『それ』を知ってしまったのは偶然だった。
 俺、逆咲 吉野(さかさき よしの)が所属している弓道部の放課後のこと。
 先週、秋の大会が終わったばかりで、活動はまったりとしていた。大会後の反省会も終わっている。自由参加にも近い、今の活動状況はそう長くは続かないだろうが、それゆえに貴重なもの。
 今回の秋大会の選手に選ばれていた俺は、今回の大会のために当たり前のように猛練習した。夏休み明けに顧問に指名を受けてからは、毎日一番遅くまで弓道場に詰めていたし、土曜は休みだがほぼ毎週学校で自主練した。
 その甲斐あって、今回の大会では念願の好成績を手に入れた。地方大会を勝ち抜き、なんと県大会まで進むことができたのである。
 残念ながらそこで打ち止めではあったが、ごく普通の公立高校としては快挙。全校集会で、生徒全員の前で校長から表彰された。まるでヒーローになったかのようで誇らしかった。
 個人的な成果もあげて、大会が終わったという意味以外でもひといきつけた十月の終わりだった。
 もう過度に練習を積む必要はない。少なくとも、しばらくは。
 次の行事としては、三年の引退が迫っている。そろそろ次期部長がどうだという話も出るだろう。
 だがなにしろ俺は、県大会出場のヒーローである。光栄なその役職が、現在二年の俺に回ってくる可能性はじゅうぶんにあった。
 そりゃあ仕事や責任は面倒だが、部長を務めたという実績はきっと三年になったときの受験でおおいに有利になるだろう。悪くない役職だ。真面目なのか打算的なのか。両方が混じり合った期待や野心が俺の胸にはあった。
 そんな、先行きもなかなか明るかったその放課後のことであった。手は抜かないものの、気持ちに余裕のある練習を終えて、着替えて、俺は弓道場を出た。
 向かったのは校門だ。そこにはサラサラの黒髪を背中に流した女子生徒が立っている。
「お待たせ」
 俺はちょっとどきどきしながら声をかけた。
「逆咲くん! お疲れ様」
 俺の声に反応して、彼女は、ぱっと振り返った。やや幼さを感じさせる、しかしじゅうぶん美人の部類に入る顔立ちに、くりっとした丸い目。笑顔なだけでなく、その表情には俺に会えたことである喜びであろう感情がたっぷり滲んでいて、顔立ちだけでなくとてもかわいらしかった。
「ありがとう。流衣(るい)」
 彼女の下の名前を呼ぶ。
 まぁつまり、そういうことだ。このかわいい女の子は光栄なことに、俺の彼女。今年の春から付き合うことになった。
 ロマンティックにも、桜の咲き誇る樹の下。はらはらと舞い散るピンクの花びらを身に受けながら、彼女に告白されたのだ。
 なので実のところ、この大切な彼女にいいところを見せたくて部活の試合に打ち込んだということも、ひとつあるのだった。
「今日の部活はどうだった?」
 歩きだしてすぐに流衣が聞いてくれた。俺は「まったりしてたよ」と答える。
「もうちょっとしたら冬季大会のことも考えないとだけど、ま、しばらくは」
「今まで大変だったもんね」
「そっちはどう? 手芸部」
「うちもまったりかな。あ、いつもそうか」
 流衣はおっとりと笑う。手先が器用な流衣は、女子らしい手芸部なんてものに所属している。部活はこのように違うのだが、時間を合わせて校門で待ち合わせて、一緒に帰る。
 春からの恋人関係で、こういうことも随分慣れてきた。未だに隣同士歩けばドキドキしてしまうけれど。しかしこのときめきが高校生、青春ではないだろうか。
 ああ、なんたるリア充。
 大会は県大会出場。
 隣にはかわいい彼女。
 俺の人生は順風満帆といって良かっただろう。
 噛みしめていたが、ふとポケットに手を入れて俺は、はたとした。
 ない。
 入れていたはずのものが。
「あ、……」
 手を動かしてみても、『それ』には当たらない。俺は足をとめてしまった。
「どうしたの?」
 流衣がこちらを見てくる。
「部室の鍵。忘れたみたいだ」
「あら」
 持っていたはずの部室の鍵が、ポケットに入っていなかった。今日は出たのが最後でなかったので施錠する必要もなくて、そのせいで忘れたことに気付かなかったのだろう。
「ごめん、ちょっと取ってきていいかな」
 今すぐ使うというわけではないが、もしも明日の練習、俺が一番乗りだったら部室に入れなくなってしまう。立ちつくしてほかのヤツがくるのを待つのもじれったいし。
 幸い学校からは、歩きだして五分も経っていない。走れば同じくらいの時間で往復できるだろう。
「いいよー。あ、じゃあそこの公園で待ってるよ」
 流衣はちょっと先にある公園を指差した。そこならベンチもあるし、座って待てる。
「悪いな。ちょっぱやで戻ってくるから」
「あはは、ゆっくりでいいよー」
 歳の離れた姉ちゃんから移った、やや死語の表現で言うと流衣はおかしそうに笑って手を振ってくれた。
 そんなわけで……俺は弓道場へ戻るべく来た道を走って戻ったのだった。
 弓道場は特に普段と変わった様子もなかった。
 静かだ。今日は参加者も少ないからみんな帰ってしまったのかもしれない。
 しかし逆に、まずいな、と俺は思った。
 今、施錠されていたら当たり前のように入れない。勿論、鍵を回収することもできないだろう。無駄足になるかな、と思いつつもドアに手をかけた。
 が、幸いなことに鍵はかかっていなかった。誰かまだ残っているようだ。俺は、ほっとした。
 弓道場へ入ると部員が二、三人いた。とはいえ、練習はもう終えたようで隅のベンチで駄弁っているだけだったが。
「あ! 逆咲先輩。どうしたんですか?」
 後輩の男子が俺を見止めて立ち上がって聞いてきた。わざわざ立たせるのも悪いと、俺は手つきでそれを制する。
「や、鍵忘れただけだから」
「そうですか」
 彼はそのまま肯定して、俺は「終わったなら帰れよ」とだけ言って、更衣室へ向かった。「ういーっす」なんて気の抜けた声を背中に、バックヤードへのドアを開けて中へ入る。バックヤードは女子と男子の更衣室がそれぞれ、あとは用具を入れておく倉庫。
 俺は当たり前のように更衣室へ入ったのだが……見えたものに心臓が飛び出しそうになった。
 黒髪とワイシャツの後ろ姿は見たことのある人物であったし、この場にあってもおかしくないものだ。
 だがその状態が問題だった。黒髪はさらりと肩まで落ちていたし、ワイシャツの開いた前からはレースの下着が見えていたのだから。
 そして『その子』が息を呑むのが見えた。
「わわわ悪い!」
 バーン!
 俺が乱暴に閉めたドアがでかい音を立てる。俺の叫んだ言葉と同じくらい大きかっただろう。
 そのドアを封じるように背を付けて、はぁ、はぁと息をつく。ただ入ろうとしただけなのに、百メートルも走ったかのように心臓がばくばくしている。
 女子の着替えを見てしまった。
 彼女はいるものの、所詮高校生の身。そういう光景にまだそれほど耐性はない。
 まさかこんなところでラッキースケベに遭遇しようとは。
 いや、……こんなところで?
 俺は、ばっとドアから離れ、表示を見た。そして固まる。
『男子更衣室』
 そこにはきちんとそう書いてあった。てっきり間違って女子更衣室を開けてしまったかと思ったのだが、そんなことはなかったようだ。大体、何十回も入っている更衣室を間違えたりするものか。
「おい、ここ男子更衣室だろ!」
 バーン!
 またドアが大きな音を立てた。勢いのままにそうしてしまったが、もう一度、俺の心臓は跳ね上がった。たとえ表示が『男子更衣室』であろうとも、中にいた人物とその状態はなにも変わっていないに決まっていたので。
 そしてそのとおり。
 『彼女』は今度は驚くだけでは済まなかったようで、真っ赤な顔できっと俺を睨みつけて「戻ってくんなぁ!」と思い切り俺になにかをぶん投げてきて……それは綺麗に俺の額にヒットした。
「悪かったよ」
 混乱から戻ってきた俺、と『彼女』。
 まさかこんな謎の状況のまま「悪かったな。じゃっ、ばいばいまた明日」なんてできるものか。
 ひとまず落ち着いた学校の裏庭、ベンチ。『彼女』は隣に座って気まずそうに、パックのいちごミルクをすすっている。俺が不可抗力とはいえ、覗きをした詫びに奢ったものだ。
 俺は流衣にラインを入れて、『ごめん、先生に捕まっちまった。悪いけど先帰ってて』と送った。勿論『今度埋め合わせするから』とも付け足したが、流衣は穏やかなスタンプと文面で『仕方ないよ。頑張って! じゃ、明日ね』と返してくれた。
 俺はほっとしたが、状況はまるで改善していないのだった。
「えっと。お前」
 言いかけて止まってしまう。
 隣にいる『彼女』は、俺の知っている普段の姿に戻っていたのだから。
 ワイシャツ、ジャケット、ネクタイ。
 そして、スラックス。
 つまり、男子制服である。
 さっきおろしていた髪はうしろで結ばれていた。
 『彼女』は俺の後輩、鈴木 昴流(すずき すばる)。確かに中性的な見た目のヤツではあったけれど、まさかこんな。
「いえ。俺が気を抜いてたんですから」
 やはり気まずそうに言われた。その口調だって男子生徒である。俺の脳は混乱した。
 さっき見てしまった色っぽい姿の『彼女』と、いつもの後輩の『彼』が頭の中で混ざり合う。
 おまけになんだかその姿を魅力的に感じてしまったのだ。
 さらっとした黒髪が綺麗で。
 くりっとした瞳がかわいらしくて。
 いやいや、綺麗だかわいいだなんて思ってる場合じゃない。俺は思考を原状に戻した。
「えっと……」
 訊こうと思ったが、また同じ言いよどみをしてしまった。単純に「お前、女だったんだな。はははそうかぁ!」なんて笑い飛ばせるはずがないではないか。そんな簡単な問題なものか。
「その、どういう事情で」
 非常に聞きづらかったが見てしまった以上、聞くしかない。
 俺の質問に、昴流はいちごミルクのパックから口を離して、はぁ、と息をついた。観念した、という様子だった。