ひも解き靴屋の履き心地




   0.



 少女は走る、陸上部の看板を背負って。

 少女は走る、百メートル走の短距離トラックを。

 少女は走る、黒髪をなびかせ、小さな胸を弾ませて。

 少女は走る――ぼろぼろに(ほころ)んだランニングシューズで。

 少女は、この靴で走ると決めていた。高校の公式大会に必ず履く『勝負靴』だからだ。いわゆる(げん)担ぎ。破損するまで履き馴らした血と汗と涙の結晶。

 だが、それにも限度がある。オンボロ靴では満足に実力を出しきれない。

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 ゴールラインを駆け抜けた彼女は、後ろから数えた方が早かった。

 春大会地区予選――一次敗退。

 出場種目はまだ中距離走やハードル走が残っているものの、本命の短距離がこの体たらくでは、どれも同じ結果だろう。

 足を棒のように引きずって、百メートルトラックから退場する。

 膝を上げる気力すらない。靴底が床をするびった。顔もうつむいたままだ。ランニングシューズを見下ろした姿勢でとぼとぼ歩く。

 シューズの惨状が目に映る。靴(ひも)は切れ、靴底は()がれ、外装もあちこちすり切れていた。こんな靴では、どんな名アスリートでも良い記録なんか出せっこない。

 安売りスニーカーの方がまだ()しだ。

(このランシューじゃ限界なのかな? けど私には――)

 それでも少女は決心が付かなかった。大敗を喫してもなお、オンボロ靴にこだわった。

(――私には、この靴で走らなきゃ(・・・・・・・・・)いけない約束がある(・・・・・・・・・)んだから!)

 その誓いが、彼女の足枷(ハンデ)に成り下がっている。

 葛藤。

 逡巡。

 袋小路。

 足の裏を引きずりながら、敗者は力なく競技場の通路を退散する。更衣室の扉が見えて来た。負けた選手は続々とここでユニフォームを脱ぐ。

 ロッカーでジャージを羽織っていると、後ろから同じ部の女子が追いかけて来た。

鞘香(さやか)、お疲れ様……」気遣うようなねぎらい。「やっぱりそのランシューじゃ、もう頭打ちなんじゃないかな……?」

「かも知れないね、踏絵(ふみえ)

「部内ではギリギリ出場枠(レギュラー)を勝ち取れたけど……さすがに大会本番では通用しないね」

「うん。かなり痛感してる」

「春休みが明けたら、あたしたち高校三年よね……次の夏大会が最後なのよね……」

「うん。私たちも進路で忙しくなるしね」

「も、もう諦めるしかないのかな……? もしくは、鞘香のランシューを修理に出すとか……今どき運動靴を直してくれる靴屋なんかあるのか判らないけど……」

「修理?」顔を上げる少女。「それだわ、踏絵!」

「え……?」

 修理。その手があった。

 友人に抱き着いて快哉(かいさい)を叫んだ少女は、一縷の望みを見出した。

 大量消費・大量廃棄の現代において、壊れた品物を直して使う習慣は(すた)れて久しい。修理するよりさっさと新品に買い替えた方が早いからだ。

 でも。

 それでも――。

「私、このランシューじゃなきゃ嫌! 靴を直せるお店があるか探してみる!」



   *






   1.



 首都圏郊外、実ヶ丘(みのりがおか)市。

 駅近くに開かれたアーケード街の仲見世通りは、駅前のデパートや大手スーパーに負けぬよう地域密着型の根強い商売を展開している。

 八百屋や青果店、精肉店と言った食料品店から、本屋、文房具屋、電機店、雑貨屋などの日用品店、定食屋や飲み屋などの外食店、小児科、内科、整形外科の開業医まで一通り揃っている。

 その一角に築三〇年以上は経つであろう、うらぶれた二階建ての店舗が薬局と駄菓子屋の間に挟まれていた。

鞣革(なめしがわ)製靴店』

 という看板が掲げられている。

 元は電飾で光っていたようだが、今は故障したのか省エネなのか、発光していない。

 看板の下には小さな文字で注意書きも認められた。

『靴のオーダーメイド受け付けます。靴の修繕、ヒールの修理も承っております』

 その一文に吸い寄せられて、二人の女子高生が店頭を覗いた。

 まるで明かりにたかる羽虫のようだ。看板は光っていないのに。

 セーラー服である。半袖。夏服だ。

 まだ四月の半ばを過ぎた頃だが、昨今は温暖化の影響ですこぶる暑い。衣替えの季節には早いものの、制服に刺繍された『市立実ヶ丘高校』の校則には、自主判断で衣替えして良いと記されているのだろうか。

「こ、ここかな……? ねぇ、鞘香」

 二人の片割れが、おっかなびっくり話しかける。

 長い髪を襟足で束ねた、メガネ姿の地味で大人しそうな子だ。今も目立たぬよう、鞘香と呼んだ友人の影にこそこそ隠れ、スマホの地図アプリと睨めっこしている。

「そうよ、踏絵」

 もう一人はと言うと、頭半分ほど踏絵より背が高い、上半身をぴんと伸ばした元気溌剌な少女だった。

 姿勢だけでも対照的だが、髪は短く、風を受けてそよいでいる。肌は両名ともうっすら小麦色だが、鞘香の方がやや濃い。

 通学かばん以外に大きな巾着(きんちゃく)袋を()げている。中に収められたオンボロのランニングシューズを見下ろしてから、決意も新たに顔を上げた。

 看板を天高く仰ぐ。アーケードの屋根から射し込む夕陽が眩しい。

「この店が、最後の希望よ。ランシューの修理を受けてくれるかどうかの瀬戸際!」

「ほ、他にも靴屋さんはあったけど、革靴オンリーだったり、予算の兼ね合いで断られたりしちゃったのよね……」もごもごと呟く踏絵。「製造メーカーは納期が長いし……」

 鞘香のボロ靴を直してもらうべく、二人は町中の靴屋を訪ねて回った。部活のない日は早めに下校し、ずっと歩き通しだった。

 しかし、願いは届かなかった。革靴やピンヒールならいざ知らず、運動靴は直すより買い換えた方が経済的だと(さと)される始末。製造メーカーにも問い合わせたが、順番待ちでたっぷり一ヶ月はかかると聞いて断念した。

「夏大会の地区予選はゴールデンウィーク明けの土日だから、悠長に一ヶ月も待ってられないのよメーカーめ!」

「し、新品を買い直す方が早いって言われても、そんなお金ないもんね……」

「そうなの! これ大会用に買った限定モデルだから高いし、限定品だから他に売ってないし! あーあ、そこそこの値段で早めに直せる靴屋さんはないかなぁ?」

 鞘香はずるずると靴底を引きずって歩く。

 制服用の安いローファーを履いているが、これも心なしくたびれている。革の光沢が微塵もない。すり減った靴底は今にも剥がれそうだ。

「私はランシューに思い入れがあるから、これを履いて大会に出たいのよ!」

 鞘香は巾着袋を強く抱きしめた。

 鞣革製靴店を観察する。戸口はない。シャッターを開放されたフロアは所せましと靴が陳列されている。夏に先駆けてサンダルやミュールが大きく棚を占領し、その奥にビジネスシューズやブーツ、ファミリー向けのスニーカーなどが見て取れた。

 個人経営の小さな敷地でありながら、品揃えは豊富だ。極限まで整頓(せいとん)し、計算し尽くされたレイアウトでなければ、このスペースにこれほどの品は並べられまい。

 奥の壁には『工房(アトリエ)』と記された扉が目に映る。

 そこで靴の製造・修理を行なっているのだろうか。

「ごめん下さーい! 何て読むんだっけ、ナ……ナメシガワ製靴店さーん!」

 鞘香はソプラノボイスを張り上げた。

 店内に反響した声は、虚しく拡散されて消滅した――誰も居ないのか?

「わ、ま、待ってよ鞘香」

 踏絵がおっかなびっくり追従する。

 店内には客もない。あまり繁盛していないのか。埃一つかぶっていない商品群はいずれも有名メーカーから出たばかりの新商品で、回転率は悪くなさそうだが――?

「いらっしゃい」

 工房の扉が押し開かれた。

 出て来たのは腹の底に響く重低音(バリトン)の偉丈夫で、(あお)るように鎌首をもたげている。

 男性にしては長めの前髪を、真ん中で分けている。あらわになった双眸は、鷹のように()ぎ澄まされた強面(こわもて)だ。踏絵がヒッと叫んで物陰に隠れた。

 鞘香だけは平然と見返し、男性の誰何(すいか)を考察した。

 男性の服装はワイシャツに蝶ネクタイ、スラックスをサスペンダーで吊るしている。そして『鞣革製靴店』のロゴが入ったエプロンを前身にかけていた。

 足には工房作業用と思われる厚手のブーツを履いている。足のすねまで覆う黒革が物々しい。歩くたびにごつごつと重たい音を立てた。

「何か入り用かね?」

 男性は、ぶっきらぼうに言い放つ。レジカウンターまで進み出ると、そこにあった丸椅子にどっかと腰を下ろした。

 無愛想だ。

 表情一つ変えない。

 店主だとしたら客商売にあるまじき仏頂面ではないか。

「凄い鉄面皮(てつめんぴ)ですね!」

 だから鞘香は、つい言ってしまった。

 男性はぴくり、とこめかみを(うず)かせる。

 後ろで踏絵が震え上がった。

 堂々と店主のしかめっ面に物申す。鞘香はそういう性格なのだ。肝が据わっているというか、屈託がなさ過ぎるというか。

「ねぇ! あなたがここの店主さん? 私たち初めてで勝手が判らないんですけど、そういうときって店員が積極的に接客するべきじゃないですか?」

「……ぴーぴー(さえず)る客人だな」

 店主はかったるそうに、椅子に座ったまま頬杖を突いた。

 仕草が粗野だ。身なりは整っているのに、どうにもとっつきにくい。

 商店街は地元の馴染み客しか来ないから、一見(いちげん)さんには厳しく当たってしまうのだろうか。常連客ならば店主の態度にも慣れているのかも知れないが――。

「見た感じ、三〇歳くらいですか?」構わず迫る鞘香。「黙っていれば渋《しぶ》メンって感じですけど、お客にはもっと愛想良くしてくれたら嬉しいです!」

「二八歳だ。何だね一体。人の店に踏み込んで来たかと思ったら説教かね?」

「えっ二〇代なんですか! 強面だから年輩に見えますね!」

「あ、あのっごめんなさい……!」

 踏絵が割り込んだ。

 喋り倒す鞘香を押さえ込み、店主から遠ざける。怖がっていたくせに凄い膂力(りょりょく)だ。さすが陸上部の同胞、体作りの基礎は出来上がっている。

「わ、悪気はないんですっ。鞘香は人見知りせず、ずかずか寄せて来る図々しさで……」

「えー踏絵、その言い方ひどくない?」

「だから、勘弁して下さいっ……あ、あたしたちずっと靴屋を練り歩いてたせいで、若干ナーバスになっておりまして……!」

「練り歩いた、だと?」

 店主が興味を持ったらしく、ぎろりと横目でねめつけた。

 踏絵は再び悲鳴を発し、鞘香を盾にして身を隠す。

 鞘香は溜息を()くと、しぶしぶと言った風体で店主に向き直った。

「私のランシューを直したくて、いろんなお店を回ったんですけど、どこも断られちゃって。あ、こっちの子は私の部活仲間です。靴屋巡りにも付き添ってくれる、自慢の親友なんですよ! 引っ込み思案なのが玉に瑕ですけど!」

「誰も聞いちゃいないよ、そんなこと」

 店主は面倒臭そうにぼやいた。唐突に自分語りをされても困るのだろう。

 鞘香は「そうですか」と軽く流した。何が不興を買っているのか理解できていない。

 踏絵が後方から(すそ)を引っ張って「鞘香は|パーソナルスペースが近すぎるよ……誰にでも遠慮なく接しすぎ……!」と注意したが、それの何が悪いのか鞘香には見当が付かない。

「珍しい客人もあったものだ」

 店主は重たそうに腰を持ち上げた。

 立ち上がった威容が二人を俯瞰(ふかん)する。細身なのでそれほど脅威ではないが、やぶにらみの三白眼と、への字に結ばれた口許(くちもと)は女子高生を圧倒した。

「工房で靴の修復作業をしていたら、店頭の防犯カメラに人影が映った。こりゃ来客だと思ってレジに出てみれば、小娘に接客態度が悪いと叱られる始末……ははっ、傑作だなこれは。かんらかんら、かんらからからよ」

「か、かんら……?」

 現代人には耳慣れない笑い方に、鞘香は目を丸くした。

 風変わりな店主の一挙手一投足に、鞘香の双眸は釘付けだ。持ち前の積極性が、彼女を退かせない。

「それより今、靴の修復作業って言いましたよね!」

「ああ。この店は我輩(わがはい)一人でやりくりしているから、客の居ない時間は靴工房にこもっている。来客があれば防犯カメラとセンサーが教えてくれるのでな――」

「さっきも言った通り、私のランシューを直して欲しいんですけど!」

 鞘香は一も二もなく巾着袋を押し付けた。

 ぼろぼろのランニングシューズが袋から垣間見える。いきなりガラクタを渡された店主は何事かと眉をひそめたが、すぐに気を取り直して巾着袋を握りしめた。

 その際、鞘香とわずかに指が触れた。店主より日に焼けた、健康的な肌の色だ。

「ランシューを直すつもりかね?」(いぶか)しむ店主。「革靴ならいざ知らず、運動靴なんて今どき使い捨てだろう。新商品が続々と各メーカーから発売されているのに――」

「駄目なんです!!」

 鞘香は(さえぎ)った。

 店主と同じ台詞を何遍も聞かされた。耳にたこが出来そうだ。だから否定せずに居られなかった。半ば声を裏返らせながら。

「私は、そのランシューじゃなきゃ駄目なんです!」

「ほう。どういうことだ?」

「練習用の安いトレシューなら持ってますけど、本番はこのランシューで走るって決めてるんです! 結構高い限定モデルで、なけなしのお金を払った記念品なんです!」

「記念品?」

 店主は眉につばを付け、巾着袋を目線の高さまで掲げ持った。

 ランニングシューズを引きずり出し、じろじろと見つめる。

 靴底が剥がれ、足先や踵の外皮は破れ、紐がちぎれかけた廃品同然のボロ靴。

 かなり使い込まれている。普通、ここまで履きこなす者は居ない。単に物持ちが良いだけではなく、ただならぬ思い入れがある証左だ。

 執着。愛着。そして拘泥(こうでい)

 鞘香という女子高生は、一足のランニングシューズに何らかの誓いを立てている。

「本番以外にも、フォームの最終調整とかで練習中に履くこともあります。そうなるともう、使うのが限界で! 私の愛用のランシューを修理して下さい!」

 鞘香は店主にしがみ付いた。足を引きずって、すがるように這い寄る。他に頼れる者が居ないのだ。

「靴の修理を請け負う店って、近年どんどん減ってますよね? そりゃそうですよね、古いものを直すより新品を買った方が市場は回りますし、店も楽に儲かりますから! でも私は、この靴じゃないと本番を走れない理由があるんです!」

「もういい、判った判った」

「え! それじゃあ――」

「とりあえず我輩から手をどけろ」

 店主は鞘香を振りほどいた。同時に巾着袋を押し返す。まるで突き返されたように感じられて、鞘香はがっくりとうなだれた。

「やっぱり駄目、ですか?」

「先に事情を聞かせて欲しい。まずはお嬢さんの名前から教えてくれないか?」

「私は跡部(あとべ)鞘香! 市立実ヶ丘高校の三年生です! こっちは親友の鞆原(ともはら)踏絵!」

「あ、ど、どうも……」物陰から会釈する踏絵。「鞘香の付き添いで来ました……」

「私たちは次の夏大会が最後なんです! 絶対に勝ちたいんです! だから靴を――」

「誰も断るとは言っていない」

 一心不乱に訴える鞘香の頭が、ぽんと店主の手で撫でられた。

 大きな手だ。硬くてごわごわしている。これが靴工房で働く男のてのひらか。

「我輩は靴を直すのが仕事だ。専門学校でシューズフィッターや製靴技能試験などの民間資格に合格したあと、海外で何年か修行を積んで来た。おかげでしばらく日本語を忘れてしまったほどだ」

「へえ! じゃあさっきの『かんらかんら』とか、一人称の『我輩』とか古風(レトロ)な話し方をしてたのって――」

「日本語を思い出すために文豪の近代文学を読み漁ったら、当時の言葉遣いに影響を受けてしまったようだ」

 しれっと答弁する店主の仏頂面が、それはそれで趣深い。

 偏屈な怪人物としか思えない第一印象も、こうして咀嚼(そしゃく)してみると個性的で面白く感じられる。鞘香のパーソナルスペースが近いおかげで、どんな相手でも特徴を真っ先に掴めるのは便利だった。

「あははっ、面白い個性ですね! 他のお客さんにも私と同じことを聞かれませんか?」

 鞘香はますますのめり込む。

 実際、武骨な偉丈夫が堅苦しい言葉を発するなんて、一度見たら忘れられないインパクトだ。他の客は疑問に思わないのだろうか。

「今日び、こんな小さい店には馴染みの客しか来ないのでな」閑古鳥な店内を一望する店主。「駅前のデパートに客を取られ、ご覧の通り靴職人なんか儲からないのが実状だ。修理の依頼も年々減っており、我輩の人となりを聞かれることも少ない。だからまぁ、お嬢さんのような新規客は大歓迎だ」

「大歓迎? ――てことは!」

「うむ。ランニングシューズの修理は可能だ。ネットで検索すれば、運動靴の樹脂縫合や靴底(ソール)の貼り換えなど、山ほど出て来る。ただコストに見合わないだけでな」

 コスト――そう。高価な革靴ならいざ知らず、消耗品である運動靴をわざわざ直す利点(メリット)は少ない。だからこそ、店主の一声は鞘香にとって救世主のごとき福音に聞こえた。

「申し遅れたな、我輩の名は鞣革靼造(たんぞう)。靴にまつわる客人の悩みを(ひも)()きながら生計を立てる、一介の靴職人だ」



   *





   2.



 悩みを――紐解く?

 靴の()()けているのだろうか。

 ともかく眼前の靴職人はそうのたまった。すがり付く鞘香の要望に応じたのだ。

「よ、良かったね鞘香……」

 後ろでは踏絵がたどたどしく祝福の拍手をしている。

 まだ直し終えたわけではないため、喜ぶのは時期尚早だが、ひとまずランニングシューズの修理に()ぎ付けたのは朗報と言えよう。

 鞘香はもう一度、店主に礼を告げた。

「ありがとうございます! それで、えっと――修理代金の話になるんですけど!」

「いちいち迫るな。顔が近い」

 意見するたびに相手の間合いへ踏み込む鞘香は、店主の息がかかる距離だった。

 なるほど、パーソナルスペースが近い。鞘香は今さらのように顔を真っ赤に染めた。

「あっ、済みません! つい夢中になっちゃって!」

「修理代金に関しては我輩も切り出そうと思っていた所だ」

 仕切り直す店主は、極めてビジネスライクな声色だった。

 鞘香も持ちかけた金銭交渉は、商売を成立させる上で欠かせない要素だ。ましてや個人経営店ともなれば、目下の利益が最優先課題であることは言うまでもない。

「ざっとランシューの損傷を見た限り、靴底を中心に換装せねばなるまい。となると靴底の材料費と手間賃が基本料金に上乗せされる」

 店主はレジカウンターの上にランニングシューズを置いて、全体を観察した。

 鞘香もレジの前で手を突き、店主と対面する。傍らには踏絵が同伴している。この親友は口こそ出さないが、商談がまとまるかどうか固唾を呑んで見守っている。

「そうですね! 靴底がすり減ってるし、かかとも剥がれかけてるんで、そこを直すだけでも走りやすくなると思います!」

「靴底には二種類の層がある。底面をアウトソール、靴底の厚みをミッドソールと呼ぶのだ。各メーカーが血道を上げて開発しているのも、このミッドソールだ。ここにエアを入れたり、低反発素材や緩衝材を盛り込んだりして、走りやすさを向上させるわけだ」

「なるほど~。あ、ここの縫い目がアウトソールとミッドソールの境目ですね!」

「だな。この靴と同じソールをメーカーから取り寄せなければならん。高く付くぞ」

「うっ」

「さらに足首を包むインナー、シュータンが裂けている。それだけ君が走り込んだ証拠ではあるが、靴の入口であるこの部分がブカブカだと、靴が脱げて走りづらかろう」

「はい! 超困りました! 靴紐をきつめに縛って、脱げにくくはしましたけど」

「その靴紐も相当(いた)んでいるぞ。見ろ、紐のあちこちがほつれているではないか。紐を通す穴・シューレースホールも一部が破れていて、飛ばして結んでいるな」

「うぅ、その通りです」

 指摘されるたびに、鞘香は肩身が狭くなった。

 こんな靴で大会に(のぞ)んだら、勝てるものも勝てない。備品、道具、手入れとメンテナンスにどれだけ金をかけられるか。努力では超えられない壁は実在する。

 いくら陸上競技が他の運動に比べてお金のかからないスポーツといえども、だからこそ靴の良し悪し一つで走力が大きく左右されるのだ。徒競走は足腰と靴が全てだ。

「足の甲を覆うアッパーも外皮(ガワ)が剥がれ、中の素材が露出している。本来ならさっさと廃棄すべきだ。直すとしても全面的に貼り換える羽目になりそうだな」

「えっ! 全部とりかえちゃったら、もはやこの靴じゃありませんよ! ほぼ新調するのと変わらないってことですよね?」

「ありていに言えば、そうだ」取り付く島もない店主。「アッパーもインナーもシューレースもソールも全てオシャカだ。新品を買った方が遥かに良い」

「けど、このモデルってプレミア付きの限定品なんです。私がお兄ちゃん(・・・・・)に買ってもらったとき、完全限定生産品だとかで十五万円でした」

 十五万円!

 一介の高校生には安くない価格だ。社会人でも高い。一流のトップアスリートですらめったに履かない値段である。

 しかも『お兄ちゃん(・・・・・)に買ってもらった』と来た。

 店主が耳ざとくそのフレーズにこめかみを疼かせた。

 ランシュー一足にここまで入れ込むからには、特別な想いが込められていると予測するのはたやすいが、恐らく『兄』とやらがそれなのだろう。

 鞘香がこの靴に執着する理由――。

「君がこれを買った経緯、出来れば教えてくれないか」

 店主は強面のまま、ぶしつけに尋ねた。

 鞘香はこくりと頷いて、素直に口外し始める。一切のためらいもなく事情を打ち明ける距離感の近さが、純粋無垢で眩しい。

 隣では踏絵が「え、そこまで話す必要があるの……?」と首をひねっていたが、外野の懸念など構うものか。

「もともと私の家、貧乏なんです」顔を寄せて話す鞘香。「私が中学生の頃、両親は事故で他界しました。蓄えも身寄りもなくて、葬式やお墓の費用で財産も底を突いちゃって」

「親が居ないのか。どうやって生計を立てているのだ?」

「大学生だったお兄ちゃんが自主退学して、就職したんです! 高卒から入れる工場で働き始めました。これなら一応、成人した社会人が家族に居るってことで、孤児院などの施設には入らずに済んだんです!」

「ほう。では兄妹二人きりで暮らしているのか」

「はい! けど毎月ぎりぎりの生活で、無駄なお金をかけられなくて。私も週二日、部活のない日にコンビニバイトして、何とか部費や小遣いを捻出してます。昔は二人とも剣道を習ってたんですけど、防具や衣装の費用がかさむんで辞めました」

「それで金のかからない陸上を始めたのか。極端な話、靴代だけで済むからな」

「お兄ちゃんは私だけでも剣道を続けさせたかったみたいですけど、贅沢するわけにはいかないんで我慢しました。そしたら、お兄ちゃんがムキになって『せめてランシューくらいは良いものを見繕ってやる!』って息巻いて、限定モデルを奮発してくれたんです。いわばこの靴は『一張羅(いっちょうら)』なんです」

 安かろう悪かろうでは(かえ)ってお金がかかるから、高値の良品を一足だけ買おうとしたらしい。

 品質が良ければ、走る際の負担も減る。初心者だからこそ良い道具を揃えるべきだ。

 その結果、十五万円もの稀少なランニングシューズが手元に届いた。鞘香はその一足を勝負靴として使い込み、高校生活を陸上に(ささ)げたのだ。

「ふむ。だから同額の代替品を買い直すことは難しいわけか。高い上にレアと来た」

「はい!」

「おまけに兄が、薄給から大枚はたいた『貴重な記念品』というのも、靴を手放したくない理由なのだな」

「その通りです! 私は高校三年間、そのランシューと共にありました。一年目はぺーぺーでしたけど、去年は努力が実って夏大会と春大会に出場しました!」

 大会規定にもよるが、この世界では個人競技に誰でも出場できるわけではない。

 学校ごとの出場人数は上限が定められている。部活の顧問教師がレギュラーを選出し、あらかじめ大会に登録する手筈になっているのだ。

「は、春大会は惜しかったわよね……鞘香」フォローになっていないフォローを入れる踏絵。「鞘香の実力なら予選を突破できるのに、靴がボロボロのせいで失速……ランシューさえ万全なら突破できたのに……!」

「うん。あと少しでライバル校にも勝てそうだったのに。悔しい!」

 慰め合う女子二人を、しかし店主は冷徹に見下ろす。

 今は感傷に浸る場面ではない。もともとは金銭の話をしていたのだ。

「この靴を完璧に復元する場合、十五万円では済まないぞ」

「えっ!」

「限定品となると、修理用パーツがメーカーに残っているかも疑問だ。材料の在庫があるとは思えない。我輩の工賃も、限定品は市販品より高くなる。細かな仕様の違いや縫製の差に合わせなければならず、手間がかかるのだ」

「それはちょっとキツイです!」

「ならば修理する患部をいくつか絞る必要がある。アッパーは一部が剥がれかかっただけで致命傷ではないから、今回は見逃そう。インナーのゆるみも靴紐の結び方次第で(おぎな)えるだろう」

「そうですね。本当は直したいけど!」

「では修理箇所は、靴紐とシューレースホール、そして靴底(ソール)に絞られた。何なら靴紐も安い新品に取り換えた方が――」

「いいえ、その紐を直して下さい! ほつれを元に戻して下さい! お兄ちゃんに買ってもらったのは、それ(・・)なんですから!」

「そうすると、納期は二週間。四月末、ゴールデンウィーク最初の日曜日で大丈夫か?」

「あ。どうだったっけ踏絵?」

 鞘香は友人に顔を向けた。

 踏絵はスマートホンを取り出し、日程表とにらめっこする。

「ぎ、ぎりぎり平気よ……地区予選は五月に入ってからでしょ?」

「そうね! なら連休中は新生ランシューで最終調整する時間が作れるわね! 春大会から部員の構成は変わってないから、今回もレギュラー入りはほぼ確実だし」

「――話はまとまったか?」

 店主は電卓をカウンターの下から持ち出した。

 代金を計算し始める。破損箇所の貼り換えと修繕、その材料費と手間賃をつまびらかに加算した結果が、鞘香の眼前へ突き付けられた。

「どんなに負けても十一万円だ。初めての利用客ということで割引してもこの価格だ」

「じ、じゅういちまんえん……」

 鞘香はそれでも顔が青い。

 とりあえず、十五万円を買い直すよりは懐に優しかった。そもそも限定品なので買い直すことは出来ないのだが、それはともかく。

 いかんせん鞘香は苦学生だ。稼ぎ頭が兄一人。なのに妹はアルバイトもそこそこに部活へ心血を注いでいたとなれば、十一万円ですら法外な価格に思えてしまう。

 そもそも十一万円あれば、普通の新作モデルを複数買ってもお釣りが来る。にも(かか)わらず、あえて使い古しの再生を望むから話がややこしくなっている。

「何だ? 払えないのかね?」

 店主は鼻で大きく溜息を吐いた。商談はご破算、とでも言いたげだ。

 これはまずい。非常にまずい。鞘香から一層、血の気が引いた。この機会を逃せば靴の修理は永遠に叶うまい。兄の限定品で結果を出すという誓いが反故(ほご)になってしまう。

 兄がくれたプレゼント。

 苦しい生活の中、兄が見栄を張って購入した精一杯の餞別(せんべつ)

(お兄ちゃんが生活費も学費も出してくれてる。私はせめてのもの恩返しに、お兄ちゃんがくれたランシューで勝利を飾りたい! だから高校三年間、公式大会は全てこの靴で戦い続けたのよ! 靴が壊れるまですり減らして――)

 得意な短距離走を中心に、中距離走とハードル走にも力を入れた。それらの努力を無駄にしたくない。この三年間を徒労で終わらせるのはまっぴら御免だ。

「済みません! お金の持ち合わせがないんですけど、直して欲しいです!」

「ないのか」渋面をかたどる店主。「君の来月のアルバイト代を前借りするとか――」

「前借り禁止なんです! ごめんなさい!」

「困ったな。先立つものがないと話にならない」

「待って下さい! 私は家の事情が事情なので、進学せず就職するつもりです。来年まで待ってもらえれば、初任給で払います!」

「そんなに待てるか。金がないなら君の体で払ってもらおう」

「へ」

 鞘香は目をぱちくりさせた。後ろで踏絵もきょとんと(ほう)けた。

 金がないなら体で払う。お決まりの台詞だった。よもや現実で聞く機会があろうとは。

「か、体って!」

 鞘香の体温が急上昇する。たまらず自分の体を抱きすくめた。

 踏絵が「ま、まだあたしたち高校生なのに……?」とあらぬ想像を巡らせている。

 店主はしかめっ面で呟いた。

「――君が地区予選を勝ち抜いた場合、その後の本選はいつやるのかね?」

「関東大会が六月半ばで、全国大会が八月初旬です」

「よし、地区予選が終わってから夏休みまでの間、練習の合間に多少なりとも暇が出来るだろう? その期間だけでいい、コンビニバイトの他に靴屋(うち)の店番もやりたまえよ」

 店番。

 体で払うとはそういうことだった。鞘香はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。踏絵は懸命に居住まいを正したものの、まだ少し頬を赤らめている。

「ああ~そういう意味ですね! ですよねーっ!」

「君が新生ランシューで地区予選を勝つにせよ負けるにせよ、隙間の余暇を細かく店番に当てれば、不足分の金額くらいは稼げるはずだ。忙しくなるとは思うが、代金を払う当てにはなる」

「いいんですか? 私に務まりますか?」

「店番くらい誰でも出来る。それにご覧の通り、客足は少ないから簡単だ。基本は店内の掃除および品物の陳列が業務内容となる。バイト代は最低賃金で計算するが、修理代の不足を返済でき次第、雇い止めで良い」

「はぁ。それなら務まりそうですけど」

「我輩は工房にこもりがちだから、店頭に誰も居ない状況が心許(こころもと)なくてな。レジ係を一人立たせておくだけでも安心なのだ」

「判りました! やります!」

 鞘香はカウンター越しに飛び付いた。店主の手を握り、電卓を押しのけて胸板に顔をうずめる。靴屋らしい牛革の匂いと合成樹脂の匂いが、彼の体躯から嗅ぎ取れた。

 抱き着かれた店主は一瞬だけ目を白黒させたが、すぐに鬱陶しがって鞘香を引き剥がした。この少女は距離感が近くて困る。誰にでもこんな接し方をするのだろうか。

「交渉成立だな。まずは我輩がランシューを直す。その間、君は地区予選の練習に専念しろ。アルバイト開始はそのあとだ。詳しいシフトは後日相談。契約書を持って来よう」

 店主はそうと決めたら動きが早い。

 工房の他に、事務室と称された扉がレジの向こうにひっそりとあって、そこから店主は二枚の契約書を携えて来た。

 ランニングシューズを修理するための預かり書と、アルバイトの契約書だ。

「私、印鑑とか持ってませんけど!」

「指紋を朱肉に付けて押したまえ」

 慣れた口調で店主はうそぶいた。実にこなれた挙動と口ぶりだったので、鞘香は興味を惹かれる。

「私以外にも、こういう契約を結ぶ人って居たんですか?」

「ちらほら居た。現代は大量消費・大量廃棄が常なのに、わざわざ靴を修理したがる人物は大抵、何らかの事情を抱えたワケアリ(・・・・)だ。君のように金銭的な理由を掲げるケースも多いゆえ、そんなときはこうやって救済措置を取っている」

「へぇ~、優しいんですね!」

 鞘香は店主の懐の深さを垣間見て、表情をゆるめた。

 一見すると無愛想で人情の欠片もない唐変木だが、その胸の内は意外と情に厚く、一文無しでも依頼を承る義侠心に富んでいる。

 少なくとも鞘香にとって、窮地に一筋の光明を照らした救世主であることは確かだ。

「よ、良かったね鞘香……」親友の手を繋ぐ踏絵。「あ、あたしとまた一緒に走れる日を楽しみにしてるよ……あたしの場合、レギュラーに選ばれるかどうかの瀬戸際だけど……部活仲間として、好敵手として、鞘香と切磋琢磨できたらいいな……」

「うん! 負けないわよ踏絵!」

 鞘香は一層、闘争心を(とも)らせた。

 踏絵は相変わらず引っ込み思案で発言も噛みがちだったが、外見上は友人の復帰を喜んでいるように見える。

 女子二人がきゃあきゃあ騒ぎつつ契約書をしたためていると、店外から一本の影法師が入り込んだ。来客の気配だ。

 ときどきだが客足はあるらしい。店主は鞘香たちを(しず)めてから接客に向かった。女子二人は神妙な面持ちになって、店主の一挙手一投足を観察する。この仏頂面が、どのような営業をするのか関心が湧いたのだ。

 来店したのは、近所に住む顔馴染みらしき老人だった。禿頭が輝かしい老紳士だが、体付きはがっしりしていて足取りも確かだ。服装は登山用のベストと長袖シャツ、そして厚手のズボンだった。

 登山ルックは老人の間で長く流行っているファッションの一つだ。シニアのハイキングやキャンプは健康ブームのおかげもあって人気を博している。

 つまり、このご老体が欲する靴は――。

「登山靴だな。ちょうどトレッキングシューズの新入荷があるぞ」

 店主は目当てのコーナーへ案内すると、手早く品目の紹介を済ませた。

 老人に試し履きをさせ、その場でお金を受け取っている。早足でレジに舞い戻った店主は、品物を袋に詰めたあと、レジスターからお釣りを引き出した。

 再び老人の元へ歩いて行く際、鉄面皮の相好がいくらか崩れているのを鞘香は見た。

「毎度あり」

 かくして老人は去って行く。

 店主はいつもの仏頂面に戻っていた。表立って営業スマイルを浮かべることはなかったものの、スムーズで無駄のない対応だ。

「手際がいいですね!」

 鞘香が感嘆の声を漏らし、店主はフンと鼻を鳴らした。

「店内は我輩の庭だ。どこに何があるかはすぐ判るし、客の顔も覚えている。商店街は近隣住民の常連客(リピーター)ばかりだから、何の入り用かを迅速に察することが肝要だ」

「脱帽ですっ!」

「それに、この店は量販店に比べると敷地が狭く、品揃えも限られる。客層を的確に把握し、確実に売れるものだけを入荷することで回転率を高くしている」

 だから店の品物がほとんど埃をかぶらず、新品ばかりで占められていたのだ。そうやって売上を維持しつつ、修理やオーダーメイドで副次的な儲けを得ているのだろう。

 鞘香は今さらながら感心した。

 この店主、見かけこそ朴念仁だが、経営者としての手腕はあるようだ。そうでなければ商売なんて成り立たないだろうが、機転が利くのは間違いない。

 未来のアルバイト店員として、安心して身をゆだねられそうだ。

「じゃあ店主さん! ランシューのことお願いしますね!」

 契約書を書き終えた鞘香は、店主にぺこりとお辞儀した。

 愛するランニングシューズは店主に渡したままだ。これから二週間ほど彼女の手から離れてしまう。寂しくて胸が張り裂けそうだったが、ここはぐっと耐えるしかなかった。

「うむ、任せたまえよ」ちらりと睥睨する店主。「そっちのメガネの子も、何かあれば遠慮なく頼ってくれて良いぞ」

「え、あ、はいっ」

 踏絵がどぎまぎと返事した。彼女も気にかけられているようだ。

 店主は大きく頷いて、契約書とランニングシューズを片付ける。まずは契約書を事務室へ持って行き、引き返す足でランニングシューズを工房に運び込む――のだが。

「ん?」

 ――店主の、手が、止まった。

 手に携えたランニングシューズの片方――鞘香の利き足でもある右――をまじまじと見据えたきり、時間が停止したかのように微動だにしなくなった。

 何か異変でも発見したのか?

 鞘香は店主の奇行に狼狽するしかない。

「店主さん! 私のランシューに何かありました?」

「この靴紐、酷使したせいで劣化して切れた――という話だったよな?」

「はい、それが何か?」

 小首を傾げる鞘香と裏腹に、店主はふてぶてしくかぶりを振った。

「この紐、人為的な切れ込みが(・・・・・・・・・)入れられている(・・・・・・・)ぞ」

「ええっ!?」

 鞘香は頓狂(とんきょう)に声を裏返した。

 その奇声に驚いた踏絵も、甲高い悲鳴とともに飛び跳ねた。

 ――人為的な切れ込み。

 三人は顔を突き合わせて、慎重にランニングシューズを覗き込む。

「本当だわ! この靴紐、切断面が綺麗!」

「ああ。まるで鋭利な刃物で切断された(・・・・・・・・・・・)ように滑らか(・・・・・・)だろう? 通常の自然劣化なら、もっとほつれたような切れ方になるはずだが」

 意図的に、恣意的に、悪意を持って切断されたということだ。

 誰が? 何のために?

 いたずらにしては悪質すぎる。

「靴の故障は、何かが君の躍進を妨害する工作だった(・・・・・・・・・)のではないか?」

「そんな――!」

 とんでもない疑惑が浮上した。

 鞘香は自分の宝物が第三者に傷付けられたことに衝撃を受けたし、心ない蛮行に悲しみを覚えた。踏絵に至っては眉をひそめたきり凝り固まって動かない。

「考えてみれば、いくら三年間使い込んだとはいえ、大会本番でしか履かないランシューがここまでくたびれるのは珍しい。実は靴紐以外にも傷を付けられていたのかも知れん」

「一度や二度じゃないってことですか!」

 何者かが執拗に付け狙った犯行ということだ。

 そう考えると、この過剰な破損具合も得心が行く。自然な消耗ではこうはならない。

「この修理は、一筋縄では行かないな。(から)まった謎をじっくり紐解く(・・・)必要がありそうだ」



   *





   3.



 謎を――『紐解く』。

 さっきも聞いた文言だ。これで二度目。

 紐解くとは、こんがらがった揉め事や謎を解決するという比喩表現にも用いられる。それを靴紐に掛けたジョークとも(とら)えられるが、不思議なことにこの店主が大真面目な剣幕で言い放つと、本当に解決できそうな気がして鞘香は見とれてしまった。

「紐解くって、店主さんがですか?」

「我輩に任せろ。もののついでだ」

 店主は鞘香の頭に手を置いた。

 鞘香のパーソナルスペースが近いことを逆利用し、寄って来た彼女へ先んじて触れることで、上手にあしらっている風にも見える。

「我輩は靴屋として、靴を粗末に扱う不届き者が許せない。ましてや人を貶めるために妨害工作を企てる外道は、なおのこと放置しておけん。しかも貴重な限定モデルを!」

「私も同感です! これを買うためにどれだけお兄ちゃんが苦労したか!」

「十五万円のランシューと聞いて心当たりを考えていたが、このデザインは海外の有名ブランド『アディオス』だろう?」

「えっ、判るんですか? ロゴマークも汚れて剥がれちゃってるのに!」

「判るさ。しかもこの縫製は、アディオス日本支社の専属アドバイザーであり名工としても知られる靴職人・巳村(みむら)一司(ひとし)氏が限定百足だけ生産した幻のランシューではないか?」

 すらすらと(そら)んじた店主に、鞘香は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を見せた。つぶらな両目をしばたたかせる。どうやら正解のようだ。

「凄い! 見ただけでそこまで鑑定できるんですか!」

「何年か前に巳村氏の工房が予約を開始した際、マニアの間で大きな話題となった。先着百名の応募は瞬く間に終了……懐かしいな。我輩は間に合わなかった」

 あんたも応募してたんかい、と鞘香は心の中で突っ込んだが、この店主をして応募したがるほどのマニア垂涎アイテムということらしい。

「我輩など足元にも及ばない、遥かな高みに鎮座ましましている日本最高峰の靴職人が巳村氏だ。それを数年で使い込んだ君は素晴らしいし、傷付けた犯人には憤りを感じる」

 犯人。

 店主は明確に蔑称した。

 悪事を働いた罪深き者。糾弾されるべき不埒者。

 そうだ、これは『犯人探し』なのだ。鞘香に敵意を向けた加害者へ一矢報いなければ、たとえ靴を修理しても再び同じ妨害を受けかねない。犯人解明は急務である。

 この靴を二度と(けが)されるわけにはいかない。鞘香の兄が身銭を切って、しかも膨大な倍率をかいくぐって買い付けた稀少品なのだから。

「だが本当に我輩が直して良いのか? 作成者が巳村氏ならば、修理もそちらに――」

「有名どころは高いんですもん」もじもじと肩身を狭くする鞘香。「電話してもなかなか繋がらないし、いざ話が出来ても法外な修理代と遅すぎる納期を提示されたんで諦めました。無料保証期間もとっくに過ぎてたから、邪険にあしらわれちゃって」

 ものを言うのは懐事情である。

 台所が火の車である鞘香は、手近な修理屋を捜すしかなかったわけだ。

 店主は納得して、今度こそランニングシューズを工房へ運んだ。

「ではさっそくとりかかろう。と同時に、君は靴に負担をかけない履き方を心がけるようにしてもらいたい」

「負担ですか?」

「破損の大部分は『犯人』の妨害工作によるものだが、それはきっかけでしかない。使用者自身の足癖や走り方によっても、靴は消耗して行くものだ」

「つまり犯人は、私の足癖を熟知した上で、破損しやすい傷を入れてたんですか?」

「左様だ。例えばこのランシューは、アウトソールの摩耗が著しいと話しただろう?」

「はい」

「君は確か、剣道をやっていたな? そのせいで、本番前の歩行や緊張したときにすり足で歩く癖が付いている(・・・・・・・・・・・・・)のではないか?」

「あ! そうかも」

 鞘香はずるずると足を引かせた。

 今履いている革靴だって、ここに来るとき何度か引きずっていた。だから靴底がすり減って、ぺたんこになっている。

「やはりな。かかとよりも爪先(つまさき)に体重をかけているのも、足音を立てない礼節を叩き込まれたせいだろう――『犯人』はそれを見越して、靴底をさらに摩耗させたと思われる」

「よく判りましたね! わぁ、靴底からそんなことまで見抜けるんですね!」

「この歩き方をする人は、靴底をこすらないようトゥーが宙に反《そ》り返った『ローリング型』シューズに改造した方が良さそうだ。これは足先が地面から離れているため必要以上にこすらないし、転倒の予防にもなる」

「あ~確かに私、爪先に体重をかけ過ぎてよく転んでました!」

 鞘香はぺろりと舌を出した。踏絵もその横で頷いている。

「こ、転ばないように足を高く上げろって注意されてたもんね、鞘香……でも、原因はそれだけじゃなかったんだね……」

「うん。さすが店主さん! ぜひランシューの修理もそうして下さい!」

「了解した。ではアウトソールは爪先が反ったローリング型にしよう。他に何か注文があれば言ってくれたまえ」

「ん~。しいて言うなら、私ちょっとX脚気味なんですけど、アドバイスありますか?」

「X脚だと靴底のヒール部分に荷重がかかって、すり減りやすくなると言われている。そうか、それを無意識に防ごうとしてトゥーに体重をかけていた向きもあるのか」

「そうかも知れないです! かかともほぼ潰れてますし」

「かかとを支えるホールドも補強しよう。日常生活でもかかとの硬い靴を履くと良い」

「承知しました!」

 芝居がかって敬礼する鞘香が、従順で可愛らしい。我が身に迫る危機を溌溂さで掻き消そうとしているのか。悪いイメージをしないよう、常にポジティブな態度を心がけているのかも知れない。アスリートはイメージトレーニングも重要だ。

「君は短距離走がメインだったな。速度重視のファストタイプは、ランシューも軽量だ。そのため外皮(ガワ)が薄く、耐久性も乏しくなる。当然、足への負担も大きい。このランシューもその傾向が強いから、無理だけはしないようにな」

「はーい!」

「あ、あのう……」

 踏絵が怖々と挙手した。

 店主がじろりと一瞥すると、ヒッと手を下げてしまったが、決して彼女に悪気はない。

「あ、あたしも質問して良いですか?」

「もちろんだ。何でも聞いてみろ」

「あたしも最近、靴が合わない気がして……部内の自己記録も伸び悩んでるんです……それで店主さんのアドバイスがいただけないかなって……」

「踏絵も次が最後の夏だもんね」

「う、うん……あたしは春大会もレギュラー入りギリギリだったし、後輩の成長株がどんどん追い上げて来てるから、抜かされちゃうかもって……」

「どれ、足を見せてみろ」

 店主は踏絵のふもとにひざまずいた。

 まぶたをすがめ、スカートから伸びた小麦色の健脚をじっと見定める。踏絵はびっくりして足を引っ込めようとしたものの、店主が不服そうに睨み上げたため観念した。

 生贄よろしく、右足を差し出す。

 通学用の革靴を脱ぎ、靴下も()いだ。

 店主の眼前にさらされた足先は、もじもじと五指を震えさせている。

「触るぞ」

「え、ええっ……?」

 店主は踏絵の足を手で触れて、なぞった。

 彼女の足型を、足指の長さを、丹念に調べ上げる。足をまさぐられるなまめかしい仕草に踏絵は爆発しそうなほど赤くなったが、店主は至って大真面目だ。

 鞘香も店主と同様に、虎視眈々と吟味する始末。

「店主さん、踏絵の何を調べてるんですか?」

「足の型だ。人間の足型は三種類に大別される。一つは親指が長い『エジプト型』。日本人の六割以上がこの足型だと言われている。このタイプは大きな親指を靴が圧迫して痛めやすいから、トゥー部分の湾曲が広いオブリーク型シューズを履くと良い」

「へぇー。でも踏絵は親指が短いから違いますよ! 私がむしろこのタイプかも! 親指が大きいから、すり足と相まってトゥーに負担がかかってたのね。目からうろこだわ!」

「も、もう鞘香ってば、あまりじろじろ見ないでよぉ……」

 踏絵が羞恥の余り卒倒しそうになっているが、あいにく鞘香も店主も聞いていない。

「二つ目は、足の人差し指が長い『ギリシャ型』。欧米人に多い足型だが、昨今は日本人も生活様式が西洋化した影響で増えている。人差し指が長いため、先端のとがったトゥーシューズを履くと良い」

「あ、あたしはそのタイプでもないようですけど……」足をいじられて目すら合わせられない踏絵。「どの指もみんな同じくらいの長さに見えますぅ……」

「それが三つ目の『スクエア型』だ。この足型は珍しいぞ。日本人は一割にも満たないと言われている。指の長さが均等ということは、本来なら短いはずの小指が平均より長いことを意味する。つまり、通常の靴では小指のスペースが狭くて、痛めやすい」

「た、確かに……小指がすっぽり収まるランシューがなくて困ってたんです……」

 ようやく右足が店主から解放されて、踏絵は照れ臭そうに靴下を履いた。

 たどたどしく革靴に足を通す仕草が奥ゆかしい。丸まった背中が小動物のようだ。よほど恥ずかしかったのだろう、その顔はじんわりと汗がにじんでいた。

 踏絵は鞘香と裏腹に、パーソナルスペースが遠い。奥手なのだ。相反する二人が親友どうしというのは、店主の目に珍しく映った。

「では二週間後にまた会おう。それまでに出来る限り『犯人』の情報を集めておけ。怪しい人物が居たら忘れずにリストアップするのだ」

「判りました! ――って、あんまり部員や知人を疑うのは好きじゃないですけど」

 鞘香は表情を曇らせた。

 誰とでも打ち解けられる彼女は、苦楽を共にする仲間を怪しみたくない。しかし現実問題として、彼女のランニングシューズは被害を受けている。綺麗事をぬかしている場合ではないのだ。

 辛い二週間になりそうね――と、鞘香の胸中は重苦しかった。

 どちらかと言えば小さなバストなのに、このときは締め付けられるほど重かった。



   *



「犯人の犯行手口って、いわゆる『木を隠すなら森に』だと思うのよ!」

 ――ゴールデンウィークを翌日に控えた金曜日、鞘香は放課後の更衣室でセーラー服を脱いでいた。

 平らなスポーツブラがあらわになる。彼女はいつだってこれだ。(ひるがえ)って、話し相手の踏絵はフリフリの可愛いピンク色の下着で、運動するときだけスポブラに付け替えているのだが、鞘香はそんな面倒なことはしない。

 否、する余裕がない。お洒落なブラジャーを買うお金がないからだ。第一、胸が小さいのであまり必要じゃないし、貧乏だから食生活も質素だし、人一倍練習しているせいで脂肪が燃焼しやすい。胸が成長しないのはそのせいだ。きっとそうに違いない。

「き、木を隠すなら……って何?」

 踏絵がメガネをかけ直しつつ、きょとんと聞き返した。おっとりしたメガネっ子の割に読書経験は少なそうだ。

 鞘香は部活用のランニングシャツを頭からかぶって、手短に説明した。

「ミステリーで有名な偽装工作(トリック)よ! 木の枝が物証なんだけど、それを森の中に隠匿(いんとく)すれば、たくさんの木々に(まぎ)れて発見されにくいっていうカラクリよ!」

「ああ……なるほど……」脱いだ制服を畳む踏絵。「ランシューに付けられた傷も、靴の破損に紛れ込ませてたから、あたしたちは見逃してしまったのね……?」

「そういうこと! あの店主さんが居なかったら一生見過ごしてたわ! きっと犯人は、私が壊れたランシューに足を取られて怪我すれば一石二鳥、とでも企んだのね!」

「そ、そこまでは考えてないんじゃないかしら……」

「どうだか。踏絵は犯人をかばう気?」

「ううん、そんなつもりはないけど……」

「いい、踏絵? 犯人は私に対して、明確な害意を向けて来たのよ? 単に記録が伸び悩めばいいなんてレベルじゃないわ。犯人を暴かない限り、平和は戻らないのよ!」

「う、うん……どちらにせよ、物騒よね……怖いなぁ……」

 踏絵は根負けしたように怖がった。

 鞘香の憤激を尊重し、自分の意見を引っ込めたのだ。踏絵はずっと鞘香に付き従って来た。靴屋巡りも文句一つ言わず同行したし、話を振れば必ず返事してあげた。人見知りな踏絵が唯一、寄り添って居られる親友が鞘香なのだ。

「あ、踏絵。そのリボン、結び目から糸がほつれてるよ!」

 鞘香はふと、踏絵が畳んだセーラー服に目にとめた。胸のリボンから一本、ひょろりと糸が伸びている。

「ほ、本当だわ……直しておかなくちゃ」

 踏絵はかばんから携帯用のソーイングセットを取り出した。

 素早く針に糸を通す。これ以上ほつれないよう縫い直し、きつく結んだ。余った糸はハサミで切り取るのも忘れない。

裁縫道具(ソーイング)を持ち歩くなんて、踏絵は家庭的だね! 私、そんなの持ったこともん」

「ひ、人によるんじゃないかしら……それで鞘香は、犯人の目星は付いたの?」

「それなんだけど、なかなか的を絞れないのよね」スカートを脱ぐ鞘香。「私が甘いのかな? 人を疑いの目で見られないの。胸襟を開けば判り合える、って信じてるから」

「鞘香のパーソナルスペースは近いもんね……あたしみたいな引っ込み思案にも親しげに話しかけてくれたし……」

「踏絵は一人で黙々と走ってて、群れないタイプだったわね! つい気になって声をかけたら、今じゃ一番の親友だもんね。おうちで勉強会やお泊まり会もよく開いてるし」

「春休みはほぼ毎日遊びに行ってたわね……あたしは鞘香に救われたのよ……だから信じられないのよ。こんなにも明るい鞘香を目の敵にする犯人が居るなんて……」

 本当は犯人なんて居ない、店主の勘違いではないのかと踏絵は主張した。

 もしそうなら、どんなに幸せだろう。余計な気を揉まず大会に集中できるのに――。

「一応、身内の犯人候補としては、一人だけ思い当たる子が居るわ!」

 鞘香はその憶測すら心が痛むようで、身をかがめながら重々しく打ち明けた。

「え、どの子かしら……?」目を見開く踏絵。「同学年? それとも後輩?」

「あんま言いたくないけど、後輩の忍足(おしたり)さんって子」

「忍足さん……ああ、顔は知ってる。話したことはないけど……」

 人付き合いの乏しい踏絵は、必死に記憶を掘り起こさねばならなかった。

 忍足は陸上部の二年生で、鞘香に負けず劣らずの()が強い女子だ。自己主張が激しく、とにかく気性が荒い。何かと鞘香につっかかる場面も多かった。

「彼女は私たちの一個下でしょ? 去年からレギュラー争いしてたのよ。私とほぼ同タイムだったんだけど、顧問は私を選んだわ」

「そ、そのときの忍足さん、凄い剣幕だったよね……『自分が外されて鞘香が選ばれたのは年功序列ですか?』って……『実力主義じゃないとしたら、腐った部ですね』とまで叫んだような……一応、あとで反省してたけど……」

 目くじら立てて顧問に問い詰める忍足は、今も部員の間で語り草だ。

 反省したのは表向きだけで、内心では鞘香に怨嗟の念をわだかまらせている可能性はありそうだ――。

 ――と話すや否や、更衣室のドアが押し開かれた。

 仰天した鞘香と踏絵が振り返ると、そこには今まさに噂していた忍足が立っていた。

 すでにランニングウェアへ着替え終えている。吊り目で表情の硬い女子だ。鞘香ほどではないが引き締まった肢体(ライン)を見るにつけ、なるほどアスリートだと納得できる。ボリュームのある黒髪を団子にまとめ、頭上に乗せていた。

 注目された忍足は「何ですか先輩?」と居心地悪そうに見返したが、鞘香が言葉に詰まったので無視した。そそくさと自分のロッカーに歩み寄り、中からスポーツドリンクの入った水筒を出して退室する。

 忘れ物を取りに来ただけらしい。

 しかしこの短いやりとりだけで、剣呑な雰囲気は伝わった。相手が先輩だろうと容赦なく噛み付き、自分の要望を押し通そうとする豪傑だ。

「忍足さんも夏大会の予選突破を目指してるわ。部内のライバルである私が邪魔で、ランシューを傷付けたのかも――って、ああもう憂鬱だなぁ! 本当は疑いたくないのに!」

 鞘香は髪を掻き乱した。

 人を悪い目で見たくない。鞘香は性善説を信じるかのような口ぶりで、自説を否定しようとあがいている。

「さ、鞘香……身内じゃなくて、外部の者による犯行も考えてみたらどうかな……?」

「外部? あ~、他校の選手ってこと?」

 鞘香はスカートを折り畳んでロッカーに片付けた。

 安い綿パン一丁で動き回る。練習用の短パンを引っ張り出して足に通すと、すらりと伸びた褐色の美脚が良く映えた。

「なるほど外部犯ね! さすが踏絵! 大会は控え室や更衣室で大勢がひしめき、ごった返す――そのどさくさに紛れて、他校の誰かが私のランシューに傷を入れたのかも!」

「そうそう……去年の夏大会や春大会……合間のさまざまな公式試合……ランシューに傷を入れるチャンスは何度もあったんじゃないかしら……?」

 踏絵はやたらと気勢を張った。

 彼女にしては珍しい、力強い言説である。下着のままなりふり構わず言い合うさまは、鞘香を驚かせた。まぁ身内が犯人よりは、部外者が犯人だった方がまだ()しだろう。

「他校でしょっちゅう鉢合わせる選手と言えば、私、思い当たる人が居るわ!」

「だ、誰……?」

「去年から私と順位を競ってた都立高の、(あし)高《だか》って子! 春大会では負けちゃったけど、あれはランシューのせいだと思ってる」

「足高さん……その人、あたしも知ってるわ……短距離走一本に的を絞ってる子よね」

「そうそう! 彼女は短距離が命だから、絶対に負けられないっていう執念があるのよ」

「何となく判るわ……好敵手をどんな手段を使ってでも蹴落としたいって気持ち……」

「でしょでしょ? 足高さん、かなりの有力候補だわね」

 鞘香はどんどん乗り気になった。何せ親友も共感した犯人候補である。パーソナルスペースの近い鞘香ならば信用するに決まっている。

「ひとまずこの二名が、私の推理した容疑者リストよ! これ以上は疑いたくないわ!」

 容疑者は絞られた。

 陸上部の後輩・忍足と、他校の好敵手・足高。

 ランシューの修理が終わるのは四月末で、それまでに候補の割り出しを済ませるという約束は果たした。善は急げだ。さっそく店主に報告したい。彼の見解を聞いてみたい。

「ねぇ踏絵、部活が終わったら靴屋さんへ寄らない?」

「ど、どうしたのいきなり……」

「修理の進捗状況を知りたいし、犯人候補に関する意見も聞きたいのよ。私たちだけで悩んでると頭が破裂しそう! 店主さんも犯人探しを手伝うって言ってたから、情報は共有すべきでしょ? お願い、付き合って!」



   *





   4.



 ランニングシューズの修理完了日より数日だけ予定を早めて、鞘香は『鞣革製靴店』を再訪した。

 JR実ヶ丘駅からすぐそばの商店街は、心なしか客足が寂しくなった気がする。もともと大手デパートや歓楽街に客を取られつつあると聞いていたが、なるほどこれが地域競争か、と今さら社会科で習ったことを実感する鞘香だった。

 無論、単に客の少ない時間帯なだけかも知れない。すでに夜のとばりが下りて、夕方の書き入れ時を過ぎている。

 シャッターを下ろす店舗がちらほら見受けられることから、靴屋も閉店時間を過ぎてやしないかと鞘香は焦燥した。自然と早足になる。

「靴屋さんの閉店時間、聞くの忘れてたね。踏絵は知ってる?」

「し、知らない……個人経営のお店って結構早めに閉めちゃうから、こんな時間に行くよりは、日を改めて訪ねた方が良いんじゃないかしら……?」

 踏絵の返事が頼りない。

 むしろシャターが下りていれば良いのに、くらいの語調に聞こえたのは、鞘香の曲解だろうか?

 アーケード街の中ほどに辿り着くと、場末と違って多少の賑わいは残っていた。とはいえ店じまいの準備に取りかかる店舗がほとんどだ。商品棚や看板を片付けている。

 鞘香は焦りを隠せず、しきりに目を動かした。

「居た! 店主さーん!」

 目的地を見付けて滑り込む。

 鞘香が大手を振って挨拶すると、今まさに軒先でシャッターを下ろそうとしていた鞣革靼造と目が合った。

 相変わらずの鉄面皮である。愛想のアの字もない唐変木だが、あいにく鞘香には通用しない。パーソナルスペースが近い彼女の天真爛漫さは、こういうときに便利だ。

 踏絵が眩しそうに鞘香を眺めつつ、自身もおっかなびっくり追いかけた。

「どうした二人とも」

 店主は眉間にしわを寄せて女子高生を見返した。

 想定外の来客だったせいだろう、強面がさらにメンチを切っているが、これは本人の表情が無駄に硬いだけであって、歓迎していないわけではない。

「ちょっと早いんですけど、様子が気になって来てみました!」

「心配は無用だ。納期は若干余裕をもって契約するから、実際は早めに出来上がる。その際はこちらから電話連絡を入れる」

「あっ、そうなんですか! 早いと助かります!」

 鞘香は店主の手を握って、ぶんぶんと揺すった。

 そろそろ大会のレギュラー発表がある。誰が選ばれるかは判らないが、本番に向けた最終調整をするためにも、ランシューが早く戻って来ることに越したことはない。

 鞘香は店主の手を掴んだまま、彼の仏頂面を覗き込んだ。

 上目遣いで見上げられた店主は、こんな鬼面に見入る女子高生の心境が理解できず、ますます眉間にしわを寄せる一方だ。

「我輩の顔に何か付いているかね?」

「いいえ! 私が好きで眺めてるだけです」誤解されそうなことを平気で言う鞘香。「それでですね店主さん! 例の犯人候補がいくつか浮上したんで、話を聞いて下さい!」

「何だ、その話で来たのか」

 店主は安堵の息を漏らした。

 雰囲気がほんの少し和らぐ。次いで店主にしては珍しく、シニカルな冷笑を湛えてみせたから驚きだ。

「かんらかんら、かんらからからよ。ではその候補とやらを教えてもらおうか。靴の破損と照らし合わせて、我輩個人の見解を述べてやろう」

「はい! 後輩部員の忍足さんと、ライバル校の足高っていう子です!」

 鞘香は遠慮なく容疑者の名をさらした。

 忍足と足高――いずれも鞘香へ敵意を剥き出しにする食わせ者だ。

「本当は人を疑いたくないんですけど、頑張って候補者を選びました――どうですか?」

 閉店間際で活気のない店頭は、しんと静まり返った。

 鞘香の相談を真っ向から受け止めた店主は、しばし考え込んだ。その間も決して瞑目せず、まっすぐな鞘香の瞳から目をそらさない。

 やがて店主が出した結論は、やはり皮肉(シニカル)な微笑だった。

「かんらかんら。君は本当に良い子だな。お人よし、と言い換えることも可能だが」

「え?」

「人を疑いたくないと言うが、性善説論者なのか? 君は幸せな環境で育ったのだな。そのせいで、人を悪く解釈できない。ゆえに、犯人候補も誤った人選になってしまう」

「誤った……? 私の予想は外れてるんですか!」

「甘いと言わざるを得ない。だからつい笑みがこぼれる。かんらからからだ」

 店主はきびすを返した。

 レジカウンターにある丸椅子へ腰かけ、エプロンを外す。ワイシャツと蝶ネクタイ、そしてサスペンダーで吊るしたスラックスとブーツでくつろぐ店主は、立ったままの鞘香と踏絵を手で招き、正面からこう説いた。

「君は他人との距離感が狭い。パーソナルスペースが近い、とも言い換えられる」

「あっはい、よく言われます!」素直に頷く鞘香。「それが何か問題でも?」

「大ありだ。君のパーソナルスペースは、どこで(つちか)われた? 昔からそうだったのか?」

「昔っていうか――両親が他界してから、ですね! 親が居ない寂しさを、お兄ちゃんや近所の人と過度(かど)に接することで紛らわせてたんです! そしたら、いつの間にかそれが当たり前になっちゃって」

 なるほど――それが鞘香の原点か。

 パーソナルスペースが異様に近くなった理由。

 人恋しさの余り、徐々に接触する範囲が拡大した案配だ。肉親から近隣住民へ、近隣住民から友人知人へ、友人知人から学校関係者へ、学校関係者から店の主人へ――。

「君は運が良かった。人に裏切られたことも騙されたこともないのだろう? もしも接触した人が悪意を持っていたら、無防備な君は真っ先に危害を喰らうに違いない」

「えっ? そんなこと――」

 鞘香は否定しようとしたが、言葉を詰まらせた。

 現に今、彼女へ悪意を抱く何者かがランニングシューズを傷付けたのだから、反論のしようがない。いや、これでもまだ被害は軽い方だ。無条件に胸襟を開く鞘香へ手傷を負わせることなど、赤子の手をひねるより容易なのだから。

 店主はただでさえ武骨な剣幕を、さらに語気を強めて忠告した。

「以前、ランシューが『靴紐以外にも傷を付けられていたのかも知れないな』と話したのは覚えているか?」

「はい! それを聞いたときはショックでした」

「修理中、本当に何箇所か故意と思われる傷跡が見付かった」

「ええっ!」

「ランシューの消耗を隠れ(みの)にして、繰り返し縫製(ほうせい)を切り裂く『犯人』が居たのだ」

 まさに『木を隠すなら森に』を体現していたのだ。

 さり気ない傷であれば、よほどつぶさに観察しなければ気付かない。それらは消耗による汚損と見分けが付かず、鞘香はこの静かなる悪意を知らずに過ごして来た。

「これほど断続的に、日常的に切り刻むとなると、君に近しい間柄(・・・・・・・)でなければ不可能だ。先ほどライバル校の選手が挙がっていたが、頻繁に顔を合わせていたのかね?」

「いいえ! 公式大会くらいでしか見かけませんよ。せいぜい年に数回です!」

「その子は候補から外して良いぞ」

「じゃあ、残った犯人は後輩の忍足さんですか! 同じ部だから、私のランシューに手を伸ばす機会も多いですし!」

「まぁ待ちたまえ。我輩が今述べたことをもう一度反芻(はんすう)して、候補者を洗い直すべきだ」

「洗い直すんですかっ?」

「君のランシューを執拗に切り刻めるのは、部活だけでなく全ての生活で『そばに寄り添っている人物』だ。隙を見ていつでもランシューに(・・・・・・・・・・)手が届く身近な者(・・・・・・・・)だ」

「それって、私の家族とかですか?」

「さぁな。少なくとも後輩の忍足は、条件を満たしていない」

「うーん、誰だろ? いつも私のそばに居るのって、お兄ちゃん以外は親友の踏絵くらいしか浮かびませんけど――……ん?」

 親友の踏絵。

 鞘香は無意識のうちに、彼女だけは犯人のはずがないと思って除外していた。誰だって親友を疑いたくはない。

 しかれども、店主の語った条件に照らし合わせると――?

「まさか!」

 鞘香は踏絵に体ごと向き直った。

 踏絵はと言えば、青ざめた形相で首を引っ込め、肩をすくめ、膝を笑わせている。すくんだ上半身は肯定も否定もしていないが、呼吸すら止めて紫色に染まった唇は、親友がただならぬ緊張に見舞われていることを意味していた。

「踏絵? どうしたの? しっかりしてよ!」

「あ、あたしは……ち、違うわ、あたしじゃない……!」

「落ち着いて踏絵! 顔色が悪いよ?」

「鞆原踏絵さん」椅子からねめつける店主。「君は普段から刃物を携行している(・・・・・・・・・)ね?」

「は、刃物……? まさかそんな……あっ」

 震え上がる踏絵は、おぼつかない手付きで小物入れに触れた。

 なぜか店主の視界から隠そうとしたのだ。しかし張り詰めた空気のせいで五指が滑り、中身を床にばらまいてしまった。

 携帯用のソーイングセット(・・・・・・・・)が、店主の足元まで散らばった。

 マチ針や縫い糸、そして糸切りバサミが白日の下にさらされる。

 ハサミ――。

 ――刃物、である。

 鞘香は目を(みは)った。

(そうだわ! 踏絵は常にソーイングセット(・・・・・・・・)を持ち歩いてた! ついさっきも更衣室でリボンの糸を縫い直してたわ!)

「縫製用のハサミか」

 店主は腰をかがめて、足元に転がった糸切りバサミをつまみ上げた。

 踏絵が消え入るような声で「触らないで……!」と抗議するも、もう遅い。

 店主はハサミを手中でもてあそびながら、見せびらかすように鞘香へ問いかけた。

「ランシューの縫製を断ち切るには、おあつらえ向きの凶器だと思わないか?」

「ま、待って下さい……」必死に取り繕おうとする踏絵。「携帯用の糸切りバサミなんかじゃ、ランシューの外皮に歯が立ちませんよ……!」

「一度に切ろうとすれば、な」

「!」

「この脆弱なハサミだと、一回で刻めるのは引っかき傷程度だろう。だが、それを毎日続けたら(・・・・・・)どうなる? (ちり)も積もれば山となる。やがて大きな損傷へ発展する。少しずつ段階を経て深める傷跡だから、傍目には経年劣化にしか見えない」

 千里の道も一歩から。

 踏絵は、人目を盗んでこつこつとランシューにハサミを入れていたのだ。

「で、でも鞘香のランシューは本番用で、家に置いて来る日の方が多かったですよ……」

「君が親友なら、鞘香さんの家へ遊びに行く(・・・・・・・・・・・・)ことだってあるのではないかね?」

 店主は事もなげに断定した。

 踏絵は今度こそ息の根を止められた。反論すればするほどボロが出る。心臓を鷲掴みにされたような顔面蒼白で、図星を指された彼女は動けなくなった。

 念のため、店主は鞘香に確認を取る。

「鞘香さん、この子が君の家に来る頻度はどのくらいだったかね?」

「しょっちゅう来てました! 春休みはほぼ毎日! 試験の勉強会とか、お泊まり会も頻繁に――……もしかして踏絵は親友の振りをして、私のランシューを狙ってたの!?」

 以前から、二人は家で遊んでいると話していた。あれは伏線だったのだ。

 鞘香は友に裏切られた。踏絵は友達の仮面をかぶった伏兵だ。面従腹背のユダなのだ。

 二人の友情も、絆も、信頼も、何もかも演技だった――?

「踏絵、答えて!」

「だ、だってあたしも、記録が伸び悩んでたから……」

 ついに動機が語られた。否、踏絵は以前から話していたことだ。引っ込み思案な性格が災いし、人前で実力を発揮できずにくすぶっていた。だから一人で黙々と練習に没頭するしかなかった。その壁を破って接近したのが鞘香なのだ。

「し、しょうがないじゃない……! 鞘香はパーソナルスペースが近いから、あたしにどんどん迫って、いつの間にか親友ポジションに収まったのがいけないのよ!」

「私の性格のせいだってこと? パーソナルスペースが事の発端?」

「あたしは本来、一人でストイックに打ち込むタイプだったのよ……なのに鞘香が土足で踏み込んで来た! そのせいであたしは調子が狂って、タイムが停滞したの……!」

 こんな状態では大会に出られない。それは困る。踏絵も夏に有終の美を飾りたいのだ。

「そこであたしは、鞘香を妨害することを考えた……あたしはずっと鞘香の走りを見て来たから、細工する箇所も目星は付いてた……例えば鞘香のすり足(・・・)にかこつけて、ランシューの靴底をこすって摩耗させた……鞘香のX脚(・・)を利用して、インナーやかかとに裂け目を入れた……エジプト型(・・・・・)の大きな親指で靴が圧迫されたように見せかけて、トゥー部分を切り刻んだ……!」

「なるほどな」腕組みする店主。「君は、本当は足癖の知識があった(・・・・・・・・・・・・)のに知らない振りをして、我輩の様子を窺っていたのか」

 すり足、X脚、エジプト型――足癖に関する数々の講釈さえも、踏絵が店主の知識量を測るための会話だったことになる。何もかも伏線なのだ。

「ずるい手だとは思ったわ……卑怯な女だと自分を嫌悪したわ……けど、鞘香が靴の破損で戦績を落とせば、顧問は鞘香を見限るかも知れない……そうなれば、あたしがレギュラーに選ばれやすくなる……!」

「壊れたランシューに足を取られて、私が怪我する可能性もあったのに?」

「そ、そんなつもりはなかったの……! 本番のタイムが落ちれば充分だったの……!」

 だとしても、この仕打ちは酷い。

 どんなお題目を(かか)げようとも、彼女は親友の足を引っ張った。仲間としての信頼は地に堕ちたし、良識(モラル)を著しく欠いた軽挙妄動だと断言できる。

「踏絵さん」口を挟む店主。「君が鞘香さんの靴屋巡りに同行した理由は、単なる友達付き合いではなく、ランシューに入れた傷跡がバレないか監視するためではないか?」

「うっ……べ、別にそれだけじゃないです、けど……」

「我輩から靴の納期を聞き出し、修理後にもう一度破損させる猶予はないか探ったな?」

「それだけじゃありません……! あたしは初めて出来た友達に感謝しつつ、その友達を罠に嵌める後ろめたさと葛藤して……相反する感情で板挟みになってたんです!」

 せめぎ合う両極端の思惑。

 踏絵の脳内で天使と悪魔が戦っていたようだ。

「ずっと悩んでた……妨害しなきゃいけないけど……鞘香は(ひと)りぼっちのあたしに声をかけてくれた『親友』だったから……!」

 踏絵も苦心していたのだ。だから鞘香と親しく同行しながらも、こっそり鞘香の靴を傷付けるという相反する行動を取っていた。

 だが――それは所詮、詭弁(きべん)である。

 言い訳にもならない。

 大切なのは、被害を受けた鞘香がどう思うか、だ。

 嫌がらせされた鞘香が――信じた友に裏切られた彼女が――何と言うのか。何を感じたのか。それを尊重しなければならない。

 店主は鞘香に視線を投げた。やぶにらみの三白眼はすこぶる恐ろしいが、鞘香はそれを苦もなく受け止める。

「踏絵」ゆっくり息を吐く鞘香。「私って、踏絵の邪魔だったかな? 踏絵は独りで居た方が幸せだったのかな? 私が話しかけない方が、円満に暮らせたのかな?」

「違う、違うの……! 一人の方が集中できるけど、部活も教室も独りぼっちで辛かった……だからパーソナルスペースの近い、気の置けない親友が出来たときは嬉しかったの」

 一人(・・)は平気だが、独り(・・)は嫌だ。

 それが踏絵の本音であり、懊悩の根幹だった。

「あたしは、鞘香と知り合えて幸せだったのよ……!」

 鞘香の物怖じしない性格は、確実に踏絵を救っていた。

 決して邪魔な存在ではない。踏絵は本心から鞘香の友人でありたいと願ったし、二人で過ごすひとときが高校生活を充足させたのは疑いの余地がない。

 ただ、それに反比例して、友人のぬるま湯に甘んじて練習に打ち込めなくなった。友達を意識する余り、自分の力が出しきれない。一人の世界に入れない。

 孤高でなければ、踏絵は本領を発揮できない性分だった。

「ごめんね、踏絵」

「!」

 鞘香は親友を抱きしめた。甘酸っぱい香りがした。

「私って、いつもそう。人に愛想よく振る舞って、誰にでも心を開いちゃうから、相手の気持ちを考えずに距離を詰めちゃって、裏目に出るのよね」

「な……なんで鞘香が謝るの? 悪いのはあたしの方……あたしが謝るのが先よ……!」

「けど踏絵――」

「ううん、あたしが悪いの! 鞘香、ごめんなさい。あたしが犯人。軽蔑していいよ……それほどの悪行を、あたしはしてしまったから……!」

「そんなこと言われても」抱く力を強める鞘香。「私は踏絵のこと、嫌いになれないわ」

「…………っ!」

 踏絵の双眸に涙が浮かぶ。

 店主に見られているのも構わず、大粒の涙を垂れ流した。

 号泣。嗚咽。慟哭。

 余りにわんわんと泣き叫ぶものだから、往来にまで声が響いた。通行人が何事かと店内を覗くより早く、店主が立ち上がってシャッターを閉める。


 人目を気にしないように。二人の世界を邪魔しないように。

 鞘香は親友を許した。彼女は人を憎めないのだ。どうしようもない性善説の信奉者は、必ず自分から歩み寄るパーソナルスペースの近さがアイデンティティなのだから。

(うつわ)が違うな」

 店主は鼻で笑った。

 踏絵もすっかり毒気を抜かれて、鞘香に謝罪を繰り返した。泣き疲れて憑き物が落ちたように、おずおずと両手を鞘香の背中に伸ばす。抱き返したのだ。

 やがて抱擁が終わったあとも、名残り惜しそうに手を差し伸べた。

「こ、こんなあたしでも友達で居てくれますか……?」

「もちろん!」速攻で握手する鞘香。「ただし、二度とランシューを傷付けないでね?」

「し、しないよっ……絶対にしない……!」

 靴を直し、友情も直った。

 店主の洞察が、こじれた女子高生の交友関係を修繕した瞬間だった。

「こじれた紐を解けば、靴の履き心地も良くなるものだ」

「はい! 店主さん、ありがとうございました!」

 鞘香は店主にも手を伸ばす。店主が形だけ握り返してやると、鞘香は大喜びして両手を振り上げた。

 踏絵と店主に繋がれた手――それは二度と離れることのない、信頼の鎖だ。

「私と踏絵は必ずレギュラーになるんで、店主さんも地区予選を見に来て下さいね!」

「気が向いたらな」

「あははっ、本当に無愛想ですね!」

 鞘香は快活に笑い飛ばすと、最後にもう一度礼を述べてから退店した――シャッターが閉まっていたので、店の裏口から出してもらう。

 踏絵と手を繋いだまま、夕闇へと帰って行く。路上に伸びた影法師は、どこまでも二人をくっ付けていた。もう、あの二人は心配いらないだろう。

 店主は戸を閉め、店の片付けを始めた。工房に立ち入って掃除を済ませる。作業机を(せい)(とん)する最中、修理がほぼ完了した一足のランニングシューズに目をとめた。

 古びた外皮こそ手付かずだが、靴底とトゥー部分は鞘香の足型に合わせて補強されている。完全ではないが、鞘香が大会に出ればポテンシャルを充分に引き出せる逸品だ。

「かんらかんら、かんらからからよ」

 ――靴にちなんだ客人の悩みを紐解いて(・・・・)、最高の履き心地を提供する。

 それが『鞣革製靴店』。

 後日、レギュラー入りを報告に来た彼女は、さっそく新生ランシューを試し履きした。

 その履き心地は、地区予選で如何(いかん)なく発揮されることになるのは言うまでもない。



第一幕――了





   1.



「おい! あんたがこの靴屋の店主かい?」

 男が店へ立ち入るなり、商品ではなく店主めがけて一直線に突き進んだ。

 五月頭――ゴールデンウィークの真っ只中である。昼間は客足も増え、商店街が最も賑わう時間帯だ。つまり、新顔の客人が訪れやすい。靴屋もまた例外ではなく、珍しく常連ではない訪問者が闖入した。

 店主――鞣革(なめしがわ)靼造(たんぞう)――が堂々たる体躯をもたげて工房から顔を出すと、その男は最初から店主との会話が目的だったかのごとく間合いを詰める。

 二人に面識はない。もしかしたら過去に話したことがあるかも知れないが、来客の顔を全て覚えている店主に限って、それはあり得ない。


「どちらさんだい」

 店主は抑揚なしに問い返す。

 ただでさえ無愛想だの朴念仁だのと揶揄される上、客に向かってぞんざいな口の利き方をするのは接客態度としてお世辞にも褒められたものではない。

 さりとて今さらこの性分を変えられるはずもなく、ましてやぶしつけに店へ怒鳴り込むような不審者に愛想を振りまく道理もなかった。

 店主は服装こそ紳士的ないでたち――ワイシャツに蝶ネクタイ、サスペンダーで吊ったスラックス、分厚い革のブーツ――だが、不機嫌な面構えで相手を上から下まで詮索する強面だから怖い。靴屋らしい牛革の匂いと合成樹脂の匂いが、体躯から漂っている。

 一方、男はまだ二〇代半ばほどの青年だった。店主ほどではないが上背の高い、そして腕っぷしの強そうな力こぶをTシャツからはみ出させている。髪は短い刈り上げだ。アクセサリの類は身に着けていない。無地のTシャツと破れたジーンズ、そして足元は裸足にサンダル。いずれもスーパーで安売りされているファストファッションだ。

 靴屋としてはサンダルをもっと見栄えのするものに履き替えさせたいが、肝心の客人が商品棚には目もくれないため、勧めるのも(はばか)られた。

「僕のことはどうでもいいだろ」

 青年は店主の質問を邪険に跳ねのけた。

 いや、どうでも良くないから「どちらさんだい」と尋ねたのだが、青年はこちらの都合などまるで気にせず、言いたいことだけをまくし立てる。

「店主さんって年齢は三〇代か? いかつい顔してるなぁ」

「二八歳だ」不愉快に答える店主。「買い物が目的ではないのなら、出て行ってくれ。こう見えて我輩は忙しい。奥の工房で修理の仕事が控えている」

「修理! そうそう、それだよそれ」

 青年は刈り込んだツンツン頭を大きく揺らして、うんうんと頷いた。

 何が「それ」なのか見当も付かない。店主は眉根を寄せ、口をへの字に曲げた。険しい仏頂面が輪をかけて歪む。普通の人間ならば恐れをなして遁走するに違いない。

「おっ、出た出た、その表情! ひたすら怖い唐変木だけど、何だかんだで会話には応じてくれるって僕の妹が言ってたよ」

 ――妹?

 店主は新たな名詞にこめかみを疼かせた。

 そこらへんのチンピラにしか見えない青年が「僕」というかしこまった一人称を使っているのも気になったが、もろもろ裏事情があるようだ。

「妹とは誰のことだ」

「おいおい、忘れたとは言わせないぜ? 何せあんたは、僕の大切な妹をたぶらかした張本人なんだからさぁ!」

「たぶらかした、だと?」

「妹はまだ高校生でさ。大人に手ぇ出されたら、周りが止めるに決まってるだろ!」

「は?」

 店主は腹の底から一音だけ絞り出した。

 何を言っているのだ、この男は。

 全く身に覚えがなかった。難癖にもほどがある。そもそも店主が高校生と接した記憶と言えば、先月ランニングシューズを修理した女子高生・跡部(あとべ)鞘香(さやか)くらいなもの――。

「ああ、あの女か」

 ――まさに鞘香が条件に当てはまったので、店主は手を叩き合わせた。

 鞘香には兄が居ると聞いた。四年前に両親を亡くし、それ以来ずっと兄が家計を支えて来たという。

 当時の兄は大学生だったが、中退して工場に就職した。それから四年経てば、二〇代半ばの青年にも合致する。よく見れば、目許や顔の輪郭が鞘香に似ていた。

 一人称の「僕」も、もともとインテリ大学生だったと考えれば腑に落ちる。髪型がやけに短いのも、工場帽をかぶるときに長髪では邪魔になるからだろう。

「我輩は、おたくの妹をたぶらかした覚えはないのだが」

「またまた、はぐらかそうとしたって無駄だぞ?」ずいと顔を寄せる兄。「鞘香の奴、連休に入ってからずっと、靴屋とあんたのことを自慢げにのろけるんだ! 食事のときも(だん)(らん)のときも、寝る前の挨拶でさえいちいち話題に出して褒めそやすんだよ!」

 そんな事態になっていたのか。

 店主は数日前、鞘香が抱えた悩みを紐解いて(・・・・)やったことがある。靴の修理を承るついでのサービスだったが、彼女のこじれた友人関係を和解へと導いた。

 鞘香が店主に甚大な恩情を抱いたのは言うまでもない。今頃は直したランニングシューズで陸上部に専念しているはずだ。その勇姿を想像すると、店主の仏頂面にも頬をほころばせる余地が生じた。

「あっ、今ニヤけたな? 僕の妹を思い浮かべてよこしまな笑みを浮かべただろ!」

「よこしまではない。誰だって笑うときくらいある」

 いちいち食ってかかる青年が鬱陶しい。せっかくの微笑も一瞬で引っ込んでしまった。

 この兄は、何が言いたいのだ?

 大事な妹が年の離れた靴職人に惚れているとでも勘違いし、心配しているのか?

 とんだ誤解である。鞘香は常人よりパーソナルスペースが近いせいで、誰とでも仲睦まじく接しているだけだ。

「僕が妹に買ったランニングシューズを、別物同然に改造したそうじゃないか」

「客人の足癖に応じてカスタマイズしただけだ。メーカーで修理しても仕様通りにしか修復されないが、我輩のような靴職人ならば、客一人一人に即したアレンジも可能だ」

 そこがメーカー修理と個人経営店の大きな違いである。この利点がなければ、並み居る量販店の大攻勢に、店主は瞬く間に滅ぼされていただろう。

「妹が僕にランシューを見せびらかしながら言うんだよ。『お兄ちゃん、ランシューが生まれ変わったよ』ってさ! 僕が購入した限定レアモデルが見る影もない!」

「まぁデザインが一部変わってしまったのは申し訳ないが」

 貴重な限定モデルに手を加えたのは、店主も恐れ多い気持ちではある。

 それでも昔から靴職人は、修理と称して靴を改造し続けて来たし、そもそも客の要望でもあるのだから咎められるいわれはない。

「客人よ。あのランシューは高校三年間ずっと酷使され、見るも無惨な有様だった。あのまま履き続けても鞘香さんは好成績を出せない。そこで我輩が修理したのだ」

「言うねぇ。だから僕は思ったのさ! ランシューをいじった奴のツラを見てみたい、ってね! なぜ妹がそこまで入れ込むのか、じきじきに話してみようってさ――」

「ちょっとお兄ちゃん! 先走り過ぎ!」

「――げ。鞘香」

 青年が店主の胸倉に手を伸ばそうとした矢先、店外から溌溂とした女声が轟いた。

 それは店主も記憶に新しい女子高生の声である。

 跡部鞘香だ。

 まだ五月なのにキャミソールとカットジーンズ一丁という、肌を大いに露出した薄着で店内へ駆け込んだ。

 鞘香の私服姿を拝んだのは初めてだ。相変わらず元気いっぱいの健脚で、小麦色の柔肌が目に眩しい。切り揃えたショートヘアは天真爛漫な鞘香にぴったりだ。

 兄と同様、アクセサリを一切身に着けない質素ないでたちは、貧しい生活が忍ばれる。

「鞘香、もう追い付いたのかよ? 早いな」

「そりゃ私は短距離走の代表だもん!」

 走って来たのに息一つ切らさない鞘香は、兄の手をぐいと引っ張った。

 触れ合い(スキンシップ)も日常茶飯事なのだろう、鞘香は兄をあっという間に店主から引き剥がし、代わりに彼女が間近に滑り込んだ。店主のそばに立つ。パーソナルスペースが近い。

 なるほど、これは誤解されかねない。鞘香は人懐っこ過ぎる。

「お兄ちゃんってば、私の話をちゃんと聞いてから動いてよね! 店主さんは私の恩人なの! くれぐれも無礼な振る舞いはやめてちょうだい!」

「けど、鞘香――」

「店主さん、お兄ちゃんが粗相(そそう)をしませんでしたか? ご迷惑をおかけして済みません」

 鞘香はぺこぺこ謝り倒した。

 この子は健気だ。自分に非がなくとも、先に謝罪してしまう優しさがある。だがそれは心苦しいし、彼女に謝られてもお門違いなので、店主は鞘香の頭をそっと()でた。

「謝ることはない。我輩は平気だ」

「良かったぁ! お兄ちゃんのせいで私まで嫌われたらどうしようって、気が気じゃなかったんですよ!」

 きゃっきゃと飛び跳ねる鞘香が無邪気すぎる。ほっと胸を撫で下ろし、店主に撫でられた頭部を見上げては、えへへと嬉しそうにはにかむのだ。

 兄がそれ見たことかと気勢を荒げた。

「やっぱり僕の妹とイチャ付いてるじゃないか! 淫行め!」

「お兄ちゃんは黙ってて!」

「だが鞘香――」

「いいから黙って!」

「お、おう……」

 兄はたじたじである。どうやら妹に頭が上がらないらしい。

「大体ねぇ、お兄ちゃんは目的がすり替わってるのよ! 私は店主さんに改めてお礼を言いに来たの! あと修理したい靴があれば、私が仲介してあげるって話だったでしょ!」

「あ、ああ。そう言えばそんな話だっけか」

 ――修理の仲介?

 店主は鞘香から発せられた一言に耳をそばだてた。

「何だ、新たな修理の依頼でも持って来たのか」

 そう切り出すと、鞘香がぴょんと反転して店主に向き直った。店主と話せるのが楽しくて仕方ないという風体だ。

「実はそうなんです! 私、お兄ちゃんや友達にも布教してるんですよ! 修理したい靴があれば『鞣革製靴店』をぜひ、って!」

 (くち)コミの(かがみ)である。

 誠実な仕事をすれば評判を呼ぶ。店主の善行が巡り巡って自分の利益に繋がるのだ。情けは人のためならず、とは良く言ったものである。

「では、今日は兄君《あにぎみ》の靴を修理しに来たわけか? 部活動はどうした?」

「部活は休憩日(インターバル)です! 適度に休むことも大会前は重要だぞって顧問に叱られちゃって」

 ぺろりと舌を出す鞘香がお茶目だ。

 だから骨休めのために、私服で商店街へ出かけたわけだ。ついでに兄を伴って、靴の修理を依頼しに来た、と。

「言っとくが、靴の修理は僕じゃないぞ」言い訳がましく弁解する兄。「改めて自己紹介しようか。僕は跡部赳士(たけし)、二四歳。鞘香が世話になったと聞いて顔を出したまでさ!」

「では、誰の依頼なのかね?」

 とっとと先を促す店主が素っ気ない。

 赳士の依頼でなければ、鞘香は誰の修理を仲介するのだろう――?

「実はもう一人、連れが居るのさ!」

 赳士が後ろを振り返った。

 遥か遠方、商店街の往来からようやく最後の人影が近付いて来た。

 三人目の到来だ。

 女性である。年齢は赳士と同じくらい。鞘香とは対照的なロングヘアーで、フリルの多いガーリーなブラウスとスカートを着ている。汗一つかかない鞘香に対し、その女性は急いで来たせいかハンカチで首筋を拭いていた。

 元が良いのか化粧は薄い。片手には日傘をさしている。肩にはトートバッグ。その中から、壊れた靴のようなものが垣間見えた。

「ふぅ、やっと追い付いたわ。タケくんも鞘香ちゃんも、靴屋が見えた途端、血相を変えて走って行っちゃうんだもの……」

「ああ、済まなかったね歩美(あゆみ)

 赳士が女性をそう呼んだ。

 それが彼女の名前のようだ。さり気なく店主は足元を観察すると、歩美はミュールを履いていた。なるほど、走りづらいわけだ。

 普通、置き去りにされたらもっと激昂しそうなものだが、歩美は走り疲れたせいか――あるいはすでに兄妹と親しい間柄ゆえか――怒ったりはしなかった。

「兄妹揃って足が速いんだもの、呆れるしかないわね」

 歩美は日傘を畳んでトートバッグにしまうと、中にあった壊れた靴がさらにはみ出た。

 店主は目ざとく確認してから、遠慮なしにズイと巨躯を歩美へ寄せる。やにわ長身の仏頂面が迫ったせいで、歩美は表情を凍り付かせた。あからさまに青ざめている。

「わっ、怖……! この方が鞘香ちゃんの言っていた店主さん? 噂通りの鬼面ね」

「その肩に()げているのが、直したい靴かね?」

 店主は噂を無視して、トートバッグを俯瞰した。

 壊れた靴は、一足のパンプスだった。左右両方ともヒールがぽっきり折れている。

「ヒールの砕けたパンプスか」

「そうよ……鞘香ちゃんの評判を聞いて、わたしも修理してもらおうかなって」

「歩美は僕の婚約者(フィアンセ)なのさ!」

 赳士が歩美の隣に肩を並べた。

 青ざめた彼女を支える勇姿は、確かに恋人らしい所作だ。ぴったり寄り添ったことで、歩美は安堵したように顔色を回復させた。

「ほう、婚約者」

 店主が復唱すると、赳士はことさら相槌を打った。

「その通り! 僕は工場で家電を製造し、歩美は営業をやってるのさ」

 職場恋愛というわけか。だとしても製造の現場と外回りでは接点がなさそうだが、そんな疑問も当人の口から即座に解説された。

「わたしが営業で売り込むときは、必ず担当商品の製造工程を視察してるのよ……そうすれば品物をより深く理解できるし、取引先にも詳細な説明が出来るでしょう?」

 今の時代、上辺だけの宣伝では売れない。具体的に何を気遣って製造したのか、何を売りに設計したのかを商談で語れれば、売り込みにも説得力が増す。若い身空で熱心だ。

「歩美の工場視察は、僕が案内してるのさ。それが二人の馴れ初めになった」

「ふむ。ではその壊れたパンプスは、さしずめ外回りに履く一足かね?」

「ええ……そうよ。取引を結びたいときに履く『勝負靴』だわ」

 歩美は神妙に認めた。

 見た所、パンプスのヒールは細くて長い。いかにも(もろ)そうだ。外回りならば歩数も半端ではないし、使い込めばあっさり折れてしまうのも詮なきことだった。

「わたしは脛永(はぎなが)歩美、ヒールを直したいんだけど……頼んでも大丈夫? 鞘香ちゃんの紹介だから来てみたものの、タケくんはこの店を怪しんでるわよね……店主の顔も怖いし」

 無愛想な店主に気圧(けお)されながら、歩美は半信半疑で問うた。

 新たな仕事が幕を開けようとしていたが、ほのかな暗雲もまた立ち込めていた。



   *