淡々と話し終えると、一気にビールを煽る。空になった瓶をカウンターに置くと、察していたのか、大和田さんがスッと新しいクラフトビールを差し出した。すでに何本目かもわからないビールを受け取って、嬉しそうに目を細めた。

「……ちょっと待ってください」

 取り憑かれたことのある人間が見えるのなら。――私は?

 いくら知らなかったとはいえ、大和田さんとはよくバーで話していたし、彼が作るお酒――ほとんどノンアルコールだけど――は飲んでいた。本谷さんの話であれば、私は妖怪が見えない側の人間になるのではないだろうか。

 しかし、ぬらりひょんの名簿が現れてから、黒い靄が見え、最終的に妖怪の姿まではっきりと見えるようになってしまった。

 嫌な予感で冷や汗が出てくる。聞こうとして口を開くが、この予感が当たってほしくなくて、金魚みたいにパクパクと動かして、言うべきか躊躇う。それを察したのか、本谷さんが代わりに言ってくれた。

「もしかしたらキミは一度、妖怪に取り憑かれていたのかもしれないねぇ」
「……そんなこと、あります?」
「そんなの、ボクがわかるわけないじゃないか!」

 既に頬が赤く染まってふらふらしている割には、しっかりとした口調で断言する。
 取り憑かれていた? 一体どこで? そもそも、取り憑かれていたら見えるんじゃないの?
 すると、反対側から話を聞いていたのか、作間くんが思い出したように声を上げた。

「もしかしたら、去年かもしれない!」
「え? 去年?」

 去年の私はまだ作間くんと知り合っていない。――だとするならば。

「初めて、私がホームに飛び出した時?」
「あの時、久野さんは精神的に追い詰められていた。その隙間を狙われたとしたら、一瞬でも取り憑かれた可能性があるよ。……でも、質の悪い妖怪だったら、きっとそのまま唆したと思うんだよね……」
「ふむ……となると、妖怪が助けたって言う可能性も出てきたねぇ」
「助けた……?」

 去年の駅のホームでの出来事を思い出す。
 点字ブロックを跨ごうとして、突然誰かの声が聞こえて、腕を引っ張られた。まわりには誰もいなくて、私が飛び出そうとしていたことは誰も気付かなかった。

 もしかしたら、取り憑こうとしていた妖怪が何らかの理由で引き留めてくれたのかもしれない。
 すると店の窓から風が流れてきた。
 ひんやりした風が頬を撫でると、途端耳元であの声が聞こえた。

『――よく頑張った』

「っ……!」

 包み込むような、優しい声色に思わず涙がこぼれる。
 今になってなぜ聞こえたのかはわからない。それでもはっきりと、励ましの言葉ではなく、今までを褒めてくれる、私が誰かにずっと言ってほしかった言葉だった。

 バカ真面目に働いてきたことを、嫌味を言われ続けても屈しなかったことを、どこかで「生きたい」と叫んでいたことを、誰かに認めてほしかった。
 今更後悔したって遅いのに、「もう少しだけ働きたかった」なんてふざけたことを思う。堪えられなくて自分で終わりにして、最後の最後で喧嘩を吹っ掛けたのは自分だ。

 どうしてあの時、聞き取れなかったんだろう。ホームから飛び出そうとした私に、こんなに優しい声で引き留めてくれていたのに。

 突然私が泣き出したのを見て、作間くんが慌ててティッシュを箱ごと差し出す。

「ちょっ……久野さん!? どうしたの!?」
「っ、だいじょうぶ……ちょっと、目にゴミが……」
「え! 巧が久野ちゃんを泣かしたの!?」

 ティッシュで拭っていると、常連さんに紛れて盛り上がっていた清音さんが作間くんの肩を組んで覗き込んできた。顔が赤く染まり、良い感じに酔っている。

「女の子を泣かすなんて、何したのよぉ」
「ちげぇよ! 早とちりすんな、酔っ払い!」
「なによ! お姉さまを酔っ払い扱いするなぁ!」
「しっかり酔ってるババアが何言ってやがる!」
「良いわよ! 今日こそ決着をつけるわよ!」
「あぁ? 来いよ、目ぇ覚まさせてやる!」

 完全に酔いがまわった清音さんの口車に乗せられて、口が悪くなった作間くんはカウンターの席を立って常連さん達が集まるテーブル席へ移動した。

「あ、あの……」
『気にしなくていいわよ。作間も少し酔っているから、暫くあのまま放っておきなさい。それに清音がいると、決まって絡み酒に巻き込まれて腕相撲大会が始まるの。いつも接戦で、ここ最近は引き分けが続いているわね。結構見物よ』

 見慣れているのか、冷めた表情でお菊さんが言う。
 既にお代わりした油揚げは完食しており、お猪口に注がれた日本酒を美味しそうに飲んでいた。

『久野、貴女も飲めば? 度数が低くてアルコールを飛ばせば飲めるんでしょ?』
「そうだけど……それもうお酒じゃないよ」
『風味くらい楽しみなさいよ』
「それもそうだ! ヒロさん、震えている彼女に温かい紅茶を用意しておくれ。風味付けでラム酒なんてどうだろう? お洒落にいこうよ!」

 人の話を聞かずに本谷さんがさっさと注文をしてしまう。隣で苦笑いをしていると、お菊さんがお猪口を私に差し出してきた。

『これは今日まで頑張ってきた締め括り。よく頑張って耐えてきた、自分への褒美よ』

「お菊さん……」
『べ、別に? あの会社でどれだけ努力したってことを私に言ったところで、人間の努力なんて雫みたいなものだから、言わなくなっていいわよ。……でも、貴女がどうしても言葉にして吐き出したいって言うのなら、聞いてあげてもいいわ』
「そうだねぇ。幸いここに【良くないもの】が現れても追い返してくれる心強い味方が三人もいるからね!」
『三人? 私と酒吞童子の二人じゃなくて?』
「作間くんを忘れていないかい? いやぁ、【大かむろ】の時のキレ加減は本当に素晴らしかった! あれは映像として残しておくべきだったね」
「へぇ、作間くんがキレるなんて相当だね。はい、久野ちゃん。お待たせ」

 ヒロさんが私の前にティーロワイヤルを置く。以前貰った時に比べて、ラム酒の香りが辺りに広がっている。
 熱いカップを受け取ると、本谷さんがビール瓶を持って私の前に差し出した。

「今日までよく頑張ったね。キミは二度も死に急いだ自分を引き留め、また前に向く決意をした。飛び込もうとしたのは怒るところだけど、生きることを選択した自分を、誇りに思うべきだとボクは思う。今日までよく頑張りました。そして――」

「――ようこそ、しぐれ商店街へ!」

 ビール瓶とマグカップが当たった音と同時に、今まで向こうで賑わっていた作間くんと清音さん、常連さんまでが声をそろえてグラスを高々と上げた。

 こんなに温かい空間に自分がいる。
 それだけで涙が溢れて、強引に袖で目を擦る。鼻をすすりながら、受け取ったティーロワイヤルを口に運ぶ。
 熱くて舌を火傷したが、ふと「ああ、生きているんだ」と不謹慎ながら笑ってしまった。