「――それでは皆さん、今日も一日お疲れ様ぁーっ!」

 本谷さんの掛け声で、店内は歓声とグラス同士が響く音で溢れた。店内の中心には、常連さんと共に本谷さんと清音さんがお酒を煽っている。
 店での最後の出勤を終えた後、作間くんとお菊さんに連れてこられたのは、しぐれ商店街のバー「鈴々」だった。普段はまだ営業していない時間帯だが、既に本谷さんがいつものクラフトビールを片手に常連さんと飲み明かしていた。
 更に喫茶店の仕事を終えた清音さんが通りがかって加わると、更に店内は賑やかになった。大和田さんが買い出しに出ている間、ヒロさん一人で大忙しだ。

「なんでこんなに元気なの……?」
「曜日関係なく、仕事終わりのビールは格別に美味しいんだって。久野さん、今日はお酒入れる?」

 出入り口近くのカウンターに座る私に、作間くんがメニューを差し出す。間には狐姿のお菊さんが大根おろしの乗った油揚げを美味しそうに頬張っている。
 ……どうやって箸を持っているのかは企業秘密らしい。それ以前に、狐がカウンターに座っていて大丈夫なのだろうか。

「あー……やめとく。また二日酔いにはなりたくない」
「そっか。連れてきたようなものだから無理強いはしないけど、楽しんでくれるといいな」
『そうよ。今日はあの変人の奢りなんだから、気の済むまま飲まなきゃ損よ』
 そうなんだけどね、私お酒飲めないんだよ。

 私は作間くんからメニュー表を受け取って、カウンターにいるヒロさんに注文した。ストローが刺さったウーロン茶を受け取ると、ヒロさんが聞いてきた。

「本谷さんから、今日は久野ちゃんのお疲れ会だって聞いてるけど、辞めてきたの?」
「はい。今日が最終出勤日でした」
「そっかぁ……よく頑張ったね」
「へ?」
「久野ちゃん、ここに来ると大体落ちこんでいたからさ。会社の対応が悪かったにしても、腐らずによく二年間働き続けた。これは自分を褒めるべきだよ」

 ヒロさんがしみじみと言う。そういえば、前の店長の時からずっと私の話を聞いてくれていたのは、紛れもないヒロさんだ。ここにくる度に「仕事はどう?」と様子を伺ってくれていた。話しやすくて、いつの間にか愚痴を吐き出していたのは、ヒロさんの人柄とお酒がある空間があってこそだ。

「……ご心配をおかけしました」
「いえいえ。また話したくなったら何でも聞くよ。勿論、辞めてきた会社での話もね」

 ヒロさんはそう言ってウーロン茶を私の前に置いた。
 すると、丁度そこへ「ただいま戻りました」と一声をかけて大和田さんが買い物袋を下げて入ってきた。

「あ、大和田さんおかえり! レモンあった?」
「ありました。お、久野。いらっしゃい」
「お邪魔してます、おおわ……」

 ……ださん?

 名前を言いかけて思わず目を疑う。大和田さんは不思議そうに首を傾げてこちらを見ていた。

「久野? どうかした?」
「…………大和田さん、カチューシャでもつけているんですか?」
「は?」

 がっしりとした体格とお堅い表情ながら趣味が可愛らしい大和田さんだが、今日はなぜか頭に大きな角が二本、左右に伸びている。このバーでは季節に合わせて仮装をすることもあるが、節分もハロウィンも当分先だ。

 しかし、不思議に思っているのは私だけのようで、大和田さんが突然震えながら笑い出し、ヒロさんと作間くんは驚いた顔をして私を見た。

「ふはははっ! マジか、久野! お前ずっと……ははっ!」
「え? あの、私何か変なこと言いました?」
「カチューシャって……久野さん、本当に言ってる?」

 作間くんが眉間にしわを寄せて聞いてくる。素直に頷くと、更に目を丸くした。

「マジか……俺はてっきり大和田さんかヒロさんから聞いているかと……」
「久野ちゃん、ここに来るの久しぶりだから言う暇もなかったよ。でも……そっかぁ」
「え? だからなに?」

 彼らの話についていけず、私一人だけ置いてかれている。するとお菊さんが箸を止めて作間くんに言う。

『作間、無駄よ。名簿が届くまで妖怪を見てなかった人間が、ずっと居座っている妖怪に気付くと思う?』
「……それもそっか」
「いや、納得しないで? わかるように説明して?」
『だから言ってるじゃない。通っているバーに居座っている妖怪なんて、言われない限り気付かないものよ』

 お菊さんに呆れた顔で溜息をつく。
 居座っている妖怪、と聞いてまた、笑い転げている大和田さんに問う。

「もしかして……大和田さんって……?」
「ああ、そうだよ」

 てっきり気付いてるモンだと思ってた、と腹を押さえながらカウンターの中へ入っていく。袋から取り出したレモンやライムをヒロさんに渡す。
 今だに状況が呑み込めない私を悟ったのか、作間くんが横から助け船を出してくれた。

「大和田さんはね、【酒吞童子(しゅてんどうじ)】の妖怪だよ」
「しゅてん……?」
「酒好きな妖怪だ。ヒロさんとはこことは別の店で知り合ってな、俺好みの酒ばかりを提供するから、近くで学ばせてもらっているんだ」
「じゃあヒロさんは……」
「知ってたよ。でも出会った当初は普通に人間だと思ってたから、聞いた時は驚いたなぁ」

 ヒロさんは冷蔵庫に買ってきたものを移し終えると、自分用に作ったカクテルと一口含んだ。

「大和田さんに、商店街を盛り上げるために来てくれって言われてたんだ。立地や条件もよかったからふたつ返事で返した。その時に妖怪について教えてもらったんだよ。あ、でも俺は妖怪が見えるわけじゃないんだ。久野ちゃんと作間くんの間に座っているきーくん……じゃないね、お菊ちゃんの姿は見えないし、大和田さんに角が生えているのもわからない」
「え? じゃあ……」
「うん。誰もいないのに油揚げだけが消えていってる。きーくんの姿だったら見えるんだけどね。いつか狐姿の彼女にも会いたいなぁ」
『私は見えなくても不便じゃないわよ? お代わりくださる?』

 隣で満足そうに油揚げを食べ終えたお菊さんは、器用にお皿を持ち上げてヒロさんの前に差し出した。するとヒロさんは「お。お代わりだね」と言って皿を受け取ると、新しく油揚げを焼き始めた。
 唖然として見ていると、作間くんが言った。

「不思議だよね。姿が見えなければ、声も聞こえない。それでもこうやって自然にやり取りができるのを目の前で見れるのは、人間と妖怪の繋がりを感じるよ」
「繋がり……」
『私の場合は油揚げしか注文しないもの。当然ね』

 お菊さんはそう言って自慢げに鼻を鳴らす。ものの数分で新しい油揚げが目の前に置かれると、また器用に箸を使って食べ始めた。
 ヒロさんは名簿ではなく、妖怪に連れてこられたと言っていた。ここに連れてこられた人は名簿に導かれたものだと思っていたけれど、本谷さん曰く、作間くんみたいな例外もあるらしい。