しかし、そうはならなかった。
恐怖のあまりに手放した意識を私がとり戻した時、背中にはしっかりと地面の感触があったし、手も足も、ひとまず不自由なく動かせた。
(助かった……?)
固く閉じていた目も開いてみる。
すると目の前に、私を心配そうに見下ろす人物の顔があった。
「え? ええっ!?」
驚きの声を発してしまったのは、それが知っている顔だったからだ。
色白で澄んだ目をした、いかにも優しそうな風貌のその人は、私が目を開いたのを見て、ほっと安心した表情になった。
「よかった……気がついたね」
「はい……」
その人――椿ちゃんの幼なじみで想い人の誠さんは、先日彼女がそうしていたのと同じように、倒れた私の顔を上から覗きこんでいた。
「ここで絵を描いていたら、突然上から何かが降ってきたんだ。てっきり猪だと思って……」
(猪……)
「驚いてふり返ったら、和奏ちゃんが倒れてて、もっと驚いたよ」
「すみません……ここへ来る道を探してたら、足を滑らせて落ちちゃって……」
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい。大丈夫みたいです」
前回と同じように特にけがはしていないことを確認してから、白詰草が咲き乱れる地面の上に座り直した私を、誠さんは笑いながら見守る。
大きなイーゼルの前に立ち、パレットと絵筆を手にしている彼は、私がそうしようと思っていたのと同じように、この場所から見る町の景色を描いていたらしい。
キャンバスには夕焼けの綺麗な色が塗られていた。
「――――!」
私は慌てて、父からもらったスケッチブックを探し、自分のすぐ傍に落ちているのを見つけ、大切に拾い上げる。
(よかった……)
スケッチブックを抱える私を見て、誠さんが目を細めた。
「和奏ちゃんも絵を描くの?」
彼が向かっている立派なキャンバスに目をやって、私は小さく笑う。
「少しですけど……」
誠さんは絵筆とパレットを片手に持ち替え、空いた手を私にさし伸べて立たせてくれながら、また笑った。
「僕もだよ。趣味で描いてるんだ」
「趣味……ですか?」
それにしては本格的な道具に、私が首を傾げると、誠さんは恥ずかしそうに頬を指で掻く。
「凝り性でね。そのくせいろんなことに手を出しては、周りに呆れられてる……今は、絵と細工物と盆栽だな……」
「盆栽……」
それはまた広範囲だと思いながら、私ははっとした。
「椿ちゃんにあげた髪飾り……ひょっとして手作りですか?」
誠さんの肩がびくりと揺れた。
「よくわかったね……」
笑顔で答えてくれたが、彼が少なからず動揺していることはわかる。
(あれ……ひょっとして……?)
嬉しい手ごたえを感じながら、私は少しずつ質問を重ねていった。
「ここって、椿ちゃんが『私の秘密の場所』って言ってたんですけど……?」
誠さんは動揺を隠そうとしているのか、キャンバスに向き直り、色を重ねていきながら、私には背を向けて答える。
「そうかもね……僕は子供の頃に、椿と一緒にここを見つけたから……」
「一緒に見つけたんですか?」
「ああ、そうだよ。森で迷子になって、なんとか帰り道を探そうと彷徨っているうちに、迷いこんだ感じかな……」
「そうだったんですね……」
それならばこの場所は、椿ちゃんにとってより一層特別な場所のはずだ。
そこに彼女の想い人の誠さんと一緒にいることが、なんだか申し訳なくなる。
「私……」
ここで絵を描くことは諦めて、帰ろうかと思った。
暮れかけた日に照らされた町の、まるで違う世界に迷いこんだかのように美しい景色ならば、もう私の脳裏にしっかりと焼きついた。
父の仕事小屋兼住居の縁側に座ってでも、描くことはできるだろう。
帰ると声をかけようとして、誠さんが熱心に向かっているキャンバスに何げなく目を向け、茜色に染まる雲の情景に、少女の横顔が見える気がした。
「それ……椿ちゃんですか……?」
思わず声に出てしまった問いかけに、誠さんはかわいそうになるくらい大慌てした。
「え? 何が? え、あ……そ、そう見えるかな……いや、そんなつもりは……」
ゆったりと落ち着いた人物だという彼への印象が、まるで真逆になってしまいそうな慌てように、私は申し訳なくなってしまい、慌てて背を向けた。
「ごめんなさい! 私、もう帰りますね!」
「え? ああ……気をつけてね」
「はい!」
その場所から出ていく道へ向かいながら、最後にもう一度ふり返って、誠さんに叫んだ。
「夏祭り! 楽しみですね! 絶対いい思い出作りましょうね!」
「うん……そうだね」
困ったように笑ってくれたことを確認して、今度こそ本当にその場所から出る道へ一歩を踏み出した。
(椿ちゃん……きっとうまくいくよ!)
彼女の恋の成り行きを、まるで自分のことのようにわくわくしながら、暗くなり始めた帰りの道を、私は急いだ。
恐怖のあまりに手放した意識を私がとり戻した時、背中にはしっかりと地面の感触があったし、手も足も、ひとまず不自由なく動かせた。
(助かった……?)
固く閉じていた目も開いてみる。
すると目の前に、私を心配そうに見下ろす人物の顔があった。
「え? ええっ!?」
驚きの声を発してしまったのは、それが知っている顔だったからだ。
色白で澄んだ目をした、いかにも優しそうな風貌のその人は、私が目を開いたのを見て、ほっと安心した表情になった。
「よかった……気がついたね」
「はい……」
その人――椿ちゃんの幼なじみで想い人の誠さんは、先日彼女がそうしていたのと同じように、倒れた私の顔を上から覗きこんでいた。
「ここで絵を描いていたら、突然上から何かが降ってきたんだ。てっきり猪だと思って……」
(猪……)
「驚いてふり返ったら、和奏ちゃんが倒れてて、もっと驚いたよ」
「すみません……ここへ来る道を探してたら、足を滑らせて落ちちゃって……」
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい。大丈夫みたいです」
前回と同じように特にけがはしていないことを確認してから、白詰草が咲き乱れる地面の上に座り直した私を、誠さんは笑いながら見守る。
大きなイーゼルの前に立ち、パレットと絵筆を手にしている彼は、私がそうしようと思っていたのと同じように、この場所から見る町の景色を描いていたらしい。
キャンバスには夕焼けの綺麗な色が塗られていた。
「――――!」
私は慌てて、父からもらったスケッチブックを探し、自分のすぐ傍に落ちているのを見つけ、大切に拾い上げる。
(よかった……)
スケッチブックを抱える私を見て、誠さんが目を細めた。
「和奏ちゃんも絵を描くの?」
彼が向かっている立派なキャンバスに目をやって、私は小さく笑う。
「少しですけど……」
誠さんは絵筆とパレットを片手に持ち替え、空いた手を私にさし伸べて立たせてくれながら、また笑った。
「僕もだよ。趣味で描いてるんだ」
「趣味……ですか?」
それにしては本格的な道具に、私が首を傾げると、誠さんは恥ずかしそうに頬を指で掻く。
「凝り性でね。そのくせいろんなことに手を出しては、周りに呆れられてる……今は、絵と細工物と盆栽だな……」
「盆栽……」
それはまた広範囲だと思いながら、私ははっとした。
「椿ちゃんにあげた髪飾り……ひょっとして手作りですか?」
誠さんの肩がびくりと揺れた。
「よくわかったね……」
笑顔で答えてくれたが、彼が少なからず動揺していることはわかる。
(あれ……ひょっとして……?)
嬉しい手ごたえを感じながら、私は少しずつ質問を重ねていった。
「ここって、椿ちゃんが『私の秘密の場所』って言ってたんですけど……?」
誠さんは動揺を隠そうとしているのか、キャンバスに向き直り、色を重ねていきながら、私には背を向けて答える。
「そうかもね……僕は子供の頃に、椿と一緒にここを見つけたから……」
「一緒に見つけたんですか?」
「ああ、そうだよ。森で迷子になって、なんとか帰り道を探そうと彷徨っているうちに、迷いこんだ感じかな……」
「そうだったんですね……」
それならばこの場所は、椿ちゃんにとってより一層特別な場所のはずだ。
そこに彼女の想い人の誠さんと一緒にいることが、なんだか申し訳なくなる。
「私……」
ここで絵を描くことは諦めて、帰ろうかと思った。
暮れかけた日に照らされた町の、まるで違う世界に迷いこんだかのように美しい景色ならば、もう私の脳裏にしっかりと焼きついた。
父の仕事小屋兼住居の縁側に座ってでも、描くことはできるだろう。
帰ると声をかけようとして、誠さんが熱心に向かっているキャンバスに何げなく目を向け、茜色に染まる雲の情景に、少女の横顔が見える気がした。
「それ……椿ちゃんですか……?」
思わず声に出てしまった問いかけに、誠さんはかわいそうになるくらい大慌てした。
「え? 何が? え、あ……そ、そう見えるかな……いや、そんなつもりは……」
ゆったりと落ち着いた人物だという彼への印象が、まるで真逆になってしまいそうな慌てように、私は申し訳なくなってしまい、慌てて背を向けた。
「ごめんなさい! 私、もう帰りますね!」
「え? ああ……気をつけてね」
「はい!」
その場所から出ていく道へ向かいながら、最後にもう一度ふり返って、誠さんに叫んだ。
「夏祭り! 楽しみですね! 絶対いい思い出作りましょうね!」
「うん……そうだね」
困ったように笑ってくれたことを確認して、今度こそ本当にその場所から出る道へ一歩を踏み出した。
(椿ちゃん……きっとうまくいくよ!)
彼女の恋の成り行きを、まるで自分のことのようにわくわくしながら、暗くなり始めた帰りの道を、私は急いだ。