イマジナリーラインを越えて ~恋と渓谷と映画制作~

 標高の低い山の(ふもと)、川を見渡せる土手。制服が汚れないように小さいレジャーシートを敷き、曲を聴くのも飽きて、本を読み始めた。日が長くなったおかげで、放課後もこうしてここに来れる。

 パーッ! パパパーッ!

 ふいに金管の音が響き、河原を見遣(みや)る。吹奏楽部らしき男女が2人練習に来て、気持ちよさそうに抜ける高音を奏でていた。こんなところに来るなんて珍しい。ひょっとしてカップルだろうか。

 楽しそうだな。そして少し、羨ましい。部活も恋愛も、俺には縁遠いものになってしまったから。

「さて、と……」
 音がうるさいことにして、逃げるようにその場所を離れた。



「それでは、7月に出す『あずさと』のコンテンツについて、何か意見ある人いますか?」

 梅雨前から太陽が本気を見せつける5月下旬の放課後、ムシムシした快晴に汗ばんだYシャツの袖を(まく)る。

 小豆里(あずさと)高校、北校舎1階、集会室。昔より1クラス減ったために空いたというこの教室に広報委員長の声が響いた。新聞部の部長もやっているという彼は、腹案を練ってきたのか、ロの字型に並べられた机の一番目立つ位置で、自信ありげに手元のメモ帳をチラ見している。

「一応、去年のを参考に、僕の方でも幾つか考えてきたんですけど……」



 月に一度の委員会は面倒だけど、うちの学校は生徒全員、何らかの委員会に入らないといけない決まり。勝手が分かっているので去年と同じものに入ることが多く、俺もご多分に漏れず、1年に引き続いて広報委員会に入っている。

 隔月で学内向けの定期刊行誌を出すのが主な仕事で、作成担当のときは大変だけど、一度出すとしばらくは回ってこないので気楽。

 俺と一緒に今月号を担当したクラスメイトの橋本も、隣で暇そうにしている。プリントの裏にゴツい手に似合わない可愛い猫の絵を描きながら、小声で俺に話しかけてきた。

「はあ、担当じゃないときはホントに暇だよな。結局さ、印刷して学内に貼るのが大変なんだから、LIMEアカウントから全校一斉配信とかにした方が楽じゃないか?」
「全校生徒にアカウント登録してもらう方がよっぽど大変だろ……。それより、専用のサイト作る方が楽かもな。レイアウトも自由にできるし」

「確かに! でもWEBだとあんまり見てもらえないからなあ……そしたらWEBのページ印刷して学内に貼るか」
「結局貼るんじゃん」
 バカなやりとりをしながら、会議が終わるまでの時間を潰す。



「じゃあ、次回は高校総体も近いということで、特集1は運動部部長へのインタビューに決まりました。あとは特集2なんですけど何か案ありますか……じゃあ、香坂(こうさか)さん、何でもいいので」

 急に3年生を指名し始めた委員長。俺から見て斜め前の位置に座っていた彼女は、名前を呼ばれてスッと立ち上がり、背筋を伸ばして口を開く。

「夏休みが近いので、プチお出かけスポット特集とかいいかもなあ、って思います。『デートにピッタリ!』みたいな煽り文句とか入れて」

 コクコクと頷く人に、キャッチコピーに笑う人。決まらない文化祭の出し物会議みたいに硬くなっていた雰囲気が、少しだけ和む。

 放課後を使われるのはちょっとダルいけど、この委員会なら昨年に引き続きダルさも半減するというものだ。

「……私の意見は以上です!」



 香坂(こうさか)(よしの)さん。1つ上の3年生で、去年から広報委員会で一緒。とはいえ、一緒の号を担当したこともないので、こっちのことは覚えていないだろうけど。

 まず名前が素敵。「桜」で「よしの」と読ませるなんて、ものすごく風流だ。桜の色づく春に生まれたのかな。

 174の俺より少し低いくらい、160後半はある細身長身のモデル体型で、制服の青チェックスカートがよく似合う。白いブラウスの胸元まである黒髪のミディアムヘアは、少しだけカールしていて、3年生の証であるグリーンのリボンを絶妙に隠していた。前髪は外にハネていて、ちらっとおでこが見えるのが可愛い。

 そして、顔も端正だ。白く透明感のある肌、黒目の大きい目、鼻筋が通っているシャープな顔立ち。正統派の美人という感じで、ついつい目がいってしまう。



「反対意見もないようなので、特集2はお出かけスポットの紹介に決定です。記事の割当は一旦こっちで決めるので、希望があれば事前に連絡ください。では、本日の委員会は終わりです。お疲れさまでした」
「おーしたー」

 もごもごと挨拶をして、解散となる。みんながバッグを持ってがやがやと立ち上がる中、周囲が落ち着くまで小休止。


 そっか、旅行スポットか。どんなの出てくるのかな。気になるところあったら、また1人で行ってみようかな。

 ちなみに俺が薦めるとしたら……と、自分のスマホを漁る。最近撮ったものから順に、この前行ったときの山と川の写真に目を留めていると、後ろから聞き覚えのある声がした。


「わっ! ねえ、ちょっとそれ、見せてくれる?」


 小豆里高校2年、桐賀(きりが)葉介(ようすけ)香坂(こうさか)(よしの)さんに、初めて話しかけられた。


「えっ、あっ、はい、どうぞ」

 突然の出来事に、あたふたしながらスマホを渡す。脳内では必死に、見せられないような画像を保存していないか思い出していた。

「この山すごい! この川も綺麗だなあ」

 桜さんが食い入るように画面を見つめた。もともと大きい目が更に大きくなって、夢中で写真を拡大している。高すぎずハスキーでもない、ちょうど良い高さの声。「ここも良いなあ」という言葉が、心地良く耳に吸い込まれていく。

「これ、どこ?」
「えっと、石名(いしな)渓谷です。渓谷っていっても全然観光地じゃないし、人もいないですけどね。あ、それは家の近くにあったカフェの写真です。それは……川沿いにある公園ですね」

「そっか。うん、使えるかも」
 右手をあごの下に当て、意味ありげな言葉を呟く。

 もう集会室にはほとんど人がいない。いつの間にかクラスメイトの橋本も帰っていた。


「……あ、ごめん、挨拶してなかったね。3年の香坂桜です」
「2年の桐賀(きりが)葉介(ようすけ)です」
「桐賀君ね、よろしく」
 美人に柔らかく微笑まれ、照れ隠しで首だけ動かして頷いた。


「石名渓谷ってなんとなく聞いたことあるなあ。結構遠くない?」
「いえ、うちの家からは近いんで、何回も行ってますよ。転校してきてちょっとだけ遠くなりましたけど」
「転校?」

「あー、えっと……ちょっと分かりづらいんですけど、今の家からこの渓谷を挟んでちょうど反対側くらいのところに住んでたんですよ。事情あって引っ越すことになったんですけど、通ってた高校に通学するのはちょっと厳しいって感じで。で、公立で欠員あったのここだけってことで去年の途中に転校してきたんです」
「そっか、じゃあ電車通学なんだ。趣味で色々巡ってるの?」

 続けて質問してくる桜さん。暇人に見られたよな、と思いつつ、苦笑いしながら返す。


 一つだけ、嘘を入れて。


「趣味というか、7月の夏休み直前に転校してきたんで、タイミング悪くて部活に入れなかったんですよね。で、漫画とか本とか音楽とか、家で楽しむのも飽きてくるんで、外で読んだり聴いたりしてみようかなって、散歩がてら色々回ってます」


 部活に入れなかった、のくだりで、彼女はピクッと眉を上げた。

「アレコレ聞いてごめんね、学校から行けるような場所も回ってる?」
「そうですね、電車で行けるところなら割と」
「へえ、そっか」

 桜さんは、なんだか満足そうに手で口を押さえる。
 そしてしばらく考え込んだ後、手を離して「ねえ」と俺を見た。


「うちの部、入らない? 映画制作部なんだけど?」
「映画、制作部?」



 恐ろしい偶然で彼女の口から飛び出した言葉に、胸がギリリと軋む。
 彼女の、愛理(あいり)の顔を思い出した。



「来月から撮影する予定なんだけど、ロケ地の候補が決まってなくてさ。こういう場所、いっぱい知ってる人がいると助かるんだ。どう、話だけでも聞いてくれない?」
 そう言って、スマホを返してくれる。


 部活に入っていない今も、学校生活はそれなりに楽しい。友達とファミレスでバカ話するし、ハマってるゲームもある。1人の散歩だって悪くない。


 それでも時折、あの頃を思い出しては4月の雨の日のように少しだけ温度が下がる日常の中で、何かが動き出そうとしていた。


「今日は随分暑いよね」
「ですよね、梅雨前とは思えないです」

 廊下の少し前を歩く(よしの)さんと話しながら、じんわりと滲む額の汗をタオルで押さえた。

 スマホで時間を見ると、17時。先週のこの時間はもっと涼しかった気がする。5月27日という日付が目に入り、「過去には5月中に梅雨入りした年もありました」という天気のニュースを思い出す。


「ふふっ、桐賀君、こっちの3階とか、用がなければ絶対に来ないでしょ」
「そうですね、授業で使わないですし、来たことないかも」

 じゃあ今日は記念日だね、といたずらっぽく笑う彼女に脳内で「いいね!」を押しつつ、南校舎の階段を3階まで上がっていった。



 うちの学校は、北校舎はクラス教室、南校舎は職員室はじめその他の教室、と割と明確に分かれている。

 その南校舎は、昔は歴史準備室だの地学準備室だの幾つもあったらしいけど、今はその部屋も使われなくなり、実質文化部の部室専用となっているところも多かった。


 
「映画制作部なんてあったんですね。そういえば去年の文化祭のパンフレットで上映会の企画を見たような……」

 上を向いて思い出していると、「マイナーな部活だからね」と桜さんは眉を下げて自虐する。

「部員も3人しかいないし。部活として認定されるギリギリよ」
「3人! でも部費貰えるのって大きいですよね」
「そうそう、大して出ないけどね。どっちかっていうと部室貰える方が大きいかも。作業や保管にスペース使うからね」

 そうか、確かに集まれる部屋があるのは大事だな。


「桐賀君は、中学では何の部活やってたの?」

 来るんじゃないかと予期していた質問。


 また一つだけ嘘を入れて、答える。


「あー、いや、遊びみたいな部活入ってたんですけど、途中で辞めちゃったんですよね。友達と遊ぶのに忙しくなっちゃって」
「そっかそっか、まあ私も入ってたけど、ほぼ遊びに行ってたようなもんだったなあ」

 そうなんですか、と相槌を打ちながら、次の質問をしていいかどうか悩む。

 せっかく桜さんに声をかけてもらったのに、これを言って全てダメになったらどうしようか。でも、後でがっかりされる方が辛い。


「あの、すいません。俺、正直、映画あんまり詳しくないんですけど……」

 一瞬きょとんとした後、桜さんは「大丈夫」と人差し指を俺に向けた。

「みんなそうよ、映画マニアの集まりじゃない。創るのが好きな人達だから」
「そっか……良かったです。誘ってもらったのに合わなかったら悪いんで」
「そんなにハードル高い部活じゃないわよ。はい、着いたわ!」

 大きく手を掲げ、南校舎3階、一番西側の教室を示した。

 端の部屋なので、入口が普通の教室と90度違い、廊下から真っ直ぐドアに繋がっている。

 ガラス部分には紙が貼られ、「映画制作部 部員募集!」の文字と映画泥棒のカメラの絵がマジックで書かれていた。こんなに人目に付かないビラも珍しい。


「お疲れ様ー! さっき連絡した桐賀君、連れてきたよ!」

 勢いよくドアを開けた桜さんに続いて、部室に入る。

 オレンジに染められた部屋は、普通の教室の半分くらいの大きさだったけど、思ったより物が多かった。

 木の長テーブルと背もたれの付いたソファーベンチ、パソコン用デスクの上には結構大きい液晶のノートパソコン、パイプ椅子やスツールなど統一感のない椅子、そして俺の背より低い150cmくらいの本棚。
 その棚の中には、大量の本やファイル、そしてディスクの収納ケースが乱雑に立てかけられている。

 そして部室には、男女1人ずつ、残りの2人の部員が座っていた。


「おお、来たな! 期待の新人!」

 デスクでパソコンをカタカタ打っていた男の人がグッと立ち上がり、グリーンのネクタイの先端を揺らしながらトットッと跳ねるように俺の前まで来た。

夏本(なつもと)颯士(そうし)、香坂と同じ3年だ。よろしくな」

 ゴツゴツとした大きな手を差し出す。ガッシリした体型、やや見上げるくらいの身長は180は超えているだろう。

 髪は俺より少し短くて、前髪を上げて額が見えるようになっている。かなり黒に近い茶色だけど、染めているわけではなさそうだ。


桐賀(きりが)葉介(ようすけ)です、よろしくお願いします」
「葉介ね、呼びやすくていいな。オレのことも名前呼びでいいぞ」

 髪と同じで顔立ちも爽やか。薄い唇に、高い鼻、一重で僅かにつり目。スポーツマンのような感じの先輩だ。
 笑顔に少しだけギラギラした感じが見えるのもスポーツマンっぽい。


「主な担当はカメラと編集だ。まあこの人数だから、他のこともやるけどな」
「あ、やっぱり担当が決まってるんですね」
 ドラマも映画も、それぞれ仕事が決まってるもんな。

「ちなみに香坂が監督だぞ」
「え、桜さん監督なんですか!」

 驚きの声をあげると、颯士さんは「そうそう」と深く頷く。

「一番エラい人だからな、敬えよ」
「やめてってソウ君。そんなんじゃないから」


 呆れたように首を振って見せる桜さん。でも、監督ってすごいな。
 女子学生の監督……知り合いにいないわけではないけど。


「っと、もう1人紹介しないとね。おーい、スズちゃん」

 スズちゃんと呼ばれた女子は、さっきからずっと俺に背を向けるようにスツールに座ったまま、赤いヘッドホンをして小さく体を揺らしている。

 これは、聞こえて……ない……?

「もう、また大音量で聞いてるな。スーズーちゃん!」

 桜さんが叫ぶと、ようやく彼女はこちらを向く。そして俺を見てびっくりしたようにクッと体を退()いた。
 ワインレッドのリボン、ってことは同学年か。

「さっきLIMEで連絡した、部員の候補だよ」
「桐賀葉介です、よろしくおね——」

 言いかけた俺は、ヘッドホンを外しながら立ち上がった彼女を見て声を()める。

 代わりに口から出てきたのは、「あ……」という小さな驚嘆の呟きだった。


「何、知り合い?」

 俺が「そういうわけじゃ」と否定する前に、彼女はふるふると首を振った。

月居(つきおり)涼羽(すずは)です。同じ2年生、よろしく」

 小さい声で挨拶する彼女に、俺もタイミングを合わせてお辞儀をした。


 身長は160くらいだろうか。女子なら決して低くないけど、桜さんも颯士(そうし)さんも高いので、細身な体型も相俟(あいま)って小さく見える。

 大きくてやや切れ長の目に小さい鼻と口で可愛い顔立ちだけど、割とクールな印象。今もそうだけど、あんまり笑わないタイプなのかもしれない。

 特徴的なのは髪。色は明るい栗色で、耳は隠れる程度、前髪は眉毛の下までというショートヘア。少しずつ落ち始めた陽の光に照らされて、鮮やかに輝いている。


 確か、2つ隣のクラスだったはず。この栗色の髪と、朝や放課後にいつも付けている真っ赤なヘッドホンがやけに印象的で、見かける度に「静かそうだけど目立つ人だなあ」とチラ見していた。
 そうか、てっきり軽音楽部か何かだと思っていたけど、ここに入ってたんだ。


「あ、の……月居さんは担当って……?」
「ワタシ? 音声と照明。特に音声が好きね」

 斜め下に目線を下げながら、ややぶっきらぼうに答える月居。音声と照明か。裏方が好きというのが、見た目のイメージ通りだ。

「で、部長の私が、監督や脚本を担当してる香坂(こうさか)(よしの)。以上3人、小豆里高校、映画制作部にようこそ!」

 じゃーん、と効果音が付きそうなほど右手を広げる桜さん。颯士さんが呼応するように、「ようこそ!」と掛け声を重ねた。


「桐賀君、急に声かけてごめんね。説明したいから、ちょっと座ってもらっていいかな?」
「あ、はい」

 促されるまま、一番近くにあったパイプ椅子に座る。


「7月中旬に提出締切の短編映画のコンクールがあってね、そこに出そうと思ってるの。あ、もちろん秋の文化祭でも流す予定よ? で、もうすぐ脚本が仕上がる予定なんだけど、撮影場所のイメージが膨らんでないところがあったから、良い場所教えてほしくてね。さっきの石名(いしな)渓谷がメインになると思うんだけど……あ、そうそう、スズちゃんもソウ君も写真見て! すっごく良い感じのロケ地!」

 川も見渡せる土手の写真を表示してスマホを渡すと、颯士さんも月居も、「おおっ、こりゃすげえ!」「いいね」と目を丸くした。

「ね、いいでしょ。でもここから結構遠いみたいだから、桐賀君に案内してもらおうと思って」

 俺の方から2人に、さっき桜さんに話したことを補足する。
 去年7月に引っ越してきて、唯一公立で欠員があったここに転校してきたこと。40~50分電車に揺られて来ている自分の家から、渓谷は逆方向に30分くらいかかること。

「そうか、電車通学なのか。オレ達はみんなバスや自転車だからなあ」
「近い方が楽ですよ、朝眠いですし」

 俺の出した具体的な愚痴に、颯士さんは「早いのは辛い」と口をすぼめた。


「でね、桐賀君。案内ももちろん理由の一つなんだけど、本当は純粋に人手が足りないってのもあるの」
 そう言って、桜さんは困ったような笑みを見せて右の頬を掻く。

「だから、ロケ地の案内以外にも色々協力してもらうことになると思うんだけど……もしよかったら、この作品だけでもいいから仮入部で手伝ってほしいな。締切は7月17日金曜だから、夏休みには被らないし」


 窓の外で、俺の動機が激しくなる合図のように、運動部のホイッスルがピイッと響く。


 そして、3秒もない沈黙の後、俺は口元をクッと緩めた。

「分かりました。せっかくお誘い頂いたので、まずは仮入部で7月まで頑張ろうと思います!」
「ホント! 嬉しい、ありがとね!」




 好奇心が勝った。

 彼女が、浮園(うきぞの)愛理(あいり)が、文字通り「死ぬほど」のめり込んだ映画制作とはどんなものなのか、知れるチャンスだ。

 そうしたら、あの時を境に、いきなり電池を抜いた時計のように止まってしまった時間が、動きだすかもしれない。



 付き合っていた当時はまだ中学生で、俺も自分の話ばっかりで向こうの話なんか全然聞かなかったから、どんなことをやっていたのか、よく知らない。

 彼女がいなくなってからしばらくの間は、映画制作に関することは意識的に避けていたけど、2年経って、今はやや冷静に受け止められる。


 そして、このタイミングで入部を誘われた。しかもロケする場所は、あの渓谷。

 運命のいたずら、なんて使い古された表現だけど、そんなものを信じてみたくなった。




「葉介、よろしくな!」
「桐賀君、よろしくね!」

 俺の手を取って、ブンブンと上下に振る桜さん。颯士さんと月居の小さな拍手に重なって、祝福するかのように吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。



 5月27日。去年とも一昨年とも、全く違う夏が始まる。



「おーい、葉介、ゲーセンいかね?」

 週明けの月曜放課後、教室でいつものグループに声をかけられる。

 気温は高いけど、窓の外は雨。6月に入った初日、梅雨の時期らしい、やや強めの雨が、窓ガラスを叩いてじゃれていた。

「悪い、部活あってさ」
「えっ、葉介部活入ったの?」
「何? どこ?」

 ワイドショーに出てくる熱愛発覚芸能人のごとく、囲まれて質問攻めに遭う。「先週からな。映画制作部だよ」と返すと、「そんな部あったっけ?」「んー、あった気がする」とぼやけたリアクションが返ってきた。


「誰かうちの学年で入ってるヤツいる?」
月居(つきおり)涼羽(すずは)って知ってる? いつも赤いヘッドホンつけてる」

「あ、知ってる! 髪色もヘッドホンも目立つから登校のときによく見つけるよ」
「物静かで音楽好きな美人って感じだよな。そっか、あの子映画部なんだ」

 映画撮影のことを聞かれてもまだよく分からないので、それ以上質問を重ねられる前に「また時間が出来たら遊ぼうぜ!」と足早に廊下へと飛び出した。


「さて、と」

 先週の水曜以来、久しぶりに部室へ向かう。基本は週5で毎日あるらしいけど、木金は桜さんが「脚本の詰めだから籠る!」と宣言したので、部活は休みになった。


「あ……」

 北校舎と南校舎を結ぶ渡り廊下の入り口で、黒いリュックを背負い、ヘッドホンをしながらスマホを触っている月居に会った。

 俺に気付いているだろうか? 話しかけていいのかちょっと迷うけど、無言で去って無視されたと思っても困る。


 と悩んでいると、彼女はスマホをブラウスのポケットに入れて顔をあげる。
 完全に目があった。これは話しかける一択だな……。


「よお」
 スッとヘッドホンを外し、無言で少しだけ頭を下げる彼女。

「ぶ、部室?」
「うん」

 一緒に行こうぜ、も言えないうちに彼女はまたヘッドホンをつけた。最低字数の会話を交わして、南校舎へ向かう。

「…………」
「…………」

 か、会話がない……部室でも思ったけど、寡黙なんだなあ。

 ずっとヘッドホンをして、音楽に浸っている月居。
 いつも、どんな曲を聴いてるんだろう。話のタネに聞いてみるか。

「あの、何聴いてるの?」

 少し声大きめに投げかけた問いに、彼女はゆっくりこちらを向いた。

「今? セミ」

 知らないアーティスト名に、脳内の検索エンジンが固まる。

 え、流行りの最新アーティスト? それともコアなグループ?

「ごめん、そんなに音楽詳しくなくて。バンド?」
「バンドじゃないわよ、SEよ」
「SE……」

 知らない言葉を質問したら知らない言葉で返された。どうしようかと次の言葉に迷っていると、彼女から「ああ、ごめんね」と助け船を出された。

「SE、サウンドエフェクトよ。セミの鳴き声の効果音ってこと」
「セミの声……?」

 連続して首を傾げている俺に、月居がヘッドホンの頭周りの長さを伸ばして渡してくれる。

 カポッとはめてみると、瞬間ここだけクーラーと風鈴の似合う夏になったかのように、両耳からセミの鳴き声が聴こえてきた。

「撮った映像の演出に使うのよ」
「え……いつもこういうの聴いてるの?」
「もちろん普通の音楽も聴くけど、BGMやSE流してることの方が多いわね」
「えひっ! そ、そうなんだ……」


 へ、変なヤツ……! いつも無表情で何聴いてるのかと思ったら、セミの声だなんて!

 笑ったら絶対失礼な気がして、でもついつい笑いそうになって、必死で堪える。


「締切来月って言ってたけど、もうすぐ撮影なのかな」

 吹き出す前に話題を変えると、彼女はぐるりとリュックを胸の前に回し、ヘッドホンをリュックの中に突っ込んだ。
 しまった、音楽聴きたかったかな……でもセミだしな……。

「まあ、まずは脚本だけどね」

 リュックをまた背中に戻し、裾が捲れたチェックの青いスカートを直して、まっすぐ前に向き直った。

「ワタシが書いた部分、うまく使えるのかなあ」
「月居、脚本も書いてるのか」

 驚いて彼女の方を振り向く。雨雲で空が暗い分、彼女の栗色の髪が余計に鮮やかに見えた。

「一部だけだけどね。この1年くらいはずっと桜さんが書いてたけど、来年はいないから。夏本さんも抜けて人数減るから廃部になるかもしれないけど、仮に1年生が入ってきても、脚本書ける人がいないと映画作れないからね」
「そっか、今年で引退だもんな」

 気付いてなかったけど、桜さんも颯士さんも、受験考えたらあと半年も活動できないってことだ。部活の存続のために初めてのことにチャレンジするってすごいな。

 そしてもう一つ気付いたこと。月居もちゃんと喋ってくれる。目はほとんど合わないけど。



「お疲れさまでーす」
「よしっ! 初稿できた!」
「っしゃあ!」

 部室に入る挨拶をかき消す、先輩2人の叫び声。桜さんは立ち上がって天に向かってガッツポーズし、颯士さんは指笛を鳴らしている。
 フランス革命に成功したときの民衆もこんな感じだったんだろうかと思うほどの喜びようだった。

「キリ君、スズちゃん! 脚本あがったよ!」
「ホントですか!」

 ピースサインで応える桜さん。「これで撮影に入れますね!」とテンション高めにバッグを部屋の隅に置いていると、颯士さんが「気が早いな、葉介」と笑う。

「撮影までにやることはまだまだいっぱいあるぞ。まあ、映画制作は初めてだろうから、見ながら覚えていくといいよ」
「とにかく、キリ君もまずは読んで!」

 ずいっと入ってきた桜さんが、印刷して右上を綴じられた紙の束をポンッと渡してくれた。

 先週、連絡用に全員とLIMEを交換し、そのトークの中で桜さんが「桐賀君より呼びやすい」ということでキリ君呼びになった。
 あだ名も嬉しいけど、部員のみんなとLIMEする、ということ自体が久しぶりで、喜びが大きい。


「スズちゃんもありがとう。書いてくれた部分、ちょっとだけ直したけどそのまま使ったよ」
「良かったです、桜さんのとトーンが合うか不安だったので」

 少しだけ安堵したように吐息を漏らす月居。桜さんは空いている椅子を2つ、木製長テーブルの横に置いた。ソファーベンチに女子2人が座り、颯士さんと並んで椅子に腰かける。


「本物の脚本だ……」

 紙を捲って思わず呟きを漏らす。シーンごとに番号が振られ、台詞と台詞の間に役者の動きなんかが書いてある。俺がなんとなく知っている脚本そのものだった。

「ふふっ、これで感動してもらえるのは嬉しいなあ」
 桜さんがさも可笑しいというように右手をヒラヒラさせる。


「この四角で囲まれた数字が『柱』、シーンを表すところね。あとは場面状況や起こる事態、登場人物の行動を書いてるのが『ト書き』、そして『台詞』ね。大きな構成要素はこの3つよ」


 向かいから指で指しながら説明してくれる。ああ、そういえば愛理も、脚本が書けただの直した必要だの、よく話していた気がするな。

「よし、早速香坂先生の最新作を読むぞ。今回は途中で読んでないから、本当に初見だ
「うう、ソウ君やめてよ、緊張する……」

 頭を抱える桜さんに、颯士さんと一緒にプッと吹き出した。

「30分の短編だから、割とすぐ読めると思うわ」
「まずは全員黙読だな」

 颯士さんの言葉を合図に、「きっと見抜けない」というタイトルの添えられたその脚本に目を落とした。




 ◇◆◇


 主人公は20歳の女子大生、佳澄(かすみ)。その相手は、中高と演劇部で一緒だった、今は違う大学に通う同い年の男子、和志(かずし)。そしてもう1人、男子のサークルの後輩である19歳の女子、陽菜(ひな)


 初夏、互いの実家近くの駅で待ち合わせる佳澄と和志。佳澄は決意を固めた表情で和志を待っている。彼女のスマホに友人から、告白を応援するLIMEが届いた。やがて和志が到着し、大きな駅まで電車に乗って、2人で街を歩き出す。


 他愛もない話をしながら、前に会った時の話になり、佳澄は前々回の時のことを回想する。和志が一人暮らししている場所から近い、大きな駅で待ち合わせていたら、彼に陽菜がくっついてきた。和志に促されてすぐに帰ったけど、彼女は明らかに和志に好意を持っている。


 街でウィンドウショッピングをしているときも、ランチを食べているときも、佳澄の頭にはつい陽菜のことが浮かんでしまう。
 この街に和志と来たことがあるんじゃないか、2人で歩いたりしたんじゃないか。妄想の中で楽しげに過ごしている、和志と陽菜。


 不安を払拭するように、佳澄が「久しぶりにあそこいかない?」と提案。電車に乗り、自然の溢れる渓谷に着いた。

 演劇部で役者である彼女が、大道具担当だった彼を連れていつも練習していた秘密の場所。
 当時制服で台詞を叫んでいたのを思い出し、再現してみせると、和志は小さく拍手する。「やっぱりお前の演技は自然だよなあ。前にエイプリルフールに嘘つかれたじゃん? 俺全然見抜けなかったもん」


 そこからまた思い出話になり、お互いが当時付き合っていた相手の話にもなる。小さな愚痴を、よく言い合っていた。今は2人とも、相手はいない。


 告白のチャンスだと佳澄が意を決したその時、彼女は気付いていないものの、和志もまた心を決めたような表情になっている。

 そして和志の方が先に口を開いた。

「いやー、びっくりしたよ、後輩に告白されちゃって」

 その言葉に、佳澄は驚きでしばらく沈黙する。
 その後、諦めたような柔和な表情になり、笑顔で和志を応援する。

「よし、じゃあ帰ろっか。あ、そうだ。せっかく来たから、私ちょっと役の練習してから帰ろうかな」
「どんな役やるんだ?」
「ふふっ、秘密。舞台招待するから、その子と一緒に見に来てよ。じゃあ向こうでやるから、またね。また遊ぼ!」

 そう挨拶して山のさらに奥まで走っていく佳澄。


 彼は友人に電話をする。
「ダメだった。気引こうと思ったけど、途中で普通に応援された。やっぱり友達扱いなのかな。 うまくいかないもんだなー!」


 彼女は全力で走り、行き着いた先の河原で1人、川に石を投げながら大泣きする。

 最後にモノローグ。

「大丈夫、今度も、きっと見抜けない」


 ◇◆◇