「バイト?」
「うん。本屋なんだけど」
ーー高校生になって、初めての夏休みを迎えた秋樹が、改まってそう言った。
「別に駄目とは言わないが…いいのか?こう、青春みたいなのは」
「なんだよ、それ」
茶化さないでよと笑う秋樹だったが、正直言ってモテるはず。
俺みたいにぱっとしない人間だと夏休みなんて暇で仕方ないもんだったが、秋樹は違うだろう。
「秋樹…高校生の夏休みは、人生で三回しかないんだぞ。それをバイトに費やすのは…特にお前は…」
「ははは、大袈裟だよ」
「もしかして、何か欲しい物でもあるのか?だったら…」
「いや…違うよ!」
俺が言い終わらない内に、秋樹は慌てた様子で否定した。
「大人になる前に、ちゃんとバイトを経験しておきたいんだ」
「……」
「駄目、かな」
「…駄目とは…言わないが…」
「ありがとう」
礼を言うと、あっさり出て行ってしまった秋樹。
ーー中学生まではどこか可愛らしさみたいなものを兼ね備えていた秋樹だったが、高校生になると、かわいいというより「かっこいい」と振り向かれるような一端の男になった。
そんな秋樹が、中学生の時に一緒に本を買いに行った本屋でなんと、バイトを始める。
三歳だった秋樹が、バイトをするだなんて。信じられない。
様子を見に行くと顔を真っ赤にするので、バイト姿を見ることが出来たのはせいぜい数回だが、休むことなく頑張っているようだった。
見に行きたい気持ちと、嫌われたくない気持ちがせめぎ合う。
もやもやと仕事をしていると、両親が遊びに来た。
二人とも定年を迎えて仕事を引退したので、旅行がてら新幹線に乗ってひと月に一回はやって来る。
「あら?秋樹は?」
「いねぇよ」
「部活?」
「いや、バイト」
秋樹は美術部なのだが、バイトのない日は学校に行って作品を作っているようだった。
その為、夏休みだというのに日中はあまり家にいない。
どこか二人で遠出でもしようと考えていた俺は、子供のように不貞腐れていた。
不機嫌に返事した俺を、母さんは笑った。
「へぇ。いいじゃない、バイト。何が不満なの」
「…別に」
イライラとエンターキーを押し、パソコンを閉じる。
ーー何が不満って…
自分でも良く分からない。
「見に行けばいいじゃない」
「嫌がるんだよ」
「あ、そう。じゃぁ私たちは見に行こうかしら」
「場所はどこだ?」
「…駅前の本屋だけど……」
着いたばかりだというのに、聞くやいなやさっさと玄関に行く二人。
「お、おい。行くのはいいけど、やたらめったら写真は撮るなよ!迷惑だけはかけるなよ!」
忠告はしてみたものの、返ってきたのは生返事。
大丈夫だろうか…。
ーーそうして、心配すること数時間。
再び仕事をしていた俺は、聴こえてきた扉の音に手を止めた。
恐る恐る玄関を覗くと、微妙そうな顔をしている秋樹と、満足そうな両親の姿。
俺の姿を捉えた母さんが駆け寄ってきて、写真を見せてくれた。
「見て!この秋樹!かわいいでしょう」
「……母さん…」
案の定な結果に頭を抱えながら、数十枚はあるであろう写真に一つ一つ目を通していく。
「これも、あ、これも…あ!あとこれも!かわいいわぁ」
「迷惑かけるなって言っただろ…でも全部現像して」
「おじさん」
秋樹が真っ赤になって睨むので、仕方がなく黙る。
四人で食卓を囲みながら、母さんは言った。
「秋樹、そんなに見られるのが恥ずかしい?」
「…だって…緊張するから。まだ慣れてないし、ちゃんと出来るようになったら見に来てよ」
ーーそうか、そういうものか…
納得しながら食事を進める。
「つーか、何時間居座ったんだよ。秋樹がバイト行きづらくなるだろ」
「ごめんなさいね、秋樹。でも、秋樹の初めてのバイトでしょう?つい張り切っちゃって」
喜ぶべきなのかどうか迷っている秋樹が、複雑そうに笑う。
すると、母さんは続けた。
「でも秋樹、あんまり頑張り過ぎちゃダメよ。昴甫が拗ねるから」
「おい」
「…そうなの?おじさん」
「あ…いや…。母さん、変な言い方するなよ」
秋樹が心配そうに見るので、慌てて弁明する。
「秋樹が頑張ってるのは良いことだぞ。でも…ほら、せっかくの休みだし。たまには一緒にゆっくりできるといいなって」
「……」
そう言うと、黙ってしまった秋樹。
思いっきり母さんを睨みつけると、口パクで「ごめん」と返ってくる。
すると、秋樹は口を開いた。
「ごめん、おじさん」
「?」
「もうちょっとだから…もうちょっと待ってくれないかな」
「…お、おう…」
訳が分からないまま、頷く。
秋樹がバイトを始めた理由は分からなかったが、秋樹なりに考えていることがあるのだ。
一緒にいる時間が短くなって不貞腐れていた自分が情けない。
反省して秋樹を見つめると、自信ありげに微笑まれた。
* * * * *
秋樹の言った「もうちょっと」の終わりは、すぐにやってきた。
よく晴れたある日。
元気な日差しの入り込むリビングで仕事をしていると、小さめの画用紙を何枚か差し出された。
恥ずかしそうに差し出されたそれを受け取り、眺める。
そこには、俺の似顔絵や、小さい時に連れて行った海外での風景、そしてーー姉さんの似顔絵が描かれていた。
絵の具で丁寧に描かれたそれらは、触れるのを躊躇うほど美しい。
テーブルに並べて見上げると、秋樹は頬を掻きながら話した。
「部活のある時に、こっそり描いてたんだ。ほら、金の額縁の中。小さい時に描いたやつから変わってないから」
リビングに飾ってある絵は、秋樹が小学生の時に描いてくれたもの。
この時も充分上手かった。
「だから、プレゼントしようと思って」
改めて、画用紙を見遣る。
キャンバスに描くようになった秋樹が、こそこそと小さな画用紙に描く様子を想像して、思わず笑った。
その時、頬を伝った生温い感触。
一筋だけ流れたそれは、俺の手に落ちて綺麗に弾けた。
「今度は僕が、自分で飾ってもいいかな」
秋樹が、何も言えない俺の代わりに、俺の似顔絵を金の額縁に飾った。
ーーぼくの、絵だ
初めて絵を飾ったあの時を思い出して、視界がぼやける。
必死に拭って、大きくなった秋樹の姿を目に焼き付けた。
ゆっくり振り返ったその顔が、小さい時と変わらない笑みを浮かべた。
「…額縁、買ってこなきゃな…」
情けない声で言った俺の背中を、秋樹は優しくさする。
「それでね、バイトのことなんだけど。今回もらったお給料で、どこか旅行に行きたいんだ」
「…旅行?」
「うん。あんまり多くないから、遠くには行けないかもしれないけど。一緒に行こう」
「でも、せっかく…」
「おじさんと旅行するためにバイトする、なんて言ったら、絶対お金は出す!って言ってたでしょ?だから、黙ってたんだ」
驚く俺に、秋樹は続ける。
「僕、自分で稼いだお金で一緒に旅行したかったんだ」
「……」
「何か買ってプレゼントするのもいいけど、思い出を作りたかったから」
ーーそう言われた時、自分がなぜ苛立っていたのか分かった。
そうか、俺は…焦っていたんだ。
三歳だった秋樹は、十六歳になった。
あと二年で、大人になって、俺から離れていってしまう。
長いようで短かった、十三年の月日。
その日々が、惜しくて、惜しくて。
もうすぐやってくる別れに、焦っていたんだ。
「秋樹…」
「ん?」
「ありがとう」
毎日毎日が、宝物だった。
何の変哲もない日々を送っていた俺が、一分一秒を惜しむような生活を送るようになるなんて。
二十歳の俺に言っても、信じてもらえないだろう。
秋樹がバイトを辞めてすぐ、旅行に行った。
近場でごめんねと秋樹は言ったが、俺にとってはどんな場所よりも楽しかったし、どんな場所でも楽しかった。
「おじさん」
「…ん?」
「お金を稼ぐのって、大変なんだね」
「……」
「ほんとは、いろんなところに連れて行ってもらったみたいに遠くへ行きたかったんだけど」
「…充分だよ」
「…おじさん、ありがとね」
リビングに飾られた、三枚の絵を。
写真の中の姉さんが、嬉しそうに眺めていた。