天正から文禄の頃、

 ──女房狩(にょうぼうがり)

 という言葉が流行ったことがある。

 文字通り女房、すなわち他人の妻と肉体関係を結ぶことをさす。

 現代でいうところの不倫というものに近いが、しかし問題はその女房を狩る人物であった。

 当時、関白に叙任され天下人となっていた、豊臣秀吉その人だったのである。

 秀吉の女好きはかねてより世に広く知れており、まだ羽柴筑前守として長浜の城主であった頃、側女を(はら)ませてしまった際、正室のおねは主君である織田信長へ宛て愚痴の手紙をしたためたことすらある。

 このときの信長の返信というのが、

「おねのように素晴らしいおなごがおるのに浮気をするとは、あの禿げ鼠の何と身の程を弁えぬ行動であるかと」

 などというようなもので、この一筆からも当時からおねが出来た賢夫人であったことと、秀吉が女にだらしのない性分であった事実がうかがわれる。

 それはいい。

 話を女房狩に戻す。




 女房狩は、鷹狩りと同じく狩という字がつくだけあって、要は獲物を見つける鳥見役のような役割がおり、それは侍医であり御伽衆(おとぎしゅう)をつとめる()薬院(やくいん)全宗という医師である。

 医師という職掌柄、大名家とのつきあいもあって、したがってどこの大名家に見目の麗しい女房や侍女があるということをすぐに見つけ出す。

 ただし。

 いつもそれで女房狩が成功するとは限らない。

 実際に。

 細川忠興の正室お玉──のちのガラシャ──に目をつけたときなどは、

「施薬院どの」

 と先に細川忠興から声をかけられ、病であるとしてお玉の診察をしたのだが、暗がりの中で脈を診る程度にとどめられてしまい、さらに詮索しようとすると細川家の屋敷内で甲冑のすれる音やら鉄砲の硝煙の臭気すらしたので、施薬院自身が身の危険を感じ、秀吉に報告をしなかったという話がある。

 ともあれ。

 それほどまでに、諸大名家は天下人の歪んだ性癖に警戒感を抱いていた。




 さて。

 さすがに大名家では守りが固いと見たのか、秀吉の女漁りの標的は公卿の娘や、その侍女に向けられ始めた。

 はじめに目をつけられたのは清原家の小侍従という女官であったが、これは小侍従がキリシタンで貞操が固いと施薬院から報告が上がると秀吉は諦めた。

 すると。

 御所の女官である勾当内侍(こうとうのないし)に次は目をつけた。

 しかし。

 これは武家伝奏の今出川(いまでがわ)晴季(はるすえ)の知るところとなり、

「そればかりはなりませぬ」

 と強く諌められ、これもまた諦めざるを得なかった。

 そこへ。

「近衛左大臣さまの姫君さまに美しい方がおわすとの由にございます」

 と、施薬院からの言上があった。

「近衛左大臣か」

「左様にございます」

 近衛左大臣、という名を聞いて、秀吉の顔はにわかにかきくもった。


 近衛左大臣。

 名は信尹(のぶただ)といい、信の字は元服の折に織田信長からもらっている。

 信長は嫡男の信忠が少し頼りないと見えたのか、いささか公卿の子弟にしては剛毅な信尹を可愛がり、愛蔵していた則宗(のりむね)の脇差さえ信尹に下げ渡し、

守刀(まもりがたな)とせよ」

 と言葉まで授けたことがある。

 ただ。

 この信尹と秀吉には、因縁がある。

 信尹にすれば秀吉は、

「本来ならば麿がなるべきやった関白の位を、横から掠め取った、百姓上がりの盗人」

 と罵ったほど、信尹から嫌われている。

 しかし。

 秀吉には秀吉なりの道理があって、信尹の父の前久(さきひさ)の猶子となって、前久から受け継ぐ形式で関白に就いていた。

 これは前久と信尹が不仲であったところに起因するのだが、何しろ相手が悪すぎる。




 この信尹、書では三筆とうたわれるほどの腕前で、和歌も勅撰に入るほどである。

 しかも。

 何より信尹は秀吉の苦手な徳川家康と懇意であり、もともと松平家であった家康が徳川に姓を鞍替え出来たのも、近衛家の力あってのことであった。

 その娘が美人となると。

「なるほど一目見てはみたいが、相手が左大臣の娘とあってはなぁ」

 となるのも無理はない。

 が。

 ここで諦めないのが秀吉という男で、

「ならば聚楽第を見せてやろう」

 といったような内容の文を右筆に書かせ、それを近衛邸まで持たせた。

 いきなり関係を持とうとはせず、まずは、

「聚楽第の見物でもどうか」

 と誘ったのである。


 しかし、である。

 色好い返書を待ったが、待てど暮らせど返事が来ないのである。

 そればかりか。

 遣いの家来すら戻らない。

「どうしたことか調べさせよ」

 と命じて石田三成に調べさせると、数日して三成からは恐るべき話が出た。

「殿下の文が、どうやら伊達家に渡ってしまわれたようにございます」

「なに、政宗の許とな」

 言わずと知れた独眼竜で、つい先日の小田原参陣まで本気で天下を狙っていた男ではないか。

「厄介な名が出てきたが、なにゆえ伊達家に文が」

「左大臣さまは伊達家とは古くより音信(いんしん)がございますれば、そこかと」

 近衛家と伊達家のつきあいは古く、室町時代に伊達家の当主が和歌を献じた際、近衛家の当主がときの帝に奏上し、うち二首が所載されたことがあった。

 以来、伊達家と近衛家はたびたび書状を取り交わしたり、進物を互いに贈り合うなどして、交流を持っている。

 その近衛家では、いわば気心の知れた伊達家に連絡をつけ、手紙と使いを行方知れずにすることで曖昧にして、うやむやに終わらせる算段であったらしい。



女房狩騒動記

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