「よし、これは大分終わりが見えてきたんじゃない?」
7月13日、月曜日。今週金曜日が、コンクール応募作品の提出日。制作した映画をDVDに焼き、主催団体宛に郵送する。
とはいえ、編集もいよいよ終盤となり、完成が近づいてきた。色が暗すぎるところやボリュームがおかしいところの最終調整は必要だけど、映像と音の切り貼りさえ終わっていれば、あと4日という期限は十分すぎる余裕だった。
「よし、ソウ君、次のカットお願い」
「オッケー、ちょっと待ってな」
桜さんと颯士さんが一緒にいるのを見るのは、まだ少し辛い。とはいえ、さすがに木曜から連日この状況に直面しているのでやや慣れた。
居た堪れなくなってトイレに行くフリをして北校舎を1周散歩することもなくなった。時間は残酷なほどに記憶や感情のくすんだ部分を洗い流してくれる、というのは何の歌詞だっただろうか。
「はい、じゃあカット268から。単体で見ると分かりづらいから、最後まで一旦全部繋げるぞ」
颯士さんの言葉を合図に流れてくる、佳澄の最後のシーン。
和志に強がりを吐いた後、河原に走ってきて川に石を投げる。そしてそのまま嗚咽を漏らし、慟哭する。
『……ふうー…………ふっ…………うう……うあああ…………』
「…………キリ君、どうかした?」
「え?」
「なんか、首捻ってたから」
「あ、いや、何でもないです」
俺の動きの正体、それは「違和感」だった。
佳澄と同じような精神状態に置かれた自分だから、感じることができるのかもしれない。
確かにこのシーンはすごい。映画のクライマックスとしても、視聴者を納得させられるものになっていると思う。
でも、それはひょっとしたら、佳澄の演技が素晴らしいからではないか。実際の演出としては、少し違うのではないか。
だって、多分、佳澄は河原で泣かない。
いつも明るかった佳澄だからこそ、そんな広い場所で、石を投げながら泣くようには思えない。もっと、人目につかない場所なんじゃないだろうか。
あれ? 昔、渓谷でそんな話をしたことがある気がする。あの時、確か愛理と……。
「あの」
編集を始めようとする直前、後ろから3人に声をかけた。
「今更だって分かってるんですけど、これ、別の場所にしませんか?」
突拍子もない提案に、全員が一斉に眉根を寄せる。
「葉介、別の場所って?」
「ひょっとして……撮り直すってこと?」
「このラストシーンをか?」
交互に質問を重ねてくる颯士さんと涼羽に、「急ですみません」と思わず謝った。
「なんか、うまく言えないんですけど、佳澄ってこんなところで石投げながら泣くかなって。それまでのキャラクター的に……人と鉢合わせすることのなさそうな場所で泣きそうな気がして。お客さんも戸惑うような気がしてるんですです」
その返事に、むしろ3人が戸惑いの表情を見せる。
「ううん、まあ言われてみればやらないかもしれないけど……絵的にはかなりいいの撮れてるからなあ……香坂、どう思う?」
「そうね……ちょっと残り時間考ええても現実的じゃないかな。ごめんね、次回の反省にしようかな」
「ワタシもそれでいいと思います。泣き始めるところはBGMはついてないのでそこは影響ないんですけど、あと4日ですからね……」
歯切れの悪い正論。俺の意見が間違っている、というわけではなさそうだけど、「時間を考えたら難しいよね」という暗黙の了解が場の空気に溶け込む。
「あ、うん、そうですよね……なんか急に悪かったです。さ、編集続けましょう!」
愛想笑いを塗りたくった顔で両手を合わせ、視線を画面に移す。
でも、一度芽生えた疑念はそんなに簡単に消えたりしない。それはきっと、桜さん達も一緒。
「この部分……もっと短くしようかな」
「おう、これで、と…………うん、良くなったような気がする」
なんとなく締まらないまま動画の切り貼りが続き、その日のうちにラストカットまでの編集を終えた。
「ただいま」
家に帰ってきて、ボフンとベッドに腰を下ろす。躊躇わずに、スマホを取り出し、写真のアプリをタップする。
大丈夫、もう怖くない。一気に2年前まで、写真を遡る。
そこで、1枚の写真に目を留めた。同時に、忘却の彼方にあった記憶が、帰り道を思い出したかのようにスッと蘇ってくる。
「…………よし。まずは夕飯!」
自分のやるべきことが分かった気がして、気合いを入れながら部屋着に着替え始めた。
「あの!」
翌日、14日、火曜日。提出まで、あと3日。
俺の庭だと言わんばかりに雲が空いっぱいに広がり、比較的過ごしやすい放課後の部室で、全員に呼びかけた。
「どしたの、キリ君?」
返事の代わりに、スマホを木の長テーブルの上に置く。意図が分かった桜さんがグッと身を乗り出し、颯士さんと涼羽もそれに続いた。準備ができたのを見て、動画を再生する。
「う、わ……」
桜さんが思わず声を漏らす。そこには、一面に咲いたクローバーの野原に横たわっている俺が映っていた。
「すごい……キリ君、ここどこ?」
「石名渓谷のちょっと先にある野原なんです。前に行ったのを思い出して」
隣で見ていた颯士さんも、「めちゃくちゃ綺麗だな!」と画面にくぎ付けになっている。
「いつ撮ってきたんだ?」
「今朝です、始発で」
俺の答えに、彼は驚嘆の表情を見せる。そんな表情をしてくれるなら、セルカ棒で撮った甲斐もあるというものだ。
「ちゃんとクローバーが残ってるの、すごいな。夏になると枯れやすいって前に聞いたことあるけど」
「そうみたいですね。たまたま日当たりと風通しが良い場所なんで、まだしっかり生えてるのかな」
改めて映像を見返してみる。それは自分で見ても、納得のいくロケ地だった。
「佳澄、失恋のカットには、こういうのが合ってると思います。草原で横になって、静かに泣くって感じが」
「なんで?」
まっすぐに俺を見ながら、涼羽が口を開く。そのトーンは、頭ごなしの否定ではなく、フラットに議論をしたい、という意思がきちんと見えていた。
「昨日はうまく言えなかったんですけど」
俺も、まっすぐに顔をあげる。涼羽と颯士さん、そして桜さんから、目線を外さない。
「きっと、自分だけのものにしたいから」
その言葉に、桜さんは大きく目を見開いた。
「人目も憚らず泣くっていう表現も分かります。でも、佳澄ってずっと和志のことを想っていたんですよね。だから、本気で応援もしたいし、でも悲しみも深くて、陽菜にも嫉妬したりして。そういう、心がぐちゃぐちゃで本当にしんどいときって、しばらく1人の世界に入りたいんじゃないかなって」
多分、そうだと思うんだよ。佳澄は俺だから。あの日、涼羽がいたけど、1人でずっと雨の世界に籠って泣いていた俺と一緒だから。
「ごめんなさい、時間がないの分かってるんですけど、どうしてもこっちの案がいいなって思って」
俺の撮ってきた20秒弱の動画を何度も見る3人。返事を待つのに緊張して、勢いのまま言葉を重ねながら、映像に映る自分と向き合っていた。
これは、愛理が教えてくれた場所だった。2年前、「すっごく辛くて、泣きたいときに来るんだよ」と秘密の場所を共有してくれた。
これが、俺の、俺にしかできない表現なんだと思った。
この場所を知れたのは愛理のおかげで、この提案ができたのは桜さんの作った脚本と映像のおかげで。2人が俺を、動かしてくれた。どっちが欠けても、このロケ地には辿り着けなかった。
どちらを好きになったことも無駄にならない。俺が経験した想いが、佳澄を、より生きた存在にできる。
「……良いと思う、オレも。この映像、すごく良い」
始めに賛成を口にしたのは、颯士さんだった。
「ワタシも、このシーン好きですね。ここから暗転でエンディングに繋がれば、BGMももっと映えるの選べそう」
そして、トリを飾るように、桜さんが嬉しそうにググッと口角を上げた。
「んー、私もね、これいいなあと思ったんだよねー。ここで泣いてる佳澄、『らしい』なあって!」
4人で笑う。
今日は火曜、提出は金曜。でも俺達は、そんな単純な算数を諦める材料にするほど大人じゃない。
「桜さん、一応天気調べてますけど、明日は終日快晴みたいですよ」
キリ君やるわね、と桜さんは意地悪げな笑みを浮かべた。
「どうする? 撮っちゃう?」
「最高の映画創っちゃいますか」
「今更止めるのもおかしいだろ」
「よし、演劇部に連絡しよう。明日の放課後、撮影いけるか確認して。私は絵コンテ直すから、 ソウ君、その後にカメラワーク一緒に考えて!」
「オッケー。月居、音声お願いできるか?」
「任せてください」
「葉介、詳しく場所教えてくれ。他に写真撮ってるか?」
「もちろんです、見せます!」
さあ、10日ぶりのリテイクが始まる。俺達の映画が、もう一度動き出す。
***
「それじゃいきます! ようい……アクション!」
15日水曜日の放課後。俺達はホームルームが終わってすぐに移動し、キャストと一緒に石名渓谷に来ていた。
渓谷から少し歩いたところにある、クローバーの草原。「ここ、ステキですね!」と興奮する佳澄が横になって、撮影を進めていく。
「最後にここで寝転んで泣く、っていうの、青春っぽくていいよね」
「分かる! 自分しか知らない秘密の場所でひっそり泣いてるって感じ、アタシも好き!」
四つ葉をキョロキョロと探す和志と陽菜。撮影は佳澄だけでも良かったけど、「どんな風に撮り直すのか見てみたいです」と言われたので、おなじみの7人でここに来た。
「よし、最後に嗚咽のシーンね? 涙は無理に流す必要ないから。モノローグも入れるから、ちょっと長めに撮るわよ」
「香坂、準備オッケーだ」
三脚を外し、カバンの上にカメラを固定する颯士さん。
クローバーに埋まる彼女を、平行な低いアングルから撮る。
『…………ふっ……ふっうっ……うう…………うあああ…………』
「……カット! チェックします!」
俺はレフ板を、涼羽はマイクを持ったまま、グループの後ろからモニターを眺める。久しぶりの撮影はバタバタだけど、やっぱり楽しかった。
「よし、これもオッケー。改めて、クランクアップです!」
「っしゃあ! お疲れ様でした、とりゃっ!」
「あ、颯士さんズルい! 俺も!」
「アタシもやる!」
そのまますぐに撤収の予定が、ゴロゴロとクローバーの草原を転がり始めた颯士さんに触発され、結局全員が「ひゃっほー!」とクローバーに囲まれて横になる。
まだ夕焼けの「ゆ」の字も見えない、抜けるような高い空に手を伸ばすと、ライトブルーのキャンパスに自分の手を描いたように見えた。
愛理が泣いていたあの場所で、俺達は笑っている。
彼女がどんな理由で涙を流したのか俺には分からないけど、もし僅かな幸福で上書きできるなら、そうしてあげたい。
彼女がこの世界で悲しい思いをした場所は、川だってここだって、全部上書きしてあげたかった。
「はーい、オフショット。撮影お疲れさまでした」
起き上がった桜さんが黒髪についた草を払いながら、スマホで動画を撮っていく。そのカメラは、俺にも向けられた。
「このラストカットの立役者、キリ君です! 一言どうぞ」
またそんなはじけるような笑顔を見せて、急な無茶ぶりで楽しませてくれて。
本当に困った人で、そして、素敵な人だ。
「映画作るの、楽しいです。来年も絶対この部活存続させないと。涼羽と一緒に頑張ります!」
「おっ、スズちゃん、大役を任されたわね!」
水を向けられた涼羽は、真顔のまま2、3回小刻みに頷く。
「……桐賀君、頑張って付いてきてね」
「クール! クール&ビューティー! 葉介、必死で付いていけよ」
「おわっぷ、颯士さん!」
意味の分からない颯士さんのタックルに、桜さんが「転がれ! 端っこまで転がりスピード勝負!」と意味の分からない煽りを入れ、カメラを回す。
それを、涼羽が呆れたように、キャストの面々が楽しそうに見ている。
こういうのを、青春というのだろう。愛理もきっと、こんな風に夢中になっていたんだろう。
「ソウ君、このカット、後ろ1秒弱切ってもらっていい?」
「オッケー。これで……どうかな?」
「……うん、これだと綺麗に寝転がるところに繋がるけど、みんなはどう思う?」
木曜日。昨日撮ってきたカットを編集していく。BGMも選び終わり、今は4人全員で話し合いながら進めていた。
「夏本さん、もう1回、後ろ1秒切らないバージョン見せてもらっていいですか?」
「あいよ。こっち側に切る前の貼って、と」
無言で再生された映像を見つめていた涼羽が、「んん……」と顎に右手の甲を付けた。
「ワタシは長い方も好きなんですよね。佳澄が走ってきて、ちょっと息切らしてる感じの余韻があるというか」
「オレは短い方かな。ラストシーンで見てる方も展開が気になってるだろうから、敢えてテンポ重視で細かく佳澄の動きを見せずに、泣くシーンで爆発させる感じ。葉介はどうだ?」
「そうですね、個人的には、かなり長く余韻取ってもいいかなと思ってます。それこそ、もう1秒伸ばしてもいいくらい。見てる人も佳澄と一緒に心を落ち着かせられるかなって」
高校生が作った映画なんて、と軽く見る人もいるだろう。
でも、知っているのだろうか。俺達が、1秒削るかどうかで、こんなに意見を戦わせていることを。
陸上選手がたった1cmを伸ばそうとするように、美術部が赤色の濃度に1日悩むように、最高を目指すために必死で努力している。
「よっし、切り貼りは終わり。次は色彩の調整行くわよ! 通して流すから、おかしいところあったら言って」
「……あ、ちょっとこれ、青っぽくない?」
「確かに、前のシーンから急に変わってますね。トーン直した方がいいかも」
「分かった、明るめに調整しよう」
編集はこの日も、夕飯の時間をすっかり超えるまで続いた。
***
「………………どう?」
沈黙を破る、桜さんの声が部室に響く。
「……うん、良いと思う」
「…………俺もです」
「……ワタシも、これでオッケーだと思います」
俺達3人の反応を見て、顔をやや強張らせていた彼女は、ぱあっと相好を崩した。
「オッケー! 編集、終わりです!」
「いよっしゃああああああ!」
7月17日、金曜。映画コンクールの提出締切日の17時前。ついに、「きっと見抜けない」が完成した。
全員で小さくハイタッチしたけど、リラックスしている暇はない。まだ映像が完成しただけ。提出までにやることを考えると、時間的にはそんなに余裕はなかった。
「ソウ君、提出用のDVDに焼いて! スズちゃん、申込書に添付するあらすじ、書いたの読んでもらっていい?」
「分かりました。桐賀君、それ以外の申込書に書いてある内容、誤字脱字とかもチェックして」
「任せろ!」
超短編ならWEBにアップロードできるコンクールもあるらしいけど、作品を収録したDVDを送付するのが一般的らしい。
最寄りの郵便局が開いている18時に間に合わせるため、全員で全速力で準備を進めていく。
「桜さん、赤ペンでメモ書き入れました。書き直した方が分かりやすい箇所と、誤字が1つあったのでチェックしてます」
「スズちゃんありがと! ソウ君、DVDの方は?」
「もうすぐ焼き終わる。終わったらざっと流してちゃんとデータ入ってるかチェックするよ」
まるで文化祭の前日のよう。冷静にならなきゃいけないところだけど、部屋に充満する昂揚感が、俺達をハイにしていく。
「よし、ディスクはこれで準備完了!」
「じゃあ最後! はい、みんなボールペン持って!」
桜さんが長テーブルの上に出したのは申込書。その一番下、「制作者」のスペースが空欄になっている。
「ここは1人1人書こう!」
「はい!」
こういう部長らしい配慮が嬉しい。そんなに字は上手くないけど、筆圧強めに「桐賀葉介」と書いた。
「これとディスクを封筒に入れて……完成!」
帰り支度をして鞄を持ち、部室を飛び出す。
「郵便局行くぞ! 間に合う!」
別に歩いたって間に合うのに、颯士さんだってそのまま帰るなら自転車に乗ればいいのに、全員で力の限り走る。
喜びと達成感から生まれたエネルギーが爆発して、足が勝手に前に進んでいく。
空が少しずつ灰色になっていく中で、郵便局に滑り込んだ。
「これ、お願いします。消印は今日で付きますよね?」
「はい、大丈夫です。ではこちら、承ります」
全力で来たけど、窓口でのやりとりはほんの一瞬。
呆然としたようにゆらゆらと歩きながら店を出る。
「…………お疲れさまー!」
「お疲れ様でしたー!」
突然路上で半泣きで叫び始めた俺達は、周りから見たらさぞかし奇妙で滑稽に見えただろう。
「良かった! 良かったね!」
「良い作品になった! すっごい作品になった!」
結果が出るのは大分先だけど、応募に間に合わせられただけで嬉しい。
俺が初めて制作に携わった映画「きっと見抜けない」は、こうして無事に提出できたのだった。
「いやあ、葉介のラストカットの差し替えで一時はどうなることかと思ったぜ」
「ちょっと颯士さん、それは言わない約束じゃないですか!」
「ふふっ、キリ君のおかげで最高のラストになったわ」
4人並んで、走ってきた道を戻る。俺達を見守る役目を終えた太陽がゆっくりと沈んでいて、道路にうっすらと影を残した。
緊張感も解けてクタクタなので、今日はそのまま解散、打ち上げは後日やることに。
ああ、終わったなあ、終わっちゃったなあ。
てんわやんわで大変だったのに、もうその時期が恋しい。しばらくは制作もおやすみかな。
「もうすぐ夏休みだし、次の作品の準備しないとね」
「……へ? 桜さん、またすぐに脚本書くんですか?」
間の抜けた声で訊く俺に、涼羽が「甘いわよ、桐賀君」と目を瞑って首を振る。
「キリ君、部長の私に抜かりはないわ。春にもう、ざっくり2本書き上げてるのよね。スズちゃんと協力して直せば、割とすぐ完成すると思う」
雲に宣言するように空を見上げる部長、兼、監督。
柔らかい風が、胸元の黒髪を優しく揺らした。
「8月には15分以内の超短編コンクールがあるからどっちかを出したいんだよね。もう片方は9月の文化祭で流す新作。勉強と両立させなきゃなあ」
「なんか、桜さんらしくて良いですね」
彼女の熱量なら本当にやるかもしれない。
でも、うん、近いうちにすぐ撮れるなら、すごく嬉しい。
「よし、じゃあオレは学校戻る。自転車取りにいかないとだし」
「私も野暮用あるから戻るわ。スズちゃん、キリ君、またね。来週打ち上げしようね!」
「お疲れ様でした!」
交差点で2人と別れる。もう付き合ってることを隠すつもりもないのかもしれない。また気が滅入るかと思ったけど、解放感と開放感で胸がいっぱいで、なんだか清々しかった。
「……帰るか」
「そうね」
駅とバス停で別れるT字路まで、涼羽と一緒に茜色に色づいた雲の下を歩く。
スーツ姿のサラリーマンがブラウスにスカートのOLと楽しそうに手を繋いでいて、金曜夜が近づいていることを思い出させた。
「なんだかんだ、夏休みも忙しくなりそうだな」
「ワタシも今度は絵コンテ挑戦しなきゃ」
返事をした彼女を見ると、バッグに手を入れていたところだった。しまった、変なタイミングで話しかけちゃったな……。
「いいよ、曲聞いて」
「あ、ううん」
「俺も聞くし」
胸ポケットに入れていたイヤホンを見せると、彼女は少し唇を内側に押し込み、「ありがと」と赤いヘッドホンをはめた。
俺も何か流そうとしたけど、結局イヤホンをしまい、彼女の3歩後ろを付いていった。
◇◆◇
真正面に見える燃えるような夕焼けで、愛理の写真を思い出した。
アイツ、俺のスマホでこっそり色々撮っていたらしい。2年経ってようやく気付いたよ。渓谷以外にも幾つかあるみたいだから、今度どの場所か探しながら歩いてみようかな。
ねえ、愛理。動画も結構撮ってたみたいだな。
君のことだから、アングルも動かし方も、ちゃんと考えて撮ってるんだろう。楽しみに見させてもらうよ。
しばらく避けてたけど、久しぶりに君の家にも行ってみようかな。
話したいことがたくさんあるんだ。
転校が大変だったこと、部活に入れなかったこと、かったるい委員会で運命の出会いがあったこと、セミの声ばっかり30分間聞かされたこと、撮影中に子どもと鬼ごっこをやる羽目になったこと、君の事故に関する推理、映画制作がどれだけ楽しいか、どれだけ今それを君と語りたいか。
2年前みたいに、たくさん話すから、また絵コンテ読みながらでも聞いて、いつもみたいにきゅっと目を瞑って笑ってほしいんだ。
止まっていた時計がようやく動き出して、部活を一歩踏み出せた。たまたま君と一緒の部活だ。
これから俺は、君みたいに夢中で映画を撮るから、見ててくれよ。
それに、いつか君の映画も見たいな。どこかに残ってるかな? ツテを当たって頑張って借りてみるよ。音声と照明についてはうるさく言わせてもらうぞ。
あとは、そうだな。恋も、走りだせたらいいな。
君との思い出は短いけど大切なものだから、絶対に忘れないようにして、少しずつ前に進んでいくよ。
◇◆◇
「ふう……」
小さく決意の深呼吸をして、目の前でヘッドホンを付けている涼羽に視線を向ける。
あの時、何も言わずに、泣いている俺のそばに一緒にいてくれたことに、その後も部活で騒がずにいてくれたことに感謝している。
あのヘッドホンがあったから、あそこで散々泣けたから、逃げ出さずに最後まで出来た。俺が今こんな気持ちでいられるのも、涼羽のおかげだ。
いつかタイミングを見て、ちゃんとお礼を言わなきゃ。
今は音楽に、あるいはセミの声にでも夢中のはず。もうすぐお別れのT字路だし、練習だけしておくか。
「涼羽、この前、ありがとな。本当に助かったというか、救われたよ。で、BGMさ、単館上映の邦画見ると勉強になるって言ってただろ。色んなお礼で、その、近くでやってたら、チケット代持つから、一緒にどうかな?」
すると、ヘッドホンを外して、涼羽がくるりとこっちを向く。
え? あれ、聞こえてた? そんなに大きな声じゃなかったけど。
まさか、まだ曲流してなかった?
「うん、楽しみにしてる」
色紙みたいなオレンジに照らされ、彼女の栗色の髪が輝くように光る。
これまで見たこともない、嬉しそうな笑顔に、俺の胸は仄かにトンッと高鳴る。
「桐賀君、またね」
「あ、ああ、またな」
ほら、これはひょっとしたら、また何かが始まる合図かもしれない。
「…………よし!」
これまでと違う、新しい夏。なんだか歩いていられなくなって、駅に向かって全速力で走りだした。
<了>