イマジナリーラインを越えて ~恋と渓谷と映画制作~

「桜さん、遅いわね……」

 部室でスマホを見た月居が、小さく声をあげる。ショートホームルームが終わってすぐ、15時半には部室に来たが、1時間以上、部長は顔を見せていない。

 休みの連絡は回ってきていないのできっと部活はあるのだろうと思いながらも、どこで何をしているのか、絵コンテはどこまで進んでいるのかが気になって仕方がなかった。


「何か手伝えることあるといいんですけど——」
「それはないな」

 颯士さんの乾いた声が部室に響く。ドライにも思えるけど、実際それは悔しいほど正しい。
 この絵コンテは、脚本と監督を務める桜さんが1人でやらなければいけないことだから。


 脚本のどこからどこまでを1カットにして、どのように撮るか。絵コンテを描いたことがない俺でも、これを決めるのがどれだけ大変かは想像かつく。

 風景画なんかはその風景で1カット、と簡単に決められるけど、役者の動きが加わるとそうもいかない。結局、頭の中で模擬撮影するしかないのだ。

『アクション(Action)、アングル(Angle)、それにオーディオ(Audio)。絵コンテに入れる3つのAって呼んでるけど、その中でもアングルが一番大変かな』

 桜さんも石名渓谷の帰りに話していた。脳内ロケ地に脳内役者を配置して、脳内カメラを回す。
 カメラを回す、なんて簡単に言うけど、位置と高さを調節すればXYZ軸どの座標からでもカメラを映せるわけで。さらに撮影中にカメラ自体を動かしたりすることもできるのだから、パターンは無限大にあると言っていい。

 誰がどう動いて、アングルがどう変わって、1つのカットが終わるのか。それを200も300も絵に起こしていくなんて、面白いかもしれないけど、果てのない孤独な作業だった。



「17時か……」

 颯士さんの小さな声が漏れる中、短針が間もなく5に到着しようとしている。

 月居はヘッドホンをつけて静かに揺れ、颯士さんは「撮影とアングルの基礎が分かるビデオサロン」という厚めの本を捲っている。俺はと言えば「映画制作 虎の巻!」というサイトに見入っていた。
 部屋に響くのは、秒針がテンポよく走る音と、ページを捲る音だけ。

「お待たせ……」
「桜さん!」
「香坂!」

 よろよろと入ってきた彼女を、全員で立ち上がって迎える。月居も心配そうにヘッドホンを外した。

「ふう……」
 精も根も尽き果てたような表情、から一転、ニイッと胸元でピースサインを出す。

「絵コンテ、完成した!」
「デカした!」
「っしゃあ!」
「ありがとー! 280カット終わったよー!」

 まるでコンテストで金賞でも取ったかのような大はしゃぎ。全員でハイタッチする。おとなしい月居も、腰のところで小さくガッツポーズしてるのがなんだか可愛らしかった。

「香坂、ザッと読ませてくれ!」
「俺にも見せてください! 月居もほら!」
「はいはい、慌てない慌てない。原本破かれたら困るから、こっちのコピーの方見て」

 受け取った紙の束を3つに分け合う。4コマ全部埋まってるページと、シーンの区切りで2コマや3コマで終わってるページ、それらが入り混じる絵コンテを捲りながら、ちょっと跳ねたクセのある字を読んでいく。桜さんが一度脳内で撮った「きっと見抜けない」が、紙の中で再現されていた。


「へえ、結構凝ったアングルもあるな、これは撮影楽しみだ」
「へへっ、もちろんソウ君がその場で別のアイディア出してもいいからね。活躍の場はたっぷりあるよ」
「いやあ、香坂先生のアングルにケチつけるなんてそんなそんな……」


 3年生ふたりの冗談を聞きながら先のページを見ていくと、絵コンテの用紙とは異なる普通のルーズリーフが1枚混ざっていた。

 それぞれ丸で囲まれた「佳澄」「和志」という図形が平行に並び、その2つを真っ直ぐ通るように直線が引かれている。そしてその線の下側に、「カメラ」と書かれた四角とそこから伸びる矢印のセットが幾つか描かれていた。


「ああ、それはイマジナリーラインのメモ書きね」
「イマジナリーライン?」

 夢中で読んでいる颯士さんと月居の間を通り、桜さんが俺の前まで来てその絵を指す。

「2人が映る構図を撮るときに、その2人を結ぶ想像上の線よ、名前の通りね。んっと……簡単に言うと、カットを割る時に、この線を超えてカメラを移動させちゃいけないの。ちょうどいいわ。スズちゃん、ソウ君、ちょっと写真撮らせてね。2人とも向かい合って」

 そう言って、桜さんはブラウスのポケットからスマホを取りだし、まずは今いる場所から颯士さんをカシャリと撮影した。

 続いて再び2人の間を通り、奥に行って今度は月居を撮る。カメラを向けられるのは苦手らしく、月居は素早くふいっと視線を外した。


「ほら、見てこれ」

 2枚の写真をスワイプする桜さん。どっちの写真も、左を向いている。

「あ、そっか、カメラを反対に移動しかたら向きが同じになるのか!」

 閃いた俺に、「そういうこと」と、今日の授業のポイントに気付いてもらえた先生のように満足気に頷く。


「これをやると、お客さんからしたら変な風に見えるのよ。2人が映ってたとしても向きが統一されてなくて『これって一体どういう位置関係なの?』ってなっちゃう。そういうことがないように、イマジナリーラインを引いて制御するのね」

 編集の仕方でラインを越えることもできるけどな、と颯士さんが向きをくるくる変えておどけて見せた。


「さて、全カット揃ってるなら、撮影に向けて早速準備だな。まずは印刷室だ」
「印刷室? 何するんですか?」

 颯士さんは、まとめ直した絵コンテの束を、お面を被るようにバサッと自分の顔に当てた。
「出来たものを冊子にするんだよ」




「うん、脚本が20ページ、絵コンテが88ページ。どっちも冊子型にするにはちょうどいいわね」

 職員室の隣にある印刷室で、桜さんがブラウスの袖を(まく)る。大量に印刷することは、掛け持ちで全く顔を出さない幽霊顧問に許可を取っているらしい。

「スズちゃん、紙は用意した?」
「はい、A3を500枚」

 A3を半分に折ってA4の冊子にする。ってことは、A3にA4が4ページ分入るってことだな。

「部数は私達4名とキャスト3名、予備2部で計9部! 冊子型で真ん中にホチキス綴じ!」

 プリンターを操作してコピーモードにする颯士さん。でも勝手に出てくるならこんな狭いところに4人来なくても……

「よし、じゃあいくぞ。葉介、月居、ホチキスよろしくな」
「はい?」
「このプリンター、ホチキスが壊れてるんだよ。そこに中綴じ用のホチキスあるから、紙出てきたら折って真ん中でガッチャンしてくれ。紙のスピードに負けるなよ」

 何その雑用……でも、なんか燃えるじゃん。


「よし、月居、一部ずつ交代でやっていくぞ!」

 俺の提案に、彼女は静かに首を振る。祈るように両手を組んでグッグッと握っている。

「ホチキス1台しかないから、使いまわすのはタイムロスよ。ワタシが折る担当やるから、ホチキス担当お願いできる?」

 ふっふっふ……月居も本気でやる気だな!

「オッケー、俺が全力で綴じる。西部のガンマン並の速さと正確さを見てろよ」
「ふはっ、キリ君、ホチキスのガンマンって」

 桜さんが吹き出しながら「私も折るの一緒にやるわ」とプリンターの排出口近くに立った。

「よし、紙が詰まったりしたらオレが直すからな。全員気合い入れろよ。レディ……ゴー!」

 次の瞬間、この部活はちょっと変な人達の集まりに変わった。印刷するのにこんなに全力になってる高校生がいるだろうか。

「はい、桐賀君」
「サンキュ、月居!」
「キリ君、こっちも1部! ソウ君、そっちは?」
「そろそろもう1部印刷終わるぞ! 月居、取ってくれ!」

 でも、こうやってみんなでバカやるの、面白いな。
 愛理が言ってた、「みんなでワイワイやるのが楽しいんだよ」って、こういうことかな。



「よし、両方9部完成したな。時間は18時過ぎ……香坂、演劇部は?」

 印刷室にかかっている時計を見上げる颯士さんに、桜さんは出来上がった冊子をパラパラとチェックしながら「まだ間に合う、と思う」と返す。


「よし、オレと月居で印刷枚数の報告とか後片付けやっておく。葉介、それ持って香坂と一緒に行ってくれ」
「行くって、どこへですか?」
「演劇部の役者に渡すの。そろそろ解散かも、急ぐわよ」
「あ、ちょっと!」

 言うが早いか引き戸を開けて飛び出した桜さんを、計18部の冊子を抱えて追いかける。

 窓の外では太陽が、沈み始める前の最後の自己主張をしていた。オレンジの光線が廊下に差し込み、走っている2人のくっきりした影を作る。

「南校舎2階の東側、一番端っこ!」
 階段を駆け上がる彼女が、ちらと振り向いて上を指差した。

「分かりました。じゃあ先に行きます!」
「お願い!」

 声を掛け合いながら一段飛ばしで昇り、踊り場を過ぎて2階へ向かう。
 絵コンテ完成の時から溢れ続けているアドレナリンが、息急き駆けるスピードを緩めようとしなかった。



 愛理の一件で歩みを止めていたことが、少しずつ、でも確実に動き出している。部活に入ること、仲間と深く関わること、そして……。

 俺の中にあるイマジナリーラインを越えて前に進めたら、それはどんなに大きな変化で、どんなに嬉しいことで。



「失礼します! 急にすみません、映画制作部です! 週末からの撮影にキャストで出てもらえる3人の方、脚本と絵コンテ持ってきました!」

 ちょうど終わる前の片付けをしていた部室に滑り込み、「お待たせしました!」と冊子を渡す。それは正に、映画撮影の「役者が揃った」瞬間だった。



「いよいよ今日から、撮影に向けた打ち合わせに入ります!」

 マダム層も多い15時台のファミレスのソファー席。サーブされたフライドポテトをフォークで刺しながら、桜さんが高らかに宣言した。

 絵コンテ完成から一夜明けた、10日水曜日。特にこの店に用事があるわけではないけど、「ずっと部室だと飽きちゃうから、気分転換ね」という部長の提案で、学校から一番近いこの店に来ることにした。

 移動中に「ファミレスで打ち合わせって、なんかカッコいいよね」と浮かれ気味に漏らしていたので、おそらくそっちが本当の理由だろう。


「まずは撮影予定の話ね。今週の土日、13日か14日から撮影開始で、7月の4日か5日まで、週に1回土日のどっちかに撮影。つまり計4回で考えてるわ。ソウ君、それでいいよね?」
「ああ、それでいいと思う。土日両方だと役者の負担が大きすぎるしな。みんな演劇部の準備だってあるだろうし」

 白ブドウスカッシュとジンジャーエールを混ぜた炭酸をグッと飲み干し、颯士さんが首肯する。土日のどっちにするか決まっていないのは、天候が読めないから。


「あくまで予定だけどね、土日どっちも雨だったり、撮影が思いっきり押したりした場合には、役者さんにもお願いして追加の撮影日を設定しましょ」
「4日間で280カット……結構ハードですね」

 月居が唇を口の内側に巻き込みながら呟く。1日70カット、1カット5分だとしても6時間かかる、かなりのボリュームだ。

「まあ風景のシーンとかはキャストいなくても撮れるから、そこは別の日に撮ってもいいしね」

 斜め前のソファー席に座る、小豆里高校の制服の男子5人グループ。撮影という言葉が気になるのか、スマホをいじりながらもちょこちょこ俺達の方を見ていた。そうだよな、当たり前に口にしてるけど、撮影って日常で使う単語じゃないよな。


「で、役割分担だけど、基本的にはソウ君はカメラ、スズちゃんは音声ね。ただ、スズちゃんにも少しカメラ経験してほしいから、どこかのシーンは任せると思う」
「分かりました」

「で、キリ君」
「は、はい」
 シャーペンをカチッとノックして芯を調整し、ノートに近づける。

「メインは照明をお願いしようと思うけど、私達のサポート含めて。映画撮影でやること、一通り経験してもらおうかな」
「分かりました」

 照明か。昼間の撮影だからライトは必要なさそうだけど、何をやるんだろうか。本番を楽しみにしていよう。

「そうしたら、ここからは明日明後日の準備と、撮影初日の予定について相談ね。まずは……」

 話し合いにも熱が入り、瞬く間に時間が過ぎていく。炭酸と野菜ジュースでお腹をたぷたぷに満たしながら、ノートを黒炭で染めていった。




「それじゃあ、また明日ね!」
 ファミレスの入り口で解散したのは19時前。すっかり薄暗くなった街で、近くの個人商店はシャッターを下ろす準備を始めている。

 颯士さんが自転車で、桜さんと月居は別々のバス停だったな。俺は電車だから向こうに……

「あれ?」

 月居が俺の少し先を歩き始めた。俺が声を出したことに気付いてこちらを向く。「家こっちじゃないよね?」という質問を読み取ったらしく、リュックを開けようとしていた手を止めた。

「書店行きたくて」
「あ、ああ、そっか」

 そして前に向き直り、バッグからヘッドホンを取り出す。それを見ながら、ふと、ある思いが(よぎ)り、大急ぎで脳内で文章を練っていく。


 これは、あれを伝えるチャンスじゃないか?
 言いたいことがある。なあなあにしないで、言わなきゃいけないことがある。




「月居、あのさ」

 5歩前、ヘッドホンを耳に当てようとしていた彼女を呼び止めた。温度の低い風が、明るい栗色の髪をふわりと撫でる。

「今更なんだけど、先週のSEの、アレ、ごめんな」

 彼女がチラと振り向く。目が合って緊張が増したせいで、続きの言葉が喉に張り付く。でも、ちゃんと謝らなきゃ。

「正直、あの時は本当に、なんていうか……どれでもいいじゃんって思ってた。音声だけじゃなくて、台詞や設定の一つ一つの細かい意味とか理解しようともしないで、フィーリングで全部できてるって勘違いしてた。でもあの後、読み込んでいって、みんながどれだけ脚本に潜ってるか分かったし、その……俺もそうなりたいって思ったよ」

 考えながら話す俺の言葉を、月居は黙って聞いている。
 すぐに返事を被せてくるタイプじゃなくて良かった。焦らず話せる。


「SEも自分なりにやってみた。難しいけど、脚本から想像を膨らませて選ぶの、楽しかったよ。それを『どれでもいい』なんて、ひどい言い草だった。だから、その、ごめんなさい!」

 言い切って頭を下げる。道を通る人に見られるのは恥ずかしかったけど、ずっと引っかかってたこのことを言えないままモヤモヤしている方がずっと嫌だった。

「……大丈夫よ」

 頭の上から聞こえてきたのは、ポツリと囁くような静かな声。
 頭を上げると、月居は穏やかな表情でフッと鼻から息を吐く。

「SEの話、桜さんからも聞いてたわ。それに、脚本修正の話し合いにもちゃんと混ざってたし、ちゃんと読もうとしてたの分かってる。だから、もう怒ってない。それに」

 そして、口を真一文字に結び、目線を少し下げた。

「ワタシこそごめん、あの時あんな言い方しちゃって。夢中で脚本読んでたから、神経(たかぶ)ってたのかも」
「あ、いや……元はと言えば俺の方だから」

 謝らせる気なんてこれっぽっちもなかったので、激しく両の手を振って打ち消す。やがて彼女と再び目が合い、お互い少しだけ顔を綻ばせた。

「撮影、よろしくな。色々教えてくれ」
「うん、分かった」

 またね、と言って、ヘッドホンを付けて本屋へと駆けていく。
5分くらいの短いやりとり。だけど、心のしこりが取れると体も随分軽くなるらしく、俺は大きなストライドで結構な距離のある駅に向かった。




 翌日の放課後。昨日のファミレスから一転、今日は学校での部活。ただし、部室ではなく、北校舎1階の集会室に集まっていた。
 理由は単純、部室には人が入りきらないから。

「改めて、今回は『きっと見抜けない』の撮影に協力頂き、ありがとうございます」

 机を少し前に移動し、椅子だけを7つ、円状に並べる。俺達4人に加え、役者を担当する3人がソワソワしながら座っていた。

 小豆里高校の演劇部は40人以上の部員を有する大所帯。役者の他、大道具・小道具、音声・照明など、幾つかの班に分かれている。

 役者が一番多いけど、登場人物が10人以下の作品をやることが多く、8~10人の3チームに分けているらしい。今回の3人はそれぞれ違うチームだからお互いもそんなに面識ないらしいよ、と桜さんが事前に教えてくれた。


「えっと、ソウ君とスズちゃんは打診しに行ったときに1回会ってるよね。キリ君は……」
「あ、脚本と絵コンテ渡しに行ったときに」
 そうね、とパンッと手を叩く桜さん。

「それじゃ、今日が正式な顔合わせってことで。キャストを担当してくれる、演劇部の役者陣、2年生3人です! もう全員で脚本の読み合わせとかしてくれてるって!」

 彼女は舞台挨拶の司会さながら、立ち上がっている3人を正面から撫でるように手を動かした。
 同じ学年だけど、知り合いはいない。月居もいないらしく、人見知り気味に会釈していた。


「簡単に自己紹介お願いします!」
「じゃあ私から」

 まずは、一番右にいた黒髪ショートの女性がペコリとお辞儀する。
 飛び抜けた美人ってわけじゃないけど、大きい目、高い鼻、よく通るやや低めの声で、全体的に凛とした雰囲気を持っていた。


「えっと、佳澄役の藤島です。映画の主演なんて緊張しますけど頑張ります、よろしくお願いします!」

 続いて真ん中にいた黒髪の男子が「次、俺だな」と小さく手を挙げた。
 颯士さんと同じくらいの短髪だけど、ワックスで持ち上げていないので、朴訥とした印象に見える。

「和志役の永田です。劇の方でも主演級は経験ないので、貴重な経験させてもらいます!」

 そして、これまでの2人に一番大きな拍手を送っていた、最後の1人。
 背は藤島さんよりちょっと低め。ビターチョコレートみたいな色のミディアムヘア、顔立ちも一番派手、というか華やかだった。

「後輩の陽菜ちゃんやります、雪野です! あ、名前みたいですけど苗字ですよ。結構面倒な女子の役っぽいんで、魔性スキル上げてやっていこうとおもいまーす!」
「いよっ、魔性!」

 颯士さんが歌舞伎の大向(おおむ)こうのような掛け声をかけ、教室は一気に笑いに包まれる。

 ああ、キャストは最後の年の3年生を除いた中から、桜さんが直接顔見て選んだって言ってたっけ。3人とも、作品の役にとても合っている。

「続いてうちの部員ね」

 桜さんが俺達を順番に紹介してくれる。「今回キーになるロケ地を教えてくれたの」と一言添えてくれたのが、ちょっとくすぐったかった。

「最後に私、香坂桜。脚本・監督・演出を務めます。ここから1ヶ月、この7人で最高の映画を撮れるよう、精一杯やっていくので、よろしくお願いします!」

 全員からの大きな拍手。部員4人とキャスト3人、このメンバーで、俺は初めて映画を創る。

 ふと、半月前を思い出していた。この集会室で、広報委員会に参加していたっけ。

 あのとき、桜さんと話していなければ、スマホで渓谷の写真を見ていなければ、そもそも、桜さんが旅行スポット特集を提案していなければ、俺は今ここにいないで、どこかで本でも読んでいただろう。

 世界はちょっとしたことで軌道を変えて、自分の想像が及ばないところまで広がっていく。俺の世界の果てはどんどんその突端を伸ばして、愛理が好んで居着いていた場所にまで届きそうだった。




「…………」
「どうした、葉介?」
「あ、いや、なんでもないです。楽しみだなって」

 楽しそうな顔を張り付けたままフリーズしていた俺を気にかける颯士さん。
 彼女と少しオーバーラップしたことで、脳内では、幾度となく繰り返していた1つの疑問がまた鎌首をもたげていた。


 なぜ愛理は事故に遭ったのだろうか。あの時彼女が準備していた作品には、川の中を映すシーンなんてこれっぽっちもなかったのに、なんでわざわざ靴を脱いで、自分から川に入ったんだろうか。


 あまりにも理由が分からず、少しの間、学校で自殺説が流布されたこともある。そんなバカなことがあるものか。映画にあんなに打ち込んでいた愛理が、自分からそんな選択をするはずがない。

 でも、世の中に「絶対」などなくて。ひょっとしたら、何か抱えていたのかもしれない。俺が自分の話ばかりして、彼氏らしいコミュニケーションもできなかったときに、芸術肌だった彼女が自分1人で持て余していた鈍色の想いがあったのかもしれない。

 そこまで思い描くと、自分を責める自分と、それを否定したがる自分というアンビバレントな2つが混じって思考はどんどん深みに嵌まってしまい、取れそうなほど首を振って現実に立ち返る。


 考えても答えの出ないものは一旦脳内の小さな箱にしまおう。今は、目の前のことに集中しないと。



「ではまず始めに、撮影のスケジュールと、それぞれの予定ロケ地を説明しますね」

 手書きのスケジュール表のコピーを配り、全4回の撮影工程を説明していく。キャストの3人も真剣な表情になり、メモを取っていった。

「……と、まあこれはあくまで予定なので、天候や撮影によって変動します。集合場所などは直前に連絡回しますね。で、差し当たって今週末の撮影ですが、天候が良ければ土曜にやりたいと思います。今のところ晴れそうですけど、明日の昼に天気予報確認して、最終連絡します」

 雪野さんが「明後日かあ、緊張する!」と宙に浮かせた足をバタバタさせる。それを見た藤島さんがクスクスと、握った右手を口に当てた。

「それじゃ今日の本題、脚本と絵コンテの話! ここからはフランクにいきたいから、敬語はやめるわね」

 その瞬間、役者3人の表情が変わる。
 藤島さんと雪野さんはギラギラしているようにも見える楽しそうな表情で脚本を捲り、永田君は心まで見通すかのように目を見開きながらボールペンを取り出してカチッカチッとノックした。

「読んでて気になったところ、何でも聞いてね」

 3人ともすぐに手を挙げる。一昨日の夕方に配ったばかりなのに、相当真剣に読み込んできていることが窺えた。

「まず藤島さんから」
「カット25なんですけど、佳澄が和志に気づかれないように溜息つきますよね。このカットって、どんな表情でやればいいですかね? 絵コンテにも指定がなくて」

「ああ、そこね。んっと……イメージしてたのはちょっと怒ってる感じ。怒ってるっていうか、むくれてる、くらいかな。『もっとこの服のこと食い付いてよっ』って」
「そっかそっか、悔しい感じですね」

 藤島さんだけでなく、他の2人も、そして俺達4人も、絵コンテに書き加えていく。どんどん情報が増えていき、この紙の中にある世界が色を帯びて、俺達からも手が届くようになっていく。

「次は……雪野さん」
「はい! 陽菜のところもあるんですけど一旦置いておいて、一番気になったところは、と……」

 ゆっくりとノートを見返す。やがて「あ、そうそう、カット234!」と自分の冊子を指差した。

「ここ、和志が『よし』って小さく呟いてますけど、ここって黙ってた方が良くないですか? 実際に声出す人いないだろうし、リアリティーに欠けるっていうか」

 彼女の質問に面食らい、思わずカットを探す手を止めてしまった。
 雪野さんが演じる陽菜は回想シーンのみの登場で、最後の方は出てこない。なのに、こんな終盤の絵コンテまできっちり読み、和志のカットに関して質問している。

「さすが演劇部! ここね、迷ったのよ。和志が自分自身を鼓舞するために意図的に声を出したって設定にしてるの。自分に向けたおまじないみたいな感じね。ただ、リアリティーが下がるのは間違いないからバランスが難しいわね……ソウ君、どう思う?」

「複数パターン撮ってもいいと思うぞ。拳をぎゅっと握るとかでも、これから和志がギアを入れるってところは伝わると思うから、台詞とアクションを両方撮って、映像見て決めるとかな」
「ん、それがいいかもね、ありがと」


 役者ってすごい。本気でみんな、演じに来ている。だからこそ俺達も、全力で舞台を用意しないといけない。
 その覚悟を自身に言って聞かせると、煙でいっぱいになった実験中のフラスコみたいに、胸に昂揚感が満ちてくる。


「永田君、質問お願いできる?」
「あ、はい。カット189、佳澄と2人で森にいるシーンなんですけど……」

 質問に答えていき、各自が特に気になる部分をその場で演技練習して、木曜の夕方は瞬く間に過ぎていった。




「さて、昨日まで良い感じだったけど、どうかな……お願いっ!」

 金曜日の昼休み。飲んだかと思うほど超高速で弁当を食べ終え、部室に来た。
 4人で集まり、おしくらまんじゅうしながら部長の小さいスマホ液晶を見ている。

 更新したのは天気予報のサイト。明日の天気を全員で確認するために、この場に集まった。

「はい来た!」
「どうだ香坂! よく見えねえ!」

 後ろで颯士さんが首をひょこひょこ左右に動かしている。

 ややあって、一気に花弁が開いたかのような桜さんの明るい声が響いた。

「…………終日晴れ! 降水確率、午前10%、午後0%!」
「っしゃおらあああああ!」
「やったああああ!」

 勢いに任せて颯士さんと3回、桜さんと2回ハイタッチする。月居も小さくガッツポーズを取っていた。

「じゃあ撮影は明日13日に決定! まずは学校内のシーンからだね。キャストに知らせないと」

 素早く7人のグループトークに連絡を送る桜さん。それが終わると、俺達に向き直った。

「今日の部活、スズちゃんとキリ君は休みにするわ」
「えっ、休みですか?」
「私とソウ君で撮影場所の確認やるから。この作業はそんなに人数要らないしね」
「でも……」

 撮影前日なのに何も手伝えないなんて、という思いがはっきり顔に書いてあったんだろう。彼女もまた、気持ちは分かるよ、と言わんばかりに寂しげに微笑んで見せた。

「スズちゃんとキリくんは、しっかり身体休めてほしい。キリ君も、初めてのことだらけでバタバタだったと思うけど、明日からもっとバタバタだから。今日の夜はゆっくりして、心を落ち着かせるといいわ」
「分かりました。桜さんも夏本さんも、体気を付けてくださいね」

 隣の月居にこう言われたら、俺だけ抵抗するわけにもいかない。「俺も全力で休みます!」と返すと、「葉介、全力でやってどうするんだよ」とツッコまれた。

「じゃあまた明日! 何かあったら連絡してね!」

 そこで臨時の部活は解散。全員で部室を出て、渡り廊下渡って北校舎へ。3階に上がっていく先輩2人を見送り、月居と2人でそれぞれの教室に戻る。


「…………」
「………………」

 そうだった。月居は別に喋るのが嫌いってわけじゃないんだけど、自分からはそんなに話さないんだよな。俺から話題を出さなきゃ。

「明日、晴れて良かったな」
「うん、良かった」

 ダメだ、会話が続かない。苦悩しつつも嘆いていると、彼女がパッと目線をこちらに向ける。

「撮影、楽しみね」
「だな、ワクワクするよ。俺、ホントに初めてだから!」

 彼女は俺の食い気味な返事にやや気圧(けお)されながら、小さく首を縦に振った。


「それにしても、桜さんタフだよなあ。脚本書いて、すぐに絵コンテ用意して、今度は撮影だろ。ずっと気を張りっぱなしだもんな」
「体力ももちろんだけど、エネルギーとか集中力がすごいと思う。映画にかける情熱っていうか」
「そう、すごいよ!」

 あまりの同意っぷりに、自分で思っているより大きな声が出てしまった。

「脚本、細かいところまでしっかり考えて書いてるし、絵コンテだってあんなに大変なの一気呵成で仕上げるなんて信じられないよ。でもって、部長として制作スケジュールもちゃんと管理してるし、あんなに綺麗なのに——」

 そこまで口に出して、急に会話を止めた。あれ、何か普通のトーンで変なこと言ってしまったような……。

「………………」
 月居は、無言のまま鼻でふうっと息を吐いた。その溜息の意味は何だろう? 何か呆れられたかな?


「と、とにかく、明日はよろしくな!」

 すべてをテンションで包み隠してその場を立ち去ろうとする俺に、月居は静かに呼びかけた。

「桐賀君」
「んあ?」
「……撮影、楽しいから、期待してていいと思うよ」

 微かに口元を緩めた彼女。俺も思いっきり歯茎を見せて笑顔を作る。

「おう、期待しておく」

 彼女の教室の前で別れる。ああ、月居も、いいヤツだなあ。


「よし」

 興奮で浮き上がりそうな体を、足を前に踏み出して地面に押さえつけながら進んでいく。

 明日が、撮影初日。待ちに待った、クランクイン。



「……おはよう!」

 特に意味もなく、自分自身に向かって挨拶してみた。

 6月13日、土曜日。ピピピピとうるさかった時計を見ると6時、平日よりも早い時間。

 二度寝しないよう、起き上がってカーテンを開ける。黄色と白の混じったような朝日の光が目に飛び込んできて、昨日の天気予報が間違っていなかったことを教えてくれた。

 すぐにTシャツとジーンズに着替えて出発準備。リビングに行き、テレビをつける。旅番組でおいしそうな海鮮丼を食べているのを見ながら、調理時間1分の卵かけご飯。

「いってきまーす」

 親が起きるのなんて待っていられない。入園式を控えた3歳児みたいなワクワクを詰め込んで、玄関を飛び出した。


 ついに撮影だ。映画の撮影シーンとか、テレビで何度か見たことあるけど、オフショットとかワイワイはしゃいでて面白そうだったもんな。ドラマのNG集でも「ごめん、ミスっちゃったー」なんて言ってスタッフの爆笑も起きてたし。
 今日はずっと笑っていられる予感。1日目、張り切っていこう。



「おはようございます!」
「よお、葉介!」
「おはよう、桐賀君」

 学校に着いたのは、いつもの登校より早い8時。集合場所の正門で、撮影機材らしき道具を地面に置いて話していた颯士さんと月居に挨拶する。


 颯士さんは薄ベージュのポロシャツ。もともと180あるのに、カーキ色のチノパンが細身なので余計に足が長く見える。

 月居は7分丈くらいの黄色いダボッとしたTシャツ。下は俺と同じようなライトブルーのジーンズで、夏の女子高生って感じだ。

「あれ、桜さんはまだですか?」
「学校の中を見てくるってさ。そろそろ戻って——」
「キリ君、おはよう」

 爽やかな朝をそのまま音に乗せたような、快活な声が響く。監督が、正門に向かって走ってきた。

「おはようございます」
「キリ君、ただでさえ遠いのに、朝早いのごめんね」
「いえいえ、全然ですよ」

 ボタンで胸元まで留められるようになっている赤のプリントTシャツに、チェック模様がおしゃれなライトグレーのガウチョパンツ。明るいトーンの服装は、ギラギラとエネルギーを灯した目によく似合う。


「キャストは30分後に来るから、今のうちに予定確認するわよ」

 今日のスケジュールのおさらい。まずは学校で高校の回想シーンを撮ってから、外に出てメインの大学生のシーンを撮影する。

 移動含めて、17時過ぎまでぎっちり予定が入っている。今日で70カットくらい進めないといけないんだもんな、ハードになるわけだ。


「流れはこれでいいわね? じゃあ最初に撮る教室に行きましょう」
「あ、俺これ持ちますよ」

 スパイ道具でも入っていそうな銀色のアルミケースを肩から掛け、シューズロッカーに向かう。私服で学校に入るのは何か変な感じ。

「誰もいませんね」
「まあこの時間だしな」

 他の部活もそんなには来ないだろうな、と続ける颯士さん。防犯の関係で、休日に校舎に入るには事前に学校に申請しないといけない。「ヤバい、申請書!」と昨日の昼休みに慌てていた桜さんを思い出す。


「じゃあまずはここね」

 入ったのは3階、3年生の教室。桜さんのクラスらしい。そっか、いつもここで授業受けてるんだ。

 窓から近くの木が見えない光景は新鮮で、運動部は他の場所で練習試合でもしているのか、グラウンドは砂色のキャンバスのようだった。




「やっぱりここは日当たりがいいわね。撮影にはちょうどいいわ」
「よし、機材準備するぞ。葉介、手伝ってくれ」

 颯士さんに促され、持ってきた銀色のアルミケースをガパッと開ける。そこには、テレビ番組で見る、肩に担げるような大型のカメラが収められていた。

「おおお、映画っぽい!」
「映画っぽいってなんだよ」
 ぶはっと思いっきり吹き出す颯士さん。

「しばらく家で手入れと撮影テストしてたから、葉介は見るの初めてだもんな」
「これ、デジタルシネマカメラってヤツですか?」
「調べたのか、勉強熱心だな。でもこれは違うぞ、ハンディビデオカメラだ」
「どう違うんですか?」

 俺の質問は、カメラ担当の颯士さんのハートに火をつけたらしい。
 コホン、と咳払いし、フィクションの探偵のように人差し指を立てて説明を始めた。

「ハンディは、要は運動会で父親が使うような小さいヤツの延長線にある。デカい図体の割に、操作が簡単だ。デジタルシネマカメラってのはまさに映画用のカメラだな。ピントの調整とかが細かく出来て映画っぽい映像になるんだよ。その代わり、フォーカスとか露出とか、撮影のための設定は1つ1つ手でやらなきゃいけない」
「なるほど、アートとしてじっくり取り組むにはいいですけど……」

 そうそう、と相槌を打ちながら、彼は三脚を組み立て始める。

「俺達みたいに短期間でガーッと撮影するのには向かない。それに」
「それに?」
「デジシネは高い」
「あー……」

 納得。趣味として映画撮影を続けている大人もいるってサイトで見たし、カメラも凝れば凝るほど高くなっていくのだろう。


「100万円超えもザラだからな」
「そんなするんですか!」
「ハンディなら20~30万くらいからあるからな。部費とかバイト代でなんとかなるわけよ。ほい、三脚完成! 月居、マイク取ってくれ」
「はい」

 月居が布ケースから取り出したのは、ちょっと長いキュウリくらいの大きさのマイク。
 カメラのジャックに差したそれにスポンジを被せて竿に付けると、これまたバラエティー番組でよく目にするマイクになった。


「スズちゃん、音声頼むわね」
 桜さんにコクッと頷き、彼女はいつも通り、赤いヘッドホンを首にかけた。

「っと、忘れるところだった」
 颯士さんがカバンから出したのは、3つのテニスボール。

「撮影の小道具ですか?」
「ふっふっふ、コイツはもっと役に立つものだぜ」

 意味深な低音で返し、1つをこちらに放る。キャッチした瞬間に違和感を覚え、よくよく触ってみると、1ヶ所に穴が開いていた。

「え? 割れてる?」
「そうそう、こうやって使うんだよ」

 スッとしゃがみ、三脚の1本の脚を持ち上げる。そしてテニスボールの穴に、その脚の先をぐいっと差し込んだ。「最後の1つ」と促され、俺もベコッとハメてみる。

「こうやっておくと、脚引きずっても床が傷付かないだろ? それにボールが黄色いから目立って、俺達が移動するときも躓(つまづ)きにくくなる」
「へえ!」

 カメラとボール。一見無関係なこの2つを組み合わせるアイディアに、素直に感心してしまう。よく使うテクニックらしいけど、考えた人すごいなあ。

「で、外付けのモニターをくっつけて、と」
「これでカメラは準備オッケーね。あとは細かい道具と……」

 桜さんが床に置いた道具を指差し確認していると、廊下から声が聞こえてきた。