工場のバイトもお手伝いもない日は家でゴロゴロとしていることが多いけど、今日は喫茶店の清音さんに「試食会するからおいで!」と声をかけてもらった。
名簿をリュックに詰めて家を出ると、春の日差しが心地よい。商店街へ向かって歩いていると、ふと何処から呼び止められた。
『久野さーん!』
「ん?」
聞き慣れた声が聞こえて顔を上げると、空に迂回しているカラスがこちらに向かって鳴いた。顔をしかめると、カラスは私の目の前に降りて、次第に人間の姿へ変えていく。
現れたのは、伝統の装束を身にまとった未空ちゃんだった。
『もう! 何回も呼んでたのに無視しないで! 未空ちゃんおこだよっ!』
「ご、ごめん! まさかその姿で呼ばれると思ってなくて……今日は郵便局の仕事じゃないの?」
郵便局の仕事をしている彼女の勤務態度は真面目で、日中の仕事中は制服を着て、バイクに乗って手紙を運んでいる。……本当は飛んで配達したいらしい。
それにしても、真っ昼間で本来の姿で装束を着ているのは珍しい。
『今日は遠くの領土の主から手紙を預かって戻ってきたの! でもこの後すぐ逆方向の領地へ行かないといけなくてさぁ。久野さん、これから商店街に行くんでしょ? 未空の代わりに渡しておいてくんない?』
「え? それ大丈夫なの?」
『いいのいいの! 別に変なモノが憑いている手紙じゃないし、何かあっても名簿が守ってくれるでしょ。ってことで宜しくね!』
なんて横暴な。
待ったをかける前に彼女は大きな黒い翼を広げて空へ舞い上がり、物凄いスピードで空を羽ばたいていった。もう肉眼では米粒にも見えない。
「相変わらず勝手だな……ん?」
受け取った手紙の宛先を見る。筆で達筆に書かれている名前に、目を疑った。
【時雨商店街 本谷時雨 殿】
「………しぐれ?」
すぐ思い浮かんだのが、商店街の妖怪たちが口にするぬらりひょんの愛称「しぐれさま」だ。
確かにこの漢字で「しぐれ」と読むけれど。そもそも商店街の「しぐれ」って、元は漢字表記だったの?
ふと、今までの本谷さんの行動を思い浮かべる。
いつの間にか居なくなったかと思えば神出鬼没に現れて、知らないうちに談笑に紛れてお茶を飲んでいる。
――まるでそれは、のらり、くらりと幻影のよう。
もし仮に本谷さんが妖怪だったとしたら、遠い領地に住まう主から手紙を送られることも在り得るかもしれない。
そしてなにより、商店街に住む妖怪たちが誰一人として、彼のことを「本谷さん」とは呼んでいるところを見たことがない。
「……まさかね」
頭の中に浮かんだ仮説に呆れて笑う。
人間と妖怪を見ている、人と妖怪を傍観している変わり者。相変わらず謎の多い人物だけど、すべてを知る必要はない。
例え変人でも、理不尽にクビにされたフリーターでも、誰かが自分勝手に否定した時間を自分が否定したことにしてはいけない。 自分が楽しいと思える人生であれば、それでいいのだ。
私は受け取った手紙をリュックに入れて歩き始める。アーチをくぐると、商店街は今日も活気で溢れて賑やかだ。
山田書店の前には、様々な古本が並べられ、店主の本谷さんがメガホン片手に行き交う人に語る。
「さぁさ、今日も興味深い古本が揃っているよ。おすすめはね、会社をクビにされたお嬢さんが妖怪に出会ったっていう、これまた珍しいお話さ!」
本谷さんの声が商店街中に響くと、町内会のおじさんが鬼の顔をして駆け寄ってきた。
一気に騒がしくなるこの土地が、【彼】の願う世界でありますように。
さぁ、どんな時間を過ごそうか。
〈了〉