「…事故…ですか」



ーー思わず口が反芻した言葉は、到底信じ難いものだった。
無病息災、いつも笑顔で明るかった姉が、事故に遭ったという。

元々、連絡はそんなに取っていなかった。
社会人になって、姉は結婚したし、姉弟というよりは長い間殆ど他人のようだった。
そんな姉の訃報を聞いて、驚きと、じわじわと迫ってくるような罪悪感に苛まれる。

気がつけば、まだ何が喋っている受話器を耳から離していた。
急に重たく感じた頭。
額を押さえて支えるが、震える手はとても頼りなかった。

「それで……」

思い出したのだ。姉が、子供を授かっていたことを。
三年前に、そんな葉書を貰った。

「子供は…」






*   *   *   *   *






姉は、とにかく男運が悪かった。
結婚して、子供を授かったと聞いてすぐに離婚の旨を知らされた。

両親も反対していたような男で、話を聞く限り俺も賛成は出来なかった。
離婚の話を聞いた時も、特に驚きはしなかったほど。

それでも姉は、元気だったらしい。
母親が聞いたそうだ。「この子と出会う為には、必要な縁だったのよ」と、笑顔で言っていたと。

それから三年、姉は子供を預けたりしながら仕事をしていたという。
よくやるもんだ、と。独り身の俺は呑気に思っていた。

ーー思って、いたんだ。

きちんと頭の片隅では、姉のことを考えていた。
考えて、いたんだ。





「あら…どちら様ですか?」

教えられた保育園に行くと、一人だけ迎えを待っている子供がいた。
もうすっかり、日は落ちている。
お友達はみんな迎えがあったのだろう。寂しそうに頬杖をつく姿が、とても切ない。

そんな様子を見つめていた職員の目が、こちらの姿を捉えて少しだけ訝しんだ。


「……どうも」

「ええ、こんばんは…。あの、失礼ですが…」


職員の緊張した様子を不思議に思ったのか、子供の目が俺と職員を交互に見比べる。
慣れない笑みを浮かべて愛想良くすると、子供の首がこてんと、まるで漫画みたいに傾げられた。
そのままじっと見つめられて、思わず視線を逸らす。

「あー…この子が秋樹くん、ですか?」

「…お知り合いですか?」

職員が、子供を庇うようにして俺に聞く。
明らかに警戒されているのに、上手く言葉が出てこない。
幼稚園の迎えなんて、当たり前だがやったことがない。ましてや一度も会ったことのない甥っ子の迎えだなんて。

ーーお知り合い…そんなもんじゃない。だって、俺は叔父なんだ。そう、一言叔父ですって言えばいいんだ。

この年になってどこかまごついている自分が気持ち悪い。
そう思って、堂々と答えようとしたその時。
不思議そうに開いていた子供の口が、ゆっくりと動いた。



「…まま?」



びくっと、思わず肩が震える。
ーーまま?今この子、ままって言ったのか?


「いや…ままじゃ…ままじゃ、ないよ…」


何と言っていいか分からず咄嗟に否定してみるも、その声すら情けなく震えた。
驚いた。こんな小さな子供がまさか、俺と姉の姿を重ねたのか?

顔は多少似ているかもしれないが、背丈も雰囲気もまるで違うはずなのに。

「…ままじゃ、ないよ」

真っ直ぐな瞳に気圧されそうになりながら、もう一度強く否定する。
それからあどけない顔に向かって、歪つな笑顔を作ってみた。

「おいで、秋樹」

「……」

呼ぶと、戸惑っているようだったが、職員の手を払って小さな体が真っ直ぐこちらに走ってきた。
焦る職員を横目に、座って両手を広げる。

すると、驚くほどすんなり腕に収まった小さな体。

ーー小せぇ…

そう思って、肩口の頭を撫でた、その時。


突然喉の奥が熱くなって、嗚咽が漏れた。
腕の中の温もりを抱きしめると、堰を切ったように涙が溢れ始める。

「…あ、あの…」

戸惑う職員に向かって、大きく首を振った。
視界の端で、職員の眉尻が悲しそうに下がったのが見える。

「…姉の、美咲の…代わりに来ました…」

それだけ言うのが、精一杯だった。




ーーーそれからは、色々なことが矢継ぎ早に済まされていった。

目まぐるしく人が動く中。
俺はぽつんと、姉の遺影を眺めるだけ。

可哀想に。そっとしておいてやろう。後ろから親戚の哀れみの声が届く。
しかし残念なことに、俺にはまだ「可哀想に」と言われるほどの現実味なんてなかった。
確かに、悲しいはずなのだが。

「…姉さん」

どこで撮ったものなのか、写真の姉は着物姿で満面の笑みを浮かべていた。
身内贔屓かもしれないが、顔は整っていた方だと思う。
純日本人、といったような顔立ちに、淡い紺色の着物が良く似合っている。

あとで聞いた話だと、この写真は姉が祖母に着付けを習いに行った時、たまたま居合わせた知り合いの写真家がついでにと撮ってくれたものらしかった。
とても良く、撮れている。
今にも喋り出しそうだと、ふとそんなことを思った。


「昴甫」


ぼうっと写真を眺めていた俺の背中に、低い声が掛かる。
呼ばれて振り向くと、そこには親父がいた。

ーー親父は一瞬、息を呑んだようだった。
振り向いた俺に、姉の姿を重ねたのかもしれない。
じっと見つめた後、その視線が姉の遺影へと移り、眉根が辛そうに顰められる。
それでも姉から視線を逸らさない親父を見て、喉の奥がきゅっと締まった。

「…何」

いつも威張り散らしていた親父のそんな姿を見ていられなくて、俺は親父に背を向けて少し離れた。
久々に帰った実家。
気に入っていた縁側に腰かけると、小さい頃の姉が隣に座る記憶がフラッシュバックして、弾かれたように視線を移す。

勿論誰もいなかったが、徐々に近づいてくる現実に、「可哀想に」と言う声がついて回った。

「ーー子供の、頃は…」

動揺していた俺は、親父の声にはっとして顔を上げる。
記憶よりずいぶん老けた親父と、目が合った。

「お前ら、年子のくせに仲良かったよな…」

「…そう、だっけ」

「ああ。よく、縁側に座って二人でスイカ食べてた。夏の風物詩だったな、母さんと俺の中じゃ」

「……」

「冬は蜜柑も食べてた。クソ寒いのに窓開け放って、毛布に包まってよ。ありゃ、冬の風物詩だったな」

「へぇ…俺と姉ちゃんにも、そんな時期があったんだな」

「秋も春もあるぞ、風物詩」

「ぶどうと、いちごか?」

「いや。秋は二人で本読んで、春は日向ぼっこしてた」


ーーそんなに一緒にいたのか…

覚えているような、覚えていないような。
もう遠い昔のそんな話を聞いて、少し胸が苦しくなった。


「はぁ…お前ももう、二十七か…」

「なんだよ」

急に感慨深そうに言うので恨めしく返すと、親父は続けた。

「仕事はどうだ?順調か?」

「…別に、普通」

「金は。貯めてるか」

「そこそこ。使う場所もないからな」

「そうか…」

社会人になってから、長い間実家に帰ることはなかった。
食い気味に質問する親父に苦笑すると、どこか気まずそうにされる。
すると、親父はどっこいしょと隣に腰掛けてきた。

「お前、煙草は?」

「吸わない。けど、吸うなら吸えば」

言い終わる前に、口に咥えていた煙草に火をつける親父。
その後噛み締めるように味わうと、とても小さな声で言った。

「…昴甫。悪かったな…あの日、家にいなくて」

ーーその言葉に、静かに頷いてみせる。
本当に言いたいことをすぐに言い出せないところは、相変わらずだと思った。



姉が事故に遭ったあの日、両親はどちらとも留守にしていてすぐには連絡が取れなかったらしい。
そうして、俺に連絡が回ったと言う次第だった。

事故直後で警察は子供の情報もなく、俺は母親に何度も電話をして折り返しを待ち、保育園の場所を聞き出して迎えに行った。

「母さんも俺も気が動転してた…お前が冷静に動いてくれたおかげで、秋樹が無事に家へ帰ることが出来た」

ありがとう、と言われて、首を振る。
親父が涙ぐんでいたのが分かった。

「お前も、突然で驚いただろう」

「…ああ。何で母さん達すっ飛ばして俺に連絡が来るんだよ、って。連絡がつかなかったからってさ。嘘臭くて、詐欺かと思ったくらい驚いたよ」

「……昴甫」

「子供は?って聞いても、まだ情報がとか何とか言うし。まじで詐欺だと思った」

「……」

「本当、訳わかんなくて頭いっぱいだったわ…」

「…悪かった」

自分でも何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。
でも喋っていないと涙が出てきそうで、そんな姿親父に見られたくなくて、必死に口を動かした。

「姉さんが死んだなんて、そんな訳ないって…」

「…そうだな」

「そしたらさ、すぐ姉さんの子供のことが思い浮かんだんだよ。俺ってさ、案外良いやつなのかもな…」

そんな俺に、親父は優しく笑った。



「なぁ、姉さんの子供はどうなるんだ?」

ふと気になって聞いて、振り返る。
泣いている母さんの膝に座る、小さな男の子。
姉に良く似たその子はとても大人しく、周りが泣く様子をじっと見つめている。

親父は俺の質問に、呟くように答えた。

「…それは…此処で俺たちが育てていくことになるだろうな。まだ仕事は辞められないから、なかなか構ってやれないかもしれないが」

「大丈夫なのか?母さん夜勤あるのに…親父だって出張があるだろ」

「…まぁ、その辺も色々と考えなくちゃいけないな」

ーーその時、姉さんの子供が不意に俺を見つめた。
また姉さんの面影でも見たのか、小さく笑って俺に手を振っている。
戸惑いながら振り返すと、満足そうに足をばたつかせていた。

「美咲の忘れ形見だ。出来るだけ寂しい想いはさせたくないが…難しいところだな」

「でも、まだあんなに小さいのに。それに、母親をなくしたばっかりなんだぞ」

「……」

「二人ともがいない日はどうするんだ?」

「…まだ考えてない。お前にも、手伝ってもらうことがあるかもな」

「はぁ?俺の家から此処まで、何分かかると思ってんだよ」

つい責めるような言い方になってしまい、慌てて口を噤む。
親戚が近づいてきて、しっと叱られた。

「お姉さんの前で、大声上げない」

「……ごめんなさい…」

ばつ悪く俯いた横で、親父がぼんやりとした表情で静かに謝る。

「悪い、昴甫…。大事な孫のことだ、きちんと考えてやりたいんだが…まだ、頭が上手く働かん…」

「……、」

「もう少し、時間をくれないか…」


ーーしょぼくれた、親父の背中。
泣き腫らした目尻は赤い。


「…ごめん、親父……」

「……」

「……ごめんな…」