*
――これはウチの古本屋に置いてあった本の話なんだけどさ。
本、といっても最近の文庫本や単行本といった、綺麗に装丁されたモンじゃあない。ボロボロの紙で所々煤で汚れて読めない、落書きを詰め合わせた和装本さ。
辛うじて読めた表紙には、『滑瓢』……つまり、ぬらりひょんって書いてあったんだ。
ちなみにぬらりひょんって知ってる?
悪いことはしないが、夕方になると何処からともなくやってきて、人の家に上がりこむんだ。皆が忙しくしている中で、呑気にお茶をすすっている妖怪でね。そしてまた来た時と同じように、ぬらりくらりとどこかへ行ってしまうんだって。
そんな気分屋の妖怪の名前がどうしてその和装本に書かれていたのか、ボクにもわからなくてねぇ。
なんだか気味が悪かったから、間違って売らないように店の奥にある書庫に置いたんだ。
その後は店番をしていたけど、どうしてもあの和装本が気になって仕事が手につかなくて、閉店したあとすぐ書庫に戻った。
するとそこには、確かに置いたはずの和装本が無くなっていたんだ。
ボクは思わず声を上げて驚いてしまったよ。
困ったもんだよ。店に出入りしていたのは店主であるボクだけだったからね。
焦ったボクは、知り合いの妖怪マニアに電話したんだ。それによると、ぬらりひょんは【妖怪の総大将】って呼ばれていたんだって。
なんでも、珍しく几帳面なぬらりひょんが遥か昔にいたんだって。彼は配下にある妖怪たちの名前を和装本に書き込んで、懐に隠し持っていたらしいんだ。
……ボクは思うんだ。
あれは、ぬらりひょんが書庫にあったあの和装本を取り戻しにきたんじゃないかって。
だって【彼】はいつ間にかその場にいて、いつの間にか消えている。
……そんな存在だからさ。
――まぁ、実際は部屋の奥の窓が空いていて、入ってきた野良猫がツメを研いで更にボロボロにしていたんだけどね。
*
盛大に滑ったオチがつくと、店内は本谷さんを茶化す笑い声に包まれ、そのまま酒を煽って世間話へと戻っていく。今の話を彼らがどう捉えたのかはわからないけど、少なくとも私には内容は全く入ってこなかった。
ふとスマートフォンの画面に目を向けると、表示された時間は既に二十三時を越えようとしていた。
飲みかけのティーロワイヤルを一気に煽って、ヒロさんにお会計の声をかける。
「久野ちゃん、いつまであの店続けるの?」
「どうしようかな……とりあえず明日も入っているから相談してみようとは思います」
「んん? 何かあったのかい?」
隣の席だから聞こえたのか、お節介のように本谷さんが割り込んでくる。働いている店でクビを宣告されたと簡単に答えると、本谷さんは少し考え込んで口を開いた。
「お嬢さんはどうしてその店を続けたいんだい?」
「え?」
「だってクビを宣告された割には、落ち込んでいるようにはあまり感じられない。自分にも悪い部分があったと認識していて、なおかつ正当な理由での解雇でないことに腹を立てている。お嬢さんが店に残りたいと思う理由はどこにあるんだい? 初めましてのボクが言うのもどうかと思うけど、お嬢さんの軸と店のコンセプトが噛み合っていないように見受けられる。お嬢さんが無理に合わせに行くよりも、抜け出した方がお互いの為になるんじゃないかな」
「残りたい、理由……」
言われてみれば確かにそうだ。
店のゆったりとした空間が心地よくて、働いているスタッフ同士でいろんな知識や技術を共有できる環境が好きだった。今の店長が来てからあまり共有することも少なくなったけど、社員がシフトに入っていないときはいろんな豆の飲み比べをしたり、ラテアートの練習をしていた。
消費する牛乳や練習用のコーヒー豆は経費として落ちているものの、他の店では絶対に経費削減のために自己負担とされる部分を、この店では社員が都合をつけてくれている。
他の店ではできないことができる――その環境があるからこそあの店で働いていたい、残りたいとは思う。
それでも最低限の衛生面や飲食店としてのルールは曖昧のまま線引きされてはいけないものであって、立場が違えど同じ店で働く人間として、指摘することのどこが間違っていたのだろうか。
「まぁ、所詮アルバイトって使い捨てみたいなところがあるからね。有休だけしっかり貰って、次の新しいところ探してみなよ。掛け持ちの方に専念するのいいと思うし。……って、久野ちゃん大丈夫?」
ヒロさんの言葉で引き戻される。こんなところで考え込んでいても仕方がない。
「は、はい。すみません。ごちそうさまでした」
「はいはーい。おやすみなさーい」
床に置いた荷物を持って外に出ようとすると、「お嬢さん」と本谷さんから呼ばれて振り返る。
「気を付けなさい。考えすぎるのは誘惑の始まりさ。――特にキミみたいな子が夜にうろついていると、【良くないもの】に目をつけられちゃうからね」
――と。
酔っ払いで賑わうこの空間だけが、時間の流れが止まったかと錯覚する程の静寂に包まれたかと思えば、打って変わった冷めた声色で話す本谷さんに、思わず息を呑んだ。
「それって、どういう……」
「ヒロさん、ボクにお代わり頂戴!」
詳しく聞こうとすると、本谷さんは私の声を遮るようにヒロさんに注文を投げながら店の奥にいる常連さんに紛れていった。
僅か数十秒の時間でがらりと変わった本谷さんは幻だったのかもしれない。問い詰めるのは無駄だと察した私は、ヒロさんに小さく会釈をしてバーを出た。
しっかりとした足取りで家路につくも、程よくアルコールが回っているのがわかる。頭痛や吐き気は今のところ感じられないものの、ぼんやりとした思考でこれからについて考えていた。
一人暮らしである以上、掛け持ちで働いているアルバイトだけでは厳しい。何よりこのご時世で、すぐに雇ってくれる会社が果たしていくつあるだろうか。
はたまた、ろくに学もなく約五年間ほど調理の勉強だけしてきた私に、飲食以外で働くことができるのか。
あの店で同じことができる店を見つけたとして、私はそこで何をしたいのだろう。例えばコーヒーの焙煎度合いによって淹れ方が変わることを勉強するとか、はたまた、ラテアートを極めて大会に出場するとか。それとも、厨房に入って調理の技術を身につけるとか。
あの店で二年くらい働いていたけど、どれも中途半端に脱線してしまった気がする。そもそも、厨房にいるのがつまらなくて、人と接する機会が多い職場を探していたはずだ。
「私……何がしたかったんだっけ?」
人気のない大通りから離れた道で、不意に出てきた言葉に、鼻の奥がツンとして思わず鼻と口を掌で覆った。
ああ、考え出したら不安しか出てこない。
正直な話、店長と一緒に仕事はしたくないし、顔も見たくない。それでも有休を今後シフトにどう組み込むか相談しないといけないから、嫌でも話さなければならない。
弱気になっていては店長の思う壺だ。ダメ元でクビを取り消してもらえないか交渉してみよう。少しだけ前向きに考え始めたところで、住んでいるアパートまで来ていたことに気付いた。
鍵を開けてドアノブに手をかけようと手元を見ると、普段ならあまり入っていることのない郵便受けに大きいサイズの封筒がはみ出していた。
引っ張り出してから家の中に入って明るい場所で確認する。
宛先や差出人は書かれておらず、切手も伝票も貼っていない。雑誌が入りそうなサイズにしてはかなり空間が余っているようだった。
開いてみると、中には数センチの紙の束が入っていて、慎重に取り出して机の上に置く。
紺色の厚紙で挟まれ、片側を紐でくくって束ねている和装本らしきそれは、捲るとところどころ煤で汚れていた。表紙であろう面の中心には四角で囲まれた中に文字のようなものが書かれているが、水で滲んでしまったのか、読み取ることができない。パラパラとページをめくるも、全ての文字がぼやけていて到底読めるものではなかった。
「……誰かの悪戯?」
落書きにしか見えない紙の束を眺めながら、どこかで聞いたような話が過る。
どこだっけ?
「……まあ、いっか」
酔いの回った頭で考えたところで何も浮かばない。和装本をテーブルに置いて、一気に押し寄せ来た睡魔に負けた私は、お風呂にも入らずにそのままベッドへ倒れ込んだ。
眠気を引きずるように目を覚ました私は、枕元に投げ出したスマートフォンの画面を見て、いつもより早く起きたことに安堵した。
昨日の店長の話が頭から離れなくて眠れないのでは、とカクテルをほぼ強引に注文したのがよかったのか、おかげでいつも通りの睡眠時間を確保できたようだ。こればかりはアルコールへの耐性が弱い自分の体に感謝した。
それでも慣れない身体には負担がかかっているようで、若干の頭痛と吐き気が残っている。ベッドから這い出るのもやっとだった。
「……二日酔いの人ってこんな感じなのかな」
しくじったと思いつつ、大きな欠伸を繰り返しながら支度をして店へ向かった。
普段乗っている朝の電車は、休日だからか空席が目立っている。適当に空いている席に座って、イヤフォンジャックをつけたスマートフォンを操作した。
乗り換えも含めて片道一時間もかかる通勤も、好きな音楽さえあれば苦にならない。今日もお気に入りの曲を再生して顔を上げると、目の前にはくたびれたスーツ姿のサラリーマンが、鞄を抱えるようにして船を漕いでいた。
世間一般には休日なのに出勤だなんて、労働に気配りのない世の中だなと思っていると、サラリーマンの肩に何か黒い靄のようなものが見えた。
「…………?」
サラリーマンがかくん、と首を動かす度に、黒い靄が肩にのしかかっているように見えて、時々しかめっ面になっている。
これは起こした方がいい? それよりもあの人には黒い靄が見えるの?
一度服の袖で目を擦ってまたサラリーマンを見るが、肩はおろか、車両内を見回しても黒い靄は見当たらない。
そういえば前に「酒に酔っているか確認するのに手っ取り早い方法は、一つのコップをテーブルに置くこと」だと聞いたことがある。コップは一つしかないのに、酔っている人にはブレて複数あるように見えることがあるとか、ないとか。
……まさかここにきてまで昨日のお酒が残っているとか?
寝起きの頭痛と吐き気は、朝のシャワーと頭痛薬のおかげで大分抜けたはずだが、流石に簡単にアルコールを外へ出すのは難しいらしい。
見間違えだと言い聞かせて、流れてくる曲が変わると同時に目を閉じた。
*
私が働いているカフェは、有名メーカーの携帯用充電バッテリーを取り扱った専門店の奥に併設されている。
カフェとしての利用は勿論、バッテリーを購入した流れでカフェを利用するお客様も多い。
しかし、充電バッテリーという商品上、頻繁にお客様の出入りがあるわけではない。だからこそカフェがあるのかもしれないが、なかなか売上が伸びないのが現状だ。
昼過ぎから閉店後の閉め作業までの遅番シフトは約二年間も働いていれば慣れたもので、今日も従業員用入口から入って支度をする。席数が少なくて長居するお客様が多いため、シフトに入っている人数も四人いれば店をまわすことも容易い。
私が出勤してきたことに目もくれず、店長が忙しなく事務所から出たり入ったりを繰り返しているのを横目に、支度を済ませてカウンターに入ると、朝のシフトで入っていた先輩の石田さんが眉をひそめて聞いてきた。
「久野、昨日大丈夫だった?」
「えーと……誰から?」
「店長からちょっと」
最悪だ。了承もしていないのにもう勝手に話を進めているなんて。
私の顔を察したのか、石田さんは渋った顔をした。
「マジか……それ、結構ヤバいね」
「ダメ元で三カ月だけでも伸ばしてもらおうかと思っていますけど、どこまで話を聞いてもらえるか……」
「マネージャー……も信用できないな。話すだけ無駄な気がする」
石田さんと同じタイミングで溜息を吐く。
というのも、「僕は現場を見ていないので判断できないのですが……」がお決まりの台詞である店舗マネージャーは、アルバイトの話を聞いてわかりましたと一度答えても、これまた自己解釈で都合の良い方向にした話を作って物事を進めていくタイプの人間だ。
社員と揉めたときも間に入ることなく、「僕は関係ないので巻き込まないでください」と言わんばかりの無干渉さに、石田さんを含む先輩方には信用されていない。
がっくりと肩を落としていると、カウンターに同じ遅番の原田さんが入ってきた。原田さんも店長から話を聞いたそうで、苦笑いをした顔で聞いてくる。
今日は一体、何度この話をすればいいんだろう。
「本当に駄目だな……」
「でもこの時期に久野が抜けたら店回らねぇよ? 俺も原田も土曜日出れないし」
「それに関しては……申し訳ないとは思ってる……」
「いや、これは誰も悪くないです。体を休めることも、家族との時間も大切ですから」
石田さんも原田さんもこの店を中心に働いているけど、家族のために掛け持ちで働いている。忙しい中でも、土曜日だけは家族の日として必ず休みを取るようにしている。
そのため毎週土曜日の出勤は決まって店長と、特に予定のない私が固定されたようにシフトを組まれていた。それでも足りないときは、奥山さんが都合をつけて入ってくれている。
そういえばこの間、店長が「妻子持ちは土曜日働いてくれないから」と笑ってお客さんに愚痴ってたっけ。表に出て仕事をしないくせに、どこまで考え方が最低なんだろう。
余計なことを思い出してモヤッとしていると、原田さんが聞いてくる。
「久野、これからどうすんの?」
「飲食で働けそうなところは探してますけど、とりあえず交渉してー……あー……」
唸りながら眉を顰める。おかしな顔をした私に、二人が首を傾げた。
「どうした?」
「えーっと……なんか、同じシフトに入りたくないって言ってる人がいるらしくて、それを考えるとバッサリ辞めた方がいいのかなって……思ったり思わなかったり」
昨日の店長の話だと、原田さんと奥山さんが「私と働きたくない」と相談していたらしい。もしそれが本当なら、目の前にいる原田さんは店長に告げ口した側になる。気まずい空気になりそうになって慌てて誤魔化すが、原田さんが間髪入れずに口を開いた。
「それって俺や奥山さんが一緒に働きたくないって相談されたとか言われた?」
「え……?」
「やっぱり……。俺も奥山さんもそんなこと一言も言ってない。本当に嫌だったらシフトずらして入るし、ラテアートもコーヒーの雑学も教えないでしょ」
言われてみれば、確かにそうだ。
シフトはともかく、雑学やラテアートの技術は自分で教えてほしいと言ったものの、先輩は参考資料や情報サイト、珍しい豆で淹れたコーヒーの試飲や特徴を細かく教えてくれた。
「もし仮にそういう話をしていたとしても、まず店長には言わないよ。駄目なことしているときは俺達から直接言ってるし。つか、他のバイトには『俺らが久野が嫌いだから仕事したくないって言ってるからどうしよう』って困った顔でぼやいていたらしいよ」
…………はい?
「それって嘘をばら撒いてるってこと?」
「聞いた話だと、店長がここにきて半年経ったくらいからずっと言ってるって。かなりヤバイよ」
「うわぁ……昨日の話といい、サイコパスかよ」
原田さんの話に石田さんは身震いする。
丁度そこへお客様が入ってきたので、石田さんが接客に戻る。「とりあえず気にするな」と言って原田さんも連絡ノートを確認しながら持ち場に向かった。
私も切り替えて仕込みの作業を始めるが、先程の話が頭から離れない。
誰も言っていない嘘をつかされたうえに、それを周りに広めているってどういうこと?
味方を作るために外側を固めようっていう考えだとしたら?
……小学生の苛めか。いや、小学生でももっと利口な嘘をつくぞ。
トーストの上に乗せるバターを切り分け、小分けでラップに包む作業を終えたところで、事務所の出入り口からひょっこりと顔を覗かせた店長に呼ばれる。
「久野さん、ちょっといい?」
「はーい……!?」
顔を上げて声のする方へ顔を向けると、私は驚いて一歩下がった。
「久野さん? どうしたの?」
不思議そうな顔をして店長が聞いてくるが、私は眉間にしわを寄せながら、店長が体の半分を出入り口から出した右腕を凝視していた。私が同じ体勢で固まっていたせいか、気になった店長がこちらへやってくる。
「え、大丈夫?」
「……えっと」
「どうしたの? 何かついてる?」
はい。――とは言えなかった。
これはきっと目の錯覚だ。
店長の右腕に黒い靄のようなものが巻き付いているのが見える。しかし、店長はいつもと変わらない表情で話してくるし、軽々と右腕を上げている。おそらくこれは本人には見えておらず、影響もなさそうだった。
そういえば、行きの電車の中で見たサラリーマンの肩に乗っていたものによく似ていた。すぐ消えてしまったから気にしていなかったけど、まさかここで見るとは。
……となると、これは本当に目の錯覚かもしれない。
そうだ、きっと考えすぎて疲れているんだ。そう自分に言い聞かせて顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
「そう? あのね、残りの日数で使う有休の件なんだけど、現場勤務が今月までって感じで申請しちゃえば楽だから、俺が適当に入れて来月全部有休扱いにしていいよね?」
「ちょっ……ちょっと待ってください!」
淡々と話を進めようとする店長を慌てて止める。
事務所に行って話すならまだしも、職場のカウンターでお客様の目の前でその話をするか?
接客している石田さんや原田さんにも聞こえたのか、空気を読んでお客様を遠ざけてくれた。それにちっとも気付かない店長は、更に話を続けようと口を開きかけて首を傾げた。
三十路手前の男性がやることじゃない、空気を読んでくれ!
「有休どころか、昨日の話もまだ納得できていないのに勝手に決めないでください。それに有休って、店長が勝手に決めるものじゃないでしょう?」
「あれ? どうして?」
「どうしてって……」
「だってたかが食材の保存一つで愚痴を言う人を、いつまでも置いておけるわけないでしょ? これは久野さんの為でもあるんだよ。この間も言ったけど、新しく入ってきた人に悪影響を与えない為にも、長々居られると困るんですよねぇ」
――たかが食材の保存一つ「で」?
眉を寄せて困った表情を浮かべながら話す店長に苛立ちを覚える。食品を扱う職種で、店長の立場で衛生責任者の資格を持つ人間が口にして良い言葉ではない。
ふざけるな、と口を開こうとすると、右腕の黒い靄が胴体に巻き付くように広がったのを見て息が止まった。靄はまるで心臓の鼓動のように、一定のリズムを刻みながら動きながらゆっくりと胴体から左肩へ向かっていく。店長を見ても相変わらず何が悪いの、とでも言いたげな顔をしているだけで、靄には気付いていない。
なるべく靄を見ないように、平常心を装って口を開く。
「……店長の言い分には納得できません。あんな理由で解雇を言い渡されても、退職届を渡されても書けません。マネージャーと三人で面談させていただけませんか」
「えー……マネージャーも忙しいんだよ?」
店長が困ったように笑うと、靄はまた少しずつ動いた。なんだか気持ち悪くなって、思わず目線を少し下へ逸らす。
「私、まだここで働いていたいんです。考え直していただける部分がきっとあると思うんです」
「……できるかはわからないけど、連絡はしときますね」
店長はそう言って、少し拗ねた顔をして事務所へ戻っていく。ドアが閉まると同時に、はあ、と大きな溜息を吐いてその場に蹲った。出勤してまだ五分。私は何しに来たんだろうと憂鬱になる。
……今日、もう仕事したくない。
お客様の対応を終えた石田さんが「大丈夫か」と声をかけてくれた。私に向ける憐れんだ表情が、今はものすごく痛い。
「まさかここで話すとは……俺もビックリしたよ」
「ええ、しかも店長の腕に黒い靄みたいなのが動いてたから気持ち悪くて……」
「靄? なんだそれ。幻覚でも見えてんの?」
「…………あれ?」
「原田、ヤバいぞ。久野が幻覚を見始めてる!」
幻覚が見えるほど精神的に追い詰められていると思われたのか、先輩二人には心配され、併設のショップスタッフには体調不良だと思われてオレンジの飴を貰った。
休憩中に落ち着かせようと本を読んでいても、どうしても店長の話が頭から離れない。
それからは何事もなく仕事をこなしたが、早番で入っていた石田さんと店長が上がりの時間になると、そそくさと荷物をまとめた店長がさらっと「再来週の出勤時に面談します」とぶっきらぼうに言って帰ってしまった。
「来週とか急すぎじゃね? いや遅いか?」と苦笑いで話す原田さんを横目に、自棄になってラテアートの練習を続ける。
勿論、最悪の精神状態の中で満足できる絵柄は一つも描けなくて、ただただ苛立ちしか残らなかった。
閉め作業も終わって帰路につく。電車に乗っていると、スマートフォンに飴をくれたショップスタッフから『体調はどう?』とメッセージが届いた。
迷惑かけちゃったな、と思いつつ、「ありがとうございます」と打った後にスタンプをつけて送る。
無理をしないでね、か。
そんなことを言われても、来週で今後が決まるとか、考えたくない。
それに原田さんが言ったことも本当かどうかも見極めなければいけない。原田さん達には今まで一緒に働いてきたから信頼しているし、あの店のアルバイトは皆味方だと思っている。それでも急展開に付いていけない頭が、全てに対して疑心暗鬼になってしまっている。
「……どこで間違えたかなぁ」
小さく呟いても聞こえてくるのは電車の揺れる音だけだった。
最寄りの駅を降りて慣れた商店街を通る。今日はヒロさんのバーは定休日なので、いつもより人通りは少ない。こんなにも静まり返っている商店街は珍しい。
すると突然、背筋が凍る寒気がして思わず立ち止った。誰かに見られているような気がして、思わず身体を抱き締めるようにして辺りを見回す。
夜の十時を過ぎた商店街に人気はなく、昨日とは打って変わって閑散とした空気が広がっている。稼ぎ時といってもいい夜の居酒屋でも定休日はあるのだから、店のシャッターが全て閉まっていてもおかしくはない。それがかえって気味が悪い。
いっそのことジョギングがてら走って帰ろうか。少しは寒気も無くなるだろう。そう思っていると、後ろから砂を踏みしめる音が聞こえた。
ああ、よかった。やっぱり人がいるじゃん。
安堵して振り返ると、そこには昼間に店長の体に巻き付いていた黒い靄を全身に包まれた、人型の何かが金属バットを引きずるようにして立ち止った。
人間……いや、人にしては体格が大きすぎる。まるで昔話に出てくるような、大男が棍棒を持っているようにしか見えない。何より黒い靄が全身を包み込んでいるから、顔の判別さえもできない。
『――――』
それは唸りながら何かを言うと、金属バットを思い切り振り上げた。
あ、これヤバイ。――嫌な予感を察して後ろへ下がろうとすると、足を何かに掴まれてそのまま後ろに倒れ込んだ。
「いった…………ひっ!?」
幸い背中のリュックがクッションになって頭を打つことはなかった。
すぐ起き上がって逃げようとすると、左足に黒い靄が巻き付いて動けなくなっていた。そして揺れ動く靄から、白くゴツゴツした骨の手が食い込むように掴んでいるのが見えると、思わず悲鳴を上げた。
これは夢? もしかして電車で寝過ごしてるんじゃないか。
きっとそうだ、これは夢なんだ! ――思い込もうとすればするほど、掴まれた左足が圧迫されて痛みを感じる。
大きな影が覆いかぶさるように現れると、高々と掲げた金属バットが勢いよく振り下ろされる。
どうやら私はこんなところで死ぬらしい。
恐ろしくて動けないし声も出せない。逃げられないと悟った私は、ぎゅっと目を瞑った。
「――――だから言ったじゃないか、お嬢さん」
どこか呆れた声が聞こえたと同時に、ズシン、と大きな音が辺り一帯に響き渡った。
そしてまた辺りが静まり返ると、からんと下駄の音が響いて、私のすぐ近くで止まった。
恐る恐る目を開くと、周りには青みを帯びた鬼火が浮かび、目の前には作務衣姿の本谷さんと白い狐を肩に乗せた青年の姿があり、その奥には先程まで金属バットを振り上げていた大男がひっくり返っていた。
目を瞑った一瞬の間に何が起きたのだろう。状況が呑み込めないまま驚いていると、靄を纏った骨の手がそっと握っていた左足から離れようとしていた。
すると、青年の肩に乗っていた白い狐が気付いて骨の手に飛びつくと、ひと噛みして砕いてパクパクと食べ始めたのだ。
目の前で起こっている出来事を凝視していると、本谷さんが昨日と同じように楽しそうな笑みを口元に浮かべて狐に向かって言う。
「おおっと、お菊さーん。食べちゃダメってこの間も言ったよねー? オイタがすぎるんじゃないかい?」
『別にいいじゃない。美味しそうだったんだもの』
「そうかい……? がしゃどくろの骨なんてスープにもならないよ、お菊には出汁の効いたきつねうどんがお似合いさ!」
『うどんもいいけどいなり寿司の方が好きよ。作間ぁ、帰ったら作ってくれる?』
「今日はもう遅いから、明日な」
『フフッ! 私も手伝うわ!』
「いいなぁ。見せつけてくれるその溺愛っぷりをボクにも分けてくれたらいいのにー」
本谷さんはそう言って笑うのを横目に、お菊と呼ばれた狐は青年の肩に戻ると、じっと私を見つめて言う。
『ねぇ、どうしてこの子から名簿の匂いがするの?』
「へ……め……めい、ぼ?」
『そう、名簿。鬼やがしゃどくろが狙ってたってそういうことよ? ……あ、そっか。人間の貴女には何も見えないし、名簿を持っていれば妖怪が居ても……ん? ってことはこの声も聞こえないはずよね……?』
狐が首をこてんと傾けながらも品定めするように見てくる。あざと可愛い容姿ながらも、目力の威圧感に押されて逸らせない。
名簿なんて知らないし、妖怪に狙われるようなことはしてない。そもそも妖怪なんて存在をどう信じろと?
……いや、それよりも、
「――しゃ、喋ったあああ!?」
『失礼な人間ね! 人様に指を向けないでよ!』
「いや狐! 人っていうより狐でしょ!?」
「菊、はしゃぎすぎ」
『はーい……作間、いつになくクールね? そういうところも好きっ!』
喋る狐が作間と呼んだ彼の頬に擦り寄ると、周りに浮いていた鬼火が嬉しそうに揺れる。
え、鬼火って狐の気分と同調するの?
「あははっ! こんなに楽しそうにしている二人は珍しいね。うんうん、良いことだ!」
二人に気を取られていると、本谷さんが後ろで腹を抱えて笑っていた。
「いやぁ、お嬢さん。左足は大丈夫かい? 随分しっかりと掴まれていたみたいだけど……ああ、見せなくてもいいよ。骨が折れていないから歩けるだろうけど、悪化させるのは良くない。作間くん、肩を貸してあげてよ」
『ちょっと、私の特等席を人間に使わせるの?』
「菊はいつも乗ってるんだからいいでしょ。怪我人が優先だよ」
彼は宥めながら喋る狐を地面に降ろすと、私の腕を引っ張って立ち上がらせてくれた。
昨夜、バーで本谷さんと一緒に入ってきた『きーくん』に似ていたけど、よく見れば髪は茶髪で、目の下の隈がくっきりと出ている。おそらく別人だろう。
「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。大した怪我じゃなくてよかった。とりあえず書店に行こう。確か、薬箱によく効く軟膏があった気が……」
「あーアレね! 美味しいよねぇ!」
「は……? もしかして食べたんですか?」
本谷さんは両頬を手で押さえながらとても嬉しそうに――身体が軟体動物かのようにぐねぐねと動いているのは照れ隠しだろうか――、呆れた顔で見ている青年を置き去りにして一人で語り始めた。
「もうね、ほんのり甘い香りが気になって気になって仕方がなくってさぁ! その軟膏は少し特殊でね、打撲や絞め痕に効果があるんだよ。……それにしても作間くん、ちゃんと【こちら側】の勉強してくれてるなんて、ボクは嬉しいよ! あ、ちなみにその軟膏はね、癖のある苦みと味気のない油が溶けると、まるでバターみたいな濃厚な……」
「気にしなくていいからね。いつもこんな感じだから、相手にしない方がいい」
「冷たい! 立派に育った鍾乳石を背後から貫かれたように冷たい!」
ジロッと彼が本谷さんを睨みつけると、更に頬が緩んで不思議な動きが増したのを見て確信する。ヒロさんが言っていた通り、悪い人ではないけど変人だ。
二人のやりとりについていけずに目を逸らすと、ひっくり返っている大男に纏った黒い靄が消えていた。そこに残ったのは頭から二つの角、口から牙を生やし、鋭い爪を持った鬼の姿だった。
「なに……あれ……」
『あら。もしかして……見えちゃった?』
足元から問いかける狐の声は、どこか嬉しそうだった。周りで揺れている鬼火からして、この状況を楽しんでいるのかもしれない。
恐る恐る狐がいる方へ目を向けて問う。
「あ……あああれって、見えちゃいけなかったものなの……?」
『そうねぇ。貴女にとっては視えない方が幸せだったかも』
「言っておくけど、ボクはちゃーんとキミに忠告したからね?」
先程と打って変わって、本谷さんの冷めた声色が辺りに響く。ついさっきまで変な動きをしていた人とは思えない真剣な顔つきで、私のリュックを指さした。
「キミ、昨晩帰るときにボロボロの紙束みたいなのを拾わなかったかい? ボクの勘が正しければ、そのリュックの中に入っていると思うんだよねぇ」
「紙束……?」
帰り道で紙束なんて拾ったっけ? 首を傾げて考えながらリュックの口を開くと、昨日郵便受けに入っていたボロボロの和装本があった。
「……え?」
帰ってからの記憶は少し曖昧だけど、鞄に入れた覚えはない。出かけるときもテーブルに置いてあるのを見かけてそれっきりだ。
酔いが回って勝手にリュックに入れた? いや、休憩中に本を取り出すときにはなかった。
慎重に和装本を取り出すと、昨日は汚れていた表紙の文字がはっきりと読めるようになっていた。
【滑瓢】
…………読み方がわからない。
しかめっ面で凝視していると、フフッと笑う声が聞こえた。
「それはね、【ぬらりひょん】って読むんだよ。何処からともなくやってきて人の家に上がり、呑気にお茶を飲んでその場に馴染んでいる。そしてまたぬらりくらりと、いつの間にか何処かへ行ってしまう妖怪さ」
本谷さんは私の前に来て和装本を指さすと、どこか懐かしそうに目を細めた。
「妖怪って……昔話に出てくる? このボロボロの本と何か関係があるんですか?」
「これが大アリなんだよ。その和装本はね、変わり者のぬらりひょんが、自分の配下にいる妖怪の名前を書き留めた名簿なんだ。煤だらけで読めないだろうけど、汚れの下には妖怪の名前が書かれているんだよ。そしてこの和装本を手にした者には、強力なぬらりひょんの妖力を受け継ぐことができるって有名なのさ」
「……えっと……?」
「ま、簡単な話。その本が唐突にやってきて、妖怪のくだらない争いにお嬢さんは巻き込まれちゃった! ……って感じかな?」
語尾に星や音符が見えるような、随分能天気そうな口調で訳の分からない怖い話をする本谷さんに、私は無言ながらも引きつった顔で固まった。
「あれ? お嬢さん、大丈夫かい?」
「……これが大丈夫に見えますか?」
「じゃないだろうね、うん。……おっと。この話はいったんここまでにしておこうか。鬼が起きてしまったようだ」
「へ……?」
本谷さんが笑ったと同時に、何か重い物が地面に落ちた音が響き渡った。
さっきも似たような音を聞いた気がすると思いながら音が聞こえた方へ向くと、ひっくり返っていた鬼がゆっくり起き上がって息を荒くし、こちらをギロリと飛び出した眼で睨みつけていた。
黒い靄はもうどこにもなく、ゴツゴツした体格に鋭い爪。先程の何かが落ちた音は、私に振り上げていた金属バット――ではなく、沢山の棘が付いた金棒を叩きつけると、衝撃で地面のコンクリートに亀裂が走っていた。
先程とは違う風貌に怖くなって思わずよろけると、本谷さんが肩を掴んで支えてくれた。
「無理はないさ。初めて妖怪を見る人間にとってアレはかなりショッキングだろう。最近の若い子は珍しいものを見かけたら、すぐSNSに拡散するから放置してそのまま傍観してるんだけど……お嬢さんは巻き込んじゃったから、お詫びにこの本谷さんが助けてあげよう! 有難く思いたまえ!」
「は……?」
「無駄話はいいから。本谷さん、さっさとその人連れてってください」
「おおっ! ってことは、キミ達に頼んじゃっていいのかい?」
『それとも貴方が金棒の藻屑になる? 良いわよ、残った骨は私が食べてあげる』
「それは大変だ! ささっ、お嬢さんこちらにどーぞ!」
「うわっ!」
青年と喋る狐に促されて――というより脅されて?――本谷さんは私の腕を掴んで走り出す。からんころん、と忙しなく下駄が鳴るのを構わずに商店街を走り抜けていく。
振り返ると、金棒を振り回す鬼のまわりを青白い鬼火がぐるりと囲んでいた。彼らは大丈夫だろうか?
「あの二人のことなら心配無用さ! お菊の鬼火に見とれている暇があるなら、自分の心配をした方が良いよ!」
「え?」
「言っただろう? 考えすぎるのは誘惑の始まりだと。夜は【良くないもの】が集まるご馳走の時間だからね」
周りの時間が止まるような静けさの中、あの時と同じように本谷さんは冷めた声色で言った。
駅の方から歩いて商店街に入るとあまり気付かないが、立ち並ぶ店の終わりには古びた木造建築が一軒建っている。
出入り口に掲げられた看板には「山田書店」と書かれており、この商店街の中で一番古い店らしい――と、ヒロさんが言っていたっけ。
本谷さんに連れられて書店に入ると、奥にある座敷に通された。外観の割には綺麗に整頓されており、田舎のおばあちゃん家に里帰りしたときの懐かしい匂いがした。
併設されているの台所で何かを落とす音が聞こえてきたけど、今の現状が理解できない私の耳にはほとんど入ってこない。
暫くして二つの湯呑を乗せたお盆を持って本谷さんが戻ってきた。
「何もないところで退屈だろうけど、せめてあの二人が帰ってくるまで待っててね。はい、お茶」
「あ、ありがとうございます……?」
受け取った湯呑に口を近づけようとすると、お茶の中で何かが浮かんでいるのに気付いた。
茶柱……にしては歪な形をしている。
「……これ、毒とか虫とか入ってたりとか……しませんよね?」
「んー? なんだーい?」
あ、なんか入れたなこいつ。
丸眼鏡ごしの笑顔を見ながら湯呑をちゃぶ台にそっと戻す。
鬼に襲われていたとはいえ、勢いでここまで連れてこられたのは何か企みでもあるのだろうか。確かにもし本谷さん達が来なかったら、今頃金棒の餌食になっていたのかもしれない。
黒い靄の下で見えた骨の手も、鬼の本来の姿もこの目で見てしまった。
これが夢でなければ何を信じればいい?
……いや、そもそも鬼に襲われること自体、にわかに信じ難いんだけどね?
とにかく今はこの変人と同じ空間にいることが何より怖い。まだ肩を貸してくれた青年の方がどれほどよかったことか。
落ち着かない私を見て、年季の入った座布団に座った本谷さんが見透かしたように笑う。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。彼らなら上手く切り抜けられるさ。ここ最近、商店街に出てくる鬼の数が頻繁に目撃されていてね。昨日の夜も一緒にいたんだよ?」
「え? でもバーには……」
「ん? ……ああ、そっか。丁度お嬢さんが帰った後に入ってきたから会ってないのか。それでも今日、初めて会った彼らがキミを逃がして鬼を鎮めようとした……なんて素晴らしい! これを運命の友情と呼ばずなんと言おう? どうだ、友情の記念として、ボクと乾杯しようじゃないか!」
「いや、意味がわからないんですけど……なんかダサいし」
「うわぁ……お嬢さんも冷たくあしらうタイプの子だね……いいねぇ」
あ、この人本当にヤバいかもしれない。
若干緩くなった口元と羨ましそうな眼の色から、身の危険を感じた。
「そんなことより、この状況を説明していただけませんか? どうして鬼に襲われたのか心当たりがないし、私には鬼も喋る狐も、名簿のことも信じられないんです。これって現実に起こってることですか? それとも私、帰ってる途中で死んじゃったとか? なんでもいいんです、教えてください!」
リュックから和装本を取り出してちゃぶ台の上に置く。ボロボロの和装本をじっと見つめた本谷さんは、丸眼鏡を直してから口を開いた。
「じゃあ話すけど――お嬢さんが商店街から入ってここに来るまで見えていたものは、全て現実に起こっていることだよ。キミ自身が電車で寝過ごしている訳でも、死んだわけでもない。その証拠と言っては何だが、キミの左足首にはがしゃどくろに掴まれた痕が残っている。あの時感じた恐怖も痛みも、本物さ」
本谷さんに言われて自分の左足を確認する。左足の丁度くるぶしの上あたりに、大きな細い五本の青紫色の線がくっきり残っている。痛みはもうほとんど感じないが、掴まれたとはっきり残った痕が気味が悪い。
「妖怪って、その……人間を襲ったりするんですか?」
「んー……なんとも言えないね。少なくともここら辺の妖怪は人間に友好的だよ。今回お嬢さんが狙われたのはおそらく、リュックに入っていた和装本が関係しているんだと思うんだよね」
「……この本、一体何なんですか?」
少し長くなるよ、と一言置いて本谷さんは語り始めた。
*
「さっきも少し話したけど、その和装本は遥か昔、【妖怪の総大将】と謳われたぬらりひょんが自分の配下にいる妖怪の名前を書き残した名簿なのさ。
ここ近辺の地域はそのぬらりひょんの領地でね、名簿に名前を書いて配下に置くことを交換条件として、妖怪がこの地で生活することを許可した。
勿論、よくテレビや漫画で見かける忠誠を誓う盃も交わしているよ。
名簿を作った理由はわかっていない。ただぬらりひょん自身が几帳面の変わり者で、身寄りのない妖怪を自分の領地に住まわせ、危機が迫った時にはすぐ駆け付けるほど、優しく慕われる存在だったと、彼らは皆、口をそろえて言っている。
そんなぬらりひょんがある日、忽然と姿を消した。
居なくなったかと思えば、すぐ戻ってくる彼の行動を知っている多くの妖怪たちは、いつものことだと思って誰も探すことをしなかった。短くて数時間後、長くて三日。遠い地域の領主に会いに行って一ヵ月戻ってこなかったこともあった。
それでも彼は必ず戻ってきた。だからこの日も誰も気に留めなかったんだ。
しかし、三か月が経っても帰ってこないことに嫌な予感がした妖怪たちは、ようやく近辺を探し始めた。
ぬらりひょんが帰ってくる気配は一向になかった。
するとそこに、一人の人間が彼らの前に現れて『渡してくれと頼まれた』と、名簿と共に手紙を差し出したんだ。
手紙にはぬらりひょんの字で、野暮用で領地を無期限で不在にすること、戻ってくるまで人間と共存することを命じると書かれていた。
更に名簿にかけられた妖術によって、一部の領地がぬらりひょんの力によって余所者の妖怪から守られていることがわかると、多くの妖怪が集まって生活するようになった。
――その領地がこの商店街周辺なのさ。
昼間の商店街でも妖怪が混ざっていたりするから、もしかしたらお嬢さんもどこかで会っているかもね。
しかし、名簿があるからといって領地が守られているとは限らない。
妖力は有限だ。妖怪が消えれば名簿の妖術は無効になる。近頃はどうやら結界が弱まっているようでね、余所者が入ってきてはぬらりひょんの名簿を寄越せと怒鳴り散らしている。実力行使の名残が残っている妖怪は、奪えば勝ちとでも思っているんだろうね。
実際に名簿にはかなりの妖力が込められている。しかも妖怪の総大将の妖力だ。欲しがらないわけがない。
いつしか『ぬらりひょんの名簿を手にすれば領地を統べる力を得る』と噂されるようになった。
最近、頻繁に鬼が商店街に現れているって言っただろう?
彼らは名簿の噂を聞きつけてやってきたんだ。彼らを見つけるたびに、商店街の妖怪が見回って追い出す日々が続いている。
困ったモンだよ。触れられないまじないが掛かっている名簿を、どうやって彼らに差し出せば良いんだろうね」
*