今の叶海の体勢ならば、真っ正面に男性の顔があるはずだ。とくん、と叶海の胸が高鳴る。しかし、叶海の期待も虚しく、それは叶わなかった。

 何故ならば――その瞬間、男性に抱きしめられてしまったからだ。

『……ありがとう。覚えていてくれたのか』

『わ、わわ。痛いよ……』

 ぎゅう、と強く抱きしめられて、夢の中の叶海は小さく抗議した。

 けれど、言葉とは裏腹に、その顔はゆるゆると緩んでいて――。

 布越しに感じる男性の体温に、今にも心臓が破裂しそうだった。

 ――恋って、誰かと想いを通わせることって、なんて素敵なことだろう。

 まるで、温かなお湯の中を揺蕩うような幸福に包まれた叶海は、この時が永遠に続けばいいのに、と心の底から願った。

 しかし――。

『もう、喜びすぎだよ。○○』

 叶海が相手の名前を呼んだ瞬間、急激に意識が浮上した。

 ぱちりと目を開く。

 その時、叶海の目の前に広がっていたのは、なんの変哲もない寝室の光景だ。

 叶海は恐る恐る周囲を見回すと、そこに先ほどの人物がいないことを知って、大きく顔を歪める。

 ――どうして? 夢なのに、どうしてこんなに寂しいんだろう……。

「ひっ……ううっ……うあ……」

 叶海はその場で蹲ると、ひとり涙を零した。

 ぽろりぽろりと涙が零れるたびに、叶海の心に虚無感が広がっていく。

 夢だというのに、叶海の肌にはあの男性の熱が残っている。

 しかし、それもすぐに拭われてしまった。叶海を包み込んでいたあの心地よい熱は、あっという間に去ってしまった。

「うう……」

 叶海は両手で自分の身体を抱きしめると、絶え間なく零れ落ちる涙を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「もう嫌だ。夢から醒めたくない」

 その瞬間、窓の隙間から冷たい風が吹き込んできた。その瞬間、ふるりと震えた叶海は、なにかから守るかのように、己の胸の上で手を重ねた。

 それはまるで……かつてそこに、なによりも大切なものを仕舞い込んでいたことを、叶海自身が知っているようだった。