- 見えない壁 -
砂浜に降りて、スーパーの方の壁に来ると、きなこは今度は落ちていた木の枝をくわえて、また私を歩かせた。砂浜に線を引いているみたいだ。あ、そうか。
「壁の位置を書いてるんだね?」
「そうよ。これで、サクラの壁が直線じゃないことが分かったわ。次はまた、反対側ね」
きなこは頼もしい。冷静で、賢くて、何だか上品さも感じる。
民家のある方の砂浜の壁沿いを歩いて、きなこがまた線を引いた。
「ふう。一部だから推測でしかないんだけど、やっぱり壁は円周状になってるみたいね。ドーム型なのか円柱型なのかは分からないけれど」
きなこは振り向いて、スーパーの方から続く砂浜に付いた足跡を見つめた。きなこの小さい可愛い足跡は点々と続いているけど、私の足跡はどこを探してもなかった。不思議だな、砂を踏んでいるような感覚はあるのに。さっきのコンクリートの壁と同じなんだろうか。
「感覚的に、円の直径は約百二十メートルといったところかしら」
「きなこすごいね。そんなことまで分かるんだ」
「円だとしたら中心もだいたい分かるけど、行ってみる?」
「うん!」
きなこの後に付いて、階段を上って左に曲がる。
「この辺りね」
「あ、ここは……」
きなこが立ち止った場所は、私が最初に気がついた場所だった。ガードレールの傍。
「何か思い当たるのかしら?」
「ううん。最初に気がついた時、ここに立ってたって事、くらいかな」
「そう。サクラの心が、この場所に何かしらの未練や執着を残しているのか、この場所が、サクラの魂を縛っているのか……。どちらにせよ、時間をかけた割に大した収穫はなかったわね。ごめんなさいね」
「謝らないでよ、きなこはすごく頑張ってくれて嬉しかったし、色々分かったよ。私一人じゃ何も出来なかったから、すごく助かる!」
「そう。それは良かったわ」
可愛い猫さんが私のために頑張ってくれたことの喜びは、感謝の言葉だけじゃ足りないから、しゃがんできなこの喉を撫でてあげ――ようとしたけど、やっぱりすり抜けてしまう。
「あ、そうか……」
「あら、撫でようとしてくれたの? うふふ、ありがとう。気持ちだけでも嬉しいわ」
「うう、ごめんね。私、なにもしてあげられない」
「いいのよ。あたしも色々考えられて楽しかったわ」
きなこは私の方を向いて目を細めたあと、大きく伸びをした。
「じゃあ、今日はそろそろ行くわ。また来るからね、サクラ」
「えっ、もう行っちゃうの?」
急に心細くなる。もちろん、ずっと傍にいてもらう訳にもいかないのは分かるけど、唯一の話し相手で理解者のきなこがいなくなるのは、寂しいし、不安だ。
「きなこがいないと、私、どうしたらいいか分からないよ……」
「大丈夫よ。あなたの時間は世界が滅びるまで有るんだから、のんびり気長に、楽しくやりなさい」
「うん……。でもあの、眠る時とか、その、トイレとか、どうしたらいいかな」
「あなたは精神的存在だから、必要ないはずよ。眠くなることもないんじゃないかしら。その点はあたしには羨ましいわ。実はさっきから眠くてしょうがないのよ」
きなこはそう言って、大きくあくびをした。可愛い。
「そっか。じゃあ無理は言えないね。私一人でも、色々試したり考えたりしてみるよ」
「そうね。でも、難しく考え込んだらだめよ」
「うん。ありがとうきなこ。今日は話しかけてくれて、すごく嬉しかったよ」
きなこは初めて口を開けて、「んにゃー」と一声鳴いた後、民家がある方にゆっくりと歩いて行った。私は、きなこが見えなくなるまで見送った。
「さてと」
きなこが遠くの茂みに入っていくのを見届けてから、教えてもらった円の中心点に帰ってきた。
私の未練、執着。それとも、私の魂を縛る場所。
よく見ると、この辺りのガードレールだけ新しいのか、他の場所よりも白くて綺麗。
何なんだろう。私はここで死んだんだろうか。この場所なら、やっぱり交通事故?
そっか、そういえば私、死んでるのか。もうこれから、成長したり、学校に行ったり、友達と遊んだり、お母さんに甘えたり、好きな人に会ったり、できないんだな。
きなこに、気楽にやりなさいと言われたけど、やっぱり考えてしまう。寂しい。悲しい。
一人になって俯いていると、視界の上から赤いものがヒラヒラと落ちてきた。私の足元でハラリと止まる。
モミジの葉っぱだ。崖の上から落ちたんだろう。しゃがんで、近くで見る。綺麗だな。
指でつまんで拾い上げようとしたけど、やっぱりだめだった。地面に触る感触はあるのに、モミジの葉っぱはホログラムみたいに指をすり抜ける。確かにここにあるのに、でも存在していないみたいな、不思議な感じ。きなこの言ってた、レイヤーの違い、というやつだろうか。
今は何月なんだろう。モミジは真っ赤に染まってる。
綺麗だけど、でも何か、悲しいような寂しいような、すごく愛おしいような、複雑な感情が胸に溢れてくる。
私にとって、何か大切なこと?
モミジ。楓。落ち葉。紅葉。赤。枯れ葉。秋。
分からない。
髪に付けている桜のヘアピンを外して、見てみる。
これもすごく、すごく大切なもの。
ヘアピン。桜。白。ピンク。花。春。
涙が溢れてくる。心がズキズキと痛い。
だめだ。何も思い出せないくせに、涙ばかりが溢れてきてしまう。
立ち上がって、ヘアピンをまた付けて、階段の方に歩いて、半分下りた所に座る。
もう太陽は傾いて、綺麗な夕焼けになっている。
夕焼け。胸が切なくなって、涙が零れる。
はあ、何を見ても辛いよ。こんなだから私、幽霊になっちゃったんだろうな。
よし、何か違うこと考えよう。そうだ、今日のきなことのやりとりを思い返してみよう。
きなこ、可愛い声だったな。ふわふわな毛並み、撫でたいなぁ。
目を閉じてきなこの事を考えてたいら、夜になっていた。
きなこの言う通り眠くならないし、お腹も空かないし、寒さも感じないし、トイレにも、行かなくていいみたいだ。
それにしても、幽霊ってヒマなんだな。他の幽霊たちは何をして過ごしてるんだろうか。幽霊同士は会話とか出来るのかな。会えたら、仲良くなれるかな。
空には、たくさんの星が光っている。綺麗。
「北極星、カシオペア、ベガ、デネブ、アルタイル」
思い出は、全然残ってないのに、こういう知識はなんで覚えてるんだろう。
「あっ」
空に白い線が流れて消えた。流れ星だ。
なんだか、思い出の片鱗が見えそうで見えない。波の音。流れ星。寂しい。切ない。離れたくない。理由は分からないまま、そんな思いばかりが胸に募ってくる。また泣けてしまう。
だめだめ、じっとしてると色々考えちゃってだめだ。立ち上がって階段を駆け下りて、砂浜に立つ。目を閉じて両手を広げ、宙に浮かぶイメージを心に描く。
「私に重さはない! 私は飛べるはず。飛べるはず!」
うっすらと目を開けてみたけれど、足はしっかり地面を踏みしめていた。
まだ、きなこの言ってた世界感は使いこなせない。
その日の夜は、ずっと空を飛ぶ練習をして過ごした。
*
砂浜に降りて、スーパーの方の壁に来ると、きなこは今度は落ちていた木の枝をくわえて、また私を歩かせた。砂浜に線を引いているみたいだ。あ、そうか。
「壁の位置を書いてるんだね?」
「そうよ。これで、サクラの壁が直線じゃないことが分かったわ。次はまた、反対側ね」
きなこは頼もしい。冷静で、賢くて、何だか上品さも感じる。
民家のある方の砂浜の壁沿いを歩いて、きなこがまた線を引いた。
「ふう。一部だから推測でしかないんだけど、やっぱり壁は円周状になってるみたいね。ドーム型なのか円柱型なのかは分からないけれど」
きなこは振り向いて、スーパーの方から続く砂浜に付いた足跡を見つめた。きなこの小さい可愛い足跡は点々と続いているけど、私の足跡はどこを探してもなかった。不思議だな、砂を踏んでいるような感覚はあるのに。さっきのコンクリートの壁と同じなんだろうか。
「感覚的に、円の直径は約百二十メートルといったところかしら」
「きなこすごいね。そんなことまで分かるんだ」
「円だとしたら中心もだいたい分かるけど、行ってみる?」
「うん!」
きなこの後に付いて、階段を上って左に曲がる。
「この辺りね」
「あ、ここは……」
きなこが立ち止った場所は、私が最初に気がついた場所だった。ガードレールの傍。
「何か思い当たるのかしら?」
「ううん。最初に気がついた時、ここに立ってたって事、くらいかな」
「そう。サクラの心が、この場所に何かしらの未練や執着を残しているのか、この場所が、サクラの魂を縛っているのか……。どちらにせよ、時間をかけた割に大した収穫はなかったわね。ごめんなさいね」
「謝らないでよ、きなこはすごく頑張ってくれて嬉しかったし、色々分かったよ。私一人じゃ何も出来なかったから、すごく助かる!」
「そう。それは良かったわ」
可愛い猫さんが私のために頑張ってくれたことの喜びは、感謝の言葉だけじゃ足りないから、しゃがんできなこの喉を撫でてあげ――ようとしたけど、やっぱりすり抜けてしまう。
「あ、そうか……」
「あら、撫でようとしてくれたの? うふふ、ありがとう。気持ちだけでも嬉しいわ」
「うう、ごめんね。私、なにもしてあげられない」
「いいのよ。あたしも色々考えられて楽しかったわ」
きなこは私の方を向いて目を細めたあと、大きく伸びをした。
「じゃあ、今日はそろそろ行くわ。また来るからね、サクラ」
「えっ、もう行っちゃうの?」
急に心細くなる。もちろん、ずっと傍にいてもらう訳にもいかないのは分かるけど、唯一の話し相手で理解者のきなこがいなくなるのは、寂しいし、不安だ。
「きなこがいないと、私、どうしたらいいか分からないよ……」
「大丈夫よ。あなたの時間は世界が滅びるまで有るんだから、のんびり気長に、楽しくやりなさい」
「うん……。でもあの、眠る時とか、その、トイレとか、どうしたらいいかな」
「あなたは精神的存在だから、必要ないはずよ。眠くなることもないんじゃないかしら。その点はあたしには羨ましいわ。実はさっきから眠くてしょうがないのよ」
きなこはそう言って、大きくあくびをした。可愛い。
「そっか。じゃあ無理は言えないね。私一人でも、色々試したり考えたりしてみるよ」
「そうね。でも、難しく考え込んだらだめよ」
「うん。ありがとうきなこ。今日は話しかけてくれて、すごく嬉しかったよ」
きなこは初めて口を開けて、「んにゃー」と一声鳴いた後、民家がある方にゆっくりと歩いて行った。私は、きなこが見えなくなるまで見送った。
「さてと」
きなこが遠くの茂みに入っていくのを見届けてから、教えてもらった円の中心点に帰ってきた。
私の未練、執着。それとも、私の魂を縛る場所。
よく見ると、この辺りのガードレールだけ新しいのか、他の場所よりも白くて綺麗。
何なんだろう。私はここで死んだんだろうか。この場所なら、やっぱり交通事故?
そっか、そういえば私、死んでるのか。もうこれから、成長したり、学校に行ったり、友達と遊んだり、お母さんに甘えたり、好きな人に会ったり、できないんだな。
きなこに、気楽にやりなさいと言われたけど、やっぱり考えてしまう。寂しい。悲しい。
一人になって俯いていると、視界の上から赤いものがヒラヒラと落ちてきた。私の足元でハラリと止まる。
モミジの葉っぱだ。崖の上から落ちたんだろう。しゃがんで、近くで見る。綺麗だな。
指でつまんで拾い上げようとしたけど、やっぱりだめだった。地面に触る感触はあるのに、モミジの葉っぱはホログラムみたいに指をすり抜ける。確かにここにあるのに、でも存在していないみたいな、不思議な感じ。きなこの言ってた、レイヤーの違い、というやつだろうか。
今は何月なんだろう。モミジは真っ赤に染まってる。
綺麗だけど、でも何か、悲しいような寂しいような、すごく愛おしいような、複雑な感情が胸に溢れてくる。
私にとって、何か大切なこと?
モミジ。楓。落ち葉。紅葉。赤。枯れ葉。秋。
分からない。
髪に付けている桜のヘアピンを外して、見てみる。
これもすごく、すごく大切なもの。
ヘアピン。桜。白。ピンク。花。春。
涙が溢れてくる。心がズキズキと痛い。
だめだ。何も思い出せないくせに、涙ばかりが溢れてきてしまう。
立ち上がって、ヘアピンをまた付けて、階段の方に歩いて、半分下りた所に座る。
もう太陽は傾いて、綺麗な夕焼けになっている。
夕焼け。胸が切なくなって、涙が零れる。
はあ、何を見ても辛いよ。こんなだから私、幽霊になっちゃったんだろうな。
よし、何か違うこと考えよう。そうだ、今日のきなことのやりとりを思い返してみよう。
きなこ、可愛い声だったな。ふわふわな毛並み、撫でたいなぁ。
目を閉じてきなこの事を考えてたいら、夜になっていた。
きなこの言う通り眠くならないし、お腹も空かないし、寒さも感じないし、トイレにも、行かなくていいみたいだ。
それにしても、幽霊ってヒマなんだな。他の幽霊たちは何をして過ごしてるんだろうか。幽霊同士は会話とか出来るのかな。会えたら、仲良くなれるかな。
空には、たくさんの星が光っている。綺麗。
「北極星、カシオペア、ベガ、デネブ、アルタイル」
思い出は、全然残ってないのに、こういう知識はなんで覚えてるんだろう。
「あっ」
空に白い線が流れて消えた。流れ星だ。
なんだか、思い出の片鱗が見えそうで見えない。波の音。流れ星。寂しい。切ない。離れたくない。理由は分からないまま、そんな思いばかりが胸に募ってくる。また泣けてしまう。
だめだめ、じっとしてると色々考えちゃってだめだ。立ち上がって階段を駆け下りて、砂浜に立つ。目を閉じて両手を広げ、宙に浮かぶイメージを心に描く。
「私に重さはない! 私は飛べるはず。飛べるはず!」
うっすらと目を開けてみたけれど、足はしっかり地面を踏みしめていた。
まだ、きなこの言ってた世界感は使いこなせない。
その日の夜は、ずっと空を飛ぶ練習をして過ごした。
*