イマジナリーラインを越えて ~恋と渓谷と映画制作~


 ***


 浮園(うきぞの)愛理(あいり)を思い出すときは、いつも「犬みたいだ」というイメージとセットだ。

 黒髪で丸みのあるマッシュショートが、丸顔の輪郭に合っていた。喜怒哀楽がはっきり分かる目も、少し大きな口も、どう考えても猫ではなく犬よりで、楽しいときにきゅっと目を瞑るのが印象的だった。


 中学2年の秋、修学旅行実行委員会の「しおりチーム」で一緒になり、作っていく中で仲良くなって11月からなんとなく付き合い始めた。ウキウキでもイチャイチャでもなく、友達の延長のようなカップル。向こうは人数の少ない映画制作部で脚本や監督に夢中だったので、そんなにデート三昧でもなかった。



 交際期間は、5ヶ月とちょっと。

 3年生になったばかりの4月、1人で次の撮影の準備をしている途中、あの石名渓谷の、前日の大雨でやや増水した川で溺れたと聞いている。
 それ以外に分かっているのは、靴を脱いで川に入っていたことくらい。


 よりによってあの渓谷で。2人で何度か散歩した、一番行った回数の多いあの思い出の場所で。



 向こうの親にも会ったことがないくらいの関係だから、俺が事故の話を聞いたのは学校の全校集会だった。現実感のない校長の話は、まるで戒めのために挙げられたトピックのようにぼんやりしか頭に入らない。

 人間というのはよく出来ていて、心で上手に処理できそうにないものは、解像度を下げて受け止めるようになっているらしい。


 葬式の参列もクラスメイトと生徒会だけで、彼氏なんてプライベートな関係は特別枠で入れてもらうこともできなかった。

 事故の瞬間の証言もないから噂も広まらず、メディアも地元の新聞と地域のニュースに少し出た程度。渓谷の川に注意書きの看板設置を促すきっかけにはなった。



 色々騒ぎも収まって、初めてあの渓谷に1人で行ったとき、ようやく涙が出た。昔から知っている関係でもないし、付き合って日も浅いし、将来を誓い合ったわけでもないから、衆目を集めるほど慟哭するようなことはない。

 でも、隣に誰もいない芝生は寂しくて、もう会えないことを、どこにもいないことを、否応なく理解させられ、揺れる心が涙腺を波立たせた。



 それ以来、部活も辞めてしまった。科学部でちょっとした実験をしては科学賞に応募していたけど、部活自体に良いイメージを持てなくなってしまったから。
 恋愛も同じようなものだろうか。自覚はないけど、どこか後ろ向きになっていると思う。


 高校に入ってからもそれは変わらず、「7月の転校で時期が悪かった」という都合の良い言い訳を纏ってそのまま帰宅部。一人で外を歩き、本を読んで、音楽に浸って、写真を撮って過ごしている。あれ以来、スマホに入った中学時代の写真は怖くて見返せていないけど。


 だから、今回の入部だって、映画制作部じゃなかったら受ける気にならなかったと思う。改めて、ものすごい偶然だった。


 ***

「よし、今日はいったん解散しましょう。私は少し神経休めるわ。各自読んでもらって、明日修正のポイントを聞けると嬉しいな」
「ああ、オレも帰って何度か読み返してみるよ」
「ワタシも読み込んでみます」

 桜さんが広げていた脚本の束を彼女と一緒にまとめる月居。その途中で「そうだ」と手を止めた。

「幾つかSE使いそうな部分ありましたよね。今日から少しずつ候補探し始めますね」
「ありがと、スズちゃん。音のことは全部安心して任せられるわ。あ、キリ君も良かったら一緒にやってみない?」

 急に矛先を向けられ「俺ですか?」と早口で返す。

「そう。映画の仕事初体験ってことで」
「ん、分かりました」

 月居と2人というのは不安の種だったものの、せっかくの機会なのでやってみることに。

「じゃあ、また明日ね」

 両先輩が帰った後すぐ、月居は淡々と説明し始めた。

「脚本に『街の雑踏』とか『鳥』とかあったでしょ。こういうのはSE、効果音が入るの。もちろん、現場の音声をそのまま録音してもいいんだけど、監督のイメージ通りの音が入るかは分からないし、それこそ鳥の声なんて狙って録れるものじゃない。だから音を後から足して、より臨場感を出すの」
「なるほどな」

 音か。全然考えたことなかったけど、臨場感を高めるためには結構大事だよな。

「じゃあ始めは……ちょうどさっきまで聴いてたからセミの声にしよっか」
 そう言って脚本を捲り、一番始めを指差す。

「佳澄と和志が街で待ち合わせするところ。ここに一番合いそうなセミの声を探すわ」
「わ、分かった」

 スマホのイヤホンを差すジャックに、2つそれぞれがマグカップ大のステレオスピーカーの線を差し込む月居。そして画面を操作し始めた。


「順番に聴いていくわよ。まずはミンミンゼミ1から」

「…………ミンミンゼミ1?」

 彼女がトンッとタップすると、スピーカーが目を覚ます。


 ミーンミンミンミン! ミーンミンミンミンミン!


 外ではやや勢いの弱まった糸雨が降る中、2分近く部室に大ボリュームで流れるセミの声。
「順番に流れていくわよ。次はミンミンゼミ2ね」


 ミミミーンミンミンミミーン! ミンミンミミミーン!


 さっきよりセミの数が増えている。それ以外に違いはないけど、またもや結構な時間鳴いている。

「え、あの、月居、これって——」
「シッ、静かに。次はアブラゼミ1よ」


 ジージージージー! ジリジリジリ!


 ジッと目を瞑って浸っている月居。だんだんうるさくなってきたので、早くどこぞの虫捕り少年に捕まえにきてほしい。

 (かしま)しい鳴き声を聞きながら、俺の中には既に1つの結論が練られていた。


 これ、正直、何でもよくないか? どれも夏っぽいし、セミの違いだけだよな? 挙句に同じセミの鳴き声違いまであるし。映画見てる人は、そんな細かいところまで気にかけないだろう。少なくとも俺は、気にしたことはない。


「クマゼミ2ね」

 ワシャワシャ、ワシャシャシャと梅雨明けを連想させる暑そうな音が響き渡る。13種類、25分のセミメドレー。さすがにヒグラシは微妙だけど、あとはどれでも問題なく合いそうだ。

「どう? どれが良かった?」
 全トラックが終わったらしく、彼女はスマホで再生を止める。

「う、ううん……」
「迷っちゃった? もう一度始めから聞こ——」
「いや、いい! 大丈夫!」

 慌てて静止する、危ない危ない、本気でやりかねないぞ……。

 まあ、こんなのフィーリングの世界だな。

「クマゼミが良かったかな」
「そっか。なんで?」

 はい? なんで?

「いや、なんとなく直感的にさ」
 ずっと脚本にペンを当てていた月居は、そこで急に顔を上げて俺を見た。

「クマゼミは1から3まであったけど、どれが良かったの」
「んん、そこはどれでも良いっていうか……というかまあ、よく分からないし、ぶっちゃけ今のところはどれでもいいかなって——」
「桐賀君」

 用意していた結論は、向かいの相手の低い声に遮られる。冗談まじりににへらと笑っていたものの、彼女が不快感を露わにキッと睨んだことで、思わず真顔に戻った。

「どれでもいいなんて、二度と言わないで」

 眉をつり上げ、凍りつくような目で俺を見る。え、なんで?
本気だ、本気で怒っている。

「確かにこういうものに答えはないわ。でも、脚本に潜れば、自分の中でちゃんと理由をつけられる。例えば街を歩くって設定だから、他のセミに比べてクマゼミが『街』の感じが出てるって考え方もあると思う。ミンミンゼミやアブラゼミは森林っぽいしね」
「う……ん……」

 言われてみれば、そんな気もする。

「逆に、ミンミンゼミの方が一瞬でセミって分かるっていうメリットはあるわ。アブラゼミは一番音が暑苦しいから、特に複数で鳴いてるパターン3を使えば、すんなりと観客を夏に引き込めるかもしれない。どれが正解なんてないけど、そうやって脚本からイメージを膨らませて話し合いたかった」

 言いながら、帰り支度を始める月居。その表情は、さっきの憤慨から一転、どこか力ない。

「確かに、桐賀君から見たら、一般の人から見たら、瑣末なことなのかもしれない。でもワタシは、ワタシ達は、こういう瑣末なことに高校生活を懸けてるの。これを『どれでもいい』で片付けたら、台詞も、カメラも、衣装も、全部『どれでもいい』ことばっかりになるのよ」


 今日はもう帰りましょ、と部室を出る月居。バッグのファスナーを開けたまま慌てて出て、ダイヤル錠を締める彼女を無言で見る。

「またね」
「あ、うん……」

 そう挨拶したっきり、彼女はヘッドホンを耳に当て、LとRだけの世界に行ってしまった。

 何も話しかける気になれず、廊下の途中でスマホを見るフリをして距離を取って別れる。
「どれでもいい、か」


 かなりキツく言われたので、反抗心が芽生えなかったわけじゃない。でも反論できなかった、弁解の余地もなかった。偽りない気持ちをぶつけたけど、俺が間違っていたのだと思う。

 悪いことをしたという後悔が溢れて、でもどうすれば彼女みたいにできるのか分からなくて。


 愛理は、こういうことも楽しかったのだろうか。


 セミの鳴き声なんか一つも聞こえない雨の道を、重い足取りで帰った。



「さて、じゃあ早速、脚本の感想とか意見を聞こうかな」

 翌日の火曜日。部室の真ん中で長テーブルを取っ払い、全員が円状に向かい合って不揃いな椅子に座る。自由に話すときはこういう形が一番いいわ、と桜さんが配置した。


 俺はといえば、昨日のショックからまだ抜け切れていない。夕飯をドカ食いし、買うか迷っているゲームの実況動画を見て、(かし)いだ気持ちを少しだけ立て直したけど、脚本を開くとト書きの部分で月居の言葉が蘇ってきてしまい、大して読むことができなかった。


「まず、オレがすごく良いと思ったのはタイトルだな。佳澄と和志の主人公同士とか、佳澄と陽菜のヒロイン・サブヒロインとか、対立構造がよく出てくる作品だけど、タイトルにもそれがよく表れてると思う」

 言っていることがよく分からなくて、なんとなく頷いていると、颯士さんは脚本の1枚目をトントンと叩きながら続けた。


「『きっと見抜けない』は佳澄の見抜いてほしくないって気持ちだけど、和志からしたら見事に逆なんだよな。駆け引きの嘘を見抜いてほしかった」
「あっ」

 思わず声が出てしまった。そうか、そういう風に解釈することもできるんだ。

「さすがソウ君ね。そこはお客さんも後から気付くかなと思って仕込んでみたの」
「分かった人だけ楽しめる秘密って感じで良いよこれ。なあ、葉介」
「え、あ、はい。俺は今初めて気付いたんですけど、面白い仕掛けです、うん」

 急に振られ、正直に感想を伝える。桜さんは、小さくピースして見せた。

「あの、桜さん、タイトルに関して言うと」

 首に赤いヘッドホンを掛けている月居が、胸元で小さく手を挙げる。

「最後に佳澄にモノローグで『きっと見抜けない』って言わせるじゃないですか。これ、言葉にしなくてもいいかもな、って思いました。泣いてるシーンの後に、パンッと『きっと見抜けない』ってタイトルが出れば、それが佳澄の気持ちだってみんな分かりますし」
「ああ、なるほどね。そういう演出もありかも。でも、佳澄本人に言ってほしいって気もするんだよね。自分の気持ちに決着をつけようとしているから、少し強めの口調で声に出してもらいたいっていうか」

「そっか、それなら確かに、本人の声で出した方がいいですね。この台詞を言って間髪入れずにエンドロールに繋げれば、スパッと気持ちいいラストになりそう」
「ありがとね、スズちゃん。でもバシッとタイトルだけ出す案もありだと思うから、ここは一旦、自分の中で考えてみるよ」


 3人の話を、スポーツ選手の何気ないスーパーテクニックの解説を聞いているような気持ちで耳から吸い込み、脳で咀嚼していく。自分は考えもしなかった新鮮な視点と意見が次々と飛び出す。

 他の部活と違って、映画なら他の部員と大して知識や技量差はないだろう、とどこかで軽視していたけど、大きな間違いだったかもしれない。


「あと、オレが気になったのは、佳澄が和志に、山に行かないか提案する場面だな。あれ、陽菜への対抗意識もあると思うんだ。普通にデートしてるとつい陽菜のことが浮かんでくるから、2人しか知らない場所に行くっていう。でも、アレが急に思いついたことなのか、もともと思い出の場所だった山で告白しようとしてたのか、イマイチ分かりづらい」

 ふと、隣で話している颯士さんの脚本が目に入り、俺の視線は釘付けになる。
 彼の紙は、まるで役者が演じ方をメモしているかの如く、赤と黒のボールペンでグシャグシャになっていた。


「もし急に思いついたことなんだとしたら、そのきっかけを見せた方がいいな。例えば演劇のポスターを見つけるとか山の写真を目にするとか、何でもいいんだけど、そのカットがあれば佳澄の感情の流れが伝わりやすいと思う」
「ソウ君、ありがと。佳澄はちょうど中間かな、山に行ってもいいかなと思ってた、って感じ。でもその前まで陽菜のこと考えて不安だったわけだから、提案を決意する場面は何か加えた方がいいかもね」

 2人の会話を聞きながら、俺は自分の中に渦巻くモヤモヤを噛み締めていた。


 颯士さんは昨日、この脚本は初めて読むと言っていた。だから、颯士さんや月居と、やっぱり条件はほぼ一緒のはずなんだ。後から入ってきたことなんて関係ない。今まで出てきたのは、映画のテクニックの話でも何でもないんだから。

 なのになぜ、ここまで違うのか。
 簡単なことだ、2人とも、桜さんと同じく、それだけこの作品のことをちゃんと考えているから。そしてそれは、昨日の月居の件も同じことに違いなかった。

 俺の入部は、軽薄に言ってしまえば「元カノの気持ちを分かりたい」なんていう、不純な動機だ。桜さんに頼まれて入った身でもある。それでも、悔しい。

 自分は颯士さんや月居ほど、この作品のことを分かろうとしなかった。ただ物語として上辺だけを楽しんで、それを書いた桜さんを絶賛していただけだ。それが今は、堪らなく恥ずかしかった。

「キリ君は、何か気になることあった?」
「……いえ、昨日読んだんですけど、今のところは特にないですかね、へへ……」
 今のところは、と強がりで武装して、愛想笑いで誤魔化す。

 せっかく入ったんだから、どうせやるなら、アッと言わせたいし、俺が入って良かったと思われたい。
 久しぶりに味わう「誰かと何かを作ること」での願望と嫉妬。

 脚本の下敷き代わりにしていたノートを捲り、誰にも見えないように「負けるか」と書き殴った。
「じゃあ今日は解散で。みんな帰る?」
「あ、俺、宿題やってから帰ります。ここでやるの結構捗(はかど)りそうなんで」

 桜さんの呼びかけに手を挙げ、残ることに。颯士さんが「葉介、気を付けて帰れよ!」と肩を叩き、女子2人に続いて部室を出ていった。

 窓の外では、夕陽が落ち始めようとしている。もう少ししたら、紫と黒の混じった夜が、上からオレンジを塗り潰していくのだろう。

「よし、今のうちに……」

 さっき目をつけておいた、棚に積まれたCDプレイヤーと効果音CDを取り、長テーブルに置いて「雑踏」と書かれたケースをパカッと開ける。
 プレイヤーを触ったことはほとんどないけど、母が使っているのを見ていたので何となく使い方は分かる。

「まずは街の音から……」

 一番最初、ヒロインの佳澄と相手の和志が待ち合わせた後に、デートのように街を歩く。そこにピッタリの音を探す。

 いきなり脚本の詳細まで解釈できるようにはなれない。でも音声なら、自分の身近にあるものだから、取っつきやすいように思えた。


 ガヤガヤガヤガヤ……


 ザッザッザッザッザッ……


 ザワザワザワザワ……


「うう、ん……ん……?」
 昨日と変わらず、どれも似たような音だ。ピッタリなものを選ぶのは難しい。やはり技量が必要なのだろうか。

 街を歩く、か。そもそも街って設定しか分からないのに……ん? あれ? そもそもどんな街なんだ?

「確か脚本には……」

 慌てて紙を捲る。そこにまだ、具体的な駅の描写はない。でも、ヒントがあった。

「山……山……っ!」

 なぞなぞの答えを閃いた幼稚園児みたいに小さく叫ぶ。後半で山に行くってことは、ここはそんなに都心じゃない。もっと簡単に行ける、郊外の街だ。

 郊外……引っ越す前の家の近くにあった宮ノ橋駅、結構大きかったよな? 映画館もあるから中高生がデートで使ってたし、あんなイメージか?
 あと、この前大きな書店に行った花張(はなはり)駅も雑貨屋とか多かったし、この舞台っぽい感じだな。


「よし、もう一度」

 トラックを始めの曲に合わせて、再生ボタンを押す。それぞれの駅の様子が記憶に残っているわけじゃないけど、思い浮かべながら聴けば、何か見えてくるかもしれない。


 ガヤガヤガヤガヤ……


 これは多分違う。少し賑やかすぎる。都心のイメージの音だ。


 ザッザッザッザッザッ……


 近い……けど、なんだろう、歩く音しかしない。佳澄と和志がいるのは、中高生がたくさんいる休日の街。もっと何か、何か違う音がするはず。


 ザワザワザワザワ……

 これだ! 今のところ一番これが近い。
 信号が青になったときのカッコウの擬音や、何かよく分からない機械音が遠くで響いている。

「……あ…………」

 音を聴きながら目を瞑ると、(おぼろ)げに映像が浮かんでくる。郊外の大きな駅、駅前のバスターミナルを抜けて大通りを歩く佳澄と和志。2人で笑いながら歩いている、その顔までぼんやり見えてきた。

 この音が正解なのか、確証はない、でも、颯士さんも月居も、そして桜さんも、きっとこんな風に想像を積み重ねていったはず。


 昨日、月居が言っていた。

『こういうものに答えはないわ。でも、脚本に潜れば、自分の中でちゃんと理由をつけられる』

 ああ、脚本に潜るって、こういうことか。自分の中で理屈を整理しながら噛み砕いて、時には体験と重ね合わせて、この「きっと見抜けない」の世界を本物に近づけていく。

 難しい作業だ。難しいけど、自分が新しい世界を創り出している気がして、ものすごく楽しい。


 愛理も、こんな作業をしたのかな。
 セミの音や街の音、たくさん聞いてこんがらがったこともあるのかな。

 悔しい、悔しい。今なら幾らでも話せるのに。


「……よし、次はセミ、やってみるかな」

 首を振って回想を振り落とし、脚本を捲る。黒字のテキストに彩られた世界にどぷんと入り、そこで流れる音に耳をすませる。



 セミを自分なりに選び、さあ次に取りかかろうかというその時、部室のドアがガラッと開いた。
「わっ、何やってるの、キリ君」
「桜さん!」

 どうしたんですか、と聞くと、「帰る前に、歩き回りながら脚本考えてたのよ」と言いながらバッグをおろす。南校舎3階まで歩いてきたら、部室の電気がついていたので寄ってみたらしい。
 時計を見ると、解散してから長針がぴったり1周していた。

「そっか、効果音やってるんだ」
「え、ええ。ちょっとやってみようかなって」
 なんだかカッコ悪くて、細かい事情は話せない。

「ふふっ、スズちゃんに怒られたりした?」
「あぐっ……」
 お見通し。さすが部長だ。

「いや、あの、怒られたというか、呆れられたというか……」

 観念して事情を全部話すと、桜さんは心から可笑しそうに、口に手を当ててクックッと笑い声を漏らした。

「そっか、スズちゃんも(こだわ)り強いからなあ」

 そしてまっすぐに俺を見る。真っ白に照らす蛍光灯のその下、黒曜石のように光る黒い瞳に、俺の視線は釘付けになる。

「でも、それは武器なんだよ。執着があることが、作品を良いものにしていくからね」

 執着すること。それは換言すると愛理のように「夢中になること」かもしれない。さっきのSEを選んでいた時間、俺は間違いなく、没頭していた。

「そういうの、憧れます。部活とか、ちゃんとやってこれなかったんで」
 それは俺の、嘘偽りない事実と想いだった。

「でもキリ君、思ったより難しいでしょ?」
 やや意地悪な笑みを浮かべて訊く彼女に呼応するように、口を尖らせる。

「そうなんですよ、SE1つ選ぶだけでも大変です。正解がないから、どれに決めていいか分からないし」
「そうだよね、うん!」
 まるで誉め言葉を受け取ったかのように、彼女はどこか満足気だ。


「……そう、難しい。だからチームで作るの」
 そしてゆっくり瞬きをしながら、小さく2回頷く。

「誰も正解を持ってないの。脚本を書いた私の中にもイメージはあるけど、それが唯一解じゃない。だから、全員で意見をぶつけて、一番良いと思うものを選んでいく。ひょっとしたら話してるうちに、もっといい答えが見つかるかもしれない。それが一番面白いの」

 その瞬間。ふいに、これまで記憶の底に沈めていた愛理の言葉がフラッシュバックした。



『いやあ、みんなでワイワイやるのが楽しいんだよ。葉介にもいつか味わってほしいなあ!』



 少し鼻にかかる声、くしゃっとした笑み、右側の後ろ髪を撫でる癖。あれだけ至近距離で見ていたのに、色褪せた水彩画のように記憶が曖昧になってしまっていることに、幾許(いくばく)かの怖さを覚える。

 でも思い出せて良かった。そうか、愛理もこれが楽しかったんだ。

 こうして今、追思のきっかけをくれた、彼女と同じような人に巡り合えたのは、驚くほどの幸運なのかもしれない。



「あ、そうだ、キリ君。山のシーンのことなんだけど」
「はい?」
 バッグの前面についたポケットからスマホを取りだす桜さん。

「絵コンテ作るために、ロケハンしておきたいんだよね」
 ロケーション・ハンティング、撮影に使う場所を探すことよ、と付け足す。

石名(いしな)渓谷、案内してくれる?」
「え? あ、はい、いいですけど」
 驚きと動揺を混ぜ込んだ、素っ頓狂な声をあげる。

「んっと、今週は……うん、土曜が晴れ!」
 バッと画面を見せてくれる。そこには、雨のマークを枠外に追い出した天気予報が表示されていた。


「分かりました……あの、全員で行きます?」

 ふと気になったことをぶつけてみる。
 俺はどんな答えを期待しているのだろう。

「全員?」
「あ、その、颯士さんとかも一緒なら日程相談しなきゃかと思って」

 やや狼狽しつつ言葉を重ねると、彼女は右の親指をあごに当てながら斜め上を見上げた。

「ううん、みんな休日に出かけさせるのも悪いし、一旦私だけでいいかなあ」
「そう、なんですね。わかりました」
「後でまた連絡するよ。さて、私は帰るけど、キリ君はどうする?」
「じゃあ、一緒に出ます」

 こうして、揃って部室を出る。
 桜さんはバス停、俺は駅に向かうので正門から少し歩いてすぐにお別れだったけど、今回の作品のちょっとした裏話や、以前の脚本の失敗談を聞けたその10分間は、映画作りの楽しみを少しだけ見つけることのできた自分自身へのご褒美のようなボーナスタイムだった。



「ただいまー」
 ふわふわしたテンションを抑え、夕飯の前に2階の部屋へ上がる。

「……ぐわあ」
 制服も脱がず、小さく叫んでベッドにダイブし、そのままタオルケットを体に巻きつけて、一つ軽い溜息をついた。

 女子と2人で出掛けるなんて、中学のあの時以来か。そう思えば思うほど、熱に浮かされたように、なんだかソワソワしてしまう。


 愛理と桜さんの顔を交互に思い浮かべながら、下で食事している親に気付かれないようにゴロゴロと転がった。



 脚本の読み込みと修正を繰り返しているうちに、その日はすぐにやって来た。

 6月6日、土曜日、13時過ぎ。雲もほとんどない快晴。

『石名渓谷 この先 3番バス乗り場より』


 俺の家から電車で2つ、私鉄に乗り換えて2つ目の石名駅。3~4年ほど前に備え付けられた縦型の簡易自動改札にタッチし、貼り紙を見ながら小さな駅舎を出る。

 駅前はタクシーとバス乗り場が幅を利かせるように広く陣取り、駅ビルはおろかチェーンの飲食店もない。オアシスと銘打たれた石造りの建築物が中央にあり、噴水はないものの、ちょろちょろと水が湧き出ていた。


「よし、予定通り」

 この辺りは車生活が当たり前で利用者が少ないからか、私鉄は1時間に3本しか来ない。

 待ち合わせ時間に間に合う電車の、更に1本前に乗ってきたので、20分間は余裕がある。電車で鉢合わせるとどうしていいか分からなくなりそうだったので、早めに来て心を落ち着かせることにした。


 休憩用の青いベンチに座る。20分なんて、スマホでニュースを読んで、SNSを見て、脚本を読んでいればあっという間。リラックスする俺を、同類のように徒雲が覗いていた。


 ***


「キリ君、お待たせ!」

 本当にすぐに時間が過ぎ、駅舎の前で待っていると、薄い水色に濃い青と白のドット柄のリュックを揺らし、桜さんが軽快な足取りで駆けてきた。

「あれ、早く着いてたの?」
「ええ、久しぶりに散歩したくなっ……て……」

 しっかり考えておいた言い訳は、結局尻すぼみになる。私服の彼女が、日差しの当たるオアシスの水面に負けないくらい、綺麗に見えた。


 細いフォントの英語がプリントされた薄いクリーム色のTシャツに、袖のところがダボッと太くなっているのがオシャレな白い長袖ブラウス。そして下は足首まである明るいベージュのチノパン。「虫がいると思うから長い方がいいですよ」とアドバイスした通りのコーディネートは、初夏を先取りしたような健康的な可愛さだった。


「じゃあ、バスで行きましょうか。案内しますね」

 事前に時刻を調べておいたバスに乗り、そこから15分強。石名渓谷の入り口に着いた。


「うっわあ、素敵!」

 濃淡様々な緑に覆われた標高の低い山々は、紅葉の時期にはジャムのように濃厚な赤と黄色に染まる。山の間に挟まれた川は下流らしく、緩やかなスピードで丸い石の間を縫うように流れていた。

 山も標高500~600mのものばかりのうえ近くに温泉や歴史的な遺産がないためか、観光には力を入れていない。ハイキングコースもなければ川沿いの遊歩道もないから人もほとんどいないけど、その分撮影にはうってつけかもしれない。


「良いですよね、ここ。俺も気に入ってて」
「うん、これはいいね、何回も来たくなるの分かる。写真で見るより何倍も映像映えしそう!」

 1~2ヶ月に1回くらいしか来てないから大した先達にはなれないけど、それでも俺の好きな場所を褒められるのは少しくすぐったいような気分になる。

「どこを見たいとかありますか?」
「とりあえず、キリ君がよく行ってる場所、一通り教えてほしいな」

 こうして、山の中腹くらいまで登り、撮影スペースの取れそうな休憩地点がある場所から、徐々に下へと案内していく。

「ここからだと一応川も見渡せますね」
「山の木々も川も両方フレームに収まりそうね。でもちょっと川が小さいかな……もう少し下のほうで同じように川が見えるところはある?」
「はい、同じような休憩地点があるんで、行ってみましょう」

 何箇所か回り、その都度桜さんはじっくり角度を考えながら写真を撮っていった。




「おお、ここから河原なのね」

 山を下り、平日の喧騒を洗い流すかのごとく穏やかに流れる川に到着する。

 もう少し下流に行くとまた全然違う姿を見せるのだろうが、ここでは5mほどの川幅に、俺の太ももくらいまでの深さ。

4人のお年寄りグループが一眼レフを構えたり軽食をとったりしていたが他に人気(ひとけ)はない。日の光を吸い込んだように輝きを放ちながら水面が揺れ、ショロロロ……と小さな音が響く。


「ほら、桜さん、あそこ渡れるんですよ。飛び石みたいなのがある」

 少し先、かつて意図的に置かれたであろう大きな岩を指すと、彼女は「ホントだ!」と楽しそうに目を見開いた。

「向こうの河原の方が広いわね」
「フッフッフ、実はそれだけじゃないんですよ」
「なになに、気になるなあ」
「行ってからのお楽しみです」

 やや甘ったるいやりとりに、昔の思い出を垣間見る。女子と過ごすというのは、こんな感じだっただろうか。

「じゃあ俺先に行きますね」

 そこまで間隔の開いていない、6つある岩の2つ目を渡ったところで振り向く。彼女が1つ目の岩にぴょんと移ったところだった。

「あ……」
「どした?」


 脳が瞬時に迷う。手を差し伸べるのが優しさか、それはしない方がいいのか。

「落ちないでくださいね」
「ちょっとちょっと、私の運動神経甘くみてるわね。大丈夫だって」

 よっと勢いをつけて、彼女はこちら側に飛び移る。そのまま軽快に跳んでいき、丸石の並ぶ反対側の河原に降り立った。



『川遊び注意! 水難事故がありました!』

 雄大な自然に無粋とも言える、水色背景に太字の大きな看板。いつも2年前を思い出させるものの、今となっては唯一の彼女がここにいたという痕跡でもあり、嫌いにはなりきれなかった。



 こちらの気持ちなどどこ吹く風で流れる川を見つめる。愛理がいたのはこの辺りだろうか。

 当時の現場の証言がないから、なぜ彼女が川に入ったのか、全然想像できない。謎だけ残して、こことは違う別の川の反対側に消えてしまった。

 友達が亡くなった、とは伝えているから、桜さんが少し心配そうに視線を向けているのが分かる。大丈夫、また高校2年生の俺に戻ろう。


「桜さん、あそこ登りますよ」
「えっ、キリ君、待って、あの坂?」

 彼女の質問は聞こえないフリをし、背の高い草の絨毯が出迎える土の急斜面を斜めに上がっていく。

 滑らないように気を付けながら登りきったそこは、俺がいつも来ている土手。今渡ってきた川を見下ろし、切らしていた息を整える。


「あっ、ここ! 写真で見せてもらったところ!」
「写真より川がよく見えますよね。2人が話すシーンに合ってると思います」

 軽快な足取りで、桜さんは土手の反対側の景色を確認する。

「そっかそっか、こっちは川でこっちは隣の山の入り口に続くのか。ならこっち側から撮れば高校の回想のカットに使えそうね……よし、ちょっとここで描いてみようかな」

 彼女は左右に歩いて数枚写真を撮った後に座り、リュックから紙の束を2つ取りだす。片方が脚本で、もう片方は4コマ漫画のように四角い枠が4つ入った白い紙。枠の横には「アクション」「アングル」「オーディオ」という列がある。

「それ、絵コンテですね」
「正解!」

 昨日、「脚本も大分固まってきたから、今日帰ったら絵コンテに入るわ」と話していたっけ。

「シーンごとに描くんですか?」
「ううん、シーンをさらに細かいカットに分けるの。で、誰がどんな風に動くか、その時カメラはどう動いて、BGMやSEは何を流すのか、1カットずつ埋めていくの。こんな感じね」

 既に書き上がっている序盤のシーンの絵コンテを何枚か見せてもらう。

 佳澄が和志を待ってウロウロ歩いている絵や、駅を出た和志が手を挙げて近づいてくる絵が、ラフなスケッチで描かれていた。「アクション」の列には「スマホで時間を確認しつつ緊張して待つ」、「オーディオ」の列には「BGM(未定)」といった説明が書かれ、「アングル」の列には「パン・フォーカス」「右にティルト」とよく分からない文言が並んでいる。




「すごい、こうやって事前に決めておくんですね」
 じっくり見ていると、桜さんが「絵、雑になっちゃったね」と苦笑した。

「当日考えながら撮ることもできなくはないんだろうけど、ストーリー順に撮るわけじゃないから、前後のカットで整合性が取れてなかったりすると怖いしね。こっちでは右手出してたのに次は左手になってた、とか。だからやっぱり、この絵コンテが指南書代わりかな」

「なるほど、確かに先に考えておかないと現場でパニくっちゃいそうだ。何カットくらい描くんですか?」
 その質問に、彼女は「んー」とペンを顎に当てる。

「大体、250とか300カットくらいかなあ」
「にひゃ……」

 なんとなく50~60くらいだろうと思っていたので、予想の遥か上をいく答えに唖然としてしまった。この絵を250も描くの……? アクションやアングルの説明も加えて……?


「えっと、30分映画だから1800秒で、250カットなら1カット平均……7秒くらい……?」
「お、キリ君暗算速いね。実際は30分の中にエンディングテロップとかもあるし、6~7秒ってところね」

 1カットで6~7秒。普通の映画もそのくらい短かっただろうか。会話の応酬や長台詞もあるから、もう少し長い気がする。

「普通の映画やドラマの1カットはもっと長いの」

 俺の疑問はお見通し、と言わんばかりに心の声に同調してくる桜さん。「スズちゃんも初めてカット数聞いたときにビックリしてたなあ」と思い出してようにクスリと笑った。

「2つ理由があってね。1つは見る人への配慮。いずれ学校でも上映しようと思うんだけど、じっくり映画を見るのが苦手な人もいるでしょ。だから、カットを細かくして映像のテンポを上げるの。せっかくなら、年近い人が楽しんでくれる映画作りたいしね」
「そっか、俺達の世代に合わせるんですね」

 Yourtubeでもアプリでも、編集された短い動画を見慣れている。届けたい人に向けてカットの構成を変えるなんて、考えもしなかった。

「で、2つ目が役者への配慮かな。うちはこの部員数だから、役者は演劇部にお願いするのね」
「演技に慣れてますしね」
「でも、演劇部は9月下旬に全国大会の予選があるから、この時期にあんまり負担かけたくないのよね」
「負担? あ、長い台詞を減らしてるのか」

 閃きを声に出すと、彼女は「ご名答」と言わんばかりに目配せしてみせた。

「もちろん、演出上どうしても長く話してもらいたいときはそうするわ。だけどそれ以外は、なるべく覚えなくてもいいようにしてるの。台詞間違いのNGも減るから撮影も短くなるしね」

 そう言って彼女はパラパラと絵コンテを捲り、枠だけ書いてある白紙のページを一番上に持ってきた。


 普段、何気なく目にしている映画。予算や規模は違えど、それがこんな風に作られている、というのを知れるのは興味深い。

 そして、なんとなく「学生映画=雑なもの」という印象だったけど、それは間違いだった。むしろスタッフも期間も限られているからこそ、細やかな気遣いが必要で。奥深さに感銘を受けるとともに、その調整を一手に担っている桜さんへの敬愛の念が胸の中で膨らんだ。



「………………」

 黙り込んだ彼女の視線は白紙から動かなくなり、アイディアが降ってくるのを待ち構えるように、取り出したシャーペンのクリップ部分をカチカチと弾いている。

 集中しているなら、俺ができることは一つ。邪魔しないことだけ。10歩ほど距離を置き、何度も見返して曲がり目のついた脚本を、カットの区切りの想像しながら読み始めた。