二年間働いていた飲食店を辞めて、一ヵ月が経った。
あれから掛け持ちで入っていた工場のアルバイトを増やし、時々商店街の手伝いをするようになった。
手伝いといっても、山田書店では本谷さんが私用で出かける時に店番をして、総菜屋「まめや」で一緒にお惣菜を作ったりしている。書店に居れば、お菊さんが膝の上で昼寝をするし、余ったお惣菜は持ち帰っていいと言われて有難く貰っている。豆太くんのおはぎを買いに、清音さんと牡丹くんが来ることもある。
以前よりも稼ぎは減ったが、その代わりに自分がしたいこと優先して働いている。ストレスで蕁麻疹の症状が出ていたのも、ここ一ヵ月ですっかり治っていた。飲食店で働いていたときよりも、睡眠時間は長く取れている気がする。
コーヒーを扱っているカフェで働きたいと思いつつ、また同じことがあったらがどうしようとトラウマ気味で、ここ暫くは求人サイトを開くのを躊躇っている。
いつになるかはわからないけど、もう少し経ってからまた面接を受けてみようとは思う。
結局、店があの後どうなったのかはわからない。
制服を返しに一度だけ寄って石田さん達と話してきたけど、店長の独裁国家は悪化する一方で、もう歯止めがきかないらしい。「久野は本当に良いタイミングで辞められたよ」と、アルバイト全員が苦笑いをしたくらいだ。
店長とマネージャーには、あの日以来会っていない。
私が二人の顔を見たくなかったのが本音だが、おそらく彼らも同じだろう。
噂を聞く限り、順調に会社の本部への道のりに進んでいるらしい。この先、いろいろバレて「何もできなくて可哀想」と冷ややかな視線に囲まれてしまえばいいと思う。……こういうこと、あまり言っちゃ駄目なんだけどね。
二人に住み着いた【百々目鬼】の行方も知らない。今頃彼らの体で優雅に暮らしているのかもしれないし、とっくに別の住処に移っているのかもしれない。
いろんな妖怪たちと出会ったからなのか、あれ以来黒い靄ではなく、ちらほらと妖怪の姿を見ることが多くなった。たまに電車の中で人間にちょっかいをかけている妖怪を見かけることもある。
たまに名簿を狙う余所者の妖怪が近付いてくるけど、作間くんとお菊さんが助けてくれる。鬼火が頬をかすめることもあるけど。
ぬらりひょんの名簿は、未だに私の手元から離れようとしない。
もう大丈夫だろうと思って本谷さんに渡したものの、家に帰ると当然のようにテーブルの上に置かれていた。
相変わらず名簿はボロボロで汚れており、中のページは滲んでしまって読み取ることができない。しかし、最近になって表紙の【滑瓢】以外に読める箇所が出ていることが分かった。
煤で汚れ、墨が滲んだページの中に【小豆洗い】、【酒吞童子】、【百々目鬼】の文字がはっきり読み取れる。他にも【妖狐】や【雪女】などが浮かんでいるものの、うっすらとしか読めない。
浮かんできた名前はすべて私が商店街で出会った妖怪たちの名前なんだろうけど、なぜ浮き出ている文字と読めない文字があるのか。情報の整理に時間がかかって頭の中がパンクしてしまう私に、この謎は解けない気がする。
そういえば最近、本谷さんがよく出掛けることが多くなった。
店番を頼んでその日のうちに帰ってくるけれど、どこに行って何をしているのかは全くもって謎だ。一度だけ何をしていたのかと聞いてみたけど、いつもの笑みを浮かべてはぐらかされてしまった。
いつか、作間くんが本谷さんのことを「人と妖怪を傍観している変わり者」だと言っていた。
よく考えてみれば、山田書店の店主で変人であること以外、彼に関しては何も知らない。なぜ彼が妖怪について詳しいのか、名簿の存在をどこで知ったのか。
問い詰めても「書庫で読んだ」だの適当に理由を作るかもしれない。はたまた、責めるように問い詰めれば、奇妙な動きをしながら喜ぶのだろう。
工場のバイトもお手伝いもない日は家でゴロゴロとしていることが多いけど、今日は喫茶店の清音さんに「試食会するからおいで!」と声をかけてもらった。
名簿をリュックに詰めて家を出ると、春の日差しが心地よい。商店街へ向かって歩いていると、ふと何処から呼び止められた。
『久野さーん!』
「ん?」
聞き慣れた声が聞こえて顔を上げると、空に迂回しているカラスがこちらに向かって鳴いた。顔をしかめると、カラスは私の目の前に降りて、次第に人間の姿へ変えていく。
現れたのは、伝統の装束を身にまとった未空ちゃんだった。
『もう! 何回も呼んでたのに無視しないで! 未空ちゃんおこだよっ!』
「ご、ごめん! まさかその姿で呼ばれると思ってなくて……今日は郵便局の仕事じゃないの?」
郵便局の仕事をしている彼女の勤務態度は真面目で、日中の仕事中は制服を着て、バイクに乗って手紙を運んでいる。……本当は飛んで配達したいらしい。
それにしても、真っ昼間で本来の姿で装束を着ているのは珍しい。
『今日は遠くの領土の主から手紙を預かって戻ってきたの! でもこの後すぐ逆方向の領地へ行かないといけなくてさぁ。久野さん、これから商店街に行くんでしょ? 未空の代わりに渡しておいてくんない?』
「え? それ大丈夫なの?」
『いいのいいの! 別に変なモノが憑いている手紙じゃないし、何かあっても名簿が守ってくれるでしょ。ってことで宜しくね!』
なんて横暴な。
待ったをかける前に彼女は大きな黒い翼を広げて空へ舞い上がり、物凄いスピードで空を羽ばたいていった。もう肉眼では米粒にも見えない。
「相変わらず勝手だな……ん?」
受け取った手紙の宛先を見る。筆で達筆に書かれている名前に、目を疑った。
【時雨商店街 本谷時雨 殿】
「………しぐれ?」
すぐ思い浮かんだのが、商店街の妖怪たちが口にするぬらりひょんの愛称「しぐれさま」だ。
確かにこの漢字で「しぐれ」と読むけれど。そもそも商店街の「しぐれ」って、元は漢字表記だったの?
ふと、今までの本谷さんの行動を思い浮かべる。
いつの間にか居なくなったかと思えば神出鬼没に現れて、知らないうちに談笑に紛れてお茶を飲んでいる。
――まるでそれは、のらり、くらりと幻影のよう。
もし仮に本谷さんが妖怪だったとしたら、遠い領地に住まう主から手紙を送られることも在り得るかもしれない。
そしてなにより、商店街に住む妖怪たちが誰一人として、彼のことを「本谷さん」とは呼んでいるところを見たことがない。
「……まさかね」
頭の中に浮かんだ仮説に呆れて笑う。
人間と妖怪を見ている、人と妖怪を傍観している変わり者。相変わらず謎の多い人物だけど、すべてを知る必要はない。
例え変人でも、理不尽にクビにされたフリーターでも、誰かが自分勝手に否定した時間を自分が否定したことにしてはいけない。 自分が楽しいと思える人生であれば、それでいいのだ。
私は受け取った手紙をリュックに入れて歩き始める。アーチをくぐると、商店街は今日も活気で溢れて賑やかだ。
山田書店の前には、様々な古本が並べられ、店主の本谷さんがメガホン片手に行き交う人に語る。
「さぁさ、今日も興味深い古本が揃っているよ。おすすめはね、会社をクビにされたお嬢さんが妖怪に出会ったっていう、これまた珍しいお話さ!」
本谷さんの声が商店街中に響くと、町内会のおじさんが鬼の顔をして駆け寄ってきた。
一気に騒がしくなるこの土地が、【彼】の願う世界でありますように。
さぁ、どんな時間を過ごそうか。
〈了〉
人間は儚くて脆い。
自分たちが窮地に立たされたとき、神に祈りを捧げ、生まれたものを称え、祀る。そうして安心感を得たところを狙ったかのように、災害が起きた。
人々は皆、「神様が裏切った」と口々に言い合い、祀っていたものを引きずり出し、痛めつけ、疫病神だと罵った。
私も以前、ある村の守り神として生まれた狐だった。大して守れるようなことはできなかったのに、村人は私をよくしてくれた。不作の時期にも関わらず、いつも供え物を祠の前に置いてくれた。
何か恩を返したい。――そう思った私は、膨大な妖力と引き換えに、村に雨を降らすよう、山奥の水源に住まう蛇神と取引をした。
気に食わない奴だったが、蛇神は取引に応じて、村に雨を降らせてくれた。村人はとても喜んだ。
……そんな喜びも、それっきりだった。
雨は連日降り続くと、山で土砂崩れが相次ぎで起こり、とうとう村まで飲み込んでしまった。一気に押し寄せる土砂が逃げきれなかった家を、家畜を、人間を襲う。
なんとか土砂を食い止めようとするも、妖力のほとんどを蛇神に渡してしまった私は、何もできずにただただ見ていた。
山の上で高みの見物かのように大きな樹木に巻き付いてみている蛇神が見えて、私は何があったのかと問う。
すると、蛇神はニヤリと哂ってこう告げた。
『お前が妖力をくれたおかげで、ずっと狙っていた村を水の底へ沈めることができた』、と。
私が生まれる少し前に、村の水神として守ってきたものの、その姿を気味悪がった一部の村人が山へ追いやってしまったらしい。
いつか水に飲まれて村ごと沈んでしまえばいい。――追いやられたその日からずっと、蛇神は村に復讐する機会を狙っていた。
雨が止んで土砂崩れも収まる頃には、村は土砂に埋もれ、跡形もなくなっていた。
生き延びた村人は僅か数名で、やり直す術もない。全員が私を睨みつけた。
「こんなことになったのは、お前のせいだ!」
「どっか行け! この疫病神!
その場にあった手ごろな石を投げつけ、棒きれで叩き、罵倒を浴びせられた私は、体を引きずるようにして村人から離れた。
良かれと思って行動したことが裏目に出てしまった。
お前たちが望んでいたことを、私が余計なことをしてしまったから。
それからは、妖狐と名乗るには聞いて呆れるほど、私はとても弱い妖怪に成り果て、人間から離れた山の中でひそかに暮らしていた。
誰かに期待されたのに裏切ってしまうこと、誰かに傷つけられることがとても恐ろしくなった。たとえ同じ妖怪でも、どこか一線を引いて離れて見るようになった。何より、次第に妖力が弱くなっていき、この世から消えるのも時間の問題だったのが、正直な話だ。
このまま何事もなかったように消えていけばいい。ずっとそう願っていた。
――あの日までは。
***
何百年も月日が過ぎたある日、山奥でいつものように寝ていると、近くに人間の匂いが漂ってきた。
それと同時に、血の匂いが混ざっていることに気付いた私は、すぐさま匂いを辿った。匂いの元は崖の下にあり、覗き込んでみると、人間の子供が膝を抱えて蹲っていた。
私は崖を降りて子供の傍に駆け寄る。腕や膝、頬に擦り傷が見受けられたものの、上手く受け身を取ったのか、頭だけは無傷で気を失っているだけだった。
ひとまず私は子供を抱えてから離れ、住処にしている拠点地まで戻ると、昔よく村人が怪我をした子供にしていた手当を施す。
見ていただけでやり方などわからないが、とにかく近くにあった葉っぱと蔦を、布と包帯に変えて、野草と共に巻き付ける。
全ての手当を終えた頃には、痛みで顔を歪ませていた子供の顔はすっかり緩んでよく寝ていた。
子供の寝顔を横目に、なぜこんなところに人間の子供が一人でここにいるのかを考えていた。私がここを住処にしたのは、人間が立ち入らない場所だったからだ。
なんのために一人であの場に倒れていたのか。
「……僕ね、捨てられたんだよ」
いつの間にか目を覚ました子供が私を見て、畏れることなくはっきりとした口調で言った。
手当をするのに狐の姿だと難しいため、本来の姿でいた私を見て畏れない者などいないのに、子供は不格好に包帯が巻かれた手で、私に手を伸ばした。
「きれいだね、そのしっぽ。しろいきつねさん?」
――私が人間ではないことに、何も思わないのか?
「思わないよ。だってきれいだもの」
――きれい? 私が?
「そう。少なくとも、ぼくが出会ったひとたちにくらべたら、何倍もきれい」
「ね、人間ってかわいそうな生きものでしょう?」
人間の子供はそう言って、にっこりと私に向かって笑いかける。何百年ぶりの、懐かしい感覚だった。
***
人間の子供と出会ったその日から、子供は怪我をしたまま私を連れて山を下りた。
山の出入り口には紺色の帽子と洋服を纏った人間が何人もいて、何かを探していた。私は子供の言う通りに子犬の姿に化けると、子供は私を抱えて人間たちの前に出た。
「子犬を探していて迷子になりました」と半泣きの顔で人間たちに言う子供は、大きな荷車のようなものに乗せられ、山を下りた。
子供は子犬の姿の私を抱えたまま、人間たちになぜあの山に行ったのか、家族はどうした、などといろいろ聞かれていた。それについて淡々と答えていく子供は、悲しいことに答え慣れていた。
その後、人間たちから解放された子供と私は、「君のお母さんの親戚だよ」と優しく笑う家族のもとへ引き取られることになった。当時、子供は六歳で、小学校というものに入ったばかりだった。
私はその後、しばらく子犬として子供の傍に居座ることになる。学校へ行く子供を見送っている間は家族の誰かと共に行動し、帰ってくるのを待っていた。