7月8日。締め切りまで10日を切っているこのタイミングだけど、部活を休んだ。
本当は編集の相談に混ざらなきゃいけないけど、逆に言えば「混ざる」だけなので、俺がいなくてもあの3人ならできるはず。もともと俺がいなくたってやっていた。5月の状態に戻るだけだ。
食欲もなく、本もスマホも見る気にならない。全てがどうでもよくなってしまい、無気力なままベッドに溶ける。
「ふう…………ふうう…………」
深呼吸は、どこか溜息にも似ている。余白だらけの頭に、鹿威しに水が溜まっていくように、次第に様々な想いが溢れてきた。
まずは、颯士さんへの嫉妬。浅ましいと分かっていながら、消えない妬みの炎が煌々と燃える。
「なんであの人なんだ」とは思わない。カッコいいし、コミュ力だって抜群、映画への情熱も滾っている。惹かれて当然だと、くっつくのが自然だと、そう素直に思える。
それなのに、俺の頭がどうにもならない「たられば」を繰り返す。俺がもっと早く映画部を知って入部していれば、俺の転校が1年の4月で部活紹介を見ていたら、俺が中学の頃から脚本を書いていれば、俺が少し早く生まれて一緒の学年だったら。バカみたいな空想で、あったかもしれない未来を夢見る。
でも、そんな表面の感情はすぐに剥がれる。訪れるのは、悲しさ、そして、寂しさ。
告白のチャンスもなかった。「言わなきゃよかったより、言えば良かったの方が辛い」なんて言うけど、俺はどっちにもなれなかった。
近くに好きな人がいる、それがもう十分に幸運なことで。その人に自分のことを好きになってもらうなんて単純なことがどれだけ難しいか。そんなこと、分かっているのに。
それでも、ペンケースを届けようとして走ったあの時、恋を自覚しかけたあの時からほんの僅かな間、願ってしまった、求めてしまった。ずっと一緒にいたいと、ただそれだけの、直情的で取り繕いようのない短い恋煩いだった。
そして、さらに奥に眠っていた感情に手を伸ばす。
それは、今になって桜さんへの好意に気付いた自分への内省。
自身と向き合っていたら、きっともっと早く気付けたはずなのに。あまりにもギリギリで、幕切れも突然で、浮かれる時期すらなかった。
その理由も、こうして己を俯瞰で見るとよく分かる。
自分は、恋愛から逃げていたのだ。もういない愛理への罪悪感、新しい人をまた失うかもしれないという恐怖感。そうしたものに衝突し、心が沈んで深みに嵌まることを恐れ、「考えること」自体を避けていた。
部活は一歩踏み出せたけど、こっちはスタートラインにすら立っていなかった。
桜さんの顔が浮かび、愛理の顔が出てくる。脳内のもう1人の俺が「真剣に向き合わないからこうなるんだ」と失望の目で睨み、3人目の俺が「誰だって怖いことには対峙したくないんだよ! そんなに悪いことかよ!」と怒鳴り散らす。
惨めなほどぐちゃぐちゃな頭の中を世界から隠すように、全身にタオルを被った。
***
結論のない思考をぐるぐると巡らせ、狭い部屋で呼吸だけを繰り返しているうちに、いつの間にか西日が強くなっていた。17時半を少し過ぎたところ、部活も賑やかにやっていることだろう。
休むことへの抵抗もあったけど、どうせ参加しても今日は使いものにならない。
いいんだ、もういい。俺がいなくても、あの映画は完成する。撮影は終わったし、ロケハンも終わった。俺の役目は終わった。
撮影、ロケ、石名渓谷。きっかけはこれだったなあと、目の前のスマホのホーム画面を開く。LIMEで3人から「お大事にね」と連絡が来ていて、その優しさが棘になって胸を刺した。
写真を眺める。最近の撮影風景を撮ったものから過去に遡っていくと、桜さんに見せた石名渓谷が見つかった。今まで見返したのはこの辺りまで。それより前は、愛理と過ごした中学のものは、躊躇してしまって見返せていない。
ふと、もうなんでもいい、見てもいいだろうという思いに駆られた。愛理の事故の原因だって、一応自分なりの結論は持てたし、見たってこれ以上何を失うでもない。底まで沈んでいる今だからこそ、怖がりすぎずにいられる。
アルバムの画像をスワイプする。あの時から2年、初めて、昔の写真まで辿り着く。
怖い噂話も経験したら大したことがない、なんてとの同じように、実際には大した写真はなかった。文化祭ではしゃいでいる俺、体育祭で仮装しているクラスメイト、休み時間の悪ふざけ。そんな日常が切り取られている。
そして更に遡っていくと、2人で渓谷に行ったときの写真が出てきた。久しぶりに見る愛理の顔は、やっぱり記憶のままで、黒髪のマッシュショートに丸顔、大きな目と口の犬っぽい、可愛い顔だった。
「…………あれ?」
一覧で見ていくと、渓谷の写真に混じって、動画があった。サムネイルは愛理になっている。こんなもの、撮っただろうか? 記憶にない。
おそるおそる再生してみる。そこには、俺のスマホを手に持ち、渓谷の土手で自撮りしている彼女が映っていた。
『葉介が川で遊んでる間に、勝手に借りてます!』
あいつ、こんなことしてたのか。当時も写真見返すこと少なかったから、全然気が付かなかった。
『あのね、葉介』
言葉に迷うようにやや躊躇った後、彼女は画面越しにペコッと一礼した。
『いつも映画でいっぱいいっぱいで、あんまり遊べなくてごめんね』
『でも、映画作るの、すっごく好きなんだ。みんなで騒ぎながら撮るのも楽しいけど、自分なりの世界を表現するのが楽しいからね。いつか葉介にも知ってもらえて、伝わったらいいなあ』
そして最後に、浮園愛理は、まだ命が終わることを知らない彼女は、頬を掻きながら冗談っぽく笑ってみせる。
『もし、愛想尽かしたら、他の人のところに行ってね、なんて。またね!』
ポタッ、と数滴の水に濡れただけで思うように操作できなくなる。スマホってのは不便だ。
タオルケットで顔を拭き、ガバッと立ち上がる。よれた部屋着用のTシャツを脱ぎ、制服のシャツに袖を通す。
今から行っても、着く頃には部活は終わっているだろう。だから別に明日でもいいのに、そのはずなのに、忘れてきた脚本と絵コンテを取りに行きたい、すぐに手元に置きたいという衝動が自分を突き動かす。
この喪心の中で、直接関係のなかったもう1つの想いに、嘘で固めたフタをするところだった。
俺も、桜さん達と一緒に映画を完成させたい。
始めは、愛理のことをもっと知れればと思って参加したけど、今はもう、俺自身も映画制作を好きになっているから。
「学校行ってくる!」
親の返事も聞かずに家を飛び出し、夜の入り口の町を走って駅まで向かった。
「誰もいない、か」
19時ちょうどの南校舎3階、部室にはダイヤル錠がかかっていた。もしみんながいたら何て言い訳をしようか、電車に乗っている間幾つか考えていたけど、杞憂に終わったことにどこか安堵する。
電気を点けて中に入ると、俺の脚本と絵コンテは長テーブルの端に揃えて置かれていた。その横には、編集に使ったのか、渓谷の写真をプリントアウトしたものが数枚。
本当にこの渓谷には振り回されてばっかりだな、と思いつつ、俺はさっき見た彼女の動画を思い出していた。
愛理、君の動画をもっと早く見ておけば良かったよ。
そうしたら、もう少し早く、俺は動けていたかもしれない。自分から興味を持って映画制作部に入ったかもね、吹っ切れて他の人と恋愛もしたかもね。
でも、ちょっと遅くて、縁でこの部活に入ったけど、気付いたときには失恋だ。
君のときも、桜さんのときも、俺はいつも肝心なときに近くにいなかったり、間に合わなかったりして、何やってるんだろうって感じで。
部活からも色恋からも、君からも逃げてしまって、タイミングを逃してばっかりだけど、この映画はちゃんと作るよ。
そして、使い方は違うけど、俺が勝手に引いた"イマジナリーライン"を越えて、もうどこからも逃げない。
「ふうう……すう……」
今日一番大きな深呼吸をすると、頭が少しだけ冴える。随分カッコ悪い自分の中にいる素直な本体と、しっかり向き合える。
乗り越えなきゃいけない。明日には何気ない顔で桜さんと接さなきゃいけない。これも一つのイマジナリーラインってヤツかな。越えなきゃいけないものがたくさんある。
明日は乗り越えよう。明日でいい、今すぐに乗り越えなくていい。
だから、今日は泣こう。うん、よし、思いっきり泣こう。
「ふ、う、う……うぐ……うああ…………ああああ…………」
自分を正当化して、もっともらしい理由をつけて、電気を消して座り込んで下を向く。心の揺らめきは涙腺に繋がり、呼吸は嗚咽へと変わった。
さっきは数滴で済んだのに今回の涙は簡単には止まりそうになくて、雪山のゲレンデのように頬にシュプールを残していく。
愛理のこと、桜さんのこと。2人の顔が交互に浮かんでは、ない交ぜになった喪失感と寂寥感が喉までせり上がり、堰を切ったように泣く。
一緒にいたかった、好きって言いたかった、もっと話したかった、付き合いたかった、悲しい、寂しい。
「うあああ……あ、あ………」
ガラッ
不意に、部室のドアが開く。バッと後ろを振り向くと、そこに立っていたのは涼羽だった。
「す、ずは…………どしたの?」
すぐに顔を擦って、目一杯に平然を装う。
「近くの店でSE集レンタルしてきたから、帰る前にここで聞こうかなって。家にCD流せるの無いし」
月明りで俺の目は見えるはずだし、そもそも暗い中で座っている時点でおかしい。声も揺れてるから泣き腫らしているのはバレてるだろうけど、彼女は叫ぶでも驚くでもなく、冷静に話してくれた。
「そ、っか」
「そっちこそどしたの?」
「いや、俺は、その……」
しどろもどろになる。もう何を言い訳しても変だし、どう足掻いてもカッコ悪い。
「……帰ろうか?」
「いや、気にしないでいいから。音声な、俺も選ばないと」
動揺を隠せないまま、必死にBGMを選ぶふり。手元にあった絵コンテを手繰り寄せ、スマホのロックを解除する。
「…………そう」
その時、カポッと頭に何かを被せられた。
「……え? あ?」
頭頂から耳まですっぽり覆っているそれは、いつも彼女が付けているヘッドホン。彼女はといえば、別のイヤホンを自分のノートパソコンに差して音を聴こうとしていた。
ヘッドホンから流れているのは、雨音。ただの、雨音のSE。シトシトと降る音が、ノイズのないLとRの世界に響く。目を瞑ると、そこはひたすらに暗闇の雨の空間だった。
雨が降ってきた日、石名渓谷で急遽雨宿りのシーンを追加したのを思い出す。石名渓谷のロケハンを桜さんと2人でしたのを思い出す。石を渡ろうとした彼女の手を、繋ぐか迷ったことを思い出す。その繋ぐ相手は、俺じゃなかった。
そして、雨の渓谷は2年前、桜さんと同じように映画が好きだったアイツを飲み込んでしまった。きっと新作の準備に夢中なまま、どんなアングルで河原を映そうか、最後までワクワクしながら川に入っていた愛理を。
「……ふっ…………ふっく…………ひっ…………」
涼羽に見つかって目の奥に押し込めていたはずの涙が勝手に零れてくる。隣にいる彼女は、イヤホンをはめたままずっと画面を見ていて、何も言わない。敢えて聞かないで、放っておいてくれてるのかもしれない。
「うあ……ああ……ああああ………」
さっき泣こうと決めた分、簡単には止まりそうにもなくて、今はこの状況に甘えてもいいと自分を許して、ずっとずっと、泣いていた。
「お疲れ様でーす!」
1日明けた木曜の放課後、これまでで一番大きいんじゃないかと思う声で部室のドアを開けた。
「キリ君、元気ね! 体調大丈夫?」
「あと10日きったので気合い入れてみました。体調もすっかり良くなりましたよ」
「そうそう、あと10日ないんだよね……私も頑張らないと」
両手を握ってグッと前に突き出す桜さん。颯士さんが「今日も張り切ってやるかね」と指をパチンと鳴らしながら被せ、涼羽は黙ってノートパソコンの画面を見ていた。
昨日、あれから結局泣き腫らし、涼羽が荷物をバッグにしまったタイミングで「一緒に帰るよ」とヘッドホンを返して部室を出た。
ハンカチを持って行ってたおかげでヘッドホンを涙で濡らさなかったのがせめてもの救い。
「昨日みたいに、スズちゃんとキリ君は先に音声の方お願い。キリ君、渓谷のカット改めて見直したけどやっぱりいいね。本当に良い映像になったと思う」
「ですよね。今月号の『あずさと』にも載せてほしかったです」
「あはは、確かに! 旅行スポット特集ね」
手を叩いて、いつもみたいに向日葵みたいな笑顔を咲かせてから、颯士さんを見る。
「よし、じゃあソウ君、一緒にやろ」
「おう、準備完了」
会話してるのを見るだけで、視界がぐらりと傾きそうになる。
昨日、目から押し流したはずのやっかみや悲しみが肺に溜まって、呼吸が浅くなった。
平気か、自分? バカめ、平気なわけないだろ?
心はまだぐちゃぐちゃだよ。強がりで体が軋んでるみたいだ。
でもそれでいい。この映画をちゃんと作るって決めたから、作りたいって思ったから、どんだけしんどくたって、歯を食いしばってやっていくしかない。
桜さんも颯士さんも、俺の思いには気付かない。
大丈夫、きっと見抜けない。
「桐賀君、今日はまだ編集終わってないところの音声を先に選ぶね」
「先に?」
そう、と栗色の髪をふわっと左に払いながら、涼羽はパソコンの画面を俺の方に向けた。
「クライマックス、佳澄が和志から『告白された』って駆け引きされるところ、その後に佳澄が強がって走っていくところ。ここで2曲使うつもりなんだけど、これはむしろBGMを流すタイミングとかが重要だから、先に曲を決めて、それに合わせて映像の方を調整することにしたの。曲が一番盛り上がってる途中で映像ががらりと変わったりしたら微妙でしょ?」
「確かにそれはセンスないな……」
この映画のクライマックスだもんな、曲としっかりシンクロさせたい。
「じゃあ私は駆け引きのところやるわ。桐賀君、強がりのところお願いしてもいい?」
「分かった。またあの音源サイトに入り浸りだな」
「そうそう、もう曲名覚えちゃったのとかあるわよね」
「ある! Sunset glowってギターのやつ、ゆったり系の曲で探すと毎回出てくるんだよな」
「あと少し明るめならCityscapeって曲ね」
普通の人にはまるでピンと来ないであろうフリー音源あるあるを言い合った後、俺が担当する部分の映像を先に見せてもらうことにした。涼羽が絵コンテと照らし合わせながら動画ファイルをクリックする。
『なあ、佳澄——』
『よし、じゃあ帰ろっか、和志!』
…………ん?
『あ、そうだ。せっかく来たんだし、私ちょっと役の練習してから帰ろうかな』
『そうなのか?』
……ん? あれ?
『どんな役やるんだ?』
『んーん、まだ秘密。舞台招待するから、その子と一緒に見に来てよ。じゃあ向こうで練習してくるから、またね。また遊ぼ、約束だよ!』
ポカンと口を開けたまま、その映像を見つめていた。
こんなカットだっただろうか。撮った時もその場で見たはずなのに、佳澄の台詞や表情の一つ一つが、前とは全然違うものに見えた。
そしてすぐに、その原因を理解する。アングルも音も光も、元のままだ。
変わったのはつまり、自分。見ている俺の心が、受け取り方が、違っている。悲しみを無理やり飲み込んでいる、その精一杯の強がりが、今の自分とオーバーラップしてしまう。
経験は何事にも代えがたい武器だと、何かの本かどこかの漫画で読んだ気がする。本当にその通りだ。
別に失恋なんてしたくてしたわけじゃないし、中学生のころだって近い経験はしているはずだけど、昨日・一昨日の出来事があったからこそ、このシーンをきちんと理解して咀嚼できる自分がいる。
ということは、これを演じきった藤島さんも、そしてこれを書いた桜さんも、多かれ少なかれ、同じような経験をしているのかもしれない。
「どしたの、桐賀君」
「え?」
「ううん。なんか、楽しそうだなって」
言われて初めて、笑っていることを自覚した。
「……いや、結構良い音楽見つけられそうだな、って思ってさ」
スマホに繋げたイヤホンをさくりと耳に差し込み、サイトを開く。検索に何百曲とヒットする中から、さっきのシーンに、あの時の佳澄の心情に合うBGMを探す。
「……違うな。これは…………これも違う」
一昨日の火曜日に再生したはずの曲も、聞こえ方が変わっている。そして、合ってるかどうかが、直感的に分かるようになっている。
セミの声みたいなSEと違って、BGMの良さは理屈で説明できない部分も多いから、感覚が大事。その感覚が、「なんとなく」じゃなく、心の奥底にある静かな水面が揺れるかどうかで、判断できるようになった。
「これ、すごく良い……ピアノソロの部分……」
昨日みたいに首を傾げて悩むことがない。涼羽にも、先輩2人にも、自信を持って薦められる。
桜さんは、やっぱりズルい。こんな置き土産を残されたら、頑張るしかないじゃないか。
「涼羽、他にオススメの音源サイトないか? もう少しだけ探したいんだけど」
「他のところ? んっと、もう1つ、最近ほとんど更新されてないけど、割と良曲がたくさん保管されてるところがあるよ」
向こうでは桜さんと颯士さんが編集を進めている。涼羽もたまにそこに混ざって、声やSEのボリューム調節を指示している。
俺には俺の、やれることがある。全員で、この作品を作り上げていく。
そんな思いで編集を進め、あっという間に週の後半、そして週末が過ぎていった。
***
「よし、これは大分終わりが見えてきたんじゃない?」
7月13日、月曜日。今週金曜日が、コンクール応募作品の提出日。制作した映画をDVDに焼き、主催団体宛に郵送する。
とはいえ、編集もいよいよ終盤となり、完成が近づいてきた。色が暗すぎるところやボリュームがおかしいところの最終調整は必要だけど、映像と音の切り貼りさえ終わっていれば、あと4日という期限は十分すぎる余裕だった。
「よし、ソウ君、次のカットお願い」
「オッケー、ちょっと待ってな」
桜さんと颯士さんが一緒にいるのを見るのは、まだ少し辛い。とはいえ、さすがに木曜から連日この状況に直面しているのでやや慣れた。
居た堪れなくなってトイレに行くフリをして北校舎を1周散歩することもなくなった。時間は残酷なほどに記憶や感情のくすんだ部分を洗い流してくれる、というのは何の歌詞だっただろうか。
「はい、じゃあカット268から。単体で見ると分かりづらいから、最後まで一旦全部繋げるぞ」
颯士さんの言葉を合図に流れてくる、佳澄の最後のシーン。
和志に強がりを吐いた後、河原に走ってきて川に石を投げる。そしてそのまま嗚咽を漏らし、慟哭する。
『……ふうー…………ふっ…………うう……うあああ…………』
「…………キリ君、どうかした?」
「え?」
「なんか、首捻ってたから」
「あ、いや、何でもないです」
俺の動きの正体、それは「違和感」だった。
佳澄と同じような精神状態に置かれた自分だから、感じることができるのかもしれない。
確かにこのシーンはすごい。映画のクライマックスとしても、視聴者を納得させられるものになっていると思う。
でも、それはひょっとしたら、佳澄の演技が素晴らしいからではないか。実際の演出としては、少し違うのではないか。
だって、多分、佳澄は河原で泣かない。
いつも明るかった佳澄だからこそ、そんな広い場所で、石を投げながら泣くようには思えない。もっと、人目につかない場所なんじゃないだろうか。
あれ? 昔、渓谷でそんな話をしたことがある気がする。あの時、確か愛理と……。
「あの」
編集を始めようとする直前、後ろから3人に声をかけた。
「今更だって分かってるんですけど、これ、別の場所にしませんか?」
突拍子もない提案に、全員が一斉に眉根を寄せる。
「葉介、別の場所って?」
「ひょっとして……撮り直すってこと?」
「このラストシーンをか?」
交互に質問を重ねてくる颯士さんと涼羽に、「急ですみません」と思わず謝った。
「なんか、うまく言えないんですけど、佳澄ってこんなところで石投げながら泣くかなって。それまでのキャラクター的に……人と鉢合わせすることのなさそうな場所で泣きそうな気がして。お客さんも戸惑うような気がしてるんですです」
その返事に、むしろ3人が戸惑いの表情を見せる。
「ううん、まあ言われてみればやらないかもしれないけど……絵的にはかなりいいの撮れてるからなあ……香坂、どう思う?」
「そうね……ちょっと残り時間考ええても現実的じゃないかな。ごめんね、次回の反省にしようかな」
「ワタシもそれでいいと思います。泣き始めるところはBGMはついてないのでそこは影響ないんですけど、あと4日ですからね……」
歯切れの悪い正論。俺の意見が間違っている、というわけではなさそうだけど、「時間を考えたら難しいよね」という暗黙の了解が場の空気に溶け込む。
「あ、うん、そうですよね……なんか急に悪かったです。さ、編集続けましょう!」
愛想笑いを塗りたくった顔で両手を合わせ、視線を画面に移す。
でも、一度芽生えた疑念はそんなに簡単に消えたりしない。それはきっと、桜さん達も一緒。
「この部分……もっと短くしようかな」
「おう、これで、と…………うん、良くなったような気がする」
なんとなく締まらないまま動画の切り貼りが続き、その日のうちにラストカットまでの編集を終えた。
「ただいま」
家に帰ってきて、ボフンとベッドに腰を下ろす。躊躇わずに、スマホを取り出し、写真のアプリをタップする。
大丈夫、もう怖くない。一気に2年前まで、写真を遡る。
そこで、1枚の写真に目を留めた。同時に、忘却の彼方にあった記憶が、帰り道を思い出したかのようにスッと蘇ってくる。
「…………よし。まずは夕飯!」
自分のやるべきことが分かった気がして、気合いを入れながら部屋着に着替え始めた。
「あの!」
翌日、14日、火曜日。提出まで、あと3日。
俺の庭だと言わんばかりに雲が空いっぱいに広がり、比較的過ごしやすい放課後の部室で、全員に呼びかけた。
「どしたの、キリ君?」
返事の代わりに、スマホを木の長テーブルの上に置く。意図が分かった桜さんがグッと身を乗り出し、颯士さんと涼羽もそれに続いた。準備ができたのを見て、動画を再生する。
「う、わ……」
桜さんが思わず声を漏らす。そこには、一面に咲いたクローバーの野原に横たわっている俺が映っていた。
「すごい……キリ君、ここどこ?」
「石名渓谷のちょっと先にある野原なんです。前に行ったのを思い出して」
隣で見ていた颯士さんも、「めちゃくちゃ綺麗だな!」と画面にくぎ付けになっている。
「いつ撮ってきたんだ?」
「今朝です、始発で」
俺の答えに、彼は驚嘆の表情を見せる。そんな表情をしてくれるなら、セルカ棒で撮った甲斐もあるというものだ。
「ちゃんとクローバーが残ってるの、すごいな。夏になると枯れやすいって前に聞いたことあるけど」
「そうみたいですね。たまたま日当たりと風通しが良い場所なんで、まだしっかり生えてるのかな」
改めて映像を見返してみる。それは自分で見ても、納得のいくロケ地だった。
「佳澄、失恋のカットには、こういうのが合ってると思います。草原で横になって、静かに泣くって感じが」
「なんで?」
まっすぐに俺を見ながら、涼羽が口を開く。そのトーンは、頭ごなしの否定ではなく、フラットに議論をしたい、という意思がきちんと見えていた。
「昨日はうまく言えなかったんですけど」
俺も、まっすぐに顔をあげる。涼羽と颯士さん、そして桜さんから、目線を外さない。
「きっと、自分だけのものにしたいから」
その言葉に、桜さんは大きく目を見開いた。
「人目も憚らず泣くっていう表現も分かります。でも、佳澄ってずっと和志のことを想っていたんですよね。だから、本気で応援もしたいし、でも悲しみも深くて、陽菜にも嫉妬したりして。そういう、心がぐちゃぐちゃで本当にしんどいときって、しばらく1人の世界に入りたいんじゃないかなって」
多分、そうだと思うんだよ。佳澄は俺だから。あの日、涼羽がいたけど、1人でずっと雨の世界に籠って泣いていた俺と一緒だから。
「ごめんなさい、時間がないの分かってるんですけど、どうしてもこっちの案がいいなって思って」
俺の撮ってきた20秒弱の動画を何度も見る3人。返事を待つのに緊張して、勢いのまま言葉を重ねながら、映像に映る自分と向き合っていた。
これは、愛理が教えてくれた場所だった。2年前、「すっごく辛くて、泣きたいときに来るんだよ」と秘密の場所を共有してくれた。
これが、俺の、俺にしかできない表現なんだと思った。
この場所を知れたのは愛理のおかげで、この提案ができたのは桜さんの作った脚本と映像のおかげで。2人が俺を、動かしてくれた。どっちが欠けても、このロケ地には辿り着けなかった。
どちらを好きになったことも無駄にならない。俺が経験した想いが、佳澄を、より生きた存在にできる。
「……良いと思う、オレも。この映像、すごく良い」
始めに賛成を口にしたのは、颯士さんだった。
「ワタシも、このシーン好きですね。ここから暗転でエンディングに繋がれば、BGMももっと映えるの選べそう」
そして、トリを飾るように、桜さんが嬉しそうにググッと口角を上げた。
「んー、私もね、これいいなあと思ったんだよねー。ここで泣いてる佳澄、『らしい』なあって!」
4人で笑う。
今日は火曜、提出は金曜。でも俺達は、そんな単純な算数を諦める材料にするほど大人じゃない。
「桜さん、一応天気調べてますけど、明日は終日快晴みたいですよ」
キリ君やるわね、と桜さんは意地悪げな笑みを浮かべた。
「どうする? 撮っちゃう?」
「最高の映画創っちゃいますか」
「今更止めるのもおかしいだろ」
「よし、演劇部に連絡しよう。明日の放課後、撮影いけるか確認して。私は絵コンテ直すから、 ソウ君、その後にカメラワーク一緒に考えて!」
「オッケー。月居、音声お願いできるか?」
「任せてください」
「葉介、詳しく場所教えてくれ。他に写真撮ってるか?」
「もちろんです、見せます!」
さあ、10日ぶりのリテイクが始まる。俺達の映画が、もう一度動き出す。
***
「それじゃいきます! ようい……アクション!」
15日水曜日の放課後。俺達はホームルームが終わってすぐに移動し、キャストと一緒に石名渓谷に来ていた。
渓谷から少し歩いたところにある、クローバーの草原。「ここ、ステキですね!」と興奮する佳澄が横になって、撮影を進めていく。
「最後にここで寝転んで泣く、っていうの、青春っぽくていいよね」
「分かる! 自分しか知らない秘密の場所でひっそり泣いてるって感じ、アタシも好き!」
四つ葉をキョロキョロと探す和志と陽菜。撮影は佳澄だけでも良かったけど、「どんな風に撮り直すのか見てみたいです」と言われたので、おなじみの7人でここに来た。
「よし、最後に嗚咽のシーンね? 涙は無理に流す必要ないから。モノローグも入れるから、ちょっと長めに撮るわよ」
「香坂、準備オッケーだ」
三脚を外し、カバンの上にカメラを固定する颯士さん。
クローバーに埋まる彼女を、平行な低いアングルから撮る。
『…………ふっ……ふっうっ……うう…………うあああ…………』
「……カット! チェックします!」
俺はレフ板を、涼羽はマイクを持ったまま、グループの後ろからモニターを眺める。久しぶりの撮影はバタバタだけど、やっぱり楽しかった。
「よし、これもオッケー。改めて、クランクアップです!」
「っしゃあ! お疲れ様でした、とりゃっ!」
「あ、颯士さんズルい! 俺も!」
「アタシもやる!」
そのまますぐに撤収の予定が、ゴロゴロとクローバーの草原を転がり始めた颯士さんに触発され、結局全員が「ひゃっほー!」とクローバーに囲まれて横になる。
まだ夕焼けの「ゆ」の字も見えない、抜けるような高い空に手を伸ばすと、ライトブルーのキャンパスに自分の手を描いたように見えた。
愛理が泣いていたあの場所で、俺達は笑っている。
彼女がどんな理由で涙を流したのか俺には分からないけど、もし僅かな幸福で上書きできるなら、そうしてあげたい。
彼女がこの世界で悲しい思いをした場所は、川だってここだって、全部上書きしてあげたかった。
「はーい、オフショット。撮影お疲れさまでした」
起き上がった桜さんが黒髪についた草を払いながら、スマホで動画を撮っていく。そのカメラは、俺にも向けられた。
「このラストカットの立役者、キリ君です! 一言どうぞ」
またそんなはじけるような笑顔を見せて、急な無茶ぶりで楽しませてくれて。
本当に困った人で、そして、素敵な人だ。
「映画作るの、楽しいです。来年も絶対この部活存続させないと。涼羽と一緒に頑張ります!」
「おっ、スズちゃん、大役を任されたわね!」
水を向けられた涼羽は、真顔のまま2、3回小刻みに頷く。
「……桐賀君、頑張って付いてきてね」
「クール! クール&ビューティー! 葉介、必死で付いていけよ」
「おわっぷ、颯士さん!」
意味の分からない颯士さんのタックルに、桜さんが「転がれ! 端っこまで転がりスピード勝負!」と意味の分からない煽りを入れ、カメラを回す。
それを、涼羽が呆れたように、キャストの面々が楽しそうに見ている。
こういうのを、青春というのだろう。愛理もきっと、こんな風に夢中になっていたんだろう。
「ソウ君、このカット、後ろ1秒弱切ってもらっていい?」
「オッケー。これで……どうかな?」
「……うん、これだと綺麗に寝転がるところに繋がるけど、みんなはどう思う?」
木曜日。昨日撮ってきたカットを編集していく。BGMも選び終わり、今は4人全員で話し合いながら進めていた。
「夏本さん、もう1回、後ろ1秒切らないバージョン見せてもらっていいですか?」
「あいよ。こっち側に切る前の貼って、と」
無言で再生された映像を見つめていた涼羽が、「んん……」と顎に右手の甲を付けた。
「ワタシは長い方も好きなんですよね。佳澄が走ってきて、ちょっと息切らしてる感じの余韻があるというか」
「オレは短い方かな。ラストシーンで見てる方も展開が気になってるだろうから、敢えてテンポ重視で細かく佳澄の動きを見せずに、泣くシーンで爆発させる感じ。葉介はどうだ?」
「そうですね、個人的には、かなり長く余韻取ってもいいかなと思ってます。それこそ、もう1秒伸ばしてもいいくらい。見てる人も佳澄と一緒に心を落ち着かせられるかなって」
高校生が作った映画なんて、と軽く見る人もいるだろう。
でも、知っているのだろうか。俺達が、1秒削るかどうかで、こんなに意見を戦わせていることを。
陸上選手がたった1cmを伸ばそうとするように、美術部が赤色の濃度に1日悩むように、最高を目指すために必死で努力している。
「よっし、切り貼りは終わり。次は色彩の調整行くわよ! 通して流すから、おかしいところあったら言って」
「……あ、ちょっとこれ、青っぽくない?」
「確かに、前のシーンから急に変わってますね。トーン直した方がいいかも」
「分かった、明るめに調整しよう」
編集はこの日も、夕飯の時間をすっかり超えるまで続いた。
***
「………………どう?」
沈黙を破る、桜さんの声が部室に響く。
「……うん、良いと思う」
「…………俺もです」
「……ワタシも、これでオッケーだと思います」
俺達3人の反応を見て、顔をやや強張らせていた彼女は、ぱあっと相好を崩した。
「オッケー! 編集、終わりです!」
「いよっしゃああああああ!」
7月17日、金曜。映画コンクールの提出締切日の17時前。ついに、「きっと見抜けない」が完成した。
全員で小さくハイタッチしたけど、リラックスしている暇はない。まだ映像が完成しただけ。提出までにやることを考えると、時間的にはそんなに余裕はなかった。
「ソウ君、提出用のDVDに焼いて! スズちゃん、申込書に添付するあらすじ、書いたの読んでもらっていい?」
「分かりました。桐賀君、それ以外の申込書に書いてある内容、誤字脱字とかもチェックして」
「任せろ!」
超短編ならWEBにアップロードできるコンクールもあるらしいけど、作品を収録したDVDを送付するのが一般的らしい。
最寄りの郵便局が開いている18時に間に合わせるため、全員で全速力で準備を進めていく。
「桜さん、赤ペンでメモ書き入れました。書き直した方が分かりやすい箇所と、誤字が1つあったのでチェックしてます」
「スズちゃんありがと! ソウ君、DVDの方は?」
「もうすぐ焼き終わる。終わったらざっと流してちゃんとデータ入ってるかチェックするよ」
まるで文化祭の前日のよう。冷静にならなきゃいけないところだけど、部屋に充満する昂揚感が、俺達をハイにしていく。
「よし、ディスクはこれで準備完了!」
「じゃあ最後! はい、みんなボールペン持って!」
桜さんが長テーブルの上に出したのは申込書。その一番下、「制作者」のスペースが空欄になっている。
「ここは1人1人書こう!」
「はい!」
こういう部長らしい配慮が嬉しい。そんなに字は上手くないけど、筆圧強めに「桐賀葉介」と書いた。
「これとディスクを封筒に入れて……完成!」
帰り支度をして鞄を持ち、部室を飛び出す。
「郵便局行くぞ! 間に合う!」
別に歩いたって間に合うのに、颯士さんだってそのまま帰るなら自転車に乗ればいいのに、全員で力の限り走る。
喜びと達成感から生まれたエネルギーが爆発して、足が勝手に前に進んでいく。
空が少しずつ灰色になっていく中で、郵便局に滑り込んだ。
「これ、お願いします。消印は今日で付きますよね?」
「はい、大丈夫です。ではこちら、承ります」
全力で来たけど、窓口でのやりとりはほんの一瞬。
呆然としたようにゆらゆらと歩きながら店を出る。
「…………お疲れさまー!」
「お疲れ様でしたー!」
突然路上で半泣きで叫び始めた俺達は、周りから見たらさぞかし奇妙で滑稽に見えただろう。
「良かった! 良かったね!」
「良い作品になった! すっごい作品になった!」
結果が出るのは大分先だけど、応募に間に合わせられただけで嬉しい。
俺が初めて制作に携わった映画「きっと見抜けない」は、こうして無事に提出できたのだった。