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「……だから、なに?」

 目の前で私がホームに飛び出そうとしたところを作間くんが見ていた。それで?

「なにって……」
「確かにあの時の私は飛び出せなかった。でもそれが今も同じなんて、反対側で見てただけの他人にわかるわけないでしょ」

 私が問うと、作間くんは黙って下を向いてしまった。こんな自分勝手な話を関係のない彼に当たるなんて最低だ。

「名簿のことが無かったら、作間くんとお菊さんには会えてなかった。本当に他人なんだよ? なんでそんなに関わってくるの? ……もうやめてよ」

 先代の店長の一件から、私は会社に不信感を覚えた。
 どれだけ訴えても、社員を守ることが大前提としてあるせいか、せめてものの救いとして円満に終わらせてなかったことにする。――それが会社を守る方法だから。

 だから私は、今回の件について人事部に連絡をしなかった。「前の店長はパワハラをする人には見えなかった」というマネージャーの見方が会社にあり、既に会社の本部と掛け合っている今の店長についての相談ならば、前回と似たような内容を送ったところで、私自身がある種のクレーマーのように捉えられてしまうからだ。

 実際に店長が数字で決めつけた不愉快な評価シートや、できれば二度と聞きたくない店長とマネージャーとの面談時を録音したボイスレコードは、まだ私の手元に残っている。パワハラの証拠としては充分なものだろう。
 さらにアルバイトスタッフにさりげなく「土曜日は妻子持ちが入ってくれない」「従わないとシフトに入れない」といった愚痴や脅し、あの人が私と働きたくない、私がスタッフにセクハラをしたなどと広げた噂が、すべて店長の狂言であることを証明できれば、会社から店長に注意できたかもしれない。

 それでも店長がどうやって上に報告しているのかわからない中で、私が証拠を集めて人事部へ連絡したところで「またコイツか」と言って握り潰されてしまう。結局、今の現状と変わらない。
 今となっては、どうでもいい話だ。
 理不尽も罵倒もでっち上げの話も、全て適度に受け流しておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 溜め込みやすい私はコントロールが不器用で、持っているコップに並々注がれたそれらを一気に飲み干そうと必死だった。半分だけ飲むことも、飲まずに捨てることもできたはずなのに、それが全てだと思って注がれるたびに飲み干していた。次第にそれが自分の首を絞めることもわからずに、何かの為になることだけを信じて。
 信用してもらうため、必要としてもらうために必死だった。
 そして全部飲み干した結果、自分自身が容量がいっぱいになって溢れる。全部が空回って、今までしてきたことを踏みつけられた時にいつも同じことを呟くのだ。

 こんなことになるのならやらなきゃよかった、って。

「……大丈夫だから、放っておいてよ」

 店の為に、自分の為に頑張ってきた。学校に通って調理師の資格取った時間も、決して無駄ではなかったと断言できる。
 それでもあの店にいると、私がしてきたことが全部間違っていると否定された気がした。好きなこともなりたい理想も、費やしてきた時間さえ呆気なく無かったことになってしまう。

「今まで頑張ってきたことを、誰かの手で全部否定されるなら……自分で終わりにさせて、無かったことにさせてよ……っ!」

 無機質なコンクリートに座り込んで俯く。まるで駄々をこねている子供だ。みっともなくて、目の前の作間くんとお菊さんが見れない。
 心配してくれた店のアルバイトや目の前の二人に、個人的な感情を暴力のようにぶつけるなんて、あの時店長がしたことと一緒じゃないか。

「……だからって」

 作間くんは私の肩を掴んで揺さぶって、絞り出した声で言った。

「だからって、死んでいいことなんてないんだよ!」

 顔を上げて彼を見ると、今にも殴り掛かりそうな表情をしていた。彼の中のストッパーが外れたからなのか、どんどん口調が荒くなる。

「飛び込めなかったことが後悔? ふざけんな、死んだって今までしたきたことが全部無くなるわけねぇよ。残るんだよ、久野さんが後悔してるから、例え揉み消されたとしてもちゃんと残るんだよ! つか、大体目の前で人が電車と衝突する場面を誰が見たがる? しかも、去年の俺は久野さんの目の前! 絶好の特等席! 久野さんは見たい? 俺が目の前でナイフを腹に刺してビルの屋上から飛び降りるところ!」
「いや……それは……」
「嫌でしょ! 俺だって嫌だよ! 少しは解れよバカヤロー!」

 人間不信とか知るか!、と吐き捨てて肩から手を離すと呼吸を整える。そして先程と打って変わり、落ち着いた口調で続けた。

「……人間は、そんな簡単に死ぬ勇気を持ち合わせていない。夜が眠れなくても、考えて悩んでも明日は来る。でもだからって死んだ方がマシだとか言わないでよ」

 作間くんの言葉に思わず目線を逸らす。
 確かに目の前で人が死に急ぐ瞬間を目撃するのは酷なことだ。他人だったとしても、私も彼みたいに止めに入っただろうか。
 すると今度は横で大きな溜息が聞こえたかと思えば、唐突にお菊さんが私の両頬を手で挟んで同じ目線になるように向けた。

「久野芽衣、本っ当に面倒臭いわね!」

 初めてフルネームで呼ばれたかと思えば、お菊さんの顔は完全に怒っていた。もしあの狐の姿で鬼火が現れていたら、きっと私の周りを囲って燃やされているかもしれない。

「面倒臭いって言ってるの。貴女がどんな過程で、どんな思いで仕事してきたかなんて、他人にとってはどうでもいいのよ。最近はー……ほら、学歴よりも人柄重視って企業が多いんでしょ? 数年の間に働き方がこんなに変わるとは思ってなかったけど、貴女はちょっと古臭い考え方なのね」
「古……っ!」

 まさか私の数倍も長生きしているお菊さんに「古臭い」と言われるとは思っていなくて、突然胸に言葉の矢がグサリと刺さった。

「あのね、正しいものなんて何百年生きてきた妖怪にもわからないわよ。全てにおいて正しいものが判別できるのなら、きっとこの世はつまらないでしょうね。そんなに自分の人生に正解が欲しい? 間違っていることを悔やんでどうするの? 巻き戻しできるビデオじゃないんだから、間違えてもいいのよ。それなのにすぐ落ち込んで、挙句明日が怖いとかほざいて? そんな暇があるなら、正しいことを証明するために生きなさいよ。どうせ一瞬の人生なんだから、どん底知った人間は何やっても無敵なのよ。……言葉にしないとわからないなんて、面倒臭いわね」

 容赦なく図星を言い当て、更に傷を抉るお菊さん。彼女によって両頬を押さえつけられているため、顔を背けることもできない。ただでさえ涙腺が緩んで堪えているのに、鼻水まで出てきそう。
 お菊さんは面倒くさそうに溜息を吐くと、更に続けた。

「……貴女が出て行った後、帰り支度していた二人が事務所から出てきてアイツに怒ってたわ。『そんな小学生みたいなことして楽しいのか!』ですって。確かに私もあと十秒遅かったら灰にしてやろうかと思ったもの。本当、人間ってやることが浅はかでつまらないわ」

 二人、ということは原田さんと奥山さんだろう。
 ただでさえ職場の環境を悪い方向へ行かないように歯止めをかけていてくれたのに、下手したら二人も店に居られなくなるかもしれないのに。

「よかったじゃない。貴女がしてきたこと、間違ってないわよ」

 お菊さんは両頬から手を放して笑うと、溜めていた涙が一粒零れる。入れ替わるように、作間くんが手を差し出してくれた。

「今まで同じことがたくさんあったんだと思う。辛かったと思う。他人が割って入る話じゃないことも、話を聞いてあげることしか俺達にはできないことも理解してる。それでも久野さんは弱い人じゃないって、俺達知ってるから」

 帰ろう、と言って笑う。
 全部お見通し、とでも言いたげな自信はどこからきているのか、不思議で仕方がない。

「……お人好し、すぎるでしょ……バカなの?」
「本谷さんと一緒の部類にはなりたくないんだけど」
「もう片足突っこんでるんだからいいじゃない」
「ちょっと菊? そこはフォローしてくれないの?」

 また二人の賑やかな痴話喧嘩が始まる。さっきまで目の前にいる奴が電車に轢かれようとしていたのに、空気がガラリと変わった気がして、死ぬのもバカバカしく思えてきた。
 次の電車が入って来るアナウンスが聞こえてくると、私はまだ差し出してくれている作間くんの手を取って立ち上がった。