山の麓から、父の仕事小屋兼住居へと続く道を登っていると、遠くで人の声が聞こえた。
(珍しい……こんな夜に……)

 昼間でもハナちゃんぐらいしか来ることのない家だが、夜になるとそれもないので、家の外から聞こえてくるのはいつも、鳥の声や虫の声くらいだ。
 静か過ぎていっそ怖いほどだが、真夜中でも常に人の声や車の音が窓の外から聞こえていた都会から来た身としては、憧れていた環境と言えなくもない。

 しかし、夜の人の声となれば、少し話は別だ。
(ちょっと怖いな……)
 警戒しながら道を登り続けるうちに、私はそれが父の声だと気づいた。
(え……お父さん?)

 しかもしきりに、私の名前を呼んでいる。
「和奏ー……どこだ? どこにいるー? 和奏ー」

 私は慌てて、それまでのんびりと登っていた道を駆け上がった。
「お父さん! ここだよ!」

 庭の植え込みを揺らしてざざざっと父の前に走りこんだ私を見て、父は驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
 仕方がないので私のほうから訊ねる。
「どうしたの?」

 頭に被っていた手拭いを取り、ぺたんこになった髪を雑にかき上げながら、父は私に背を向けた。
「いや、特に用はないが……母屋に帰ってきたらお前がいないから……」

 ぽつぽつと呟かれる言葉は、単に事実を述べているだけで、それに関して父がどう思っているのかの説明はない。
 口数が少なくてあまり自分のことを語らない父に、母はよくイライラして、もっともっとと言葉を求めていたが、その気持ちもわからなくはない。

 父が言わないので自分で推し測るしかなく、夜に出歩いていたことを咎められているのだろうと、私は解釈した。
「ごめんなさい……こんなに遅くなると思わなくて」

「そうか」
 うしろ姿のまま呟き、家の中へ入っていく父に、私も続く。

(どこへ行ってたのかとか、誰といたのかとか……訊かれたら訊かれたで鬱陶しいと思うのかもしれないけど……何も訊かれないっていうのもな……)

 まるで『お前が何をしようと関係ない、興味もない』と言われているかのようで、そもそも父のところへ来たこと自体を、後悔してしまいそうになる。

(そうじゃない! お父さんはあまりしゃべらない人なんだって、昔の記憶でも、ここに来てからの経験でも、よくわかってるじゃない……無関心とかそういうことじゃないんだよ、たぶん……きっと……)

 断定できないところが我ながら苦しいが、そう思っていなければ、ここへ来た私の選択は、父にとっては迷惑でしかないという結論にたどり着いてしまい、悲しくなる。

(迷惑……なのかな……)
 紺地の作務衣に包まれた広い背中を追って、私も家の中へ入った。