春に桜の舞い散るように

- 幽霊? -


 気がつくと、私はガードレールの傍に立って、海を見つめていた。
 自分が誰なのか、なんていう名前なのか、頭からすっぽりと抜けてしまったみたいに、何も思い出せない。記憶喪失というやつだろうか。自分が人間の女性であることは、無意識のうちにも理解できた。言葉も忘れていないみたいだ。自分が日本人だということも分かる。
 ここはどこだろう。私はここで何をしているんだろう。
 何だか、すごく怖いとか、悲しいとか、痛いような気持ちが、心のすぐ近くに潜んでいるような感じがして、不安になる。自分が色んな事を忘れているのは分かるんだけど、思い出したくない気もする。
 今はお昼くらいだろうか、太陽が真上にある。空は綺麗な青で、白い雲がふわふわ浮かんでいる。綺麗。
 誰か、忘れてしまった人に会いたいような気持ちが、ムズムズと心に湧き上がってくる。
 お父さんだろうか、お母さんだろうか。二人はどんな顔で、どんな声だったかな。
 それとも、別の誰かかな。

 辺りを見渡してみると、ここが車道のカーブ地点ということが分かる。真ん中に白い線が引いてあるから、二車線道路ってやつだ。後ろを見ると、コンクリートで出来た灰色の崖みたいな壁が見上げるくらいの高さまであって、その上には木が覗いてる。赤く色づいたモミジの綺麗さに、今が秋なんだと分かった。
 崖から車道を挟んで、道沿いに白いガードレールが続いてる。ガードレールの向こうは二メートルくらい下がっていて、その先には白い砂浜と、波打つ海が見える。海も綺麗だな。左側にガードレールが途切れている所があって、そこから石造りの階段が砂浜に続いてる。そこから海に降りられるのか。

 空も、雲も、赤いモミジも、白い砂浜も、青い海も、全部綺麗。
 誰かに、この素敵な景色を見せてあげたい。誰かと一緒に見たい。
 誰なんだろう。すごくすごく大切な事に思えるのに、全然思い出せない。
 寂しい。とりあえず、どこかに移動してみようか。誰か人がいたら、事情を話して、警察か病院にでも連れてってもらおうか。病院……。ホント、なんで私、こんなことになっちゃってるんだろう。
 右の方に民家が何軒か見えるから、そっちに行ってみよう。そう思って歩き出すと、暫くした所で見えない壁みたいなものにぶつかった。

「わっ、なに、これ?」

 目の前には何もなく、道が続いているだけなのに、前に進めない。恐る恐る手を出してみると、確かに何かに当たる。少しひんやりしていて、サラサラとした手触り。なんだろうこれ。
 少し場所を変えてみても、やっぱり何かに阻まれる。車は全然通らないから、車道の真ん中まで行ってみる。透明な壁がある。コンクリートの崖の方まで行ってみる。ここもだ。
 少し力を入れて見えない壁を叩いてみたけど、音も鳴らずに跳ね返される。どうして……? なんなの、これ?
 仕方ないからこっちは諦めて、反対の方に行ってみよう。
 とぼとぼと歩く。どうしちゃったんだろうか、私は。この世界は。寂しい。寂しいよ。
 最初に気が付いた場所を横切って、砂浜に降りる階段を通り過ぎて、カーブを曲がる。最初はコンクリートの崖で見えなかったけど、こっちは民家とかは無くて、何もない道が暫く続いているみたいだ。その先に小さいスーパーマーケットのような建物が見える。とりあえずあそこまで行ってみよう。カーブを曲がり切って歩きだすと、

「あうっ」

 透明な壁にぶつかった。こっちもだ。道路の上を横断してくまなく触ってみたけど、どこにも壁が途切れている場所がない。もう、なんなの、この壁。
 遠くに見えるスーパーマーケットには、誰も人が出入りしていない。寂しい場所だ。誰もいないのだろうか。
 スーパーの正面にも石の階段があって砂浜に続いているのが見える。もしかしたら、夏は海水浴に来る人で賑わうのだろうか。スーパーの前の砂浜は、こちらの方まで続いている。

「あっ、もしかして」

 僅かな希望を持って、砂浜に続く階段の所まで走って、一段ずつ早足で降りる。柔らかい砂浜を踏みしめて、スーパーの方向に歩いてみたけど、暫くしたらやっぱり壁にぶつかった。

「うう、だめか……」

 さっき、道路の上でぶつかった場所とだいたい同じだ。繋がってるようだ。
 そのまま砂浜を歩いて、反対側の、民家がある方向にも行ってみたけど、やっぱりだめだった。海の方は試してないけど、きっと同じだろう。それに私、泳ぐの得意じゃないし。頑張って泳げたとしても、海の向こうに何かが見える訳でもない。コンクリートの崖の方を見てみたけど、とても登れそうにない。
 ――私、閉じ込められてる? どうして? どうやって? 誰が?
 誰かいないの? どうして誰も通らないの? 寂しいよ。誰か私を見つけて。私を助けてよ。
 涙が出てきた。泣きながら思いっきり叫んでみようか。
 そう考えていると、自分じゃない泣き声が遠くから聞こえた。微かに足音もする。誰か来る!
 砂浜を走って、石の階段を駆け上がる。
 スーパーのある方の道から、女の子が一人歩いてきた。左手に買い物袋を提げて、涙を拭おうともせずに、泣きながら歩いている。
 制服は着てないけど、高校生くらいだろうか。なんだか、見覚えのあるような顔だ。私の知ってる人だろうか。この子は、壁に当たらずに来れたんだろうか。
 向こうもタダ事じゃないみたいだけど、思い切って、声をかけてみよう。

「ね、ねえ、ちょっといいかな」

 女の子は私の呼びかけに答えずに、階段の前で足を止めて、海を眺めた。涙が流れ続けている。目が真っ赤になってる。なんだかすごくかわいそう。

「ねえ、その、大丈夫? 何かあったの?」

 女の子は何も言わずに、階段の半分辺りまで降りて、そこに座った。
 膝を抱えて、腕の中に顔を埋めて、声を上げて泣き出してしまった。

「お母さん……」

 お母さんに何かあったんだろうか。胸が締め付けられるみたいに痛い。私も涙が出てきた。
 何か、力になってあげたい。慰めてあげたい。階段を降りて彼女の横にしゃがみ、細く震える肩に手を乗せた。
 ――つもりだったのに、私の手は女の子の肩を素通りして、今、彼女の体の中に埋まっている。

「えっ! なにこれ、なんで?」

 驚いて、急いで手を引き抜く。女の子はさっきと変らず泣き続けている。
 自分の手を見てみるけど、特に変わった所はない。不安と怖さで心臓がドキドキしている。

「ね、ねぇ、あなた、何ともなかった?」

 恐る恐る聞いてみたけど、やっぱり彼女は何も言わない。
 試しに、もう一回だけ手を肩に置いてみるけど、やっぱり素通りした。

 もしかして……。
 背筋が急に寒くなる。
 立ちあがって後ろ歩きで階段を上る。女の子から目を離せない。
 もしかして、この子……、幽霊?

- きなこ -


 さっきからずっと泣いているし、何かとても悲しいこととか、未練があるのだろうか。この世に心残りがあると、魂が成仏できずに残るって、記憶はないけどテレビで聞いたことがあるような気がする。もちろん、幽霊なんて本気で信じてる訳じゃないけど。でも、さっきの手がすり抜ける現象は、どう考えても……
 怖いけど、でも、とてもかわいそう。私の言葉は届かないみたいだけれど、傍に、いてあげようか。どうせ私もここから動けないみたいだし。

 階段を降りて、女の子の隣に座った。
 触れなくても、手を伸ばして、彼女の頭を撫でた。
 聞こえなくても、声をかけた。

「私ね……、どうしてか分からないけど、記憶が無いんだ。気が付いたらここに立ってた。家族も、友達も、誰も思い出せない……。でね、どこかに移動しようとしたら、見えない壁みたいなのがあって、どこにも行けないんだよ。ひどいよね」

 話しながら、いやな予感がザワザワと心の底に湧いてくる。もしかして……
 いやだ。その先は、考えたくない。不快な思いを振り払うように、言葉を続けた。

「だ、だからね、あなたが来てくれて、ちょっと嬉しかったんだよ。私は、たぶん、しばらくここにいるから、あなたに何があったのかとか、何が苦しいのか、私に話してくれて、いいからね」

 言い終わると、女の子はゆっくり顔を上げた。少し落ち着いたのか、ぼーっと海を眺めてる。

「帰らなきゃ」

 女の子がポツリとそう言った。手でぐしぐしと涙を拭って、買い物袋を掴んで立ち上がる。

「え、もう行っちゃうの? どこに行くの?」

 私も立ち上がる。いやな予感がザワザワと心を満たす。女の子は階段を上り始めた。

「ねえ、もうちょっと居てよ。どこか行く所があるの? 私も連れて行って」

 私も階段を上り、民家のある方に向かう彼女の後ろに付いて歩く。心に浮かんだ予感が怖い。私にそれを思い知らせないで。
 最初に壁にぶつかった場所まで来た。女の子は、やっぱり普通に通り過ぎた。急いで手を伸ばすけど、冷たい壁に阻まれる。
 女の子はどんどん遠ざかってしまう。いやだ、行かないで。これじゃあ、まるで私が……

「ねえ、待って! 私が見えないの? 私の声が聞こえないの?」

 大声で叫んで、見えない壁を何度も叩くけれど、女の子は振り返らないまま歩いていって、遠くに見える茶色の建物の扉を開けて中に入った。
 ちょっと待ってよ……。これじゃあまるで、まるで私が……


「あら、あなた、バクレイね」


 背後で突然声がした。

「ひゃあ!」

 驚いて振り返ったけど、誰もいない。小学生くらいの女の子の澄ましたような声が聞こえた気がしたんだけど……

「下よ、下」

 また声がした。視線を下に向けると、足元に一匹の猫さんがいた。目元と背中が茶色の縞々模様で、鼻先からお腹が真っ白の綺麗な体。私の目をまっすぐ見上げている。

「え、もしかして……」
「まったく、人間っていうのは既成の概念に捕らわれすぎる傾向があるわね」

 声は間違いなく猫さんの所から出ている。耳じゃなく、頭に直接流れてくるような声だ。

「あ、あなたが、喋ってるの?」
「そうよ。あたし以外誰もいないじゃない」
「で、でも」

 猫さんは口を動かしていない。しゃがんで、猫さんの体を見回してみた。何かスピーカーみたいな機械でも付いてるのかと思ったけど、何もない。

「猫が喋るのがそんなにおかしいかしら?」

「そ、それはそうだよ。ありえないよ」
「なぜ? 猫も犬も、鳥や虫だって、みんな喋ってるわよ。それを知らないのは、あなたたち人間だけよ」
「そ、そう、なの? でも、今まで猫さんの声が聞こえたことなんて、なかったような……」

 記憶はないけど、こんなに驚いているんだから、きっとそうなんだろう。

「それは、あなたがバクレイだからよ」
「ばくれい……。さっきも言ってたような気がするけど、何なのそれ?」
「たぶん人間のあなたなら知ってると思うけど、肉体が滅んだ後、宿っていた精神に後悔や未練が残っていると、物質と剥離して、独立して動き出すそうよ」
「え、それって……」

 猫さんが喋ったという衝撃で忘れかけていた、いやな予感がまた胸を埋め尽くす。

「未練の対象によって、種類があるみたいね。一部の場所や建物に執着があれば、地バクレイ。誰か自分以外の他人に執着があれば、人バクレイ。あたし達で言えば猫バクレイかしら。あと珍しいけど物バクレイとか時バクレイなんてのもあるらしいわね」

 やっぱり、そうなんだ。幽霊は私だったんだ。
 手がすり抜けたことも、声が届かなかったことも、そういう事だったんだ。
 私、死んじゃってたんだ。
 涙がぽろぽろと出てきた。幽霊でも涙は出るんだな。

「あら、どうして泣くの?」
「だって、私、死んじゃったんだよ。なんでだろう。どうして死んじゃったんだろう」
「死んじゃった事が悲しいの?」
「そうだよ……。当たり前じゃん」
「そう。やっぱり人間は面白いわね」
「え……?」
「まあ、こんな所でしゃがんでないで、こっちにいらっしゃい。話を聞いてあげるわ。あたし今日機嫌がいいのよ」

 そう言って猫さんは、浜辺に続く階段に向かい、半分程降りた所で振り向いた。さっきまで私と女の子が座っていた所だ。
 私も階段を半分降りて、猫さんの隣に腰を下ろす。女の子には触れなかったけど、こうして地面を歩いたり座ったりは出来るみたいだ。猫さんは私が座るのを見届けてから、口を開けずに話し出した。

「今日はね、あたしのカレに朝ご飯を作ってもらったのよ。カレ、料理がすごく上手なの」
「へえー、猫さんの彼氏さんなの?」
「そうよ。人間なんだけどね。遊びに行くといつも美味しいご飯を作ってくれるのよ。カレは、あたしを愛してるの」

 胸がズキンと痛んだ。なんでだろう。

「あたしもカレのこと好きだから、いつも花を持って行くのよ。季節の花をね」
「そうなんだ。素敵だね」
「あら、話を聞くって言ったのにあたしの話しちゃったわね。どうぞ、好きなだけ話しなさい。何でも聞いてあげるわよ」
「うん……。でも私、記憶がなくて……。自分が誰なのか、何で死んじゃったか、ここがどこなのかも分からないの」

 また、涙が零れた。寂しい。私、世界に独りぼっちだ。

「そう。バクレイにはよくあることらしいわよ。でも、哀しんでても仕方ないじゃない」
「どうして? 悲しいよ! 自分が死んじゃってるんだよ! それも、何かの未練を残して。それが何なのかも分からずに……」
「そうね。でもあたし達猫からしたら、未練なんて引きずってても何の得にもならないと思っちゃうわ。大事なのは今を楽しく過ごすことだけよ」
「それは……何となくわかるけど。でもそんな風に考えられないよ、私、人間だし……。お父さんとお母さんに会いたい。友達とか、誰か大切な人に会いたい。でもみんな、どんな人だったか思い出せないんだよ……」

 涙が溢れる。両手で顔を覆った。自分の体は触れるんだ。

「人間って難しいのね。ま、だからって泣いていても何も解決しないわよ。気楽に気長に待っていれば、そのうち誰か来てくれるんじゃないかしら。その、あなたの会いたい人が」
「そうかなぁ」
「ええ、きっとそうよ。あたしもたまに遊びにきてあげるから、元気を出しなさい」

 猫さんに慰められている自分の状況が、ちょっと面白く思えた。なんだか、おとぎ話みたいだ。少し気持ちが軽くなった。

「ふふ、そうだね。ありがとう猫さん。ところであなたの名前はなんていうの?」
「キルシュテン・ナグルファル・コーエンスタン十三世よ」
「わぁ、すごい名前なんだね。覚えられるかな」
「冗談よ。人間は何故かあたしを『きなこ』って呼ぶわ。なんで大豆を挽いた粉の名前で呼ぶのか理解に苦しむけどね。あなたもそう呼んでいいわよ」
「わかった、きなこ。私は可愛い名前だと思うよ」
「そう、ありがとう。あなたは……そうか、忘れちゃったのよね」
「うん……。だから、きなこの好きなように呼んで」
「あら、いいの? じゃあ――」

 きなこは少し考えながら前足で顔を拭いた後、続けた。

「イワシ、でどうかしら」
「う、それはちょっと……。もっと可愛いのがいいな」
「きなこは可愛いのにイワシはダメなの? 人間ってフクザツね」
「ふふ、ごめんね」
「そうねぇ、じゃあ」

 きなこは私を見つめた。見た目から連想しようとしているのだろうか。そういえば私、どんな顔してるんだろ。

「あなた、髪に何か付けてるわね。桜の花かしら?」
「え……」
- レイヤー -


 そう言われて、きなこの視線の先を触ってみると、髪留めが付いている。外してみると、ホントだ、控えめだけど上品な印象の、小さな桜の花のモチーフが付いたヘアピンだ。

「そうだね。死んじゃった時に付けてたのかな。あっ、そうか!」

 ふと思い立って、立ち上がって全身を触ってみる。他に何か持ってないか。私が誰なのか、分かるような何か。
 着ているものは、白いワンピースの上に紺のジャケット。白いレースの付いた黒のパンプス。ジャケットのポケットを全て探ってみたけど、何も入っていなかった。
 座り直して、桜のヘアピンを眺める。結局、これだけか。でも、とても大切なもののように感じる。心がきゅんとして、あったかくなる。しばらく眺めてから、また髪に付けた。

「あなたの名前、サクラって呼ぶことにするわ」
「うん……。それ、いいね。すごく可愛い」

 私が笑うと、きなこは目を細めた。表情は変わってないのに、私にはきなこが笑ってることが分かった。どうしてだろう。これも、私がバクレイというものだからだろうか。
 猫さんと友達になれた。嬉しい。嬉しい。
 私はいつの間にか死んじゃってて、幽霊になっちゃったみたいだけど、悪い事だけじゃないかもしれない。

「さて、自己紹介も済んだし、サクラも少し元気になったみたいだし、少しこの町を案内してあげようかしら」
「え。うーん、すごく嬉しいけど、私、この周辺から出られないみたいなの。透明な壁があって先に進めなくなっちゃうんだ」
「あら、そうなの。じゃああなた、地バクレイなのかしら」
「そうなのかなぁ」

 その割には、この場所、この景色に、何も思い当たらない。
 知っているような気もしない。忘れているだけかもしれないけれど。

「どの辺りまで動けるの?」

 きなこが聞くので、実際に壁の場所まで一緒に行ってみることにした。まずは、民家のある方。

「ここだ。ここに壁があるの。ひんやりしてて、サラサラな手触りなんだよ」
「ふうん。不思議ね。あたし達猫には、あなたみたいな精神的な存在は見えるんだけど、その壁ってやつは見えないわ」

 きなこはそう言うと、私が触っている壁の方向に鼻を近づけて、クンクンしている。可愛い。
 さっきまでは、怖くて不安で寂しくて、心が張り裂けそうだったけれど、きなこがいてくれるから安心できる。

「もしかしたらその壁は、世界に共通して存在するんじゃなくて、サクラの心にだけ存在するのかもしれないわね」
「え、私の心に壁が?」
「うーん、何て言うのかしら。あたしやサクラや、みんなが共有する世界には存在しないんだけど、サクラが個別に保持する世界にだけ存在する――。レイヤーが違うと言ったら分かり易いかしら?」
「えーと、ごめん、分かりません」
「あたしとサクラは、今この世界に確かに同時に存在しているけれど、存在するレイヤー――層が違うから、サクラはあたしの世界を観測はできるけど、物理的な干渉はできない状態、といった所かしら。サクラのレイヤーに存在するその壁は、サクラだけが干渉でき、サクラだけに影響を及ぼす。反対に、サクラはあたしがいる世界の物理的存在の束縛を受けないはずよ」
「え、え、どういうこと?」
「例えば、そうね」

 きなこは、道路の向こうにある灰色のコンクリートの崖を見つめた。

「そこのコンクリートの壁あるでしょ。サクラなら、壁をすり抜けられるはずよ」
「えっ! そうなの?」

 灰色の崖に駆け寄って、そっと手を伸ばしてみたけれど、手は普通にコンクリートに阻まれた。

「だめみたい」
「そう。きっとあなたの中の常識が邪魔をしてるのね。いえ、サクラの中の世界感が正常に機能していると、前向きに捉えた方がいいかしら」
「えーっと?」

 よく分かっていない私の方を向いて、きなこは口を動かさずに説明してくれた。

「あなたが、物体は重力に引っ張られる、人間は地面の上に立つ、壁は物を通さない、という確固たる認識を持っているから、今そうして道路の上に立ったり、階段に座ることが出来るのよ。物質的な存在ではないあなたが、その常識を持っていなかったら……今どうなっているか想像も出来ないわね。もしかしたら、あなたの精神はバクレイとして形を成すこともなく、散り散りにこの辺に漂っていたかもしれないわ」
「そうなんだ……なんだか怖いね」
「でも、その世界感をうまく発展させてあげれば、あなたは空だって飛ぶことが出来るのよ」
「ホント? すごい!」
「ホントよ、ヒマがあれば、訓練してみるといいわ。自分に重さはない、自分は飛べるはずだって考えるの」
「うん!」

 すごい、すごい。鳥みたいに空を飛べるなんて、バクレイって素敵かも。

「……あ、でも、不思議。このコンクリートは触れるけど、さっきそこの階段に座ってた女の子は触れなかったの」
「あなたがその壁を触っているのだって、実際に触っているんじゃなくて、自分は壁を触っているという感覚を持っているだけなのよ。試しに、目を閉じて壁を触ってごらんなさい」

 言われた通りに目を閉じて、ゆっくり右手を伸ばすと……手応えが無い。
 不思議に思って目を開けると、手が壁を貫通していた。

「きゃあ!」

 驚いて手を抜くと、すんなりと取れた。もう一度、目を開けたまま手を伸ばすと、やっぱり壁に触れる。頭が混乱してくるけれど、きなこが言っている事が何となく理解できた気がする。

「視覚というものは精神の大半を支配しているから、異なるレイヤーの物質だとしても、見えていれば精神的存在であるあなたは影響を受けやすいみたいね」
「何となく分かったよ。でも、女の子を触れなかった時は、ちゃんと目で見ていたし、自分が幽霊だって分かってなかったから当然触れると思ってたのに」
「そうねぇ。もしかしたら、サクラのレイヤーでは自分の意識とは関係なく、こちら側の生命体へのコンタクトは無効化されるのかもしれないわね」
「うーん?」
「ま、全てはあたしの憶測でしかないから、これ以上考えてもしょうがないわね。サクラも、難しいことは気にしなくていいのよ。そのうち慣れるわ」

 きなこは猫なのに色々知っててすごいな。いや、猫なのにっていう考えが、もう人間の思い上がりなのかもしれない。反省しなくては。

「じゃ、反対側も行ってみましょう」
「うん。こっちだよ」

 スーパーがある方の壁にきなこを案内した。

「あうっ。ぶつかっちゃった。ここだよ」

 きなこは少し目を凝らしたあと、さっきみたいに鼻をクンクンさせた。

「やっぱりこっちも、あたしには何も感知できないわ」
「そっか……」
「ふむ。そうね、ちょっと検証してみようかしら」

 きなこはガードレールの方に歩き、道の端に生えてる雑草を数本くわえて引き抜いた。

「え、何をするの?」
「サクラは壁に手を付けたまま、こっちのガードレールから、あっちの道路の端まで歩いてちょうだい」
「うん。分かった」

 言われた通りにガードレールの所まで来て、右手を壁に当てて、ゆっくりとコンクリートの崖まで歩いた。きなこは、くわえた草を少しずつ落としながら私の後を付いてきた。

「何か分かるの?」
「これだけじゃ何とも言えないわね。砂浜には降りられるのかしら?」
「うん。さっき試したけど、やっぱりこの辺りで壁に当たるんだ」
「じゃあ、その場所まで行きましょう」
「うん」
- 見えない壁 -


 砂浜に降りて、スーパーの方の壁に来ると、きなこは今度は落ちていた木の枝をくわえて、また私を歩かせた。砂浜に線を引いているみたいだ。あ、そうか。

「壁の位置を書いてるんだね?」
「そうよ。これで、サクラの壁が直線じゃないことが分かったわ。次はまた、反対側ね」

 きなこは頼もしい。冷静で、賢くて、何だか上品さも感じる。
 民家のある方の砂浜の壁沿いを歩いて、きなこがまた線を引いた。

「ふう。一部だから推測でしかないんだけど、やっぱり壁は円周状になってるみたいね。ドーム型なのか円柱型なのかは分からないけれど」

 きなこは振り向いて、スーパーの方から続く砂浜に付いた足跡を見つめた。きなこの小さい可愛い足跡は点々と続いているけど、私の足跡はどこを探してもなかった。不思議だな、砂を踏んでいるような感覚はあるのに。さっきのコンクリートの壁と同じなんだろうか。

「感覚的に、円の直径は約百二十メートルといったところかしら」
「きなこすごいね。そんなことまで分かるんだ」
「円だとしたら中心もだいたい分かるけど、行ってみる?」
「うん!」

 きなこの後に付いて、階段を上って左に曲がる。

「この辺りね」
「あ、ここは……」

 きなこが立ち止った場所は、私が最初に気がついた場所だった。ガードレールの傍。

「何か思い当たるのかしら?」
「ううん。最初に気がついた時、ここに立ってたって事、くらいかな」
「そう。サクラの心が、この場所に何かしらの未練や執着を残しているのか、この場所が、サクラの魂を縛っているのか……。どちらにせよ、時間をかけた割に大した収穫はなかったわね。ごめんなさいね」
「謝らないでよ、きなこはすごく頑張ってくれて嬉しかったし、色々分かったよ。私一人じゃ何も出来なかったから、すごく助かる!」
「そう。それは良かったわ」

 可愛い猫さんが私のために頑張ってくれたことの喜びは、感謝の言葉だけじゃ足りないから、しゃがんできなこの喉を撫でてあげ――ようとしたけど、やっぱりすり抜けてしまう。

「あ、そうか……」
「あら、撫でようとしてくれたの? うふふ、ありがとう。気持ちだけでも嬉しいわ」
「うう、ごめんね。私、なにもしてあげられない」
「いいのよ。あたしも色々考えられて楽しかったわ」

 きなこは私の方を向いて目を細めたあと、大きく伸びをした。

「じゃあ、今日はそろそろ行くわ。また来るからね、サクラ」
「えっ、もう行っちゃうの?」

 急に心細くなる。もちろん、ずっと傍にいてもらう訳にもいかないのは分かるけど、唯一の話し相手で理解者のきなこがいなくなるのは、寂しいし、不安だ。

「きなこがいないと、私、どうしたらいいか分からないよ……」
「大丈夫よ。あなたの時間は世界が滅びるまで有るんだから、のんびり気長に、楽しくやりなさい」
「うん……。でもあの、眠る時とか、その、トイレとか、どうしたらいいかな」
「あなたは精神的存在だから、必要ないはずよ。眠くなることもないんじゃないかしら。その点はあたしには羨ましいわ。実はさっきから眠くてしょうがないのよ」

 きなこはそう言って、大きくあくびをした。可愛い。

「そっか。じゃあ無理は言えないね。私一人でも、色々試したり考えたりしてみるよ」
「そうね。でも、難しく考え込んだらだめよ」
「うん。ありがとうきなこ。今日は話しかけてくれて、すごく嬉しかったよ」

 きなこは初めて口を開けて、「んにゃー」と一声鳴いた後、民家がある方にゆっくりと歩いて行った。私は、きなこが見えなくなるまで見送った。

「さてと」

 きなこが遠くの茂みに入っていくのを見届けてから、教えてもらった円の中心点に帰ってきた。
 私の未練、執着。それとも、私の魂を縛る場所。
 よく見ると、この辺りのガードレールだけ新しいのか、他の場所よりも白くて綺麗。
 何なんだろう。私はここで死んだんだろうか。この場所なら、やっぱり交通事故?
 そっか、そういえば私、死んでるのか。もうこれから、成長したり、学校に行ったり、友達と遊んだり、お母さんに甘えたり、好きな人に会ったり、できないんだな。
 きなこに、気楽にやりなさいと言われたけど、やっぱり考えてしまう。寂しい。悲しい。
 一人になって俯いていると、視界の上から赤いものがヒラヒラと落ちてきた。私の足元でハラリと止まる。
 モミジの葉っぱだ。崖の上から落ちたんだろう。しゃがんで、近くで見る。綺麗だな。
 指でつまんで拾い上げようとしたけど、やっぱりだめだった。地面に触る感触はあるのに、モミジの葉っぱはホログラムみたいに指をすり抜ける。確かにここにあるのに、でも存在していないみたいな、不思議な感じ。きなこの言ってた、レイヤーの違い、というやつだろうか。
 今は何月なんだろう。モミジは真っ赤に染まってる。
 綺麗だけど、でも何か、悲しいような寂しいような、すごく愛おしいような、複雑な感情が胸に溢れてくる。
 私にとって、何か大切なこと?
 モミジ。楓。落ち葉。紅葉。赤。枯れ葉。秋。
 分からない。
 髪に付けている桜のヘアピンを外して、見てみる。
 これもすごく、すごく大切なもの。
 ヘアピン。桜。白。ピンク。花。春。
 涙が溢れてくる。心がズキズキと痛い。
 だめだ。何も思い出せないくせに、涙ばかりが溢れてきてしまう。
 立ち上がって、ヘアピンをまた付けて、階段の方に歩いて、半分下りた所に座る。
 もう太陽は傾いて、綺麗な夕焼けになっている。
 夕焼け。胸が切なくなって、涙が零れる。
 はあ、何を見ても辛いよ。こんなだから私、幽霊になっちゃったんだろうな。
 よし、何か違うこと考えよう。そうだ、今日のきなことのやりとりを思い返してみよう。
 きなこ、可愛い声だったな。ふわふわな毛並み、撫でたいなぁ。

 目を閉じてきなこの事を考えてたいら、夜になっていた。
 きなこの言う通り眠くならないし、お腹も空かないし、寒さも感じないし、トイレにも、行かなくていいみたいだ。
 それにしても、幽霊ってヒマなんだな。他の幽霊たちは何をして過ごしてるんだろうか。幽霊同士は会話とか出来るのかな。会えたら、仲良くなれるかな。
 空には、たくさんの星が光っている。綺麗。

「北極星、カシオペア、ベガ、デネブ、アルタイル」

 思い出は、全然残ってないのに、こういう知識はなんで覚えてるんだろう。

「あっ」

 空に白い線が流れて消えた。流れ星だ。

 なんだか、思い出の片鱗が見えそうで見えない。波の音。流れ星。寂しい。切ない。離れたくない。理由は分からないまま、そんな思いばかりが胸に募ってくる。また泣けてしまう。
 だめだめ、じっとしてると色々考えちゃってだめだ。立ち上がって階段を駆け下りて、砂浜に立つ。目を閉じて両手を広げ、宙に浮かぶイメージを心に描く。

「私に重さはない! 私は飛べるはず。飛べるはず!」

 うっすらと目を開けてみたけれど、足はしっかり地面を踏みしめていた。
 まだ、きなこの言ってた世界感は使いこなせない。
 その日の夜は、ずっと空を飛ぶ練習をして過ごした。

   *
- どうして -


 それから私は、ずーっと、ずーっと、透明な壁に仕切られたこの空間で過ごしている。結局、空は飛べてないけど、目を閉じていればコンクリートの崖をすり抜けられることは分かった。中に入ってる時は怖くて目を開けたことがないけれど。
 壁に囲まれたこの空間は、狭いし、寂しいし、退屈だけど、たまにきなこがやってきて、私にも季節の花を届けてくれたり、話し相手になってくれたり、友達の猫さんを紹介してくれたりもした。
 お母さんとか、お父さんとか、どんな人か覚えてないけど、元気だろうか。私には兄弟とか姉妹とかいるのだろうか。もう、季節は三回くらい巡ったけど、私の知っている人は誰も来てくれていない。

 冬は、ここは雪国ではないみたいで、雪がたまにちらほらと降る程度だった。寒さは感じないし雪は綺麗だけど、灰色の空とか、暗い海とかを見てると寂しくなる。冬は好きじゃないな。

 春は大好き。いつも寂しいこの道も、人通りが多くなる。賑やかになる。みんなどこに向かうのか初めは不思議だったけれど、人の流れを目で追っていくと、民家のある方の奥、崖になっている所の上に、大きな桜の木を見つけた。遠くてよくは見えないけれど、きなこがいない時は透明な壁の所まで行って、ずっと桜を見ていた。夜になるとオレンジ色の優しい光りが桜を照らして、星もきらきら光って、すごく綺麗だ。ずっと見ていても飽きない。
 花見に来たほとんどの人が、最初の日に女の子が帰っていった茶色の建物に入っていくのが分かった。何かのお店だろうか。行ってみたいな。

 夏は、海水浴に来る人で混雑するかと思っていたけれど、そうでもなかった。ヨットみたいなのに乗る人が何人か来るくらい。砂浜も海も綺麗だけど、どうしてだろう。もしかしたら、海の中は遊泳に向かないような場所なのかもしれない。
 夏の綺麗な空とか雲とか、きらきら輝く海を眺めるのは楽しい。暑さを感じないから、ずっと太陽の下にいても平気だし。
 靴を脱いで、海に足まで入ったこともあった。入っている時は、水に浸かっているような感覚はあるのに、出るとまったく濡れてない。レイヤーの違いは何となく理解はしていたけど、やっぱり不思議に感じてしまう。

 秋も、好き。コンクリートの崖の上のモミジが綺麗だし、空気が澄んでいるのを感じる。きなこが持ってきてくれるコスモスも可愛くて綺麗。夕焼けは、四季の中で秋が一番綺麗に感じる。あと、星空も。
 この季節になると名前を知らない鳥がよく浜辺を歩くから、声をかけてみたことがあったけれど、意思の疎通は出来なかった。きなこは犬も鳥も喋るって言ってたけど、今の所言葉がわかるのは猫さんだけだ。

 最初の日に見た、泣いていた女の子は、毎日のようにここの道を通っていた。近所に住んでるみたいだから、当然か。そうxそう、いつだったか忘れたけど、きなこがあの女の子の名前を教えてくれた。春ちゃんというらしい。優しくて可愛い名前だ。
 春ちゃんは、一人の時は寂しそうな顔をしていた。いつも階段に座って、三十分くらい海を眺めていった。海を見ながら、彼女はたまに涙を零していた。
 白髪の綺麗な、姿勢の良いおじいさんと歩いていることもあった。春ちゃんのおじいさんだろうか、カッコイイな。
 彼女はまた、同い年くらいに見える女の子と歩いている時もあった。誰かと一緒にいる時は、彼女はとても明るく元気で、きらきらと笑う。でも一人の時はすごく悲しそう。無理してるのだろうか。
 春ちゃんは高校生っぽい制服を着ていることが多かったけれど、三回目の桜の季節が来たら、私服で歩くようになっていた。高校を卒業して、大学にでも入学したのだろうか。彼女は今でも、ここの階段に座って静かに泣くことがある。私はいつも隣に座るけど、何もしてあげられないのがもどかしい。

   *

 私がバクレイになってから三回目の桜が散って、初夏の緑色の風が漂い始めた。
 いつものように階段に座って海を眺めていたら、スーパーのある方の道から、一人の男の人が歩いて来るのに気付いた。初めて通る人だ。高校生か、大学生くらいに見える。
 立ち上がり、階段を上って、よく見てみる。この人も、悲しそうな表情をしている。私の壁を越えて、私の空間に入ってきて、カーブ地点で足を止めた。
 心臓がドクンと動くのを感じた。
 あれ、私、この人を知ってる?
 秋のそよ風のような涼しげな横顔。優しい瞳。静かな口元。黒くまっすぐな髪。
 何だろう。胸が痛い。心臓の鼓動が苦しい。
 来てくれたのだろうか。ずっと待ってた人が。でも、思い出せない。
 男の人はしばらく道路の真ん中で立ち止ったままだったけれど、やがてゆっくり歩いてガードレールの上に腰かけ、辺りの景色をぼんやりと見回し始めた。何か、探しているのだろうか。
 傍に行って顔をよく見ていたら、ゆっくりと視線を動かしてきた男の人と、目があった。胸の鼓動が高鳴る。男の人はぼんやりと私を見ている。え、私が、見えてるの?

「あなた、誰?」

 声を出して聞いてみたけど、男の人は何の反応もしない。よく見ると、この人の視線は私をすり抜けて、その奥に向かっていた。振り向いて見てみたら、崖の上の楓が、緑色の葉っぱをそよそよと風に揺らしていた。

「楓?」

 後ろで男の人が立ち上がる気配がした。慌てて振り返る。まだ何も分かってない。まだ帰らないで……
 男の人は、またゆっくり歩いて階段を下り、中ほどで腰を下ろした。私も付いて行って、彼の右隣りに座る。何だか、すごく懐かしい気がする。胸がぎゅう、と痛くなってくる。

「ねえ、あなたは、ここに何をしに来たの?」
「……」
「もしかして、私の知り合い?」
「……」

 彼は何も言わずに、ぼんやりと海を見つめている。
 はあ、今きなこがいてくれたらな。何とかして私の存在を伝えてもらえるかもしれないのに。そう思ってちょっと想像してみたけれど、やっぱり無理か。きなこは生きてる人には言葉を伝えられないみたいだし、傍でにゃーにゃー鳴いてもらっても、分かってくれないだろうな。
 仕方ないので、彼と一緒に海を眺めていた。彼はなかなか帰らなかった。時折、深くため息をついたり、手で頭を抱えたり、涙を一粒零したりもしていた。その度に、私の胸は締め付けられていた。ねえ、あなたに、何があったの。私に、教えて。

 太陽が傾いて、夕日に変わり始めてきた。やがて、彼は小さく口を開いてぽつりと呟いた。

「ハル……」
「えっ?」

 心臓がまた、ドクンと動いた。
 鼓動が、水の波紋みたいに、私の空間に広がったような気がした。
 春って言ったの?
 春。ハル。はる。
 「貼る」とか「張る」の発音じゃないから、やっぱり季節の春だろうか。もしかして、人の名前?
 後ろで微かに足音がした。振り返ると、階段の上の道路に春ちゃんが立っていた。彼女は不思議そうにこっちを見ている。私は見えないはずだから、彼を見ているのだろうか。彼に視線を戻すと、気付いていないのか、気にしていないのか、ずっと海を見ている。
 もしかして、あなたが言った「春」って、春ちゃんのこと?
 そう考えたら、胸がちくちくと痛くなってきた。どうしてだろう。すごくいやな気持ちだ。
 男の人は彼女の知り合いかとも思ったけれど、春ちゃんは声もかけずにじっと見ているだけだから、違うようだ。やがて彼女は、心配そうな目を彼に向けながら、民家のある方に歩いて行った。
 春ちゃんが見えなくなった頃、彼がゆっくり立ち上がった。階段を上り、スーパーの方の道をゆっくり歩いて行く。帰っちゃうのか。結局、何も分からなかったな。
 私も階段を上り、彼を見送る。ねえ、どこに帰るの。名前は何ていうの。今日は何を思っていたの。
 よく分からないけれど、すごく大切な人のような気がする。思い出はないけれど、体と心が彼を覚えているような、そんな感じ。また、来てくれるかな。彼の後ろ姿が小さくなってきた。

「あ――」

 急に寂しさが押し寄せる。待って。行かないで。私を置いて行かないで。涙が溢れてきた。どうして、何も思い出せないのに、こんなに辛いの。どうして。
- 電車 -


 彼の姿が見えなくなりそうになったその時、私の背中に何かが当たった。それと同時に、世界が後ろに流れる。

「わっ!」

 下を見ると、足を動かしていないのに、道路が私の後ろの方に滑って行く。――違う、背中の何かに押されて、私が前に進んでいるんだ。

「な、なにこれ!」

 背中を押す何かを確かめようと後ろに手を伸ばそうとしたら、肘が先に当たった。大きい。次に手が当たった。ひんやりして、さらさらしている。

「壁だ!」

 振り向いても、何も見えない。でも確かに壁がある。私を閉じ込め続けていた、あの透明な壁。

「何で? どうなってるの?」

 壁はどんどん私を押していく。スーパーのある道の方へ。私の靴は何の抵抗もなく滑って行く。
 もうすぐ、スーパー側の壁の所だ。このまま行くとどうなってしまうのか。壁に挟まれて潰されてしまうのだろうか。イヤだ、そんなの、イヤだ!

「誰かっ――きなこ、助けて! やだ、いやあああ!」

 目を閉じて両腕で顔を覆った。恐怖で心臓がバクバクしている。


 そろそろかと思ったけれど、何ともない。
 背中の壁の感触はまだある。心臓はまだドキドキしている。恐る恐る目を開けてみたら、スーパー側の壁際の見なれた景色が、私の後ろに見えた。

「……あれ?」

 振り返ると、いつものカーブやガードレールが少し遠くに見える。今まで見たことない距離だ。
 前を向くと、いつもよりスーパーが近くに見える。こっちの透明な壁、なくなったんだろうか。私、外に出られたのかな。
 前の方に、さっきの男の人の後姿が見えた。背中の壁に気付いた時から距離が変わってないように感じる。あれ、これって、もしかして……
 近くにきなこがいないか探してみた。声を出して呼んでもみた。

「きなこ! きなこ! いないの?」

 何の反応もない。きなこの意見を聞きたいのに。
 今も背中の壁は私を押し続けている。遠くの彼と一定の距離を保って。
 これって、もしかして、壁の中心点が変わった?
 スーパーが隣に見えてきた。ちょっと古い感じのする、寂しいお店だ。照明も心なしか暗い気がする。
 とにかく、このまま押され続けていてもしょうがない。私も進んでみようか。
 見えない壁があるかもしれないので、手を前に出して歩き出す。背中に当たっていた壁が離れたのが分かる。


 そのまましばらく歩いてみたけれど、前に付き出した手が見えない壁に当たることはなかった。

「うん、たぶん大丈夫」

 そういうことにして、手をおろした。きっと、私の壁の中心点は、どうしてか分からないけど、まだ随分前を歩く彼になってしまったんだろう。
 きなこの言葉を思い出すと、地バクレイは、その場所に未練や執着がある、もしくは、その場所が魂を縛っている、だったか。それに当てはめて考えると、私が、彼に未練や執着がある、もしくは、彼が――私の魂を、縛っている。
 彼はやっぱり、私にとってとても大事な人なのだろう。私を、地バクレイから人バクレイに変えてしまうほどの、大きな存在。誰なんだろう。お父さんっていう年齢には見えないし、お兄ちゃんかな、友達かな、それとも、恋人、なのかな。さっき壁に押された時とは違う、あったかいドキドキが胸に満ちてきた。
 ちょっと小走りになって、彼との距離を縮め、彼の横に並んでみた。頬の辺りが熱くなってくるのを感じる。少し緊張しながら、左を歩く彼の顔を覗いてみた。
 ――彼は眉を寄せて、赤い目をして、世界の終わりみたいに悲しい顔をしていた。
 心臓を強く掴まれたみたいに、胸の辺りが苦しくなる。足が止まってしまう。
 彼が、私の大切な人、例えば、恋人とかであったなら、彼にとっても私は大切な存在だったのだろうか。私が、死んじゃって、悲しい思いをさせているのだろうか。
 涙が出てきた。胸が苦しくて、心臓の辺りの服を掴んだ。

「ごめん。ごめんね……」

 でも、まだ分からない。私の思い込みかもしれないし、彼は偶然、あのカーブに来ただけなのかもしれない。でもそれなら、私はどうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこの人が私の空間の中心点になったんだろう。付いて行けば、分かるだろうか。どの道、この人を中心に壁が移動するなら、付いて行くしかない。

 彼とは少し距離が空いてしまったけれど、今度は同じ速度で後ろを付いて行った。
 しばらくして、小さな駅が見えてきた。彼はポケットからカードを出し、改札にかざして駅の中に入っていった。電車で帰るのか。私も、切符買わなきゃ。あ、でもお金とかないし、どうしたらいいんだろう。幽霊だから、タダで乗っちゃってもいいのかな。
 改札の前でまごまごしていたら、彼の待つホームに電車が到着して、彼が中に乗り込んだ。
 もう、行くしかない。

「ごめんなさい!」

 一応駅員さんに頭を下げてから、目を瞑って、改札のゲートをすり抜けた。目を開けると、電車のドアが閉まり始めている所だった。

「あっ、待って! 乗ります!」

 ホームまで走ったけど、間に合わなかった。二両しかない電車はもう走り始めてしまった。

「え、うそ……。これ、どうなるの?」

 しばらく茫然と電車を見送っていたら、突然後ろから何かに叩き飛ばされた。

「きゃあっ」

 壁が来ちゃったんだ。バランスを崩して、ホームの上に四つん這いになった。すぐにまた、後ろから衝撃が来た。

「わあああっ」

 壁はどんどんスピードを上げて、ホームの上の私を押し進む。目の前に、ホームの終端に立っている柵が近付いてきた。

「待って、待って!」

 ぐっと目を瞑る。すると今度は突然足元の地面がなくなったのを感じた。目を開けると、二メートルくらいの高さに浮いていた。駅のホームの足場が終わったんだ。重力にひっぱられて落ちていく。
 下を向いていたら、視界の上のほうから電信柱が高速でこちらに向かってきた。

「きゃあ!」

 ギリギリのところで目を閉じた。電信柱はすごい音をたてながら、私を通り過ぎて行った。
 もうこれは、ずっと目を閉じていたほうがいいかもしれない。

「私は幽霊。私に重さはない。私は幽霊。私はなんでもすり抜ける!」

 何度もそう叫びながら、目をぎゅっと瞑って、両手で耳を塞いで、全身を透明な壁に預けた。
 前を走る電車の音と、時折何かが高速で通り過ぎる音と、吹きつける風を感じながら必死で耐えた。心臓は破裂しそうなほどドキドキしている。私は死んでいるのに、どうしてこんなに心臓が動くんだろう。三年間も平穏だったのに、もう、何なのよ、今日は。


 やがて電車の音がゆっくりになって、風が穏やかになり、私を押し続けていた壁の圧力がなくなったのを感じた。

「はあ、はあ……、着いたの?」

 耳を塞いだ手を離し、ゆっくりと目を開ける。
 さっきとは違う駅のホームが見えた。私の体は宙に浮いていた。

「きゃ!」

 気付いた瞬間、重力が私を引っ張る。幸い一メートルくらいの高度だったので、大した衝撃はなく着地できた。
 茫然としていると、電車の発車を知らせる音楽が流れ始めた。

「えっ、ちょっと待って!」

 急いでホームを見渡し、彼が降りていないことを確認してから、電車に飛び乗った。
 私が乗った車両には彼はいなかった。乗ってる人が少ないから探しやすい。隣の車両に移動したら――いた、彼だ。
 空いている右隣の座席に座り、大きく息を吐き出した。

「はあ、怖かったよう……」

 疲れない体のはずなのに、全身がクタクタになっているように感じる。もう電車に乗る時に躊躇するのはやめよう。

- 記憶の桜 -


 やがて彼は電車を降り、別の電車に乗り換え、またしばらくして電車を降りた。私はもう同じ目に逢わないよう、彼から離れないようにずっと近くにいた。彼は終始、寂しげな顔をしていた。
 彼が改札にカードをかざし駅を出たのは、もう空が真っ暗になっている頃だった。彼は駅の横にあるコンビニに入って、ペットボトルのお茶とカップラーメンを買った。

「それ、夕ご飯にするつもり? もっと体にいいもの食べないとだめだよ」

 忠告したけど聞こえるはずもない。頬を膨らませて、夜道を進む彼の後ろを歩いた。
 それにしても、ここはどこだろう。彼が私にとって大事な人なら、私の知っている場所に来るかとも思ったけど、さっき降りた駅の名前も、この辺りの風景も記憶にない。ここも私の知らない場所なのだろうか。それとも本当に全部忘れてしまったのだろうか。
 彼は、あるアパートの敷地に入り、階段を登った。廊下の片面にだけ部屋があるタイプの小さなアパートだ。廊下の手すりの向こうは、冷たい夜の空気が広がっている。空には三日月が鋭く浮かんでいた。
 彼は「201」と書いてある扉を鍵で開けて、中に入った。少し躊躇ったけど、私もお邪魔させてもらうことにした。不法侵入かな。でも、幽霊なんだから、いいよね。

「おじゃましまーす……」

 彼が電気のスイッチを付けると、天井の照明が瞬いて部屋が明るくなる。
 少し散らかっている部屋を見渡して、私は息が止まった。

 壁にいくつもの絵が飾ってある。
 桜の揺れる風景の水彩画だ。
 私は、これを知っている。

 駆け寄って、その中の一枚を凝視した。
 その瞬間、頭の中にいくつもの風景が広がった。
 高校の校舎の裏、桜の木が一本だけ立つ、見晴らしの良い丘。彼が待つ、特別な場所。
 いつも隣で絵を描いてた。初めて話せた春の終わり。
 夏の夜に一緒に見た流れ星。秋の夕焼けの中、私を描く彼の真剣な表情。
 そうか。そうか。そうだったのか。
 私、どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なこと。
 どんどん思い出してくる。
 私の名前、彼の名前。私の夢。彼との約束。
 彼がくれた、桜のヘアピン。
 涙がぼろぼろと零れてくる。
 どうして忘れてたんだろう。こんなに想いが溢れていたのに。
 お父さんが運転する車。助手席で楽しそうに笑うお母さん。あまり楽しめない私。
 突然飛び出してきたトラック。
 二人の悲鳴。鉄を引き裂くような音。海。砂浜――

「うっ……」

 頭が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足も、体も、心も、全部痛い。

「寒い、怖い、寂しい……ううぅ」

 床にしゃがみ込むと、手を洗っていたらしい彼が部屋に戻ってきた。
 振り向いて、彼の顔を見る。
 私の大好きな、優しい人。

「あ……」

 いつの間にか置いてきてしまった、大切な人。

「ア、アキ……」

 名前を呼んでも、アキは灰のような無表情で、ヤカンに水を入れている。
 彼はもう、私に微笑んでくれない。
 お父さんも、お母さんも、死んじゃってた。

「アキ……、アキぃ……」

 私の名前を呼んでよ。優しく笑ってよ。また一緒に絵を描こうよ。
 涙が止まらない。ここにはきなこもいない。アキは私を見ようともしない。

「うぅ、あう……わああああぁ」

 声をあげて泣いた。何時間も、何時間も、泣き続けた。
 哀しみも、孤独も、愛しさも、後悔も、綺麗な思い出も、今の笑わないアキも、全部泣けた。
 アキが、私の絵を飾っている意味も、海辺で泣いていた理由も、全部分かって、余計泣いた。

 夜が明けて、外がうっすら明るくなってきた頃、ようやく落ち着いてきた。
 布団で眠るアキを見ると、彼の頬を涙が伝っていた。
 ねえ、どんな夢を見てるの? その涙は、私のためなの?
 近くに座って、手で涙の跡を拭おうとしたけれど、私の指はアキの頬をすり抜けるだけだ。
 また、涙が止まらなくなりそうになったので、目を閉じてアキの部屋をすり抜け、廊下に出た。危ないけど、手すりをまたいで腰をかけて、そのまま、朝日がゆっくり昇るのをぼんやりと眺めていた。

   *

 アキは、大学生になっていた。学校はアパートから歩いて行ける距離みたいだ。平日は私も、アキと一緒に学校に行った。アキは友達といる時は元気に振舞っていたけど、一人になるといつも寂しそうな顔をしている。
 お昼は学食でちゃんとしたものを食べてるみたいだけど、朝とか夜ご飯は、食べなかったり、質素なものばかりで、心配になる。
 夜になってアキが眠ると、私はいつも廊下の手すりに座って朝を待った。前にきなこが羨ましがってたけど、眠くならないってのは案外辛い。特に夜は、色んな事を考えてしまう。移動できる範囲を散策したりもしてみたけど、話し相手になってくれるような猫さんは見つけられなかった。何も言えずにこっちに来てしまったけれど、きなこ、心配してないかな。

 海辺にいたころは曜日の感覚がまったくなかったけど、アキといるとその感覚が戻ってくる。五日間学校に行って、土曜日になった。アキは朝起きて準備すると、駅に向かった。どこに行くのかと思っていたら、一週間前に乗ったのと同じ電車で、交通事故があったあの海辺のカーブまで来た。
 またここに来たんだ。もしかしてこれも、私が死んじゃったせいなのかもと思うと、胸がズキンと痛んだ。
 アキはまた、階段に座ってぼんやりと海を眺めた。私も右に座って、海を見る。

「そうだアキ、絵は、まだ描いてるの?」
「……」
「描いてない、よね。……楽しくなくなっちゃった?」
「……」
「約束、したじゃん……。大人になってもアキが絵を描いてたら、私の個展で飾ってあげるって……」

 当然だけど、アキは何も言わない。隣に座っているのに、何だかすごく遠くに感じてしまう。
 髪に付けてる桜のヘアピンを外して見てみる。アキが選んで、私に似合うって言ってくれた、大切な大切なプレゼント。また涙が出てきた。もらった時、あんなに嬉しかったのに。今は、見ても悲しくなるだけだ。
 アキの方を見たら、彼も左手を額に当てて、静かに泣いていた。
 大切な、大好きな人が泣いてる。何とかしてあげたいのに、私は何もできない。
 神様、どうしたらいいの。このままじゃ、二人とも辛いだけだよ。

 途方に暮れていると、後ろで人の気配がした。振り返ると、自分が立っていた。

「えっ!」

 驚いた。立っているのは春ちゃんだ。自分がそこにいるのかと思った。魂である自分が抜けて、私の体が別の意思を持って動いているのかと……
 そうか、最初に見かけた時、見たことある人だと思ってたら、いつも鏡で見ていた自分にそっくりだったのか。それにしても、怖くなるくらいに似ている。名前も、「ハル」と「春」で似てるし。
 ほんの少し、いやな気持ちが心に湧き起こる。アキが、私にそっくりな春ちゃんを見たらどう思うだろう。私の事なんて忘れて、彼女を好きになってしまうんじゃないだろうか。そんなのイヤだ。心がズキズキと痛くなる。
 アキを見ると、また気付いていないのか、気にしていないのか、後ろを振り返ろうともしない。少しほっとしてしまう自分が、またイヤになる。
 彼女は、しばらく静かにアキを見つめた後、民家のある方へ歩いて行った。
 その日は、きなこには会えなかった。夕方くらいにアキはアパートに帰った。

   *
- 神様、助けてよ -


 アキは毎週土曜日に、あの海に行くようになった。ノートとペンを持って行って、何かを書くようにもなっていた。ちらりと見てみたけど、絵じゃなくて言葉みたいだ。読んでみたかったけど、我慢した。幽霊で気付かれないからって、勝手に見るのは良くないと思って。
 ある日、いつものようにアキの隣で海を見ていると、後ろから懐かしい声に呼ばれた。

「あら、サクラじゃない?」

 振り返ると、階段の上で茶色の縞模様の猫さんが私を見ていた。

「きなこ! 会いたかったよぉ!」
「やっぱりサクラね。随分久しぶりな気がするわ。どうしてたの?」
「色々あったんだよ。ずっと話したかったの」

 階段の一番上に座って、きなこに全部話した。壁の中心点が変わったことも、電車に引きずられて苦労したことも、記憶が戻ったことも、彼との思い出も、想いを告げられなかった事も。

「そう、サクラにとって大切な人なのね。だから人バクレイになったのかしら」
「うん、たぶんそうなんだと思う」

 きなこと二人で、前に座るアキを見つめた。海も空も綺麗な青で爽やかな景色なのに、アキの周りだけ少し冷たい悲しげな風が漂っているように感じる。
 彼が私を想ってくれるのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、私のせいで彼が苦しむなんて、そんなのはイヤだ。でも、彼に忘れられるのは、もっとイヤだ。どうすればいいんだろう。

「そういえばあなた、本当の名前はハルっていうのね。私が知ってる人間と同じ音だわ」
「そう! きなこが教えてくれた春ちゃんと同じだし、見た目もすごく似てるじゃん。びっくりしちゃったよ。私たちがそっくりだって、どうして教えてくれなかったの?」
「あら、そうなの。人間の顔なんて、どれも同じに見えちゃうわ。あなたも、あたしたち猫の違いなんて、見分けられないんじゃないかしら」
「う、確かに。そういうものなのか……」

 そんな会話をしていたら、遠くのスーパーの方から女の子が歩いてくるのが見えた。

「あ、春ちゃん……」
「あら、噂をすれば何とやら、ね」

 心に、いやな感情がザワザワと湧き上がってくる。
 彼女とアキを会わせたくない。きなこがここにいると、彼女がきなこを構うかもしれない。そうすれば、アキもさすがに気付いて振り向いてしまうかもしれない。

「……きなこ、ごめん。ホントはもっと話してたいけど、今日は帰ってもらってもいいかな」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「うん、ちょっと……」

 言いにくそうにしている私を見て、きなこは立ち上がった。

「分かったわ。今日はさよならね。また会いましょう」
「うん……ごめんね」

 きなこは音を立てずに、民家のある方へ歩いて行った。ごめん、きなこ……。
 しばらくして、春ちゃんが階段の所まで来た。彼女はまた足を止めて、階段に座るアキを見つめている。私が地バクレイだった時は、彼女が毎日ここに座っているのを見ていたけど、最近もそうしてるのだろうか。ここにアキが座るようになって、何を思ってるかな。
 彼女はそーっと前に出て、階段の一段目に座る私の横で、アキの手元を覗こうとした。ノートが気になるのかもしれない。
 お願い、声をかけないで。このまま歩き去って行って。
 心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら様子を見ていたら、彼女はアキを気にしながらも、民家のある方へ歩いて行った。
 微かな安心と同時に、自己嫌悪を感じた。アキは、私だけを見ていて欲しい、私だけを想っていて欲しい、そんな独占欲を持つのは、私みたいな存在には許されないのかもしれない。アキを縛り付けて、苦しめているのは、私なのかもしれない。

   *

 崖の上で揺れる楓が、真っ赤に色付いた。
 アキが、毎週土曜日にこの海辺に来るようになってから、もう半年近くが経った。私は相変わらずアキに付いて行き、春ちゃんは毎回この道を通って、アキを気にしていった。日を重ねる毎に、彼女が足を止める時間が長くなっていってるような気がする。
 今日もアキと並んで海を見ていると、春ちゃんが後ろに来た。なんだか、いつもよりちょっとお洒落をしているみたいで、可愛い。アキの隣に座ってそちらを眺めていると、彼女は手を胸に当てて、少し深呼吸をした。
 そして、ゆっくりと、足音を立てずにこちらに歩いてくる。もしかして……。
 私は立ち上がって階段を数段上って、彼女に向かって両手を横に広げた。アキを守るように。アキを、独り占めするみたいに。

「待って、あなたがアキに会ったら、アキを驚かせちゃうよ。辛い思いをさせちゃうかもしれないの。だから、あなたはアキに会わないで。お願い」

 彼女は私の声を聞かず、私をすり抜けて、そのまま、アキのノートを覗きこんだ。私だって見てないのに。ずるいよ。心に不安と嫉妬が渦巻く。

「へえー、歌詞でも書いてるの?」
「うわぁ!」

 アキは大げさに驚いて、階段から転んで砂浜に落ちた。
 アキがこっちを見上げて、さらに驚いているのが分かった。胸がぎゅうって締め付けられるみたいに痛い。アキが見てるのは私じゃなくて、私の横にいる、私に似た、別の女の子。その子を見て驚いたのは、やっぱり、私にそっくりだから?
 涙が零れてきた。ついに、二人が出会ってしまった。
 二人はいくつか言葉を交わした後、春ちゃんが具合悪そうなアキの手を取って民家のある方へ連れて行った。少し距離を置いて私も付いて行くと、あの茶色の建物に入った。ずっと気になっていたこの建物は、喫茶店だったんだ。
 扉が閉まった後、私も目を閉じて、中に入る。扉に背中を預けて、二人を眺めた。白髪のおじいさんがコーヒーを持ってきて、アキが飲んでいる。春ちゃんがアキに何か話している。寂しい。寂しい。アキ、私から離れていかないで。
 春ちゃんが微笑んだのが見えた。何の話をしてるんだろう。

「秋くん。私は、君が好きです」

 ここからでも、彼女の言葉が鮮明に聞こえた。アキは驚いているのか固まってる。胸がさらに苦しくなる。
 アキを見つめる彼女を見て、何となくそうじゃないかと思っていたけど、こんなに早く言うなんて。何カ月も迷って、言いたくて言えなくて、結局死んじゃって言えなくなった私が、バカみたいだ。
 涙とため息しか出ない。心は雨が降り続けてるみたいに、悲しさでいっぱい。
 目を閉じて、お店の外に出た。今日は空には厚い雲がかかっているけど、ぼんやりと赤く染まっていて、夕焼けになっているのが分かる。扉の前の段差に座って空を眺めていたら、お店の中からピアノの音が聞こえてきた。澄んだハミングも聞こえる。春ちゃんが歌ってるのだろうか。優しくて、綺麗な旋律だ。少しだけ、心の雨が弱まるのを感じた。

 暫くしたら、アキと春ちゃんがお店から出てきて、カーブのある方に歩き出した。少し距離を置いて、とぼとぼと私も付いて行く。
 彼女は、楽しそうにアキに色々話している。アキは時々相槌を打ちながら静かに聞いている。二人は、付き合うんだろうか。私が言うのも変な感じだけど、春ちゃんは可愛いし、ずっと泣いてた彼女には、幸せになって欲しい。アキは優しいから、きっと彼女を幸せにしてあげるだろう。
 アキが、私を忘れたら、私の壁はなくなるだろうか。また、あのカーブの地バクレイに戻るんだろうか。こんなに辛いなら、その方がいいかな。それとも、私も、アキを忘れないと、ダメかな。
 地面にぽろぽろ零れて、跡も残さずに消える涙を見つめながら、そんなことを考えて歩いていたら、突然アキのどなり声が聞こえた。春ちゃんも何か言ってる。喧嘩?

「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」

 駆けつけると、アキが頭を抱えながら叫んでいた。

「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」

 私の全身が、凍りつくように感じた。
 春ちゃんが、泣きながら民家の方に走って行った。
 アキが地面にうずくまって、大声で泣き出した。

 私はここで死んだ。そのことが、大好きなアキも、アキを好きだという春ちゃんも、悲しませている。

 神様、助けてよ。このままじゃ誰も、幸せになれないよ。

- 君の名はライラック -


*** Mr. Autumn ***

 何時間泣いていたか分からない。一生こうしているわけにもいかないので、心が落ち着いてきた頃に、とぼとぼと駅へ歩いたが、辺境の駅はとっくに終電を終えており、僕は朝まで駅前のベンチで眠った。
 翌日、日曜日は、ボロボロの心と体でハルの絵に囲まれながら、天井を眺めて過ごした。涙は、硝子玉のように転がった。牢獄のような窓から見える空は、凍えるような自由と孤独を湛えていた。

  ライラック。君の名はライラック。
  僕たちは、思っていたよりもずっと、
            ずっと遠いね。


 月曜日、大学の講義中にスマホが震えた。LINEだ。


【Haru Miyazato】
この前は、何も知らずにひどいことをしてしまい、本当にごめんなさい。
あなたが海を見ていた理由、泣いていた理由が分かった気がして、胸が痛みました。
無理にとは言いませんが、もし、辛くなければ、また、あの海に来て下さい。
話すことで、楽になることもあると思います。
私はいつでも大丈夫です。
連絡待ってます。


 春と名乗ることも、僕を秋と呼ぶこともないそのメールは、土曜日に会った春からは想像できない余所余所しさを感じた。なぜ、君が謝るんだ。ひどいことをしたのは僕の方だ。
 もう会えないと思っていたから、このメッセージは少し嬉しかったが、喜んでしまう自分の弱さを、また嫌悪してしまう。春に会うのは、やめよう。その優しさに甘えても、きっと、誰も幸せにならない。
 春も、いずれ僕を、忘れるだろう。


 その週の土曜日は、海に行かなかった。
 大学の友達連中をカラオケに誘い、一日中歌い続けた。声が嗄れるほど叫んだ。
 どれだけ声を出しても、馬鹿みたいに笑っても、心の中の暗雲は、一向に晴れない。
 春のLINEに、返事は出していなかった。
 会うまいと決めたのに、胸がチクチクと、チクチクと痛んだ。


 日曜日はまた、ハルの絵を眺めて過ごした。
 ハルの桜の絵は、どこまでも綺麗で澄んでいるのに、僕の心を清々しくしてはくれない。ハルの目標だった、人を元気付ける絵。この絵には、きっとその力があるのに、僕の淀みきった心が、美しい景色を濁らせているのかもしれない。
 心の中のハルは、いつも寂しげな表情をしている。ここは、自分で選んできた道なのに、何かが間違っている気がして、でもそれが何なのか、僕には、分からない。
 手を伸ばして、その手を掴みたい。暗く冷たい水の底から、ハルを引き上げてあげたい。ハルを、救いたい。
 突然、机の上に置いていたスマホが振動し、静寂を打ち破った。驚いた。慌てて手に取る。LINEだ。


【Haru Miyazato】
おじいちゃんが、新作のメニューを作りました。
季節の栗とカボチャを使った和風のパフェだよ。
すごく美味しいから、よかったら食べにきてね。
甘いもの、好き?


 画像が添付されている。見てみると、本文で言っていたパフェと思われる写真だ。
 ……どうでもいい。スマホの電源を切り、布団に潜り込んで、果てなく遠い、ハルを想った。



*** Miss Spring ***

 あれから、アキは今までよりも笑わなくなった。学校で会う友達にも、少しぶっきら棒に接するようになった。
 それに、私を閉じ込める透明な壁の円周が、前よりも狭くなったような気がする。どうしてだろう。私の、アキへの執着、未練が強くなったのだろうか。それとも、アキの、私の魂を縛る何かが、強くなったのだろうか。
 アキには、私を忘れてほしくない。
 アキが私を忘れたら、私の思い出が、輝いてた短い青春が、なかったことになってしまいそうで、怖い。だけど、私の過去が、アキの中の私の存在が、アキを縛って苦しめているなら、解き放ってあげたい。でも、どうしたらアキを救えるのか、私には、分からない。
 アキが、部屋に飾った私の絵を眺めている。私もアキの傍に行き、自分の絵を眺めてみる。
 悩んでる人の心を慰めたり、清々しい気持ちにしたり、元気をくれたりする、そんな絵を描くことを目標にしていたけれど、私の絵には、何の力もないみたいだ。大好きな人も、自分自身の心でさえ、私の絵は救えない。
 私の夢は、もう叶わない。アキ、ごめんね。もう捨てていいんだよ、こんな絵。



*** Mr. Autumn ***

 月曜、火曜の授業をこなし、水曜日。
 休み時間に校舎を移動していると、友達に呼び止められた。スマートで長身で、眼鏡をかけた見た目はインテリだが、中身は体育会系な男、杉浦だ。

「おう。これ、俺の彼女。お前にも紹介しておこうと思ってさ」

 そう言って、杉浦は横にいる女性を自慢げに指差した。その人は少し恥ずかしそうに、僕に軽くお辞儀をした。確かに自慢できそうな美人ではあるが、ハルには遠く及ばないな。
 杉浦は僕の肩に腕を回し、彼女から少し遠ざかって小声で言う。

「おい、お前も彼女作れよ。いいもんだぞ。お前も見た目は悪くないんだから、ちょっと積極的になればすぐに出来るって。何なら、誰か紹介してやろうか?」
「余計なお世話だよ。放っといてくれ。そして耳元で囁くなよ気持ち悪い」
「ん~、なんだ? 好きな子でもいるのか? どこの誰だよ。俺の知ってる子?」

 僕の腹部を小突きながら嬉しそうに訊いてくる。入学当初に無理して作った友人だが、非常に鬱陶しい。

「僕なんかに構ってると、彼女が他の男に取られるぞ」

 振り返ると、知らない男が彼女に声をかけている所だった。

「おいマジかよ! ちょっとあんた、俺の女に何の用だ!」

 肩が解放された隙に、その場を立ち去った。
 恋人という存在に、憧れないことはない。ハルが、生きていれば……。同じ授業を受けて、同じサークルに入って隣で絵を描いて、図書館で一緒に勉強して、近所の公園を散歩して……。そんな考えは今までにも何度もした。
 ハルは死んだのに、僕は、僕を含む世界は、今も生き続けている。ハルだけを暗い所に残して、みんな、明るい世界で笑って生きている。心臓が、引き絞られるように痛い。
 学校でこの状態になると辛い。誰にも心配されたくないから、早足で人気の無い中庭に向かい、備え付けてあるテーブルに手を付き、息を整える。
 ポケットのスマホが鳴った。また、春からのLINEだ。


【Haru Miyazato】
授業中だったらごめんね。
私は音楽学校の休み時間です。
最近寒さが増してきたよね。体に気をつけてね。
学校の近くの公園に、綺麗なもみじがあるんだよ。
写真撮ったから送るね。


 メッセージの下に添えられた写真には、青い空を背景に、赤く染まった楓が輝いていた。しばらく眺めてからスマホをしまい、ふと見上げると、この中庭にも楓が赤く燃えていた。なぜか分からないけど、涙がひとつ零れた。胸の痛みはいつの間にか消えていた。


 土曜日。また僕は海に行かなかった。
 ハルの絵に囲まれていたが、時折、春の笑顔や、僕を驚かせた言葉や、夜の泣き顔が心に浮かんだ。
 謝りたかった。何もしてやれなかったハルにも、泣かせてしまった春にも。
 日曜日。LINEの受信音で目が覚めた。


【Haru Miyazato】
やっほー、元気かい?
歌詞を考えてくれるって約束、
よもや忘れてはおるまいな!
待ってるからね


 今までとは打って変って、明るい雰囲気だ。
 何でこの子は、こんな僕を構うんだろうか。暗いし、後ろ向きだし、ひどいことも言ってしまった。
 ひとつ、長い溜息を吐き出し、一度も聴いていなかったカセットテープを鞄から引っ張り出した。実家から持ってきていたコンポに挿入し、再生ボタンを押す。カセットを聞ける機器がうちにあってよかったな、春。
 少しノイズがかってはいたが、喫茶店で聞いた優しい春の歌声が部屋を満たす。あの時は堪えたが、今は部屋に僕一人。思う存分涙を流した。でも、不思議と悲しい涙ではなかった。頬を伝う跡も、温かかった。
 ほんの少しだけ、胸のつかえが取れた気がする。
 壁に飾ったハルの絵も、少し輝いて見えた。
 僕の心の混沌と、その中の笑わないハルと、それら全てを救う光が、その先にある気さえ、その瞬間は感じていた。


【Aki】
覚えてるよ
考えてみる


 簡素すぎるが、一応返事を出した。
 カセットを巻き戻し、また先頭から再生する。
 布団にもぐり直し、目を閉じて、美しい旋律に乗せる言葉を、思い浮かべた。
 今度、パソコンで録り直して、スマホに入れよう。


 その日の夜、夢を見た。
 大学に入学してからも、何度か見ていた、空を飛ぶ夢。
 灰色の工場地帯のような場所で、上空からハルを見つけ、彼女の前に降り立ったけど、目の前に佇む女の子が、ハルなのか、春なのか、分からなかった。
 彼女は僕を見つけると、ふわりと笑った。舞台は突然モネの丘に切り替わり、画面いっぱいに桜が咲き乱れた。
 胸の苦しさで目が覚めると、頬を流れていた涙が、過去に棚引く後悔なのか、未来に向かう切望なのか、僕には分からなかった。
 カーテンの間から差し込む月の光の中に、夢で見た桜の花が一つ浮かんでいるように見えて、手を伸ばしたけど、すぐに消えてしまった。寝ぼけていたんだろうか。