白詰草がびっしりと生えているその場所は、マンションのベランダほどの広さしかない。
 あまり端に寄ると、また崖下へ落ちてしまいそうだ。
 かなり端のほうにいる女の子のスカートの裾を、思わず掴んだ私を、彼女は涙に濡れた瞳で見つめる。
「ところで……あなた誰? いったいどうやってここへ来たの?」

(どうやってって……)
 私は頭上へ視線を向けた。
 ここがどこかはわからないが、上之社があった山の頂上より低い位置であることは確かだ。
 今のところはっきりしている情報だけ、ひとまず伝えておく。

「私は……青井和奏(あおいわかな)。高校二年生、十七歳。たぶん……上の神社から落ちた……のかな?」
「落ちたですって!?」
 女の子はただでさえ大きな瞳をますます見開いて、驚愕の表情で私を見た。

(よく表情が変わって、見てて面白い子だな……)
 私の心の声が聞こえたわけでもないのだろうが、自分の大きな声が森にこだましたことが恥ずかしかったらしく、彼女はこほんと咳ばらいをして、私の目の前に座り直す。

「うまくここで止まれて、運がよかったわね、和奏。上之社から麓まで落ちたら、猪や兎や鹿だって、助からないわ。よく麓で死体が見つかるのよ」
「そ、そうなんだ……」
 あまり嬉しくはない例を出されて、思わず自分で自分を抱きしめた私を、女の子は黒目がちな瞳でじいっと見つめる。
 どきりと胸が跳ねた。
(何……?)

 彼女がふいに口を開く。
「私は、椿。成宮椿(なるみやつばき)。和奏と同じ高校二年生よ……ここは私の秘密の場所なの。一人きりになりたい時、よく来るんだけど……他の人と会ったのはこれが初めてだわ。隠し通路を抜けたらあなたが倒れてて、心臓が止まりそうにびっくりした」
「驚かせてごめんなさい……」

 頭を下げつつも、私は首を捻らずにはいられなかった。
「……隠し通路?」
 首を傾げた私に、『椿』と名乗った女の子は、背後の崖を指してみせる。

「そうよ。蔦で見えないけど、あの裏に、人一人通れるだけの穴があるの。中は真っ暗だけど……緩やかな勾配になっていて、山の頂上付近の大きな岩まで続いてるわ」
「そうなんだ」

 それでは彼女は、山頂近くのその岩へ向かうため、防護柵を越えて原生林の中へと踏み入ったのだ。
 そうとも知らず、行く先を確かめようとしてバランスを崩し、崖から転落した自分が情けない。
「…………」

 なんとも言えず視線を地面へ向けた私を、彼女がまだじいっと見ている気配がする。
「あの……何か……?」
 気になって問いかけようとしたが、彼女の声が重なった。
「あなた、この町の人間じゃないでしょ」
「え……?」

 突然何を言われたのかと間が空いてしまったが、確かに彼女の言うとおりなので、私は正直に頷く。
「うん、そう。このあいだ、越してきたばかり」
「やっぱり」
 なぜわかったのかを訊ねるまでもなく、彼女が説明してくれた。

「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」
 少し棘のある声でそう呟くと、彼女は長い髪を翻して私に背を向け、原生林の向こうに広がる麓の景色を指す。
「あの丘の上に大きなお屋敷があるでしょう? あれが私の家」

 彼女が指した場所には、工場や学校などにも匹敵する面積を有する建物群があった。
 いくつもの家屋と蔵のようなもの、小屋や木々、それらを取り囲む長い白塀が見える。
 ぱっと見にはとても個人の邸宅には見えないが、もし本当にそうならばかなりの資産家にまちがいない。

「すごく大きなお家だね」
 率直に感想を言った私に、彼女は叫んだ。

「私は大っ嫌い!」
 うしろ姿なのでその表情は見えないが、彼女のこぶしは、固く握られている。
 細い肩も震えているように感じ、私はそっと呼びかけた。
「椿ちゃん?」

 黒髪を翻してもう一度こちらを向いた彼女は、目にいっぱい涙を溜めていた。
 私を呼び起こした時も泣いていたが、あれはこの場所に到着する前から、すでに泣いていたのではないかと思う。
 だからあれほど、拭っても拭っても涙が止まらなかったのではないだろうか。

(椿ちゃんはここを『私の秘密の場所』って言った。『一人きりになりたい時よく来る』とも……だとしたら悪いことしちゃったな……)

 興味本位で私があとを追ったせいで、彼女の大切な時間を邪魔してしまったのではないかと、申し訳ない気持ちになる。
「あの……」
 謝ろうかと発した声に、また彼女の叫びが重なった。

「私だって好きなことがしたい! 行きたい場所へ行って、食べたいものを食べて! 友だちと他愛もない話をして、一緒に笑って、泣いて! 今しか作れない思い出をいっぱい作りたい! ……私だって!」

 それはどれも、私にはまったく関係のないことで――でもだからこそ、彼女は思いっきり叫べたのではないだろうか。
 彼女の立場や、置かれている状況や、責任や決まりごとなど何も知らない――この町に越してきたばかりで初対面の私にだからこそ、彼女は思いっきり本音をぶつけることができた。

 そう感じたので、私はめいっぱい彼女の思いを肯定することにした。
 私が迷ったり悩んだりした時、母がいつもそうしてくれたように――。

「うん、そうだよね。私もそう思うよ」
「――――!」

 私の返事を聞いた椿ちゃんが、今にも零れ落ちんばかりに大きく目を開き、そこでみるみるうちに膨れ上がった涙が、ぽろぽろと止まることなく白い頬を伝う。

「うわーん!」
 大声を上げて子どものように泣きだした彼女に寄り添い、私はその頭をよしよしと撫でた。

 思いっきり泣いてすっきりした彼女が落ち着くまでにはかなりの時間がかかったが、次第に闇に沈んでいく町の光景に不安を覚えながらも、私は彼女を急かすことはしなかった。