*
私が働いているカフェは、有名メーカーの携帯用充電バッテリーを取り扱った専門店の奥に併設されている。
カフェとしての利用は勿論、バッテリーを購入した流れでカフェを利用するお客様も多い。
しかし、充電バッテリーという商品上、頻繁にお客様の出入りがあるわけではない。だからこそカフェがあるのかもしれないが、なかなか売上が伸びないのが現状だ。
昼過ぎから閉店後の閉め作業までの遅番シフトは約二年間も働いていれば慣れたもので、今日も従業員用入口から入って支度をする。席数が少なくて長居するお客様が多いため、シフトに入っている人数も四人いれば店をまわすことも容易い。
私が出勤してきたことに目もくれず、店長が忙しなく事務所から出たり入ったりを繰り返しているのを横目に、支度を済ませてカウンターに入ると、朝のシフトで入っていた先輩の石田さんが眉をひそめて聞いてきた。
「久野、昨日大丈夫だった?」
「えーと……誰から?」
「店長からちょっと」
最悪だ。了承もしていないのにもう勝手に話を進めているなんて。
私の顔を察したのか、石田さんは渋った顔をした。
「マジか……それ、結構ヤバいね」
「ダメ元で三カ月だけでも伸ばしてもらおうかと思っていますけど、どこまで話を聞いてもらえるか……」
「マネージャー……も信用できないな。話すだけ無駄な気がする」
石田さんと同じタイミングで溜息を吐く。
というのも、「僕は現場を見ていないので判断できないのですが……」がお決まりの台詞である店舗マネージャーは、アルバイトの話を聞いてわかりましたと一度答えても、これまた自己解釈で都合の良い方向にした話を作って物事を進めていくタイプの人間だ。
社員と揉めたときも間に入ることなく、「僕は関係ないので巻き込まないでください」と言わんばかりの無干渉さに、石田さんを含む先輩方には信用されていない。
がっくりと肩を落としていると、カウンターに同じ遅番の原田さんが入ってきた。原田さんも店長から話を聞いたそうで、苦笑いをした顔で聞いてくる。
今日は一体、何度この話をすればいいんだろう。
「本当に駄目だな……」
「でもこの時期に久野が抜けたら店回らねぇよ? 俺も原田も土曜日出れないし」
「それに関しては……申し訳ないとは思ってる……」
「いや、これは誰も悪くないです。体を休めることも、家族との時間も大切ですから」
石田さんも原田さんもこの店を中心に働いているけど、家族のために掛け持ちで働いている。忙しい中でも、土曜日だけは家族の日として必ず休みを取るようにしている。
そのため毎週土曜日の出勤は決まって店長と、特に予定のない私が固定されたようにシフトを組まれていた。それでも足りないときは、奥山さんが都合をつけて入ってくれている。
そういえばこの間、店長が「妻子持ちは土曜日働いてくれないから」と笑ってお客さんに愚痴ってたっけ。表に出て仕事をしないくせに、どこまで考え方が最低なんだろう。
余計なことを思い出してモヤッとしていると、原田さんが聞いてくる。
「久野、これからどうすんの?」
「飲食で働けそうなところは探してますけど、とりあえず交渉してー……あー……」
唸りながら眉を顰める。おかしな顔をした私に、二人が首を傾げた。
「どうした?」
「えーっと……なんか、同じシフトに入りたくないって言ってる人がいるらしくて、それを考えるとバッサリ辞めた方がいいのかなって……思ったり思わなかったり」
昨日の店長の話だと、原田さんと奥山さんが「私と働きたくない」と相談していたらしい。もしそれが本当なら、目の前にいる原田さんは店長に告げ口した側になる。気まずい空気になりそうになって慌てて誤魔化すが、原田さんが間髪入れずに口を開いた。
「それって俺や奥山さんが一緒に働きたくないって相談されたとか言われた?」
「え……?」
「やっぱり……。俺も奥山さんもそんなこと一言も言ってない。本当に嫌だったらシフトずらして入るし、ラテアートもコーヒーの雑学も教えないでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
シフトはともかく、雑学やラテアートの技術は自分で教えてほしいと言ったものの、先輩は参考資料や情報サイト、珍しい豆で淹れたコーヒーの試飲や特徴を細かく教えてくれた。
「もし仮にそういう話をしていたとしても、まず店長には言わないよ。駄目なことしているときは俺達から直接言ってるし。つか、他のバイトには『俺らが久野が嫌いだから仕事したくないって言ってるからどうしよう』って困った顔でぼやいていたらしいよ」
…………はい?
「それって嘘をばら撒いてるってこと?」
「聞いた話だと、店長がここにきて半年経ったくらいからずっと言ってるって。かなりヤバイよ」
「うわぁ……昨日の話といい、サイコパスかよ」
原田さんの話に石田さんは身震いする。
丁度そこへお客様が入ってきたので、石田さんが接客に戻る。「とりあえず気にするな」と言って原田さんも連絡ノートを確認しながら持ち場に向かった。
私も切り替えて仕込みの作業を始めるが、先程の話が頭から離れない。
誰も言っていない嘘をつかされたうえに、それを周りに広めているってどういうこと?
味方を作るために外側を固めようっていう考えだとしたら?
……小学生の苛めか。いや、小学生でももっと利口な嘘をつくぞ。
トーストの上に乗せるバターを切り分け、小分けでラップに包む作業を終えたところで、事務所の出入り口からひょっこりと顔を覗かせた店長に呼ばれる。
「久野さん、ちょっといい?」
「はーい……!?」
顔を上げて声のする方へ顔を向けると、私は驚いて一歩下がった。
「久野さん? どうしたの?」
不思議そうな顔をして店長が聞いてくるが、私は眉間にしわを寄せながら、店長が体の半分を出入り口から出した右腕を凝視していた。私が同じ体勢で固まっていたせいか、気になった店長がこちらへやってくる。
「え、大丈夫?」
「……えっと」
「どうしたの? 何かついてる?」
はい。――とは言えなかった。
これはきっと目の錯覚だ。
店長の右腕に黒い靄のようなものが巻き付いているのが見える。しかし、店長はいつもと変わらない表情で話してくるし、軽々と右腕を上げている。おそらくこれは本人には見えておらず、影響もなさそうだった。
そういえば、行きの電車の中で見たサラリーマンの肩に乗っていたものによく似ていた。すぐ消えてしまったから気にしていなかったけど、まさかここで見るとは。
……となると、これは本当に目の錯覚かもしれない。
そうだ、きっと考えすぎて疲れているんだ。そう自分に言い聞かせて顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
「そう? あのね、残りの日数で使う有休の件なんだけど、現場勤務が今月までって感じで申請しちゃえば楽だから、俺が適当に入れて来月全部有休扱いにしていいよね?」
「ちょっ……ちょっと待ってください!」
淡々と話を進めようとする店長を慌てて止める。
事務所に行って話すならまだしも、職場のカウンターでお客様の目の前でその話をするか?
接客している石田さんや原田さんにも聞こえたのか、空気を読んでお客様を遠ざけてくれた。それにちっとも気付かない店長は、更に話を続けようと口を開きかけて首を傾げた。
三十路手前の男性がやることじゃない、空気を読んでくれ!
「有休どころか、昨日の話もまだ納得できていないのに勝手に決めないでください。それに有休って、店長が勝手に決めるものじゃないでしょう?」
「あれ? どうして?」
「どうしてって……」
「だってたかが食材の保存一つで愚痴を言う人を、いつまでも置いておけるわけないでしょ? これは久野さんの為でもあるんだよ。この間も言ったけど、新しく入ってきた人に悪影響を与えない為にも、長々居られると困るんですよねぇ」
――たかが食材の保存一つ「で」?
眉を寄せて困った表情を浮かべながら話す店長に苛立ちを覚える。食品を扱う職種で、店長の立場で衛生責任者の資格を持つ人間が口にして良い言葉ではない。
ふざけるな、と口を開こうとすると、右腕の黒い靄が胴体に巻き付くように広がったのを見て息が止まった。靄はまるで心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻みながら動きながらゆっくりと胴体から左肩へ向かっていく。店長を見ても相変わらず何が悪いの、とでも言いたげな顔をしているだけで、靄には気付いていない。
なるべく靄を見ないように、平常心を装って口を開く。
「……店長の言い分には納得できません。あんな理由で解雇を言い渡されても、退職届を渡されても書けません。マネージャーと三人で面談させていただけませんか」
「えー……マネージャーも忙しいんだよ?」
店長が困ったように笑うと、靄はまた少しずつ動いた。なんだか気持ち悪くなって、思わず目線を少し下へ逸らす。
「私、まだここで働いていたいんです。考え直していただける部分がきっとあると思うんです」
「……できるかはわからないけど、連絡はしときますね」
店長はそう言って、少し拗ねた顔をして事務所へ戻っていく。ドアが閉まると同時に、はあ、と大きな溜息を吐いてその場に蹲った。出勤してまだ五分。私は何しに来たんだろうと憂鬱になる。
……今日、もう仕事したくない。
お客様の対応を終えた石田さんが「大丈夫か」と声をかけてくれた。私に向ける憐れんだ表情が、今はものすごく痛い。
「まさかここで話すとは……俺もビックリしたよ」
「ええ、しかも店長の腕に黒い靄みたいなのが動いてたから気持ち悪くて……」
「靄? なんだそれ。幻覚でも見えてんの?」
「…………あれ?」
「原田、ヤバいぞ。久野が幻覚を見始めてる!」
幻覚が見えるほど精神的に追い詰められていると思われたのか、先輩二人には心配され、併設のショップスタッフには体調不良だと思われてオレンジの飴を貰った。
休憩中に落ち着かせようと本を読んでいても、どうしても店長の話が頭から離れない。
それからは何事もなく仕事をこなしたが、早番で入っていた石田さんと店長が上がりの時間になると、そそくさと荷物をまとめた店長がさらっと「再来週の出勤時に面談します」とぶっきらぼうに言って帰ってしまった。
「来週とか急すぎじゃね? いや遅いか?」と苦笑いで話す原田さんを横目に、自棄になってラテアートの練習を続ける。
勿論、最悪の精神状態の中で満足できる絵柄は一つも描けなくて、ただただ苛立ちしか残らなかった。
私が働いているカフェは、有名メーカーの携帯用充電バッテリーを取り扱った専門店の奥に併設されている。
カフェとしての利用は勿論、バッテリーを購入した流れでカフェを利用するお客様も多い。
しかし、充電バッテリーという商品上、頻繁にお客様の出入りがあるわけではない。だからこそカフェがあるのかもしれないが、なかなか売上が伸びないのが現状だ。
昼過ぎから閉店後の閉め作業までの遅番シフトは約二年間も働いていれば慣れたもので、今日も従業員用入口から入って支度をする。席数が少なくて長居するお客様が多いため、シフトに入っている人数も四人いれば店をまわすことも容易い。
私が出勤してきたことに目もくれず、店長が忙しなく事務所から出たり入ったりを繰り返しているのを横目に、支度を済ませてカウンターに入ると、朝のシフトで入っていた先輩の石田さんが眉をひそめて聞いてきた。
「久野、昨日大丈夫だった?」
「えーと……誰から?」
「店長からちょっと」
最悪だ。了承もしていないのにもう勝手に話を進めているなんて。
私の顔を察したのか、石田さんは渋った顔をした。
「マジか……それ、結構ヤバいね」
「ダメ元で三カ月だけでも伸ばしてもらおうかと思っていますけど、どこまで話を聞いてもらえるか……」
「マネージャー……も信用できないな。話すだけ無駄な気がする」
石田さんと同じタイミングで溜息を吐く。
というのも、「僕は現場を見ていないので判断できないのですが……」がお決まりの台詞である店舗マネージャーは、アルバイトの話を聞いてわかりましたと一度答えても、これまた自己解釈で都合の良い方向にした話を作って物事を進めていくタイプの人間だ。
社員と揉めたときも間に入ることなく、「僕は関係ないので巻き込まないでください」と言わんばかりの無干渉さに、石田さんを含む先輩方には信用されていない。
がっくりと肩を落としていると、カウンターに同じ遅番の原田さんが入ってきた。原田さんも店長から話を聞いたそうで、苦笑いをした顔で聞いてくる。
今日は一体、何度この話をすればいいんだろう。
「本当に駄目だな……」
「でもこの時期に久野が抜けたら店回らねぇよ? 俺も原田も土曜日出れないし」
「それに関しては……申し訳ないとは思ってる……」
「いや、これは誰も悪くないです。体を休めることも、家族との時間も大切ですから」
石田さんも原田さんもこの店を中心に働いているけど、家族のために掛け持ちで働いている。忙しい中でも、土曜日だけは家族の日として必ず休みを取るようにしている。
そのため毎週土曜日の出勤は決まって店長と、特に予定のない私が固定されたようにシフトを組まれていた。それでも足りないときは、奥山さんが都合をつけて入ってくれている。
そういえばこの間、店長が「妻子持ちは土曜日働いてくれないから」と笑ってお客さんに愚痴ってたっけ。表に出て仕事をしないくせに、どこまで考え方が最低なんだろう。
余計なことを思い出してモヤッとしていると、原田さんが聞いてくる。
「久野、これからどうすんの?」
「飲食で働けそうなところは探してますけど、とりあえず交渉してー……あー……」
唸りながら眉を顰める。おかしな顔をした私に、二人が首を傾げた。
「どうした?」
「えーっと……なんか、同じシフトに入りたくないって言ってる人がいるらしくて、それを考えるとバッサリ辞めた方がいいのかなって……思ったり思わなかったり」
昨日の店長の話だと、原田さんと奥山さんが「私と働きたくない」と相談していたらしい。もしそれが本当なら、目の前にいる原田さんは店長に告げ口した側になる。気まずい空気になりそうになって慌てて誤魔化すが、原田さんが間髪入れずに口を開いた。
「それって俺や奥山さんが一緒に働きたくないって相談されたとか言われた?」
「え……?」
「やっぱり……。俺も奥山さんもそんなこと一言も言ってない。本当に嫌だったらシフトずらして入るし、ラテアートもコーヒーの雑学も教えないでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
シフトはともかく、雑学やラテアートの技術は自分で教えてほしいと言ったものの、先輩は参考資料や情報サイト、珍しい豆で淹れたコーヒーの試飲や特徴を細かく教えてくれた。
「もし仮にそういう話をしていたとしても、まず店長には言わないよ。駄目なことしているときは俺達から直接言ってるし。つか、他のバイトには『俺らが久野が嫌いだから仕事したくないって言ってるからどうしよう』って困った顔でぼやいていたらしいよ」
…………はい?
「それって嘘をばら撒いてるってこと?」
「聞いた話だと、店長がここにきて半年経ったくらいからずっと言ってるって。かなりヤバイよ」
「うわぁ……昨日の話といい、サイコパスかよ」
原田さんの話に石田さんは身震いする。
丁度そこへお客様が入ってきたので、石田さんが接客に戻る。「とりあえず気にするな」と言って原田さんも連絡ノートを確認しながら持ち場に向かった。
私も切り替えて仕込みの作業を始めるが、先程の話が頭から離れない。
誰も言っていない嘘をつかされたうえに、それを周りに広めているってどういうこと?
味方を作るために外側を固めようっていう考えだとしたら?
……小学生の苛めか。いや、小学生でももっと利口な嘘をつくぞ。
トーストの上に乗せるバターを切り分け、小分けでラップに包む作業を終えたところで、事務所の出入り口からひょっこりと顔を覗かせた店長に呼ばれる。
「久野さん、ちょっといい?」
「はーい……!?」
顔を上げて声のする方へ顔を向けると、私は驚いて一歩下がった。
「久野さん? どうしたの?」
不思議そうな顔をして店長が聞いてくるが、私は眉間にしわを寄せながら、店長が体の半分を出入り口から出した右腕を凝視していた。私が同じ体勢で固まっていたせいか、気になった店長がこちらへやってくる。
「え、大丈夫?」
「……えっと」
「どうしたの? 何かついてる?」
はい。――とは言えなかった。
これはきっと目の錯覚だ。
店長の右腕に黒い靄のようなものが巻き付いているのが見える。しかし、店長はいつもと変わらない表情で話してくるし、軽々と右腕を上げている。おそらくこれは本人には見えておらず、影響もなさそうだった。
そういえば、行きの電車の中で見たサラリーマンの肩に乗っていたものによく似ていた。すぐ消えてしまったから気にしていなかったけど、まさかここで見るとは。
……となると、これは本当に目の錯覚かもしれない。
そうだ、きっと考えすぎて疲れているんだ。そう自分に言い聞かせて顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
「そう? あのね、残りの日数で使う有休の件なんだけど、現場勤務が今月までって感じで申請しちゃえば楽だから、俺が適当に入れて来月全部有休扱いにしていいよね?」
「ちょっ……ちょっと待ってください!」
淡々と話を進めようとする店長を慌てて止める。
事務所に行って話すならまだしも、職場のカウンターでお客様の目の前でその話をするか?
接客している石田さんや原田さんにも聞こえたのか、空気を読んでお客様を遠ざけてくれた。それにちっとも気付かない店長は、更に話を続けようと口を開きかけて首を傾げた。
三十路手前の男性がやることじゃない、空気を読んでくれ!
「有休どころか、昨日の話もまだ納得できていないのに勝手に決めないでください。それに有休って、店長が勝手に決めるものじゃないでしょう?」
「あれ? どうして?」
「どうしてって……」
「だってたかが食材の保存一つで愚痴を言う人を、いつまでも置いておけるわけないでしょ? これは久野さんの為でもあるんだよ。この間も言ったけど、新しく入ってきた人に悪影響を与えない為にも、長々居られると困るんですよねぇ」
――たかが食材の保存一つ「で」?
眉を寄せて困った表情を浮かべながら話す店長に苛立ちを覚える。食品を扱う職種で、店長の立場で衛生責任者の資格を持つ人間が口にして良い言葉ではない。
ふざけるな、と口を開こうとすると、右腕の黒い靄が胴体に巻き付くように広がったのを見て息が止まった。靄はまるで心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻みながら動きながらゆっくりと胴体から左肩へ向かっていく。店長を見ても相変わらず何が悪いの、とでも言いたげな顔をしているだけで、靄には気付いていない。
なるべく靄を見ないように、平常心を装って口を開く。
「……店長の言い分には納得できません。あんな理由で解雇を言い渡されても、退職届を渡されても書けません。マネージャーと三人で面談させていただけませんか」
「えー……マネージャーも忙しいんだよ?」
店長が困ったように笑うと、靄はまた少しずつ動いた。なんだか気持ち悪くなって、思わず目線を少し下へ逸らす。
「私、まだここで働いていたいんです。考え直していただける部分がきっとあると思うんです」
「……できるかはわからないけど、連絡はしときますね」
店長はそう言って、少し拗ねた顔をして事務所へ戻っていく。ドアが閉まると同時に、はあ、と大きな溜息を吐いてその場に蹲った。出勤してまだ五分。私は何しに来たんだろうと憂鬱になる。
……今日、もう仕事したくない。
お客様の対応を終えた石田さんが「大丈夫か」と声をかけてくれた。私に向ける憐れんだ表情が、今はものすごく痛い。
「まさかここで話すとは……俺もビックリしたよ」
「ええ、しかも店長の腕に黒い靄みたいなのが動いてたから気持ち悪くて……」
「靄? なんだそれ。幻覚でも見えてんの?」
「…………あれ?」
「原田、ヤバいぞ。久野が幻覚を見始めてる!」
幻覚が見えるほど精神的に追い詰められていると思われたのか、先輩二人には心配され、併設のショップスタッフには体調不良だと思われてオレンジの飴を貰った。
休憩中に落ち着かせようと本を読んでいても、どうしても店長の話が頭から離れない。
それからは何事もなく仕事をこなしたが、早番で入っていた石田さんと店長が上がりの時間になると、そそくさと荷物をまとめた店長がさらっと「再来週の出勤時に面談します」とぶっきらぼうに言って帰ってしまった。
「来週とか急すぎじゃね? いや遅いか?」と苦笑いで話す原田さんを横目に、自棄になってラテアートの練習を続ける。
勿論、最悪の精神状態の中で満足できる絵柄は一つも描けなくて、ただただ苛立ちしか残らなかった。