盛大に滑ったオチがつくと、店内は本谷さんを茶化す笑い声に包まれ、そのまま酒を煽って世間話へと戻っていく。今の話を彼らがどう捉えたのかはわからないけど、少なくとも私には内容は全く入ってこなかった。
 ふとスマートフォンの画面に目を向けると、表示された時間は既に二十三時を越えようとしていた。
 飲みかけのティーロワイヤルを一気に煽って、ヒロさんにお会計の声をかける。

「久野ちゃん、いつまであの店続けるの?」
「どうしようかな……とりあえず明日も入っているから相談してみようとは思います」
「んん? 何かあったのかい?」

 隣の席だから聞こえたのか、お節介のように本谷さんが割り込んでくる。働いている店でクビを宣告されたと簡単に答えると、本谷さんは少し考え込んで口を開いた。

「お嬢さんはどうしてその店を続けたいんだい?」
「え?」
「だってクビを宣告された割には、落ち込んでいるようにはあまり感じられない。自分にも悪い部分があったと認識していて、なおかつ正当な理由での解雇でないことに腹を立てている。お嬢さんが店に残りたいと思う理由はどこにあるんだい? 初めましてのボクが言うのもどうかと思うけど、お嬢さんの軸と店のコンセプトが噛み合っていないように見受けられる。お嬢さんが無理に合わせに行くよりも、抜け出した方がお互いの為になるんじゃないかな」
「残りたい、理由……」

 言われてみれば確かにそうだ。
 店のゆったりとした空間が心地よくて、働いているスタッフ同士でいろんな知識や技術を共有できる環境が好きだった。今の店長が来てからあまり共有することも少なくなったけど、社員がシフトに入っていないときはいろんな豆の飲み比べをしたり、ラテアートの練習をしていた。
 消費する牛乳や練習用のコーヒー豆は経費として落ちているものの、他の店では絶対に経費削減のために自己負担とされる部分を、この店では社員が都合をつけてくれている。
 他の店ではできないことができる――その環境があるからこそあの店で働いていたい、残りたいとは思う。
 それでも最低限の衛生面や飲食店としてのルールは曖昧のまま線引きされてはいけないものであって、立場が違えど同じ店で働く人間として、指摘することのどこが間違っていたのだろうか。

「まぁ、所詮アルバイトって使い捨てみたいなところがあるからね。有休だけしっかり貰って、次の新しいところ探してみなよ。掛け持ちの方に専念するのいいと思うし。……って、久野ちゃん大丈夫?」

 ヒロさんの言葉で引き戻される。こんなところで考え込んでいても仕方がない。

「は、はい。すみません。ごちそうさまでした」
「はいはーい。おやすみなさーい」

 床に置いた荷物を持って外に出ようとすると、「お嬢さん」と本谷さんから呼ばれて振り返る。

「気を付けなさい。考えすぎるのは誘惑の始まりさ。――特にキミみたいな子が夜にうろついていると、【良くないもの】に目をつけられちゃうからね」

 ――と。
 酔っ払いで賑わうこの空間だけが、時間の流れが止まったかと錯覚する程の静寂に包まれたかと思えば、打って変わった冷めた声色で話す本谷さんに、思わず息を呑んだ。

「それって、どういう……」
「ヒロさん、ボクにお代わり頂戴!」

 詳しく聞こうとすると、本谷さんは私の声を遮るようにヒロさんに注文を投げながら店の奥にいる常連さんに紛れていった。
 僅か数十秒の時間でがらりと変わった本谷さんは幻だったのかもしれない。問い詰めるのは無駄だと察した私は、ヒロさんに小さく会釈をしてバーを出た。