私たちのもとへたどり着いた百合さんは、息も絶え絶えといったふうに肩で大きく息をしている。
「百合さん……どこから走ってきたんですか?」

 私が訊ねると、本当に消え入りそうな声でかろうじて返事をしてくれた。
「成宮の……お屋敷からです……」

「僕、ちょっと水をもらってくるから」
 誠さんが急いで行ってしまうと、百合さんは涙をいっぱいに浮かべた目を私へ向ける。

「遅くなって……すみません……お嬢さんから伝言を頼まれたけんど、なかなかお屋敷を抜け出せなくて……こんな時間に……」
「大丈夫ですから! どうぞ落ち着いて!」

 誠さんがどこからか持ってきた湯呑みいっぱいの水を一気に飲み干し、百合さんはようやく一息ついた。
「旦那さまから、祭りへ行く許可が出なかったんです。お嬢さまは一日かけてずっと頼んでたけど……もう浴衣だって着てたけど……部屋から出るなっていつものように言い渡されて、それで私に……『二人が待ってるから、今日は行けないって伝えてくれ』って……」

「そうか……面倒をかけたね。百合ちゃん」
 誠さんが頭を下げると、百合さんは飛び上がって恐縮する。
「面倒なんて、そんな! お嬢さまからの言伝を届けるのは、私の仕事です。それに『百合ちゃん』なんて……私のことはどうか、『おい』とか『お前』とか呼んでください……!」

「いや、さすがにそれはできないよ」
 百合さんのいつもの主張に、誠さんも椿ちゃんと同じ返答をしていることは面白いが、今はそれを笑っている場合ではない。

 私は、これまで経験したこともないほど大きな怒りが、お腹の底からふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
(どうして椿ちゃんは……どんなにがんばっても自分のやりたいことができないの?)

 私にはやはりそれが、根底のところで許せない。
 家の事情や椿ちゃんの置かれている立場など、本人や誠さんや百合さんから話してもらったり、自分の目で見たりもしたが、それで納得には至っていない。

(あんなに嬉しそうだったのに……あんなに楽しみにしてたのに……!)
 唇を噛みしめていないと涙が浮かんできそうで、私はしばらく沈黙していた。
 しかし決意して、それを、こぶしを握ることに変えた。

「誠さん……椿ちゃんが来れないなら、私たちが行きましょう」
「和奏ちゃん……?」
 私の突然の提案に、誠さんはとまどったような声を上げる。

 当然だ。
 百合さんの話から察するに、今私たちが訪ねていって、椿ちゃんに会わせてもらえるとは思えない。
 
 それでも何もしないままに、引き下がるのは嫌だった。
 椿ちゃんは今夜ここへ来るために、出来るだけの努力をした。
 それに見合うだけの努力を、私も彼女のためにしたいと心から思った。

「椿ちゃんに、燈籠祭りの様子、話してあげましょうよ。そして椿ちゃんの部屋から、一緒に花火を見ましょう」
「でも、それは……」
 言い淀む誠さんに代わり、百合さんが私との間に割って入る。

「お気持ちはとても嬉しいです、和奏お嬢さん。でも今夜お嬢さんに会うことはもう無理かと……」
 ひき止めようと百合さんが私に伸ばした手を、私は体を捻ってするりとかわした。

 まだ考えこんでいるふうの誠さんに、手をさし出す。
「誠さんが無理なようなら、私一人でも行きます。だからあの小箱を私に託してください」

「これを……?」
 懐から赤いリボンのかかった小箱を出した誠さんの手から、私はひったくるようにそれを奪った。
「和奏ちゃん!」

 声を荒げた誠さんに背を向け、私はさっき百合さんが走って来た参道を、逆向きに走り出す。
「誠さんの立場も、百合さんの立場もわかります! 無茶なことをしたら、ますます椿ちゃんを困った状況に追いこむことも……でも私なら! 余所者の私なら! もともとこの町の人間じゃない者が勝手にやったことだと、切り捨ててもらえると思います! だから諦めたくありません!」

 夢中で叫んだとおりに、心から思っていたのだ。
 それがこの時私が取れる、最善の策だと――。

 しかし実際には、まったくそうではなく。
 私はこの時、とり返しのつかない過ちを犯していた。

 それに気がつくのは、神社の敷地を抜けたところで、道脇の石灯篭の陰にちょうど入った私に気がつかず、猛スピードで横断歩道を走り抜けようとした車が私を撥ね、運びこまれた救急病院で、私がようやく二日後に目を覚ました時だった。