出勤最終日は、人があまり来ない月曜日だった。
早番で出勤して身支度を整え、カウンターへ入る。接客はもちろん、ドリンク作りや提供もいつも以上に丁寧に行った。
同じシフトに入ってくれた奥山さんが「今日はドリンクをメインで入っていいよ」と言ってくれて、過去一番にエスプレッソマシンの前に立ってた気がする。
最後に描いたチューリップのラテアートは何となく形になったものの、自分の中では納得できるものではない。次の職場でも練習しよう。……見つかるかわからないけど!
いろんなことがあったけど、それでもコーヒーの知識やラテアートの技術を身につけられたのはこの店があったからこそだ。
少なくとも環境とアルバイトスタッフには恵まれた。それだけで満足だ。
気付けばあっという間に退勤時間になって、いつも通りにタイムカードを切る。残ってラテアートの練習をして良いよと言ってくれたけど、これ以上やると名残惜しくなるからと断った。
身支度を整え、忘れ物がないか確認して事務所から出ると、店内のカウンターに作間くんとお菊さんが奥山さんと話していた。大学の帰りだろうか、重そうなリュックを背負った作間くんが気付くと、こちらに笑いかけた。
「菊が行きたいって言うから連れてきたんだ。俺も大学の帰りだったし、一緒に帰ろう?」
「べ、別に久野の有終の美を見ようだなんて思ってないわよ! どのみち作間の講義が長かったから見れなかったけど!」
「だからごめんって」
拗ねたようにそっぽを向くお菊さん。今日は青の厚手のカーディガンに丈の長い白いTシャツ、黒のスキニージーンズに黒ブーツというシンプルな服装だが、どこかで見た覚えがあるのは気のせいだろうか。
あの日からお菊さんは私のことを「久野」と呼んでくれるようになると、たまに書店に行くと近くに座ってくれるようになった。少し距離が縮まった気がして嬉しい反面、ツンデレが増したような気がする。
「なによ。作間と私が来てあげたのにその顔は」
ムスッとした顔で私を見るも、嬉しいと一言伝えた途端、頬を真っ赤に染めて睨みつけた。
店内にはほとんど人がいなくて、少しだけ奥山さんも混ざって話をしていると、店の出入り口から入ってきた店長が驚いた表情で近寄ってきた。
「お疲れ様です。まだいたの?」
「……店長、今日は休みじゃなかったんですか?」
今日は会社に呼ばれたんだよ、とニコニコと笑ってなぜかお菊さんの隣を取る店長は、私と目が合うと鼻で哂った。店長の身体に黒い靄がかかることはなく、完全に住処にしたであろう百々目鬼の眼が薄っすらと開いてこちらを見ていた。
「仕事はできた?」
「……お気遣いいただけたようで、とても楽しく働かせていただきました」
嫌味を込めて返すと、店長は満足そうに哂って今度は作間くんに向かって言う。
「こんな子だけどちゃんと働かせてね。細かいこと聞いてくるだろうけど、正直しょうもないことしか言わないし、大して飲食で働いていないわりにくだらない嘘の知識をベラベラ喋って出しゃばるから、お客さんを困らせる前に上に言った方がいいよ」
だからなんでお前がそんなこと言うんだ。
私を挑発しながら店長は楽しそうに作間くんに話す。飲食の知識に関しては、店長よりあると自負しているとは思っても言えない。チラチラとこちらを見てニヤついている店長に対して、ただ黙って耐えることにした。
ふと、店長の隣にいるお菊さんが下を向いていることに気付いた。前に会った時も苦い顔をしていたから大丈夫だろうかと彼女を見ると、何やら後ろで白いモノがわさわさと動いている。
あれは……尻尾?
気になってじっと見つめていると、店長がこちらに気付いた。
「そんな怖い顔しても困るなぁ、久野さん。そうそう、セクハラなんてしちゃ駄目だよ? まさかそこまでするとは思ってなかったけど、そんなに媚びたいのなら――」
「……それ、客の前ですることじゃねぇよな?」
店長のすぐ隣で、聞き慣れない男の声が聞こえた。店内に男性は作間くんと店長と奥山さんだけで、他のお客様はいない。ショップが併設されているとはいえ、店長の隣にそんな人物はいない。
隣にいるのは――?
「だ、だれ?」
いつの間にかお菊さんが居た場所には、彼女と同じ服装をした男性がいた。黒髪は耳辺りまで短く、仏頂面ながらも怒りがこもった瞳の色をしている。体型は作間くんと同じくらいで、一瞬双子かと思ってしまうくらい似ている。その容姿と先程のデジャブが重なると、本谷さんとバーに来ていた彼の呼び名が浮かんだ。
「……きーくん?」
思わずヒロさんが呼んでいた名前を呟くと、彼は横目で私を見て鼻で哂った。そして視線を店長に戻して睨みつけると、背中に隠れていた店長の右腕を素早く掴んで捻り上げた。
「イッ……ダダダッ!? いきなり何するんだ!」
「は? 自分でしたことに心当たりないの? 作間、見せてやって」
男性は空いている片手を作間くんに差し出すと、スマートフォンのある画面を出して彼に渡す。
そこには、先程まで店長の隣にいたお菊さんの背中に手を撫でまわす店長が映っており、スピーカーから先程の長ったらしい話が聞こえてくる。
……つまりこれは、あの数分でお菊さんに手を出したという証拠動画だ。
「セクハラしちゃ駄目ですよーって言ってんのに、自分がしちゃ駄目でしょ。丁度いいところに目撃者もいたことだし、言い逃れはできないよ」
そういって片腕を捻って後ろを向かせると、従業員用の出入り口から入ってきたであろうマネージャーの姿があった。二人の目が合うと、同時に顔色を青ざめていく。
彼が押し出すように店長の腕を離すと、よろけてマネージャーの足元へしゃがみ込んだ。
「口先だけで全部丸め込める奴はな、脆くて呆気ない終わり方をするんだよ。人間ってのはそういう生き物でさ、自分の私利私欲のために他人を蹴落として上へ登っていく妖怪によぉく似ているよ。所詮、人間も妖怪も同じ穴の狢なのさ。……よかったなぁ、百々目鬼。お前、そいつらが生きている間はずっと住み着いていられるぞ」
お菊さんはそう言って女性の姿に戻りながら、ゆっくりと彼らの前に立つ。
先程まで来ていた洋服から青い着物の姿に変わり、白い七つの尾が揺れると、青白い鬼火が辺りを囲った。初めて見る鬼火に、店長とマネージャーは慌てた様子で小さく悲鳴を上げている。
鬼火はいつも彼女の近くで浮いているものに比べるとはるかに大きく、それでもって熱気を放っている。
お菊さんが少しだけ私の方を向いて目が合うと、小さく微笑んだ。
たった一瞬のその笑みに、思わず背筋が凍った。儚くて美しい笑みなのに、どこか恐ろしくて震えが止まらない。それでも魅入ってしまう。
妖艶で恐ろしい――これが、お菊さんの本当の姿なのだろうか。
お菊さんは彼らの前に行くと、白い尻尾で二人の首筋をスッと撫でる。情けない声を出して震え怯えている彼らに、彼女は大きな溜息を吐いた。
『つまらない、本当につまらない。その醜い姿のまま、人間らしく無様に散れば良いのに。今すぐにでも灰にしてやってもいいわ。……それだと風情がないかしら。そうだ、私の鬼火になるのはどう? この青白い鬼火は人の魂とも呼ばれているのは知っているでしょう。人間が科学で証明されたものではない、実際に私が食ってやった人間の魂よ』
「ヒィッ!?」
『そんなに怯えなくてもいいんじゃない。私が選ばせてやると言ってるのに。私に食われるか……化け物と化すか。どっちがいい?』
「ば、けもの……? ふざけるな! お前の方が化け物じゃないか、なんなんだよおおお!」
『あら、気付いていないのね。自分の顔を見て御覧なさいな』
お菊さんが指を鳴らすと、目の前に大きな鏡が現れた。店長とマネージャーの顔や首筋、手の甲に無数の赤い目が見開いて彼らを見ていた。
『――さぁ、どっちが化け物だろうねぇ』
赤い目が一つ、嬉しそうに嗤った。
早番で出勤して身支度を整え、カウンターへ入る。接客はもちろん、ドリンク作りや提供もいつも以上に丁寧に行った。
同じシフトに入ってくれた奥山さんが「今日はドリンクをメインで入っていいよ」と言ってくれて、過去一番にエスプレッソマシンの前に立ってた気がする。
最後に描いたチューリップのラテアートは何となく形になったものの、自分の中では納得できるものではない。次の職場でも練習しよう。……見つかるかわからないけど!
いろんなことがあったけど、それでもコーヒーの知識やラテアートの技術を身につけられたのはこの店があったからこそだ。
少なくとも環境とアルバイトスタッフには恵まれた。それだけで満足だ。
気付けばあっという間に退勤時間になって、いつも通りにタイムカードを切る。残ってラテアートの練習をして良いよと言ってくれたけど、これ以上やると名残惜しくなるからと断った。
身支度を整え、忘れ物がないか確認して事務所から出ると、店内のカウンターに作間くんとお菊さんが奥山さんと話していた。大学の帰りだろうか、重そうなリュックを背負った作間くんが気付くと、こちらに笑いかけた。
「菊が行きたいって言うから連れてきたんだ。俺も大学の帰りだったし、一緒に帰ろう?」
「べ、別に久野の有終の美を見ようだなんて思ってないわよ! どのみち作間の講義が長かったから見れなかったけど!」
「だからごめんって」
拗ねたようにそっぽを向くお菊さん。今日は青の厚手のカーディガンに丈の長い白いTシャツ、黒のスキニージーンズに黒ブーツというシンプルな服装だが、どこかで見た覚えがあるのは気のせいだろうか。
あの日からお菊さんは私のことを「久野」と呼んでくれるようになると、たまに書店に行くと近くに座ってくれるようになった。少し距離が縮まった気がして嬉しい反面、ツンデレが増したような気がする。
「なによ。作間と私が来てあげたのにその顔は」
ムスッとした顔で私を見るも、嬉しいと一言伝えた途端、頬を真っ赤に染めて睨みつけた。
店内にはほとんど人がいなくて、少しだけ奥山さんも混ざって話をしていると、店の出入り口から入ってきた店長が驚いた表情で近寄ってきた。
「お疲れ様です。まだいたの?」
「……店長、今日は休みじゃなかったんですか?」
今日は会社に呼ばれたんだよ、とニコニコと笑ってなぜかお菊さんの隣を取る店長は、私と目が合うと鼻で哂った。店長の身体に黒い靄がかかることはなく、完全に住処にしたであろう百々目鬼の眼が薄っすらと開いてこちらを見ていた。
「仕事はできた?」
「……お気遣いいただけたようで、とても楽しく働かせていただきました」
嫌味を込めて返すと、店長は満足そうに哂って今度は作間くんに向かって言う。
「こんな子だけどちゃんと働かせてね。細かいこと聞いてくるだろうけど、正直しょうもないことしか言わないし、大して飲食で働いていないわりにくだらない嘘の知識をベラベラ喋って出しゃばるから、お客さんを困らせる前に上に言った方がいいよ」
だからなんでお前がそんなこと言うんだ。
私を挑発しながら店長は楽しそうに作間くんに話す。飲食の知識に関しては、店長よりあると自負しているとは思っても言えない。チラチラとこちらを見てニヤついている店長に対して、ただ黙って耐えることにした。
ふと、店長の隣にいるお菊さんが下を向いていることに気付いた。前に会った時も苦い顔をしていたから大丈夫だろうかと彼女を見ると、何やら後ろで白いモノがわさわさと動いている。
あれは……尻尾?
気になってじっと見つめていると、店長がこちらに気付いた。
「そんな怖い顔しても困るなぁ、久野さん。そうそう、セクハラなんてしちゃ駄目だよ? まさかそこまでするとは思ってなかったけど、そんなに媚びたいのなら――」
「……それ、客の前ですることじゃねぇよな?」
店長のすぐ隣で、聞き慣れない男の声が聞こえた。店内に男性は作間くんと店長と奥山さんだけで、他のお客様はいない。ショップが併設されているとはいえ、店長の隣にそんな人物はいない。
隣にいるのは――?
「だ、だれ?」
いつの間にかお菊さんが居た場所には、彼女と同じ服装をした男性がいた。黒髪は耳辺りまで短く、仏頂面ながらも怒りがこもった瞳の色をしている。体型は作間くんと同じくらいで、一瞬双子かと思ってしまうくらい似ている。その容姿と先程のデジャブが重なると、本谷さんとバーに来ていた彼の呼び名が浮かんだ。
「……きーくん?」
思わずヒロさんが呼んでいた名前を呟くと、彼は横目で私を見て鼻で哂った。そして視線を店長に戻して睨みつけると、背中に隠れていた店長の右腕を素早く掴んで捻り上げた。
「イッ……ダダダッ!? いきなり何するんだ!」
「は? 自分でしたことに心当たりないの? 作間、見せてやって」
男性は空いている片手を作間くんに差し出すと、スマートフォンのある画面を出して彼に渡す。
そこには、先程まで店長の隣にいたお菊さんの背中に手を撫でまわす店長が映っており、スピーカーから先程の長ったらしい話が聞こえてくる。
……つまりこれは、あの数分でお菊さんに手を出したという証拠動画だ。
「セクハラしちゃ駄目ですよーって言ってんのに、自分がしちゃ駄目でしょ。丁度いいところに目撃者もいたことだし、言い逃れはできないよ」
そういって片腕を捻って後ろを向かせると、従業員用の出入り口から入ってきたであろうマネージャーの姿があった。二人の目が合うと、同時に顔色を青ざめていく。
彼が押し出すように店長の腕を離すと、よろけてマネージャーの足元へしゃがみ込んだ。
「口先だけで全部丸め込める奴はな、脆くて呆気ない終わり方をするんだよ。人間ってのはそういう生き物でさ、自分の私利私欲のために他人を蹴落として上へ登っていく妖怪によぉく似ているよ。所詮、人間も妖怪も同じ穴の狢なのさ。……よかったなぁ、百々目鬼。お前、そいつらが生きている間はずっと住み着いていられるぞ」
お菊さんはそう言って女性の姿に戻りながら、ゆっくりと彼らの前に立つ。
先程まで来ていた洋服から青い着物の姿に変わり、白い七つの尾が揺れると、青白い鬼火が辺りを囲った。初めて見る鬼火に、店長とマネージャーは慌てた様子で小さく悲鳴を上げている。
鬼火はいつも彼女の近くで浮いているものに比べるとはるかに大きく、それでもって熱気を放っている。
お菊さんが少しだけ私の方を向いて目が合うと、小さく微笑んだ。
たった一瞬のその笑みに、思わず背筋が凍った。儚くて美しい笑みなのに、どこか恐ろしくて震えが止まらない。それでも魅入ってしまう。
妖艶で恐ろしい――これが、お菊さんの本当の姿なのだろうか。
お菊さんは彼らの前に行くと、白い尻尾で二人の首筋をスッと撫でる。情けない声を出して震え怯えている彼らに、彼女は大きな溜息を吐いた。
『つまらない、本当につまらない。その醜い姿のまま、人間らしく無様に散れば良いのに。今すぐにでも灰にしてやってもいいわ。……それだと風情がないかしら。そうだ、私の鬼火になるのはどう? この青白い鬼火は人の魂とも呼ばれているのは知っているでしょう。人間が科学で証明されたものではない、実際に私が食ってやった人間の魂よ』
「ヒィッ!?」
『そんなに怯えなくてもいいんじゃない。私が選ばせてやると言ってるのに。私に食われるか……化け物と化すか。どっちがいい?』
「ば、けもの……? ふざけるな! お前の方が化け物じゃないか、なんなんだよおおお!」
『あら、気付いていないのね。自分の顔を見て御覧なさいな』
お菊さんが指を鳴らすと、目の前に大きな鏡が現れた。店長とマネージャーの顔や首筋、手の甲に無数の赤い目が見開いて彼らを見ていた。
『――さぁ、どっちが化け物だろうねぇ』
赤い目が一つ、嬉しそうに嗤った。