ったりするのは御免だぞ!」
「良からぬ噂って何ですか?」
「いいから黙って従え! お前と起田は、陸上部のエースなんだ。変な問題を起こされると来週の地区予選に支障が出る!」
徒跣は何度も警告しながら店を去った。
遠ざかる顧問の背中を見送る間も、鞘香は店主にくっ付いて離れない。さすがに起田が見るに堪えず、問いかけた。
「えっと、跡部さんは店主さんと仲がいいけど、親戚とかじゃないんだよね?」
「違うわよ? 店主さんは私の恩人なの!」
「それだけで、こんなに仲良しなのか……」
起田が大いに落ち込んだように見えた。
鞘香は誰にでも愛想を振りまくため、男女問わず嫉妬されやすい。天然の男タラシ、と評した鞠子はあながち間違っていないし、徒跣が口を酸っぱくして注意したのも頷ける。
「で、今日から何をすれば良いんですか?」
その鞠子が店主に対峙した。朴念仁に微塵も怯《ひる》まない女子マネージャーは豪胆だ。
踏絵ですら未だに慣れない店主の強面は、暫時あって唇を開閉させた。
「正直な所、四人も来るとは正直思わなかった」
「は?」
「何しろ小さな店なのでな。店頭業務に四人は多すぎる。そこでだ――」
店主は踵を返した。
長身の彼が身を翻すだけで、山が動いたような威容である。鞘香だけが彼の周りを楽しげに飛び跳ねる中、起田たちは恐る恐る付いて行った。
店の突き当たり、奥の壁に扉が見えた。
『工房』
という表札がかけられている。店主は肩越しに生徒らを振り返った。
「――今日から三日間、諸君らには革靴の製造を体験してもらう」
「か、革靴の製造!?」
鞘香と踏絵が異口同音に驚嘆した。
意外な提案である。てっきり接客業だとばかり考えていた高校生たちは、まさかの製造業務に目を白黒させる一方だった。
「無論、革靴を一から造ると膨大な時間がかかる。そこで諸君らには、ところどころ端折って、めぼしい作業のみを学んでもらう」
「わぁ! 靴を造るなんて靴職人ならではの体験ですね! 工房に入るのも初めて!」
鞘香が真っ先に賛辞した。
太鼓持ちのような役割になっている。よほど店主を慕っているらしい。
「革靴の製造、か――」
起田が感慨深い面持ちでうつむいた。
視線の先には、足元が映る。フォーマルな学ラン姿なのに、なぜかカジュアルなスニーカーを履いていた。目ざとく店主が見とがめる。
「少年よ、何か言いたいことがあるのか?」
「実は僕、制服に合わせる革靴がなかったんで、造れるなら願ったり叶ったりです」
「革靴がない? それはまたどういう――」
「僕の足、ちょっと他の人と違うらしくて、すぐ革靴が駄目になるんです。しょっちゅう靴擦れも起こすし……だから仕方なくスニーカーを履いてたんです」
「ほう? それは興味深いな」
一介の靴職人として触発されたのか、店主は物好きそうに視線をからめた。
武骨な店主にしげしげと詮索されて、起田は居心地が悪そうだ。
「うちのエースをじろじろ見ないで」かばうように立ち塞がる鞠子。「あんたはカリキュラム通りにわたしたちを体験学習させれば良いんだから」
つっけんどんな口調である。
鞠子にとって、嫉妬対象である鞘香と仲睦まじい店主は信用できないに違いない。
店に舞い込んだ四名の生徒は、どいつもこいつも一癖も二癖もある猛者だらけだ。従順な子供ばかりでは退屈だから、店主もこれには快哉を上げた。
「かんらかんら、かんらからからよ」
「て、店主さん?」
「なかなかどうして、我輩の店には奇矯な者ばかり集うものだ。面白い、まずは起田少年の足の具合を見てみよう。その上で、彼の足型に合った革靴を製造しようではないか!」
かくして数奇な三日間が幕を開けた。
靴職人の根幹である『靴の製法』にまつわる一幕が――。
*