「クマゼミ2ね」

 ワシャワシャ、ワシャシャシャと梅雨明けを連想させる暑そうな音が響き渡る。13種類、25分のセミメドレー。さすがにヒグラシは微妙だけど、あとはどれでも問題なく合いそうだ。

「どう? どれが良かった?」
 全トラックが終わったらしく、彼女はスマホで再生を止める。

「う、ううん……」
「迷っちゃった? もう一度始めから聞こ——」
「いや、いい! 大丈夫!」

 慌てて静止する、危ない危ない、本気でやりかねないぞ……。

 まあ、こんなのフィーリングの世界だな。

「クマゼミが良かったかな」
「そっか。なんで?」

 はい? なんで?

「いや、なんとなく直感的にさ」
 ずっと脚本にペンを当てていた月居は、そこで急に顔を上げて俺を見た。

「クマゼミは1から3まであったけど、どれが良かったの」
「んん、そこはどれでも良いっていうか……というかまあ、よく分からないし、ぶっちゃけ今のところはどれでもいいかなって——」
「桐賀君」

 用意していた結論は、向かいの相手の低い声に遮られる。冗談まじりににへらと笑っていたものの、彼女が不快感を露わにキッと睨んだことで、思わず真顔に戻った。

「どれでもいいなんて、二度と言わないで」

 眉をつり上げ、凍りつくような目で俺を見る。え、なんで?
本気だ、本気で怒っている。

「確かにこういうものに答えはないわ。でも、脚本に潜れば、自分の中でちゃんと理由をつけられる。例えば街を歩くって設定だから、他のセミに比べてクマゼミが『街』の感じが出てるって考え方もあると思う。ミンミンゼミやアブラゼミは森林っぽいしね」
「う……ん……」

 言われてみれば、そんな気もする。

「逆に、ミンミンゼミの方が一瞬でセミって分かるっていうメリットはあるわ。アブラゼミは一番音が暑苦しいから、特に複数で鳴いてるパターン3を使えば、すんなりと観客を夏に引き込めるかもしれない。どれが正解なんてないけど、そうやって脚本からイメージを膨らませて話し合いたかった」

 言いながら、帰り支度を始める月居。その表情は、さっきの憤慨から一転、どこか力ない。

「確かに、桐賀君から見たら、一般の人から見たら、瑣末なことなのかもしれない。でもワタシは、ワタシ達は、こういう瑣末なことに高校生活を懸けてるの。これを『どれでもいい』で片付けたら、台詞も、カメラも、衣装も、全部『どれでもいい』ことばっかりになるのよ」


 今日はもう帰りましょ、と部室を出る月居。バッグのファスナーを開けたまま慌てて出て、ダイヤル錠を締める彼女を無言で見る。

「またね」
「あ、うん……」

 そう挨拶したっきり、彼女はヘッドホンを耳に当て、LとRだけの世界に行ってしまった。

 何も話しかける気になれず、廊下の途中でスマホを見るフリをして距離を取って別れる。
「どれでもいい、か」


 かなりキツく言われたので、反抗心が芽生えなかったわけじゃない。でも反論できなかった、弁解の余地もなかった。偽りない気持ちをぶつけたけど、俺が間違っていたのだと思う。

 悪いことをしたという後悔が溢れて、でもどうすれば彼女みたいにできるのか分からなくて。


 愛理は、こういうことも楽しかったのだろうか。


 セミの鳴き声なんか一つも聞こえない雨の道を、重い足取りで帰った。